第十一話 「決戦前夜」
部室に流れていた、重苦しいとも気まずいともつかない空気を破るようにはるかが、のんびりとした声を上げた。
「とりあえず、日取り決めちゃおうか」
戸惑う紗江と悠を前に、はるかは呑気な声で言った。
「金曜日の放課後、ってことでどう?」
「金曜日って……今日の、二日後……」
紗江が呟くと、はるかは指折り数えるようにしながら頷いた。
「うん、ちょうどいいよね。週末前だし」
「あの、内容は、どうするんですか?」
おそるおそる尋ねる紗江に、はるかは、 にっこりと笑った。
「料理対決って言っても、別に腕を競うわけじゃないの。お互い、得意料理を作って鳴上君に食べてもらう。それで、どっちが美味しかったか決めてもらうだけ」
思っていたよりも、ずっとシンプルなルールだった。だが、それでも、紗江の胸は重く沈んでいく。得意料理と呼べるものなど、何ひとつ思い浮かばない。
――わたしに、何が作れるんだろう。
不安が、じわじわと胸の中に広がっていく。それでも、ここで逃げ出すわけにはいかなかった。
はるかは、悠の顔を覗き込むように尋ねた。
「鳴上君、それでいい?」
話を振られた悠は、依然として状況が呑み込めない様子だったが、ひとまず頷いた。
「それは、構わないんですが…本当に、何の勝負なんですか?」
「秘密、秘密」
はるかは、楽しそうに笑ってそれ以上は答えなかった。その余裕たっぷりな態度に紗江の胸の奥で、小さな対抗心が芽生える。
――負けたく、ない。
そう思ったのは、これが初めてだった。誰かと張り合いたいなんて、これまでの自分からは考えられないことだった。
やがて、腹を括ったように紗江は小さく息を吸い込んだ。
「……分かりました。やります」
震える声だったがはっきりとした意志が、そこにはあった。頭の中には、まだ迷いが残っていたけれどここで引き下がるわけにはいかない。紗江は、悠の方を振り返ると、まっすぐに彼を見つめた。
「待っていてくださいね、先輩」
その言葉を残して、紗江は、逃げるように部室を飛び出していった。
「わたしも、楽しみにしてるね」
はるかも、軽やかに手を振ってそれに続くように部室を出ていく。去り際、ちらりとこちらを振り返ったその顔には、どこか試すような色が浮かんでいた。
残されたのは、悠ひとりだけだった。
静まり返った部室で、悠は誰にともなく呟いた。
「……どういうことだ」
答えてくれる人は、誰もいなかった。窓の外では、夕暮れの風が、カーテンを静かに揺らしているだけだった。悠は、しばらくその場に立ち尽くしたまま、ため息をひとつついた。
あれから一晩明けても、紗江の頭の中は、まだ整理がついていなかった。翌日の昼休み、紗江はあることに気づいて絶句していた。
「あの挑戦状、美也ちゃんが、書いたの……!?」
教室の隅で、美也が、気まずそうに視線を逸らした。昨日までの自信満々な様子は、すっかり鳴りを潜めている。
「えっと……その、昨日の授業中に、こっそり」
「て、手習い中に、挑戦状を!?」
「ごめん! でも、紗江が困ってるの見てたら、いてもたってもいられなくて……」
美也は、両手を合わせて深々と頭を下げた。紗江は、呆れ半分、それでも、美也の気持ちが嬉しくて何も言えなくなってしまった。
紗江は、頭を抱えたくなった。だが、驚きはそれだけでは終わらなかった。
「噂が広まったのも、実は……」
逢が、申し訳なさそうに切り出した。
「美也が、学年中に、独り言みたいに言いふらしてたの。『はるか先輩に、挑戦状、叩きつけてやる』って」
「そ、そんなことまで……」
紗江は、思わず天を仰ぎたくなった。あの挑戦状は、こうして思いがけない形で広まってしまったらしい。
「わたしも、途中で止めようとしたんだけど」
逢は、深くため息をついた。美也の暴走は、今に始まったことではなかったが、今回ばかりは、さすがに止めきれなかったらしい。
