第十話 「挑戦状」
朝の光が差し込む中、鳴上は少し眠たげな顔で教室に入った。普段と変わらない一日になるはずだった。けれど、扉をくぐった瞬間、異様な空気に包まれた。
「鳴上、お前、家庭科部入ったんだって!?」
梅原が、鬼気迫る形相で机に両手をついた。周りには、何人かの男子が集まっていて、その誰もが、同じような表情をしている。
「ああ、昨日な」
「なんでだよ! あそこ、森島先輩のところだろ! お前、また女の子に囲まれたくて…」
「「別に、そんなつもりじゃ……」
「中多さんと一緒に歩いてたと思ったら、今度は森島先輩まで!」
別の男子が、半分涙目になりながら詰め寄ってきた。
「俺なんか、三年間、まともに彼女できたことないのに! なんでお前にばっかり女の子が寄ってくるんだぁー!」
別の男子も、便乗するように声を上げた。
「料理できるわ、運動神経いいわ、優しいわ……! ずるいって、普通に!」
「俺たちの立場、どうなるんだよ!」
三人目の男子が、芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「俺なんか、告白して三回フラれてるんだぞ。お前、何か分けてくれよ、そのモテ運」
「分けるも何も、俺にはよく分からない……」
悠は、困惑した様子で頭をかいた。これといって特別なことをしているつもりはない。ただ、困っている人がいたら手を貸すだけ。料理をするのも、自分が好きだからだ。
悠自身、こうして取り囲まれることにも、少しずつ慣れてきてはいた。それでも、毎回、どう答えればいいのか、正直まだ分からないでいる。
その素直すぎる返答に、男子たちは、さらに肩を落とした。
「それが、一番ずるいんだよ…」
梅原が、机に突っ伏して呻いた。周りの男子たちも、同調するように重いため息をつく。悠は、ますます困り顔になるばかりで、結局、誰も納得させられないまま、朝のホームルームの時間になってしまった。担任が入ってきてようやく、男子たちはしぶしぶ自分の席へと戻っていった。
同じ頃、一年A組の教室。
休み時間、紗江が自分の席でぼんやりしていると、美也が勢いよく駆け寄ってきた。何やら、別のクラスの友達から聞いた話があるらしい。
「ねえ紗江ちゃん、聞いた? 家庭科部の部長のこと!」
「え、うん。森島先輩だけど……」
美也の顔色が、みるみる変わった。
「はるか先輩が、部長……!?」
美也の叫び声が、朝の教室に響き渡った。
「うそ、本当に?」
「う、うん。昨日、行ってみたら」
紗江が頷くと、美也は机に両手をついて、天を仰いだ。
「とんでもないライバルが現れた……!」
「ラ、ライバルって、そんな……」
紗江は否定しかけたが、ふと、昨日の光景が脳裏によみがえった。クッキーの焼ける匂い、楽しそうな二人の会話。はるかに気安く話しかけられて、嬉しそうに笑う悠の顔。クッキーを褒められて、照れたように頭をかく様子。
言葉が、喉の奥で詰まってしまう。あの笑顔を思い出すたびに、胸の奥が、きゅっと締めつけられるのが分かった。
「ほら、紗江ちゃんと何も言い返せてないじゃない」
美也が、したり顔で腕を組んだ。
「森島先輩、学校一の美人でしょ。スタイルも抜群だし、料理も教えてるんだっけ? 紗江、この際、ちゃんと対策、考えたほうがいいかもね…」
「た、対策って……」
逢が、呆れたようにため息をついた。
「美也、気が早すぎるよ。まだ何も起きてないのに」
「何言ってるの、逢ちゃん。男子はね、胃袋を掴まれると一気に好きになるんだよ。これ、みゃーの持論だから」
逢の眉間に、しわが寄る。
「それ、どこの情報?」
「少女漫画! 間違いない!」
逢が、額を押さえた。美也は、自信満々に胸を張った。
「あたしの愛読書に、全部書いてあるんだから。胃袋を掴んだヒロインは、だいたい最終的に勝つの」
「それ、漫画の話でしょ……」
逢が、ジト目で突っ込む。美也は、まったく意に介さず、さらに力説を続けた。
「漫画は人生の教科書なんだよ、逢ちゃん。伊達に何百冊も読んでないんだから」
「その自信、どこから来るの……」
