ここは砂漠だ。
腕は干からび皺が浮かび、見えない箱の中に閉じ込められているみたいだった。
ここは廃墟だ。
金属片が積まれている。一度、足を切ったことがある。
ここは地獄だ。
変わらない風景。
きっと、出られやしない。
なんにせよ、生きるためには水が必要だ。
そして、ここに水はない。
──────
シャワールームの床はことごとく汚い。ところどころタイルが剥がれているし、単純に黒ずんでいて歩を進める度に気分が悪い。備え付けられた鏡はヒビが入っており、入る度にげんなりとした心情になる。
壁に備えついたシャワーヘッドの蛇口を捻り、アナタは溢れ出る心地よい温度に顔を満たし、今日も一日が終わるのだと噛み締めていた。
この屋敷は別に温泉でも宿泊施設でも無い。性別ごとに隔てられた浴室があるわけではないので、アナタは他の少女たちとは時間をずらし、コソコソと隠れるように身体を流していた。
以前、ここには剃刀が無いと気づいたアナタはゴクチョーに要求してみたことがある。少し溜息を吐いた後律儀にゴクチョーは探しに行ったのだが、いざ戻って来ると持ってきたのは昔ながらの西洋剃刀だった。
『…なんですか。何か、文句でも?』
今までT字の安全剃刀しか使用してこなかった故、それらはよく切れるナイフのように感じられた。特段体毛が濃い訳では無いが、男一人の空間では身嗜みの整えはもはや義務だ。恐る恐る使用したあの日から今日に至るまでなんとか肌は切らずに過ごせていた。
──ふぅ
一通り身体を洗いシャワーを止めると、ヘッドからポタポタと残った水滴が落ちていく。囚人達の服が毎日新品であるようにバスタオルだとかも常にフカフカの触り心地。アナタはいの一番に濡れた顔をそこに埋め、「明日は何をしようか」と少し茹った頭で呑気に考えていた。
──────
「おや」
湯気が立ち上る身体で廊下を練り歩いていたアナタは、角を曲がった向こうに青色の髪を見た。
「奇遇ですね」
いつものハツラツな様子は鳴りを潜め、昼間の時より幾らか落ち着いた様子だった。
「調子はどうです?」
橘はアナタの元へと寄り、頼りない右腕を見ながら尋ねる。
「もうだいぶ慣れてきたよ」
「そうでしたか」
最初の頃は少しバランス感覚が狂い、自分の身体ではなくなったような感じだったが、やはり人間、時間をかければそれが普通だと認識するもので、慣れというものは少し恐ろしくもある。
「そういえば橘」
「はい?なんでしょう」
「脱獄しようとしたって、本当?」
「あー、本当ですよ」
アナタは以前の事を思い出す。結果的に宝生の腹が裂かれることとなってしまったあの日、橘、遠野、桜羽の三人は塀の外を目指したのだと。
「脱獄は前から考えてたの?」
「いえいえ、それだったら皆さんにも話してますよ」
橘は初日、初めて出会った時のようにワタワタと手を振り否定する。
「実は、少しハンナさんが気の毒に思えて」
話によると、三人で牢屋敷の全体を捜索していた時、遠野の様子が変わったのだと。何かに怯えるような表情で、一刻も早く脱獄しなくては…そんなことを掠れるような声で呟いていたらしい。
「あとになって、結構突発的にやっちゃったなぁって」
「…」
「私ってほら、怪力くらいしかないもので。なんとか塀を壊せないかと殴ってみたんです」
その結果、大きな音によっておびき寄せられた看守から逃亡し、それをかばった宝生があんな目に遭った。
「…冷えますね」
少しの間、二人の間を沈黙が流れ、橘はポツリと呟く。季節外れの、確かに冷える夜だった。
──────
「……」
「……」
指し示したわけではないが、二人はラウンジのソファに座っていた。自由時間は程なくして終わるだろう。少ない時間ではあるが、アナタはなんとなく橘と時間を共にしたいと考えた。かといって、何か話のネタがあるわけでもないのだが。
橘は手持ち無沙汰に周囲を見渡していた。物珍しいものはないだろう、特段興味はそそられていない目つきだ。
「…橘はどうなの?」
「はい…?」
「遠野みたいに、どうしてもここを出たい、みたいな強い気持ちはある?」
アナタは夏目、紫藤との会話を思い出し、身の丈話の切り崩しを覚えた。これからはこれを一種のテンプレートのようなものとしようと心のなかで密かに誓う。
そして、夏目のようにここから出たいと考えていない人間がいることも、頭に入れていた。
「出たい、気持ちですか…」
いきなりの問いだったので、呆気にとられたような表情もおかしいものだとは思わなかったが、橘のそれは少し長いようにも感じた。
「皆さんのような強い気持ちは、ないですね」
橘は、そう言い切った。そして、それはごく普通の人間の考えではないことは、アナタも橘も分かっていた。
「…橘がよければ、理由を聞いても?」
「ええ。大丈夫ですよ」
アナタは橘の中に闇があろうとなかろうと、尋ねることに迷いはなかった。橘も、そんな様子に真摯に応じるように受諾する。
──────
つまらないだろうし、大して濃い話でもないですが、興味を持って訪ねてくれたのは素直に嬉しいので、嘘偽りなくお話いたします。
私には血縁関係となる親や兄弟といったものはいません。まぁ、頑張って地球上丸々探し出せばひょっこり出てくるのかもしれませんが、少なくとも私の気づいた頃には私自身、既にひとりぼっちでした。
私は孤児として施設で育ちました。その頃からシェリーちゃんはおてんば娘として皆に愛されていました。事あるごとに皆を騒がせて『まったく、しょうがないなぁ』と笑顔で出迎えられたものです。(そんなことないとは理解はしていますけどね)
…ある時、シェリーちゃんは人を傷つけたことがあります。詳細は省きますが、本当に、とても、傷つけてしまったんです。
けれど、誰彼構わず傷つける人間ではないですよ、私。半ば、自己防衛のようなものだったんです。
でも、必要以上に傷つけてしまった。過剰だったと、誰の目にも明らかでした。
もしアナタがこんな状況下に置かれたら、どんなことを思いますか?…これは、純粋に疑問としてです。
「…後悔、とか…」
ありがとうございます。大変正直で好感が持てますね!
