第十二話 「肉じゃが対決」
金曜日の朝。紗江が昇降口に差しかかると、すでに美也と逢が待ち構えていた。
「紗江!ちゃん、準備はいい?」 「う、うん……たぶん」
まだ少し強張った顔の紗江に、美也が両手を握りしめて、気合いを送り込むように言った。
「大丈夫、昨日の味は本物だったし、自信持って!」 「うん……ありがとう、美也ちゃん」
美也は、拳を軽く握って、紗江の肩を叩いた。
「結果がどうであれ、紗江が頑張ったのはちゃんと見てたから」
逢が、鞄の中から小さな紙袋を取り出した。
「これ、昨日足りなかった分。朝、早起きして買っておいたから」
紙袋の中には、白い粉の袋が入っている。紗江は、それを大切そうに受け取った。
「逢ちゃんまで、朝早くから……ありがとう」
「気にしないで。今日は、思いきりぶつかってきて」
受け取った粉の袋を、紗江はぎゅっと抱きしめた。昨日の練習の記憶が、まだ鮮明に残っている。二人の言葉を胸に、紗江は、家庭科室へと続く廊下を歩き出した。振り返ると、美也と逢が、笑顔で手を振っている。その姿が見えなくなるまで、紗江は何度も頷き返した。
家庭科室に着くと、すでに準備を整えたはるかが、紗江を出迎えた。
「忘れ物、ない? エプロンとか」
「は、はい。大丈夫です」
「じゃあ、始めよっか」
はるかが、楽しそうに手を叩いたところで、部屋の隅に立っていた悠が、不意に口を開いた。
「あの、ひとつ、聞いてもいいですかん」
「何?」 「勝った人は、どうなるんです?」
何気ない問いだった。だが、はるかは、にっこりと笑って、思いがけない答えを返した。
「んーと、勝った方は明日からのお休みに、鳴上君とデートできるの」
一瞬、部屋の空気が止まった。
「……は?」 「え……!?」
悠と紗江の声が、ほとんど同時に重なった。紗江の顔は、見る間に真っ赤に染まっていく。デート。その響きが、頭の中で何度も繰り返される。
――負けられない。
さっきまでの緊張とは、また違う種類の決意が、紗江の胸に湧き上がってきた。手紙でのやり取りから、屋上での会話、そして商店街での寄り道。少しずつ近づいてきた距離を、ここで手放すわけにはいかない。
悠が、戸惑いながらも、紗江の方へ歩み寄ってきた。両手で、紗江の手を、そっと包み込む。
「中多さん、頑張って」
突然のことに、紗江の鼓動が、跳ね上がった。
「は、はい……! 頑張ります……!」
気合いが、体の奥から漲ってくる。その一方で、悠は、ふと、別のことを思い出していた。
――料理対決、女の子同士の、料理対決。
脳裏に、あの日の、千枝たちが作ったオムライスの記憶が、鮮やかによみがえる。あの衝撃的な味を思い出し、悠の背筋に、冷たいものが走った。陽介の忠告が、今になって重く響いてくる。
「鳴上君、顔、強張ってるけど」
はるかの指摘に、悠は、慌てて首を振った。
「い、いや、何でもない」
心の中の不安をよそに、はるかは、上機嫌な様子で、対決の開始を告げた。
時は、少しだけ遡る。
同じ頃、一年A組の教室では、昨日の買い出しを巡る会話が交わされていた。
「そういえば、逢ちゃん。昨日の材料代、あとで折半しようね」
美也の言葉に、逢は頷いて、財布からレシートを取り出した。
「うん、いいよ。はい、これ」
差し出されたレシートを、美也は何気なく覗き込んだ。そして、ぴたりと動きを止めた。
「……ねえ、逢ちゃん」 「何?」
「これ、小麦粉じゃなくて、薄力粉になってる」
逢は、きょとんとした顔で、美也の手元を覗き込んだ。
「薄力粉……? それ、どう違うの?」
「違うよ、全然! 小麦粉っていうのは、強力粉とか薄力粉とか、まとめた呼び方で」
美也の顔から、血の気が引いていく。
