第十三話 「約束の日」
金曜日の夜、紗江の部屋には、クローゼットから引っ張り出された服が、ベッドの上に山積みになっていた。
花柄のワンピース、シンプルなブラウス、お気に入りのスカート。あれこれ手に取っては、鏡の前で合わせてみる。
「これは、子供っぽいかな……でも、こっちは、気合い入りすぎ?」
鏡の前で、一着ずつ合わせては、首を傾げる。何度も着替えを繰り返すうちに、時計の針は、もう夜の十時を回っていた。
結局、迷いに迷った末、淡い色合いのワンピースに、薄手のカーディガンを合わせることに決めた。何度も鏡に映して確認してから、ようやくハンガーにかけ、明日のために準備を終える。
ベッドに腰かけ、紗江は、小さく息を吐いた。
「よし……あとは、明日」
けれど、頭の中は、まだ落ち着かなかった。明日会ったら、何から話せばいいのだろう。最初の挨拶、それから。どうしても眠る前に落ち着かず紗江は、布団の中でひとり小声で練習を始めた。
「お、おはようございます、先輩。今日は、よろしくお願いします……って、硬いかな」
言い直しては、首を振る。それから遊園地で何を話そうか、どんな顔をすればいいか、頭の中でひとつひとつ思い描いていく。笑いすぎてもいけない、かといって硬すぎるのもよくない。それを何度も繰り返すうちに、気づけば、随分と夜も更けていた。
「……緊張して、眠れないかも」
そう呟きながらも、紗江は明かりを消して布団に潜り込んだ。目を閉じても、明日の光景が何度も浮かんでは消えていく。それでもいつの間にか、浅い眠りに落ちていった。
翌朝。待ち合わせの時間よりも、ずっと早く紗江はテーマパークの正門前に到着していた。
約束の十時まで、まだ三十分以上もある。それでも、じっとしていられなかったのだ。
正門前のベンチに腰かけ、紗江は何度も時計を確認した。周りを歩く家族連れやカップルの姿を眺めながら、少しずつ不安が募ってくる。
――早く来すぎたかな。迷惑じゃなかったかな。
時計の針が、十時にどんどん近づいていく。それなのに、悠の姿はまだどこにも見えなかった。
時計の針が十時を指しても、まだ悠は現れない。紗江の頭の中に、昨夜何度も練習した台詞が、意味もなく浮かんでは消えていく。
――もしかして、来るの遅いのかな。それとも……。
良くない想像が、頭の中を駆け巡り始める。来ないという可能性まで、ちらついてしまう。昨夜、あれほど丁寧に選んだ服も、今はただ心もとなく感じられた。紗江は、きゅっと手を握りしめた。
そのときだった。
「待った?」
背後から、不意に声をかけられ、紗江は、飛び上がらんばかりに驚いた。
「ひゃあっ!」
勢いよく振り返ると、そこには悠が立っていた。軽く笑いを含んだ表情を浮かべている。
「ご、ごめん。驚かせすぎたかな」
悠は、少しばつが悪そうに頭をかいた。物陰からこっそり近づいて、驚かせてやろうという軽い悪戯心のつもりだったのだが、思っていた以上に驚かせてしまったらしい。
「い、いえ……大丈夫、です」
胸に手を当てて、呼吸を整える紗江だったが心臓はまだ激しく鼓動を打っていた。ふと顔を上げた瞬間、言葉を失った。
いつもの制服姿とは違う、大人びた雰囲気の私服。シンプルなジャケットを羽織った悠の姿は、紗江の知っている先輩とは、少し違って見えた。
「……先輩」
「どうかした?」 「す、すごく、素敵です……」
思わず零れた言葉に、紗江自身も、慌てて口を押さえた。悠は、少し驚いたように目を瞬かせてからやわらかく微笑んだ。