…噓のない言葉だと、ちゃんと分かっていますよ。
普通ならば、後悔、罪悪感、自責。少し図太い方なら、平然としてたり、不敵に過ごすんでしょう。
私は、なんでもなかったです。
そんな問題を起こしてしまったのもあり、施設にも居づらくなってしまいました。幸運にも、私を引き取りたいと言ってくれた方たちがいまして、逃げるようにその家に転がり込んだんです。
優しい方たちでした。こんな私を引き取ってくれたんですもの。きっと間違いありません。
でも、だからこそ、そこまで熱心に帰る気にはなれません。
それならば、帰りたいと思う皆さんの役に立ちたいと思うんです。
アナタなら、分かってくれますかね。
──────
自白、告白をした人間の態度は大きく二つに分けられる。一つは、請い、縋る者。相手が混乱する隙に、相手の手を両手でそっと握りこむ。相手が見下ろせるような位置にその顔をおろし、口に出さずとも囁くのだ。私の罪を受け入れておくれ。どうか、許しておくれ。あなたなら、きっとそうしてくれるだろう?…そう、潤むような眼で、精一杯の弱者を演じる。
二つは、達観。仏になったように周りを置き去りにする。悔いはないと、自分自身で信じ切っている。そこにほころびを見つけ、善悪の場において苦痛で顔をゆがませるにはいっとうの努力が必要だ。
自白、及び告白は法廷の場でなければ、自己満足にすぎない。それが、アナタの四半世紀にも満たない短い人生で見つけた道理であった。
ところが、こと橘シェリーに至ってはどうだろうか。
そこには涙を誘う涙も、悟りぶった表情もない。それ以上に(橘自身は告白だとでも考えているのだろう)、アナタはこの話を新聞や文献の文字をなぞるように聞いていた。いや、そんな調子に言っていると感じた。
”これが人並みの懺悔なのだろう?”そう言われているみたいだった。
『私は、なんでもなかったです。』
正しくその通りなのだ。"どちらでもない"ではなく、"なんでもない"。そこまで考えて、アナタは追求をやめることにした。
「勿論、アナタも帰りたいと思うなら、お手伝いしますよ!」
きっぱり言い切った、強い気持ちだった。それに水を差すように通知がなった。
『もうすぐ自由時間が終わります。囚人は直ちに自身の房に戻るように』
ゴクチョーからの端的なメッセージだった。互いにそれぞれのスマホを覗いたあと、橘は「話しすぎちゃいましたね」と、てへっと舌を出す。
「戻りましょうか」
「…うん」
橘がソファから立ち上り、アナタも続いて立ち上る。そうして二人はラウンジを後にしようと、地下に潜る階段へと向かおうとしていた。
「ね、ねぇ」
──その時だった。後ろから呼び止める声が密かに聞かされた。橘は気づいていない様子でずんずん前へと進んでいく。
身の毛のよだつ感触が軽く背中をなぞった。吹き出すような冷や汗を額に感じ、はやる心臓をなんとか抑える。
──誰、?
極めて平静を装い、後ろを振り向く。この時、随分ぎこちない振り向き方をしてしまったと少し後悔した。
「桜羽…?」
訪ねてきたのは、特に懺悔もしてないのに請い縋るような目をした後輩の姿だった。
「あ、あのさ!」
気持ちが先行しすぎた様子の桜羽。アナタはなにやら凄まれているような気分になり何も言えずにいた。
「明日、時間あるかな…?」
「う、うん…暇だけど」
突発時に聞かれたので正直に答えた後、しまったと思った。何か面倒事でも押し付けられるだろうか。力仕事だろうか。それならば自分に白羽の矢が立つのも致し方あるまい。
「もし、もしさ、キミがよかったら…」
一段と溜め込んで、桜羽は声を大にした。
「ボクと友達になって!」
「…??」
「それと、友達の作り方、教えて!!」
「???」
橘シェリー…自認人の心とかない人。蓋を開けてみれば、苦痛とか寂しいとかの負の感情がなくなっただけで、楽しいとか美味しいとか正の感情は豊か。良い子。
桜羽エマ…ぼっちだけは回避したい人。アナタとシェリーがラウンジで話してるのを結構最初のあたりから聞いていて、いつの間にか仲良い感じになってるのと、アナタとヒロが友達になったらしい話を聞いてめちゃめちゃ羨ましがってる。