「あたし、昨日、『小麦粉入れて』としか言わなかった……まさか」
「待って、それって……」
逢の問いに、美也は、重々しく頷いた。
「薄力粉だと、お肉、硬くなるんじゃなくて……多分、ガムみたいに、ブヨブヨになるかも」
教室に、しばしの沈黙が流れた。昨日、あれほど美味しく仕上がった肉じゃがが、まさか今日は違う結果になるかもしれないとは、誰も予想していなかった。
家庭科室では、ちょうど、二人分の料理が、同時に完成したところだった。
コンロの火が止められ、湯気を立てる二つの鍋が、調理台に並んだ。はるかが、鍋の蓋を軽く叩いて言った。
「じゃあ、見せ合いっこしましょ!」
はるかの提案に、紗江は、自分の皿を、おずおずと差し出した。そして、はるかの皿を見た瞬間、目を見開いた。
「……肉じゃが」
「え……」
はるかも、紗江の皿を覗き込んで、驚いたように声を漏らした。
「まさか、貴方も?」
二人の皿には、ほとんど同じ、茶色い煮物が、湯気を立てていた。
「こんな偶然、ある……?」
はるかが、思わず、くすりと笑う。紗江も、少し気が抜けたように、頬を緩めた。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
「じゃあ、食べ比べ、始めようか」
はるかに促されて、悠は、まず箸を手に取った。紗江は、思わず両手を胸の前で握りしめる。悠が、彼女の皿へと箸を伸ばした。ひと口。咀嚼して、ゆっくりと頷く。
ひと呼吸置いて、悠は静かに言った。
「美味しいです」
その言葉に、嘘は感じられなかった。心からの感想だと、紗江にもすぐに分かった。
――本当に、美味しいんだ。
不安が、また一段と、胸の奥で膨らんでいく。続いて、悠の箸が、紗江の皿へと伸びた。
紗江は、息を止めて、その瞬間を見守った。
悠が、ひと口、口に運ぶ。咀嚼する間、表情は、まったくと言っていいほど変わらなかった。
「……美味しい」
短い感想だったが、その顔からは、どちらに軍配が上がったのか、まるで読み取れなかった。
紗江は、心臓が、張り裂けそうなほど、緊張していた。これまでの手紙や、屋上での会話や、商店街の思い出までもが、頭の中を駆け巡っていく。
部室の中に、沈黙が落ちた。時計の秒針の音だけが、やけにはっきりと聞こえる。両方を食べ終えた悠は、しばらく、腕を組んで考え込んでいた。やがて、ゆっくりと口を開く。
少し間を置いてから、悠は、ゆっくりと口を開いた。
「……中多さんの方が、美味しかった」
一瞬の静寂のあと、紗江は、思わず両手を突き上げた。
「やった……!」
全身で喜びを表す紗江を見て、悠も、ほっとしたように微笑んだ。張り詰めていた緊張が、ようやく解けていくのが、紗江自身にも分かった。
「負けちゃったか」
はるかは、少し悔しそうにしながらも、気になった様子で、紗江の皿に残った肉じゃがを、ひと口つまんだ。
その瞬間、彼女の顔が、見たことのないほど歪んだ。普段の気だるげな表情からは、想像もできない変わりようだった。
「……え?」
「どうしたんですか、先輩?」
戸惑う紗江に、はるかは、口の中のものを、ようやく飲み込んでから言った。
「これ……なんか、変じゃない?」
紗江も、恐る恐る、自分の料理を、もう一口食べてみた。
昨日食べたときとは、まるで違う食感だった。肉が、やけに弾力があって、嚙み切るのに苦労する。ブヨブヨとした、妙な歯ごたえ。
「え、え……!?」
まさに、美也の予言した通りの味になっていた。
はるかは、信じられないといった様子で、紗江を見つめた。
「ねえ、鳴上君。これの、どこが美味しかったの?」
悠は、少し照れくさそうに、頬をかいた。懐かしむように、視線を宙にさまよわせる。
