(げっ…)
木の肌に手をつけると、ざらついた皮が肌に少し食い込むように接触する。ここら一帯の土は湿っていて、片足に体重をかけると少し沈む印象を受ける。水辺のほとりなので比較的気温が低い。
「……」
ここに幽閉されてから何度か来た、薄暗いようなどこか神秘的な水辺。外界から遮断されたように静謐なここを我が物顔とまではいかないが、何となく専用のスペースのように考えていた。
(はぁ…)
心の中で溜息を吐く。
ここにいる囚人どもの中で、唯一の男。何となく他の者と違う雰囲気を醸し出すソイツは、目の前の泉の側で水面に映る陽光と風景をぼんやり眺めていた。
悪い奴ではない…と思う。けれどわざわざ会話するほどでもないのも確かだった。実際、名乗り出ていったいなにを会話にするというのかまるっきり分からない。
他に用もないので踵を返す。しかしどういう訳か枯れた小枝を踏んでいたようだ。
パリッと小気味よい音がした。はぁ……と先程よりも長く、溜息が実際に漏れでて空気を揺らし、ソイツの鼓膜に触れたらしい。
「…誰かいるのか?」
ソイツは腰掛けていた場所から付いた土をはらい、古びた樹木越しの私に問いかける。
「…ウチだ」
──────
「ここにはよく来るの?」
「…まぁ、それなりにな」
何で馬鹿正直に答えてんのか、そもそも何で自分から出ていったのかもよく知らない。なるがままに少し離れた場所に腰を下ろしていた。
人差し指で水に触れる。とても綺麗とは言い難い水質ではあるが、上澄みの所は比較的ろ過されてはいた。わけもなく指先が湿っていく。
「いい場所だね」
横目に映るソイツの顔はどこか満ち足りたようで、寂しげとも取れた。何か悟ったようなその表情が妙に受け入れがたく、指先を水面から離しては、付いた水滴を泉の奥の方へはらう。
「邪魔だったかな」
「…そうは言ってねぇだろ」
変に気を使われたように思い、即席の反発心から言葉を出す。元々誰のものでもないのだから来たければ来ればいい。ただあんまり騒がしくなるようならもう私は来ないだろう。
「…なら、良かった」
此方の顔色を伺う様な仕草をやめ、ソイツはまたぼんやりと奥を眺める。生来の気配というのか、そこら中にある樹木のような波静かさがソイツには備わっていた。
二人の間を静謐な空気が満ちる。私もまた昼下がりの空を見上げながら、ぼーっとしていた。陽光が心地よく体温を保ち続けていた。
──────
「……ん……あれ」
いつの間にか眠っているようだった。うつろうつろな思考がゆっくりと普段の速度を取り戻し始める。覚束ない足取りで何とか立ち上がり、ほどよく伸びをする。冷たい空気を吸い込むと肺が軋むように動き出した。
「…は…」
周りを見渡し、愕然とする。ソイツは未だに呑気に船を漕いでいた。
「おいっ…起きろ!」
両肩を掴み、ぐわんぐわんと頭を揺らす。次第に瞼が開かれ、だらしない口を大きく開けさせた。
「……あれ、おはよう」
「おはようじゃねぇ!」
「ど、どうしたの…」
「周り見てみろ!」
あまりに呑気な様子に思わず声を荒げる。ソイツは寝ぼけ眼で右を振り向き、次に左を見る。
「あれ…」
ソイツの目は見開かれ、ようやく現状を理解したようだった。
「…もう、夜だ。部屋の鍵も閉まってる」
「…まじか…」
「はぁ…こんなんで懲罰房行きかよ…」
がっくり膝を下ろし、重い溜息を吐き出す。一度は懲罰房に連れてかれたが、あそこはだいぶこたえる代物だった。
居眠りなんかでまたあそこに行く羽目になるなんて、到底他の奴らには言えない。
「…通知入ってる」
ソイツはスマホを見ながら呟く。同じように自分のをポッケから取り出し入っていた通知欄を見ると、ゴクチョーからの連絡が届いていた。
「『…以上三名の自由時間外の外出を確認。見つかり次第懲罰房行き』」
め、めんどくせぇ……
「…はは」
「何笑ってんだよ…」
から笑いするソイツはスマホをポケットにしまい、その場に大の字で寝転ぶ。
「もうしょうがない」