悠は、自分の服の袖を少し引っ張って照れたように笑った。
「ありがとう。中多さんも、今日は、いつもと雰囲気が違うね」
悠の視線が、紗江の服装へと向けられる。
「私服で一緒に歩くのって、なんだか新鮮だ」 「そ、そうですか?」 「うん。似合ってると思うよ」
ストレートな一言に、紗江の顔が一気に赤く染まった。
「か、可愛い、ですか……?」 「うん、可愛い」
あっさりと返された言葉に、今度は悠の方が、ふと我に返ったように頬を赤らめた。
「……って、いきなり、変なこと言ったかな」 「い、いえ! 全然、変じゃないです……!」
お互いに、どこか照れくさい沈黙が流れる。すれ違う人の視線など、まるで気にならないくらい二人の間には、甘い空気が漂っていた。それを吹き飛ばすように、紗江は、ぱっと笑顔を見せた。
「行きましょう、先輩!」 「うん。行こうか」
二人は、並んで遊園地のゲートをくぐっていった。
朝の光に照らされた園内は、すでに賑やかな活気に満ちていた。
まず立ち寄ったのは入ってすぐの売店だった。カラフルなポップコーンや、キャラクターのカチューシャが、所狭しと並んでいる。
「あ、これ、可愛い」
紗江が、小さなうさぎの耳のカチューシャを手に取ると、悠が、それをひょいと取り上げた。
「つけてみて」 「え、えっ?」
有無を言わさず頭につけられ、紗江は、慌てて鏡を覗き込んだ。
「に、似合いますか?」 「うん、すごく」
素直な感想に、紗江は照れながらも、そのままカチューシャを購入することにした。それを頭につけたまま、しばらく園内を歩くことになるとは、まだ気づいていなかった。
メリーゴーランドでは、隣り合った馬にまたがり音楽に合わせてゆっくりと回る中、二人は他愛もない話で盛り上がった。アトラクションの列に並んでいる間も、話題は尽きなかった。絶叫系に乗っては、紗江が悲鳴を上げそれを見た悠が笑う。観覧車の順番を待つ間には、他愛もないお喋りで、時間があっという間に過ぎていった。そんな時間が、惜しみなく積み重なっていった。
昼時には、屋台のクレープを買ってベンチで並んで食べた。生クリームが口の端についた紗江を見て、悠がおかしそうに笑い、紗江は慌てて拭った。手紙のやり取りをしていた頃には知らなかった、こうした何気ない瞬間のひとつひとつが、紗江にはどれも新鮮だった。
途中、大きな観覧車にも乗った。ゆっくりと上昇するゴンドラの中、七羽町の海が、遠くまで見渡せた。
「こうして見ると、町の大きさが、よく分かりますね」
「うん。綺麗だ」
窓に映る紗江の横顔を、悠は、しばらく見つめていた。視線に気づいた紗江が振り返ると、悠は、さりげなく外の景色に目を戻した。
昼を過ぎた頃、園内の中央広場に差しかかったところで、紗江が、ふと足を止めた。
「あ……!」
広場には、特設ステージが組まれ、大勢の子供たちが集まっていた。垂れ幕には、鮮やかな緑色のヒーローが描かれている。
「イナゴマスク……!」
目を輝かせる紗江に、悠が、興味深そうに尋ねた。
「好きなの?」 「は、はい! 小さい頃から、ずっと見てて……!」
特撮ヒーロー、イナゴマスク。紗江にとっては、幼い頃からの愛着あるヒーローらしい。正義感が強くてどんな強敵が相手でも、最後には必ず笑顔で終わる。そんなところが、たまらなく好きなのだと、紗江は早口で語った。興奮気味に語る紗江の様子に、悠は、微笑ましそうに目を細めた。
「じゃあ、一緒に見ていこうか」 「い、いいんですか?」 「うん。せっかくだし」