「気づいたときには、もう、はるか先輩の耳にまで入ってた。……紗江、本当にごめん」
深々と頭を下げる逢に、紗江は、慌てて首を振った。
「い、いいよ! もう、終わったことだし……それに、受けるって決めたのは、わたしだから」
美也が、ぱっと顔を上げた。
「紗江ちゃん……!」 「大丈夫、大丈夫!」
美也は、紗江の両手をぎゅっと握った。心なしか、その目には、涙がにじんでいるようにも見えた。
「みゃーも逢ちゃんも、全力で協力するから! 絶対、勝たせてみせる!」
「うん。頑張ろうね、紗江」
逢も、力強く頷いた。その言葉に紗江の胸に、少しずつ勇気が戻ってくる。ひとりでは不安だらけだったけれど、こうして隣に味方がいてくれることが何より心強かった。
「じゃあ、今日の放課後、うちに来て! 特訓だよ!」
美也の提案に、紗江と逢は迷わず頷いた。
そうこうしているうちに、美也の自宅のキッチンで三人は、エプロン姿に着替えていた。
「それで、何を作るの?」
逢の問いに、紗江は、少し困ったように俯いた。
「それが……これといって、得意な料理が、思い浮かばなくて。手先は、器用なほうだと思うんだけど」 「じゃあ、あたしの得意料理、教えるよ」
美也が、ぴんと人差し指を立てた。
「肉じゃが!」
「肉じゃが……」 「鳴上先輩、肉料理が好きって、前に聞いたことあるんだよね。だから、これなら、バッチリだと思う!」
美也は、拳を握りしめて力説した。
「それに、肉じゃがって、家庭的な感じがするでしょ? 手料理って感じが、好感度アップに繋がるはずなの」
「美也、理論はさておき、作ってみようか」
逢が、やんわりと話を進める。
自信満々な美也に、紗江と逢は、顔を見合わせた。悪くない提案のように思えた。何より、美也がこれほど自信を持って勧めてくるのだからきっと腕に覚えがあるのだろう。
エプロンの紐を結びながら、美也は腕まくりをしてみせた。
「それじゃ、特訓、始めよう!」
テーブルいっぱいに広げられたじゃがいも、人参、玉ねぎ、牛肉のパック。材料を並べ、美也の指示のもと紗江は包丁を握った。玉ねぎを切り人参の皮を剥く。包丁の刃先が、まな板の上で小さな音を立てる。手つきは思っていたより、ぎこちなくはなかった。
「紗江、意外と上手だね」
「そ、そうかな」
「うん。筋がいいと思う」
逢に褒められて、紗江は少しだけ照れくさそうに頬を緩めた。逢が、横から野菜を押さえたり、調味料を測ったりとさりげなく手伝う。
鍋に油を引き、肉を炒める段になって美也が得意げに声を上げた。
「あ、ここ、重要なポイント!」 「な、何?」
「お肉を炒めるとき、小麦粉を薄くまぶしておくの。そうすると、お肉が柔らかくなって味も絡みやすくなるんだよ」 「へえ、知らなかった」
逢が、感心したように頷く。紗江も、教わった通りに、小麦粉を振りかけてみた。肉の表面が白くうっすらと覆われていく。油の弾ける音とともに、香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がった。
「いい匂い」
「ね。お腹空いてきちゃう」
三人は、顔を見合わせてくすりと笑った。
「あとは、じっくり煮込むだけ!」
鍋からは、醤油と出汁の甘辛い香りが漂い始めた。キッチンに満ちる匂いに、三人の顔が自然とほころぶ。
鍋の中身は、ふつふつと静かな音を立てながら少しずつ煮詰まっていった。煮込むこと、しばらく。じゃがいもに、しっかりと味が染み込んだ頃、ようやく鍋の火が止められた。
「できた……!」
三人は、小皿に取り分けて、恐る恐る口に運んだ。
「……美味しい!」
真っ先に声を上げたのは、紗江だった。ほくほくとしたじゃがいもに、甘辛い煮汁がよく絡んでいる。肉も柔らかく仕上がっていた。
「でしょでしょ! これなら、いけるよ!」
美也が、満足げに胸を張った。逢ももう一口食べて、静かに頷いた。