「……」
…開き直りやがったコイツ。
初日の顔合わせ以降、関わりが一切なかったソイツが、案外不真面目な性分を持ち合わせているのだと知り、何となく思い描いていたコイツの性分との落差に驚く。
「まぁ…そうだな」
楽観的な考えに思わず気が抜ける。きっとソイツの表面に滲む静けさだとかに触発されたのだろう。やがて私もボスンとその場に倒れ込み、藍色の夜空を眺めることにした。
──────
「紫藤は、どんな人なの?」
「…すげぇ抽象的だな」
流石にもう一度外で入眠すると風邪を引きそうなのもあり、少し星空を堪能した後になんとはなしに外を歩くことに決めた。と言っても屋敷付近だと看守に見つかる可能性があるので、何となくこの時間が長く続けばいいと思い石の塀の辺りを歩いていた。
私たちは互いのことを何も知らない。私に関しては知ろうとしないのも起因してるんだろうが、しかしこういう場になると自然と話題は身の丈話が主に選ばれるものなのは何となく理解している。
「…ウチは、ろくでなしだよ」
卑下だと思われるかもしれないが、正しくその通りなので言う。それよりも、すらりと口を過ぎていく言葉が本当に自分自身が発したものなのかが変に感じられた。いつもならこんなにも曝け出すことなんてなかった。
「へー、どんな?」
……どんな?
「…どーゆー意味だコラ」
「ん?そのままの意味だよ」
…なんだコイツ。
「……よく分かんねぇよ、自分のことなんか…」
「そっか」
言い終えて、私は頭の中の不定形な記憶の泡を緩やかに手繰り寄せる。
思い出せば思い出すほど哀れな人生だった。たった一つの執着に持ち合わせる全てを投げうって、得たものは何もない。
いわゆる恵まれた環境、いわゆる何不自由ない生活、いわゆる幸福。その全てを、私はこだわり一つのために差し出した。
そんな、我儘な子供なんだろうな。
「…お前はどうなんだ」
「え」
「え、じゃねぇ。不公平だろ」
微妙な顔をするソイツに、有無を言わさず詰める。困ったように眉をひそめ苦笑するソイツは数秒の沈黙の後、おずおずと口を開いた。
「何もない、普通の人間だよ」
「…は、どうだか」
思わず、顔を注視する。薄暗い外ではあまりハッキリとは見えなかったが、何か苦い経験を感じる表情は何もない人間とは思えない。それとも、何もないことこそがコンプレックスなのだろうか。
「…じゃあ、今一番、会いたい人間とかはどうよ。いんのか?」
ぽんっと頭に浮かんだ問をさして修正せずに伝えてみる。こんな質問をしてる私が、誰とも顔を合わせたくないと思ってるんだから滑稽だ。
ま、順当に考えれば親とか友人、世話になった人間だろうか。
「ドウェイン・ジョンソンとかかな」
「……」
「一度ぐらい会ってみたいね」
「…家族とか、クラスメートとかはどうなんだよ」
「あぁ、そっちか」
「それ以外にねぇだろ…」
困った私の様子にソイツは口角を上げる。どこまでも気の抜ける人間だ。
「言いたくねぇならそれで」
「…そうだね」
空を見上げると、依然として星々は遺憾無くその瞬きを発露していた。
「ウチは、ねぇ!」
「…あんまり胸張って言うことでもないと思うけど」
宙ぶらりの魂。帰属しない思念体がかえってこの場では多数である事実に、私はまた穏やかになる。どこからかさざ波の音が静かな冷たい空気を進んでいく。そういえば同室の橘がここは孤島だとか言ってたか。
「懲罰房ってどのくらいキツイ?」
「…気ィ抜いてたら気絶するぐらいにはな」
面白半分でそう答えると蒼白させた顔でこちらを見るソイツに、私は内心ほくそ笑む。
ソイツの一挙手一投足は、夕焼けのようにじんわりと染み込んでいく奇妙なものだった。
寂しい人間だと、人は言うだろうか。それでも横の草を踏む足音に心が落ち着くのだ。そういえばと、水辺を離れたのに変わらず平穏な胸のうちに気づき、全てが平等に馬鹿らしく感じた。
──────
