第一話
第一話 「はじまりの放課後」
坂の上から見下ろす七羽町は、初冬の澄んだ空気の中で、海の色をいつもより深く映していた。
吐く息が白い。鳴上悠は制服のマフラーを少し直し、真新しい通学路をゆっくりと上っていく。家の都合でまた転校することになったのは、ほんの二週間前のことだ。荷解きもまだ終わっていない。それでも、潮の匂いを含んだ風の中を歩いていると、不思議と不安よりも期待のほうが胸を占めていた。
「今日から、新しい町か……」
誰に言うでもなく呟いて、悠は校門をくぐった。
「では、転校生を紹介します。鳴上君?自己紹介を」
担任に促されて教壇に立つと、二年生の教室中の視線が一斉に集まった。悠はいつものように、余計な力の抜けた静かな笑みを浮かべる。
「鳴上悠です。今日からお世話になります。よろしくお願いします」
短い挨拶のあと、ほんの一拍だけ教室が静まり返り、それから小さなざわめきが波のように広がった。
そして休み時間になった途端、悠の席は人だかりに囲まれる。
「ねえ、前はどこの学校だったの?」 「部活は? 何かやってた?」 「彼女いる? いるでしょ、絶対!」 「好きな食べ物は?」
四方八方から飛んでくる質問に、悠は一つひとつ丁寧に答えていく。前の町のこと、部活は特にやっていなかったこと、彼女はいないこと。
「特技とかある?」
「……料理かな。弁当を作るのは好きだよ」
その答えに、女子たちの間から「意外!」「ギャップだ……」という声が上がる。何がそんなに意外なのか分からず、悠は小さく首を傾げた。その仕草がまた妙に受けたらしく、笑い声が起こる。
賑やかな輪の中で、悠はふと、教室の入り口のほうへ視線を向けた。
ひとりの女子生徒が、プリントの束を胸に抱えて立っていた。
上履きの色が違う。一年生だ。長い髪を肩に垂らし、背は小さく、身を小さくするようにして扉の陰に隠れている。人だかりの向こうで、彼女はこちらをそっと窺っていた。
目が合った。
その瞬間、彼女はびくりと肩を跳ねさせ、慌ててプリントで顔を隠した。耳まで赤くなっているのが、隠しきれずに見える。
「あ、中多さん。先生のお使い?」
クラスメイトのひとりが声をかけると、彼女は「は、はい……! これ、届けに、来ただけで……」と、消え入りそうな声で答えた。近くの机にプリントを置くと、ぺこりと深く頭を下げ、逃げるように廊下へ駆けていく。
――中多さん、か。
悠は、その後ろ姿が見えなくなるまで、なぜだか目で追っていた。
◇◇◇◇◇◇
放課後。
初日の疲れというより、質問攻めの余韻を引きずりながら、悠は町を歩いていた。せっかくだから、家に帰る前に少し散策しておこうと思ったのだ。商店街の八百屋の威勢のいい声、魚屋の氷の匂い、路地の向こうに見える青い海。
「綺麗だな……」
夕焼けに反射する紅葉色の海に、思わず吸い込まれそうになった。そして近道になりそうな細い路地に足を踏み入れたところで、悠はふと足を止めた。
奥から、複数の男の笑い声と、かすかな女の子の声が聞こえる。
「あの……通して、ください……」
聞き覚えのある、消え入りそうな声だった。
悠は迷わず路地の奥へ進んだ。突き当たり近くの壁際で、他校の制服を着崩した男が三人、ひとりの少女を取り囲んでいる。少女は鞄を胸に抱きしめ、壁に背中を押しつけるようにして立っていた。
中多紗江だった。
「いいじゃん、ちょっとお茶するだけだって」 「めちゃくちゃ可愛いじゃん。ねえ、名前教えてよ」
紗江は唇を震わせ、何か言おうとしているのに、声が出ないようだった。男の人が相手だと、緊張のあまり言葉が詰まってしまう。彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
男のひとりが、彼女の腕に手を伸ばす。
「その手、離してもらえるかな」
静かな声だった。決して大きくはないのに、路地の空気がすっと冷えた。
男たちが振り返る。そこに立っていたのは、制服姿のひとりの少年だった。悠は紗江と男たちの間に、ゆっくりと足を踏み入れる。
「あぁ? なんだお前」 「正義の味方気取りか?」
伸ばしかけた手を、悠は軽く掴んで止めた。力を込めたわけではない。ただそこから先へは進ませない、という意思が伝わるだけの確かな握り方だった。
「彼女、困ってる。それに、嫌がってるのが分からないほど鈍くないだろ?」
「てめえ……!」
男が逆の腕を振り上げた。悠はそれを半歩身を引いて避け、相手の勢いを利用するように、手首を軽くひねって体勢を崩させる。傷つけることはしない。ただ、これ以上は無駄だと分からせるだけの動きだった。
「これ以上やるなら、俺も手加減できない。……それでも、続けるか?」
淡々とした声と、一切揺らがない灰色の瞳。男たちは顔を見合わせ、舌打ちをひとつ残して路地の外へと走り去っていった。
静けさが戻る。遠くで、海鳥の鳴く声がした。
「……大丈夫か?」
悠が振り返ると、紗江は壁に背中をつけたまま、ずるずると座り込みそうになっていた。慌てて支えようと手を伸ばしかけて、悠はその手を止める。男が苦手な彼女にとって、いきなり触れられるのはきっと怖いはずだ。
代わりに、悠は少し距離を取ってしゃがみ込み、目線を低くした。
「怪我はない?」
紗江はこくこくと頷いた。それから、何度も何度も頭を下げ始める。
「ご、ごめんなさい……あの、ありがとうございます。わたし、いつもこうで…声が、出なくて」
「謝らなくていいよ。君は何も悪くない」
悠は穏やかに言った。紗江ははっとして顔を上げ、涙で濡れた瞳で、初めてまっすぐ悠を見た。
「……あの、鳴上先輩、ですよね。今日、転校してきた」
「ああ、知ってたのか?」
「教室で目が合ったので」
言ってから、紗江は自分の言葉に気づいたように、顔を真っ赤に染めて俯いた。悠は思わず、小さく笑ってしまう。
「中多さん、だよね。先生のお使いで来ていた」
「は、はい……! 中多、紗江です……一年ですっ」
「鳴上悠。改めて、よろしくね」
差し出しかけた手を、悠はまた引っ込めた。代わりに、軽く会釈をする。紗江もぎこちなく、けれど丁寧に頭を下げ返した。
夕暮れの光が路地を橙色に染めていく。二人はしばらく、そのまま並んで歩いた。商店街の灯りがひとつ、またひとつと点り始める。紗江は悠の少し後ろを、小さな歩幅でついてくる。決して近づきすぎず、離れすぎず。その距離感が、不思議と心地よかった。
「あの……先輩」
商店街の出口で、紗江が足を止めた。
「今日のお礼、ちゃんと……させてください。わたし、何もできないかもしれないけど……」
「え、別に気にしなくていいよ」
「で、でも……!」
一生懸命な声に、悠は少し考えてから答えた。
「…了解。じゃあ、楽しみにしてる」
紗江の顔が、ぱっと花が咲くように明るくなった。それから、はにかむように微笑んで、もう一度深くお辞儀をし、小走りに夕暮れの中へと去っていく。
その背中を見送りながら、悠は白い息をひとつ吐いた。
「なんか、面白くなりそうだな」
七羽町での初日は、思っていたよりずっと、忘れられない一日になりそうだった。
続
次進める√は?
-
森島√
-
棚町√
-
桜井√
-
七咲√
-
絢辻√