二人は、人垣の後ろから、ステージを見守ることにした。
始まったばかりのショーは、軽快な音楽とともに、イナゴマスクが颯爽と登場する場面から始まった。子供たちの歓声が、広場いっぱいに響き渡る。紗江も、すっかり夢中になって、手を叩いていた。
子供たちの声援に応えながら、イナゴマスクは、悪の組織との因縁を語るナレーションに合わせて、力強いポーズを決めてみせた。物語が進み、悪役が登場する場面になった。スモークとともに、特設ステージの奥から、不穏な姿が姿を現す。
その瞬間、悠の動きが、ぴたりと止まった。
ステージに登場したのは、丸っこいフォルムの、着ぐるみのような敵役だった。だがその顔立ちには、どうしようもなく見覚えがあった。
「……クマ?」
思わず漏れた呟きに、紗江が、不思議そうに悠を見た。
「知ってるんですか、あのキャラ」 「いや、その……」
悠は、言葉に詰まった。マヨナカテレビの中で出会った、あの珍獣に、こんな場所で再会するとは、夢にも思っていなかった。
ステージ上のクマは、台本などお構いなしといった様子で、動き回っていた。イナゴマスクに向かって、妙に馴れ馴れしい挨拶をしたかと思えば、客席に向かって手を振ったり、進行役のお姉さんに抱きついたりと、やりたい放題だった。
「クマさん、元気いっぱいですね」
隣で、幼い子供が、無邪気に笑っている。だが、明らかにシナリオから逸脱している動きに、ステージ袖に控えていたスタッフたちが、慌てて何やら相談し合っている様子も見て取れた。インカムに向かって、必死に指示を出している人の姿も見える。
イナゴマスクが、気を取り直すように台詞を続けようとするたびに、クマが割り込んで、謎の踊りを披露する。中の人が困っているのが、動きからもありありと伝わってきた。それでも、クマは意に介した様子もなく、ステージを縦横無尽に動き回っている。本来、脇役のはずの敵キャラが、いつの間にか、ステージの主役のような立ち位置に収まっていた。
「あの、クマっていうキャラ、ああいう動き方、普通なんですか?」
戸惑いながら尋ねる紗江に、悠は、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
「……多分、台本にはなかったと思う」
おそらく、あれは全部アドリブなのだろう。悠には、嫌というほど分かる見覚えのあるテンションだった。マヨナカテレビの中で、散々振り回されてきた記憶がまざまざと蘇ってくる。
ステージの上で、クマはひときわ大きな声で叫んだ。
「クマは、ここにいるクマァ! みんな、クマのこと、ちゃんと見てるクマァ!?」
本来の筋書きなど、もはやどこかへ消え去っていた。会場の子供たちは、むしろそのカオスな展開を喜んでいるようで、歓声はむしろ大きくなっている。誰も、ストーリーの行方など気にしていないようだった。
紗江は、目を丸くしたまま困惑気味にステージを見つめていた。
「えっと……イナゴマスクより、クマさんの方が、目立ってます」 「うん、本当にね」
悠は、小さくため息をついた。懐かしさと呆れが入り混じった、何とも言えない気持ちで、画面の向こうのクマを見つめる。
――相変わらず、自由なやつだ。