紗江は二人のやり取りを聞きながら、小さく笑ってしまった。緊張していた気持ちが少しだけ和らぐも、自信満々に言い切る美也に、紗江は思わず「そ、そうなんだ……」と真顔で頷いてしまった。逢が頭を抱える。
「紗江まで信じちゃうの!?」
「だ、だって、美也ちゃん、自信ありそうに言うから……」
美也は、ぐっと拳を握りしめた。
美也は、腕を組んで何かを考え込んでいたが、やがて、ぱっと顔を輝かせた。
「決めた。紗江ちゃんっ、料理の腕ではるか先輩に差をつけよう。負けてられないよ!」
「さ、差をつけるって、どうやって……」
「それはこれから考える! とにかく、気合いだけは十分にしておいて!」
勢いに押されるまま紗江は、こくこくと頷くしかなかった。けれど内心では、少しも自信が持てずにいた。お菓子作りが得意だったことなど、一度もないからだ
放課後。
家庭科部の部室へ向かう紗江の足取りは朝の勢いとは裏腹に、ひどく重かった。美也の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
――料理の腕で、差をつける。
正直、自信などなかった。お菓子作りは苦手だと悠にも打ち明けたばかりだ。それなのに張り合うなんてことが、果たしてできるのだろうか。
廊下の窓から差し込む夕陽が長く影を伸ばしている。家庭科室の前に着いても、紗江の足は、なかなか動かなかった。扉の向こうから物音が聞こえてくる。深呼吸をひとつしてから、紗江は部室の扉を開けた。
「あ、中多さん」
机に向かって何か作業をしていた悠が、顔を上げた。だが、紗江の目を引いたのは、その隣に立つ人物だった。
森島はるかが、腕を組んで、やや仁王立ちの姿勢で待ち構えていた。
「待ってたよ、紗江ちゃん」
いつもの気だるげな様子とは違う、どこか挑むような笑みが、はるかの口元に浮かんでいる。
「は、はい……?」
紗江が戸惑っていると、はるかは、机の上に一枚の紙を、すっと差し出した。
「はい、これ」
訝しみながら、紗江はおそるおそる、その紙を受け取った。少し厚手の、便箋のような紙だった。
便箋には、少しくせのある、けれど丁寧な字で、こう書かれていた。
『挑戦状。料理対決を申し込みます。――中多紗江様へ、森島はるかより』
息が、止まりそうになった。
「え……、え!?」
「話はもう聞いているもの、貴方が料理で、わたしに勝つって」
「な、なんで、それを……!」
はるかは、くすりと笑った。
「案外噂とか回るの早いのよ?この学校。それを偶々廊下で、聞こえちゃってね」
恥ずかしさと驚きで、紗江の頭は真っ白になった。まさか、あの教室でのやり取りが、もう耳に入っているなんて。クラスの誰かが、噂話を伝えたのかもしれない。それにしても、早すぎる。
「それで、宣言通り受けて立ってくれるのかな?」
はるかは、楽しそうに目を細めて、紗江の返事を待っている。それから、答えを待たずに、自分から言葉を続けた。
「もちろん、わたしは受けて立つわ。面白そうだし」
ノリノリの様子で、はるかは腕まくりをする真似までしてみせた。頭の中が、ぐるぐると回っていた。断るべきか、受けるべきか。けれど、美也の期待そうな顔が、まぶたの裏をよぎる。
「え、ちょ、ちょっと待ってください……!」
隣で、悠が、話についていけないまま、二人を交互に見ていた。
「え、何の話? 挑戦状って……」 「鳴上君には、まだ秘密」
はるかが、人差し指を立てていたずらっぽく笑う。悠は、ますます困惑した顔で首を傾げるばかりだった。
「中多さん、何か知ってる?」
「わ、わたしも、何がなんだか……!」
紗江は、手の中の挑戦状を呆然と見つめた。美也の軽口が、まさかこんな形で現実になるとは、思ってもみなかった。
「えっと……わたし、本当に、受けないといけないんでしょうか」
「別に無理にとは言わないよ。でも、面白そうだと思わない?」
はるかは、どこまでも楽しげだった。紗江は挑戦状を握りしめたまま、助けを求めるように悠を見たが悠は困惑した表情のまま、首を傾げるだけだった。
続
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