「実は……昔、よく食べてた、肉ガムみたいな食感の料理があって」 「肉ガム……?」
「友達が、間違えて作っちゃった料理なんだけどね。あの弾力が、妙に癖になって。だから、こっちの方が、好みだったんだ」
部屋に、しばらく、沈黙が流れた。想定外すぎる理由に、はるかは、口を開けたまま、言葉を失っていた。紗江自身も、思わず苦笑いを浮かべてしまう。そして、やがて、堪えきれないように、はるかはふっと噴き出す。
「……つくづく、面白い子ね、鳴上君」
いつもの、のんびりとした調子に戻って、はるかは、肩をすくめた。
「分かった。貴方の勝ちだよ、紗江ちゃん」
紗江は、呆然としながらも、ようやく、勝利の実感が湧いてきた。
後片付けが済んだ頃、はるかは、紗江だけを部室に呼び止めた。
「ちょっと、こっちに来て」
人気のなくなった部室で、はるかは、少し改まった顔をして、口を開いた。
「実はね、わたし、わざと負けようとしてたの」
「え……!?」
思いがけない告白に、紗江は、目を丸くした。
「どうして、そんなこと……」
「貴方が、鳴上君のこと、好きなんだなって、見てればすぐ分かったから」
はるかは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「あんなに一生懸命、彼の背中を見てる子、他にいなかったもん」
紗江の顔が、一気に赤く染まった。
「な、なな……!」
「だから、ちゃんと、応援したいなって思ってね。こういう、きっかけがあったらいいでしょ?」
はるかは、軽く肩をすくめた。
「まぁちょっとお節介だったかな、とも思ったけど。まあ結果オーライってことで!」
悪戯っぽく笑うはるかに、紗江は、言葉を失った。まさか、すべてが、仕組まれたものだったなんて。
「あんな負け方するとは思わなかったけどね」
くすくすと笑いながら、はるかは、ポケットから、二枚のチケットを取り出した。
「はい、これ。遊園地のチケット。使ってね!」
差し出されたチケットを、紗江は、震える手で受け取った。
「先輩……ありがとう、ございます」
深く頭を下げる紗江に、はるかは、満足そうに頷いた。その表情には、いつもの気だるげな雰囲気とは違う、どこか優しい色が浮かんでいた。
「いってらっしゃい。楽しんでね」
紗江は、込み上げてくる感謝の気持ちを抱えたまま、家庭科室へと戻っていった。
戻ってきた紗江を見て、悠が、少し心配そうに声をかけた。
「大丈夫だった?」 「は、はい! 大丈夫です!」
紗江は、手にしたチケットを、そっと差し出した。
「あの、これ、先輩からいただいて……よかったら、一緒に」
悠は、少し驚いたように、チケットを見つめた。
「俺で、いいのか?」
その問いに、紗江は、迷わず、元気よく頷いた。
「もちろんです!」
悠は、しばらく見つめたあと、やわらかく笑った。
「じゃあ、待ち合わせ、決めようか」
二人は、休日の場所と時間を、ひとつずつ確かめ合った。駅前の時計の下、午前十時。手帳にメモを取る悠の横顔を、紗江はこっそり見つめていた。約束を交わすたび、紗江の胸は、高鳴り続けていた。
帰り際、校舎を出たところで、悠が、ふと足を止めた。
「そうだ。言い忘れてたけど」
振り返った悠は、少し照れくさそうな表情を浮かべながら、まっすぐに紗江を見て、言った。
「あの肉じゃが、本当に、美味しかったよ」
その一言を残して、悠は、夕暮れの中を帰っていった。紗江は、その背中を見送りながら、胸の奥に、温かいものが広がっていくのを感じていた。
明日からの休日が、待ち遠しくてたまらなかった。
続
次進める√は?
-
森島√
-
棚町√
-
桜井√
-
七咲√
-
絢辻√