会ったことを打ち明けるべきか、それとも黙っておくべきか。悠が迷っているうちにも、ステージの上では、クマが新しいギャグを披露して、また会場を沸かせていた。二人は、しばらくの間、予測不能なショーの行方を、見守り続けることになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ステージ上でクマが繰り広げる、収拾のつかない大暴れに、周囲の観客も、戸惑い半分、笑い半分といった様子になっていた。
「そっとしておこう」
悠が、小さく呟いた。ステージの上では、相変わらずクマが台本を無視した大暴れを続けている。これ以上見ていても、収拾がつきそうにない。悠は紗江の手を軽く引いて、そっと人垣の後ろから離れようとした。
だが、その動きに誰よりも早く気づいたのは、当のクマだった。
「む! あそこにいるのは……!」
ステージの上から、クマの視線がまっすぐこちらへ飛んできた。悪役の口調を崩さないまま、クマはびしりと指を差す。
「お前たちも、この悪の軍団に加わるがいいクマー!」
「え、ちょっと――」
逃げる間もなく、クマは客席に飛び降りると、驚く周囲をものともせず、悠の腕を掴んで、そのままステージへと引きずり上げてしまった。
「え、え……!?」
突然のことに、紗江は目を丸くして立ち尽くした。あっという間の出来事に、状況を飲み込むことすらできない。
ステージの上で、悠は、戸惑いを隠せないまま、クマと向き合うことになった。マイクを突きつけられ、進行役のお姉さんも、すでに諦めたような顔で、流れに任せている。
「貴様、イナゴマスクの仲間かクマ!?」
「お、おいクマッ――」 「嘘をつくなー! この悪の首領、クマ様の目は誤魔化せんぞクマー!」
無茶苦茶な設定を一方的に押しつけられ、悠は、仕方なく話を合わせることにした。
「……そうだ。僕は、イナゴマスクの仲間だ」 「ほう、開き直ったなクマー!」
子供たちから、歓声が上がる。悠は、観念したように、両手を軽く構えてみせた。
「お前の悪事、ここで止めさせてもらう」
「言うではないかクマー! ならば、食らえ、必殺のクマパンチー!」
クマが振りかぶった、ふわふわのパンチを、悠は、大げさによろけながら受け止めてみせた。子供たちの笑い声と拍手が、会場いっぱいに広がる。紗江も、いつの間にか、人垣の中で、手を叩いて笑っていた。
その後も、クマの無茶振りは止まらなかった。即興の掛け合い、謎の決めポーズの強要。悠は、困惑しながらも、どうにかこうにか、それに応え続けた。
途中、クマが「必殺技の見せ合いっこクマー!」と言い出し、悠まで巻き込んで、謎のポーズ対決が始まる一幕もあった。イナゴマスク役の中の人も、もはや台本を諦めたのか、笑いを堪えるように肩を震わせている。
最終的に、イナゴマスク本人が戻ってきて、どうにか話をまとめ、クマは「覚えてろクマー!」という捨て台詞とともに、ステージ袖へと走り去っていった。拍手に包まれる中、悠は、ほうほうの体でステージを降りた。
「お疲れさまでした、先輩……」
紗江は、笑いを堪えきれない様子で、悠を出迎えた。
戻ってきた悠に、紗江が、くすくすと笑いながら声をかけた。
「まさか、巻き込まれるとは思わなかったよ」
悠は、疲れたように息をついた。久しぶりの珍しい経験に、どっと疲労を覚えていた。
ショーが終わったあと、スタッフの控室の裏手で、二人はクマと落ち合うことになった。
「久しぶりだな、クマ」
着ぐるみの頭を小脇に抱えたクマが、元気よく手を振ってくる。思っていたより小柄な、丸っこい体つきだった。汗だくになった様子で、それでも、テンションはまるで落ちていない。
「本当に、久しぶりだね。まさか、こんなところで会うとは思わなかった」