だいぶ進んできただろうか、変わらず続く石の塀は一周したことはないが、この島をぐるりと外周に沿って囲っているのだろう。
「二時だって」
光量を落としたスマホの画面を覗き込むソイツが呟く。かなりの時間、二人で語らったのだと思い、一日も前では全くの交わらなかった人生の線を奇妙なものに考えた。
眠気はなかった。昼下がりから日が落ちきるまで惰眠をむさぼっていたのだから当然と言えば当然なのだが。
「…なァ」
呼び止められたソイツは首を傾け私を見る。私はというとそんな様子を後ろ手に感じながら、それ以外のものに注意を向けていた。
「──なにか、居ねぇか?」
途端に感じた微々たる視線を、どうにも気の所為として捨てきれなかった。私が言うとコイツも辺りを見渡す。
「…分からない」
すっかり深まった夜で辺りは一寸先も怪しい。風に木々の葉が揺れ、互いに擦れ合う音がする。
「…看守だろうか」
「──違うわ」
この場にいない声色が唐突に耳に入り、不意を突かれたように身体を震わす。すると、背丈よりも少し短いぐらいの銃を携えた黒髪がどこからか既に目の前にいた。
「……」
「…貴方達、一体何をしているの」
「…は、そりゃこっちのセリフだな」
そちらがあくまで警戒のスタンスならそのまま返すだけだ。眉を八の字にし睨むような黒部の様子に、ただ悠然と言葉を返す。
「…私は、この牢屋敷を調べていただけよ」
「どうにも嘘くせぇ」
「…どう取られようと、構わないわ」
そう言い切ると、黒部は影を着るように、ふっと姿を消す。草をかき分ける音だけを残し、服の色も相まって一度見失うと暗闇の中では追跡は困難だった。
「消えた…?」
「…らしいな」
一瞬のうちに周りは先ほどと変わらない夜の風景に戻った。緊迫感が収まると同時に波の音がもう一度聞こえ始める。
「…何だったんだ」
先程確認した規則違反の連絡。そこには黒部の名前もあった。
──────
「おい」
疲労困憊の身体をなんとか動かし、重々しい扉を開ける。背後の数多の道具に唾を吐きかけてやろうか少し悩んだが、これ以上面倒になっては目も当てられない。ギィ…と鉄のドアの開く音は地下によく響く。
「早々に規則違反か」
先程からなんだ…と扉の向こうに目をやると、一足先に罰を終えたのだろうソイツは一回り小さい風紀委員サマにどうにも困らされている様子だった。
「友達になろうなどと言った翌日になぁ??」
「アノ…スミマセン…」
かなり萎れた様子で説教を食らってる姿がたいそう可笑しく見えて、思わず笑ってしまう。私に気づいたソイツは「あ…紫藤…お疲れ」と、これまたとても応えたのだろう、疲れ切った声色で言った。
「君もだ、紫藤アリサ」
ギラリと目を光らせ二階堂は二人目の獲物へ視線を移す。
「…勘弁してくれ…疲れてんだ」
「尚更丁度良い、逃れられると思わないことだ」
「ははは……」
私とソイツは肩を縮こませ、二階堂の説教を嵐に耐えるが如く浴び続ける。立っているのもやっとな身体は、二十分にわたるありがたいオコトバを右から左にスルーしていくだけだった。
その中でソイツの横顔を見る度に、どこからか黒く思考が塗られていく。忘れられない過去が脳に侵食する。その度に、人差し指が熱を持ち始めていくような。どこからか焦げ臭さが鼻を刺すようにも感じる。
澄み渡る透明のようなその人間が、濁った呪いと錆びた鎖でなぜか繋がっているのだ。
やがて嵐も終わり、遅い朝食を取り各々の活動に戻っていく。律儀に懲罰房の前で食事も取らずに待っていた二階堂を意外に感じながら、二人の後ろ背中を眺めていた。
私は、やはり共には居られないと、寂しくもそう有るべきな現実に苦笑いし、諦めに近いような味が舌に広まっていくのを感じていた。
アナタ…初日から少し近寄りがたい雰囲気のアリサと偶然二人きりになり、仲良くなりたいので冗談を言ってみたりするが、そこら辺のセンスはあまりない。
紫藤アリサ…面倒くさ善い人。アナタ的に仲良くなれそうな気配がしてたけど、やっぱり距離を置きたがる。