「うん、本当に美味しい。これなら、自信持っていいと思う」
紗江の胸に、少しずつ自信が芽生えていく。これなら、金曜日も、きっと――。
そんな前向きな気持ちが、胸いっぱいに広がっていくのを感じながら、紗江はもう一口、肉じゃがを口に運んだ。
「あ」
不意に、逢が声を上げた。
「小麦粉、残りが、ちょっとしかないかも」
棚を覗き込んで、逢が眉をひそめる。確認してみると、確かに袋の中身は、わずかしか残っていなかった。
「本番用には、足りないね」
「えっ、どうしよう……」 「大丈夫、大丈夫! もう遅いし、明日、買いに行こう」
美也の提案に、三人は頷き合った。片付けを済ませ玄関で別れる頃には外はすっかり暗くなっていた。
「明日、買い出し、付き合うから」 「うん、ありがとう、逢ちゃん」
紗江は、二人に見送られながら夜道を家路についた。練習の手応えがまだ指先に残っているようだった。見上げた夜空には、星がぽつぽつと瞬いていて、明日への不安も、少しだけ和らいでいく気がした。
◇◇◇◇◇
その夜、悠の部屋には懐かしい声が響いていた。
風呂を済ませ、机に向かっていた悠の携帯が不意に震えた。画面に表示された名前を見て、悠は思わず口元を緩めた。
「――で、どうなんだよ、七羽町の暮らしは」
電話の向こうから聞こえてくるのは、八十稲羽で過ごした日々をともにした花村陽介の声だった。
「悪くないよ。それなりに、楽しくやってる」 「お前がそう言うと、逆に心配になるんだよな」
陽介が、笑いながら茶化してくる。しばらく、互いの近況を語り合った。陽介の部活のこと、共通の友人たちの噂話。懐かしい話題に悠は、自然と笑みがこぼれた。ひとしきり話したあと、悠はふと、明日に迫った料理対決の話を切り出した。
「実は、明日、妙なことになっていてね」
事の次第を話すと、電話の向こうで、長い沈黙が流れた。
「……お前、相変わらずだな」
「何が?」 「何がじゃねえよ! 転校して、まだそんなに経ってないのに、もう女の子二人に取り合われてるとか、どういう星の下に生まれたんだよ、お前は」
呆れたような陽介の声に、悠は思わず苦笑した。
「別に、取り合われてるつもりは……」
「自覚ないのが、一番タチ悪いんだよ」
陽介の呆れた声に、悠は苦笑しながら頬をかいた。八十稲羽にいた頃から、こういうやり取りは変わっていない。離れた町にいても、こうして気の置けない会話ができるのは、素直にありがたかった。
ひとしきり呆れたあと、陽介はふと懐かしそうな声になった。
「……そういえば、お前、覚えてるか。千枝たちが作ったオムライスの件」
「ああ……あれは、忘れたくても忘れられないな」
あの日の、凄まじい出来事を思い出し、悠の背筋に冷たいものが走った。見た目も味も予測不能な一皿を前に、仲間たちが見せた、あの複雑な表情まで、鮮明によみがえってくる。
「女子の料理対決ってのは、下手すると、とんでもないことになるからな。せいぜい、気をつけろよ」
笑いを含んだ声で、陽介はそう言い残すと、通話を切った。
「……まさか、な」
受話器を置いたあと、悠はしばらく天井を見つめていた。あの日の記憶が、ちらつく。けれど今考えても、どうしようもないことだった。
「ふっ、考えすぎだ」
自分に言い聞かせるように呟いて、悠は、早々に布団に潜り込んだ。考えないようにすればするほど、頭の片隅にはあの光景がこびりついて離れなかった。紗江と森島先輩が、まさかあんなことには、ならないはずだ。そうは思うものの、一抹の不安は、どうしても拭いきれなかった。
明日という日が果たしてどうなるのか。
時計の針は、すでに日付を跨ぐ寸前だった。悠は、不安を振り払うように目を閉じて、眠りに落ちていった。
続
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