悠が、呆れ半分、懐かしさ半分といった様子で返す。
「クマ、七羽町に遊びに来てたクマ。そしたらちょうどバイトの募集があったから、ついでにやってたクマよ」
「あんなに暴れて、怒られないのか?」
心配そうに尋ねる悠に、クマは、あっけらかんと答えた。
「今、逃げてきたとこクマ」 「……相変わらずだな、お前は」
深くため息をつく悠の様子を、紗江は、興味深そうに見つめていた。
「先輩、いつもと雰囲気、違いますね」
その言葉に、悠が、少し照れたように頬をかいた。
「昔からの、腐れ縁みたいなものでね」
やり取りを見ていたクマが、ふと、紗江の方へ視線を向けた。
「おお、この子が、例の子クマか」
「え……?」
紗江が、戸惑ったように首を傾げると、クマは、にんまりと笑った。
「センセーは、相変わらずモテモテクマねぇ」
「先生……?」
聞き慣れない呼び方に、紗江が、悠の方を見る。もっと詳しく聞いてみたい気もしたが悠の表情を見て、紗江は、それ以上踏み込むのをやめた。悠は曖昧に笑って、話をそらすように言った。
「昔の、呼び方だよ。気にしないで」
紗江は、まだ少し腑に落ちない様子だったが、それ以上は聞かずにおいた。知らない過去がまだたくさんあるのだろう。それも、今の悠を作っている一部なのだと紗江は、なんとなく感じていた。
クマは、何かを思い出したように、着ぐるみのポケットをごそごそと探った。
「あ、そうだクマ。これ、お近づきの印クマ」
差し出されたのは、クマを模した、小さな木彫りのキーホルダーだった。
「バイト先の売店で、余ってたやつクマ。記念に持ってけクマよ」 「あ、ありがとうございます……!」
紗江は、思いがけない贈り物に、嬉しそうに受け取った。悠は、その様子を見て、小さく笑った。
「それじゃ、クマは、そろそろ行くクマ。またなベイビー!」
軽やかに手を振って、クマは、着ぐるみの頭を抱えたまま、控室の奥へと消えていった。
園内に戻った二人は、次に、お化け屋敷へと足を向けた。
「こ、怖いの、苦手なんですけど……」
入り口の前で、紗江が、すでに腰が引けている。
「大丈夫、一緒にいるから」
悠の言葉に、紗江は、覚悟を決めたように頷いた。
薄暗い館内は、不気味な効果音と時折現れる仕掛けに満ちていた。紗江は、悠の服の裾をぎゅっと掴みながら歩いた。曲がり角から人形が飛び出すたびに、小さな悲鳴を上げながらも、どこか楽しそうな様子も見え隠れしている。
「せ、先輩、手、繋いでもいいですか……」 「うん、いいよ」
紗江は、おずおずと差し出した手を、悠の手に重ねた。それだけで、心細さが、少し和らぐ気がした。
途中、床がガタガタと揺れる仕掛けがあり、紗江は思わず、悠の腕にしがみついた。
「ひゃっ……!」 「大丈夫、ただの仕掛けだよ」
悠が、落ち着いた声でなだめると、紗江はようやく強張った肩の力を抜いた。それでも、しばらくは腕を離そうとしなかった。
通路の途中、一際大きな鏡が壁一面に設置された一角に差しかかった。
薄明かりに照らされた鏡に、二人の姿が揺らめくように映り込む。悠はふと、その鏡に違和感を覚えて、足を止めた。
鏡の中、悠のすぐ後ろに見覚えのある影が立っていた。
兜を被り、剣を携えた、荘厳な姿。青白い光を纏い、静かに悠の背後に佇んでいる。かつて幾度となく力を借りた、あの存在。
心臓が、ひやりとした。見間違いだろうか。瞬きをする間に、その姿は、すでに鏡から消えていた。
ーーイザナギ?
思わず漏れた呟きに、紗江が、振り返った。
「え、何ですか?」
紗江が、鏡を覗き込んだ瞬間、彼女の顔から、さっと血の気が引いた。
「ひ、ひいっ……!」
鏡の中に映る、見知らぬ巨大な影。紗江は、悲鳴にならない悲鳴を上げて、くるりと踵を返すと、一目散に走り出した。
「あ、待って、中多さん!」
悠は、慌てて彼女のあとを追いかけた。
薄暗い通路を抜け、出口の光が見えたところで、ようやく紗江に追いつく。息を切らした紗江は、外の光の下で、ようやく立ち止まった。繋いでいたはずの手は、いつの間にか離れてしまっていた。
「ご、ごめん。驚かせて」
悠が、申し訳なさそうに謝ると、紗江は、肩で息をしながら、不思議そうに悠を見上げた。
「どうして、先輩が、謝るんですか?」
その問いに、悠は、答えに詰まった。鏡に映っていたものの正体を、どう説明すればいいのか、分からなかった。
「……いや、何でもない。ただのお化け屋敷の仕掛けだよ」
曖昧に誤魔化しながら、悠は紗江の背中を、そっと支えた。
お化け屋敷を出たあと、二人は売店でアイスクリームを買って、近くのベンチで一息ついた。
「お化け屋敷、思ったより本格的でしたね」
「うん。僕も、少し驚いた」
紗江は、まだ少し名残惜しそうに胸に手を当てていた。けれど、その顔にはどこか満足げな笑みも浮かんでいる。アイスを食べ終える頃には、すっかり気持ちも落ち着いていた。
夕方になる頃、二人は、遊園地全体を見渡せる高台にたどり着いていた。
オレンジ色に染まる空の下、観覧車やアトラクションの明かりが、ひとつずつ灯り始めている。吹き抜ける風が、少しずつ冷たさを増していた。
「今日は、楽しかったです」
紗江が、しみじみと呟いた。
「僕も、楽しかったよ。クマには、ちょっと振り回されたけど」
二人は、顔を見合わせて小さく笑った。紗江は、鞄につけたクマのキーホルダーを指先でそっと撫でた。
「これ、大事にしますね」 「クマも、喜ぶと思うよ」
手紙から始まった、ぎこちない関係。それが今では、こうして自然に笑い合えるようになっている。
「思えば、随分遠くまで来たね」
悠が、しみじみと言った。
「最初は、手紙だけだったのに。今は、こうして、普通に話せる関係になった」
その言葉に、紗江の胸が、きゅっと締めつけられた。
「……もっと、進みたいです」
小さな声で、紗江は言った。
「進む、って?」
悠が、不思議そうに尋ねる。紗江の心臓が、激しく鼓動を打った。今なら言えるかもしれない。その一歩先の言葉が、喉元まで出かかった。手のひらにじんわりと汗がにじむ。
だが、いざとなるとやはり、言葉にするのが怖かった。
「あの……先輩。苗字じゃなくて、名前で呼んでほしいです」
ぎりぎりのところで、紗江は別の言葉を口にした。
「紗江、でいいの?」 「は、はい!」
「……ああ、わかった」
あっさりと了承した悠に紗江の心臓が、また大きく跳ねた。悠は、その呼び方の裏にある紗江の気持ちにはまるで気づいていない様子だった。
「じゃあ、これからは、紗江って呼ぶよ」
「は、はい……! よろしくお願いします!」
悠は、ふと、紗江の鞄で揺れるクマのキーホルダーに目を留めて小さく笑った。
「そのキーホルダー、本当に気に入ったみたいだね」 「はい! 大事な、思い出なので」
小さな変化だったけれど、紗江にとっては、確かな一歩だった。
駅前で二人は別れた。
「今日は、ありがとう。楽しかったよ」 「わたしも、楽しかったです」
悠は、少し考えるように視線を泳がせてから付け加えた。
「また、こうして、出かけられたらいいね」 「は、はい! ぜひ……!」
手を振り合って、それぞれの帰り道へと向かう。
夜道を歩きながら、紗江は小さく息を吐いた。本当は、もっと伝えたいことがあった。言えなかった言葉が、胸の奥に、まだ引っかかっている。それでも、今日一日の記憶が、温かく胸を満たしていた。
それでも、不思議と悔しさはなかった。
「紗江、か」
口の中で、その響きを何度も繰り返してみる。たったそれだけのことなのに、確かにひとつ、距離が縮まったような気がした。
「また、一歩、進めたかな」
夜空を見上げながら、紗江は小さく笑った。今日という日の思い出を、大切に抱きしめるようにして紗江は家路を急いだ。
続
イザナギが出たからといっても紗江編ではそこまで出る事はないです
次進める√は?
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森島√
-
棚町√
-
桜井√
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七咲√
-
絢辻√