十六話 「君じゃないと駄目だ」
翌朝、教室に入ってきた紗江を見るなり、美也が目を丸くした。
「紗江ちゃん。その指……!」
包帯が巻かれた右手の人差し指を見て、逢も心配そうに駆け寄ってくる。朝の教室に、ざわめきとは違う、静かな緊張が走った。
「どうしたの、それ」
紗江は、少し言いにくそうに視線を泳がせた。
「えっと……昨日、部活で、包丁を使ってて……」
紗江は、ぽつぽつと昨日の出来事を話し始めた。たこ焼きの具材を刻んでいて、指を切ってしまったこと。すぐに手当てはしてもらえたこと。けれど、しばらく手作業ができない状態になってしまったこと。
淡々と語る紗江の声は、心なしかいつもより小さかった。美也と逢は、黙って、最後まで話を聞いてくれた。
「大変だったね……」
「痛かったでしょ」
逢の優しい言葉に、紗江は小さく頷いた。だが、俯いた顔からは次第に、違う感情が滲み出てきた。
「二人にも、迷惑、かけちゃって……。それに」
言葉が、途切れる。
「それに?」
美也が、そっと促す。紗江は、しばらく黙り込んだあと消え入りそうな声で続けた。
「鳴上先輩、わたしのこと、呆れてないかな……。せっかく手伝ってくれてたのに、こんなことになって」
目に、うっすらと涙が浮かんだ。
「手紙から始まって、ようやく、ここまで来れたのに。このまま淡い思い出で、終わっちゃうのかなって」
「そんなこと、絶対ないよ!」
美也が、強い口調で、きっぱりと言い切った。
「鳴上先輩が、そんなことで呆れるような人だったら、最初から、あんなに紗江ちゃんのこと、心配したりしないでしょ」
美也は、腕を組んで、断言するように続けた。
「紗江ちゃんが落ち込んでる方が、きっと先輩だって悲しいと思うよ」
逢も、紗江の肩に手を置いて、 力強く頷いた。その手のひらから伝わる温かさに紗江は、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
「紗江は、何も悪くない。それにあの人たちなら、 きっと、ちゃんと分かってくれてるよ」
二人の言葉に、紗江は何度も瞬きをしながら涙を堪えた。
「学校生活は、別に困ってないんだけど……学園祭の出し物のほうは、わたし、本当に、何もできなくなっちゃって」
「それでも、紗江にしかできないことも、きっとあるよ」
逢の言葉に、紗江は、小さく頷いた。盛りつけや味見なら、片手でもできないことはない。そう思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
「うん……ありがとう、二人とも。少し元気出た」
美也と逢の温かさに、紗江の胸の中に少しずつ、勇気が戻ってきているようだった。
* * *
同じ頃、三年A組の教室では、はるかが授業中もどこか上の空だった。
黒板の文字も、先生の声も、どこか遠く感じられた。教科書のページを、ぼんやりと眺めながらも、頭の中ではずっと、昨日の出来事が渦巻いている。人手不足、紗江の怪我そして、あの出し物の行方。
響に、心配そうに覗き込まれたことにも、ほとんど気づかないほどだった。
放課後を告げるチャイムが鳴ると同時に、はるかは、教室の外に目をやった。
廊下の向こうから、悠がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「鳴上君!」
はるかは、席を立つなり、教室を飛び出した。
息を切らしながら駆け寄るはるかに、周囲の生徒たちが、何事かと振り返った。
「どうだった!?」
勢いよく詰め寄るはるかに、悠は少し気圧されながらも答えた。
「何とか、人を集められそうです」
その瞬間、はるかの顔が、ぱっと輝いた。
「本当に!?」
喜びのあまり、はるかは思わず悠に抱きついた。
周囲で見ていたクラスメイトたちから、どよめきが上がる。
「え、森島さん、今……」
「鳴上君って、二年の……」
ひそひそと囁き合う声に、当のはるかはまるで気づいていなかった。
「い、痛いです、先輩」
悠が、申し訳なさそうに言うと、はるかはようやく我に返ったように、慌てて体を離した。
「あ、ご、ごめん」
少し気まずそうに、はるかは咳払いをひとつした。教室の方を振り返ると、響が、呆れたようなそれでいて微笑ましそうな表情で、こちらを見ていた。
「響、ちょっと、部活行ってくる」
「うん、分かった」
響は、軽く手を振りながら小さく付け加えた。
「お似合いとは言わないけど、仲良しなのはよく分かったよ」
からかうような響の声にはるかは、むっとしたように振り返った。
「な、何よ、それ」
「別に。頑張ってね、出し物」
軽やかに笑う響に、それ以上言い返す言葉も見つからず、はるかは、頬を赤らめながら、悠を引っ張るようにして、部室へと急いだ。
* * *
部室に着くと、悠は、改めて事情を説明した。
「集めた人数分、全員が来られるのは当日の、かなりギリギリの時間になりそうです」
「ギリギリ、かぁ」
はるかは、少し考え込んだ。けれど、他に打つ手がない以上、その条件を受け入れるしかなかった。
はるかは、少しの間、天井を見上げて考えていたが、やがて、小さく頷いた。
「分かった。それでも、助かるよ。ありがとう、鳴上君」
「いえ。できる準備は、今のうちに、進めておきましょう」
二人は、さっそく、仕込みの続きに取りかかろうとした。だが、ふと、はるかが、辺りを見回して、首を傾げた。
「そういえば、紗江、まだ来てないね」
その言葉に、悠の表情が、わずかに曇った。
「……確かに」
時計を見ると、いつもなら、とっくに紗江が来ている時間だった。指の怪我のことを思い出し、悠の中に、じわじわと不安が広がっていく。
「ちょっと、様子、見てきます」
「うん。いってらっしゃい」
はるかは、悠の表情から、何かを察したように、あっさりと送り出した。
* * *
一年A組の教室に行ってみたが、紗江の姿はなかった。
教室に残っていた美也に声をかけると、彼女は、少し困ったような顔をした。
「紗江なら、さっき、ふらっと教室、出ていっちゃって」
「どこに行ったか、分かる?」
美也は、少し考えてから、答えた。眉を寄せて、心配そうな表情を浮かべている。
「……もしかしたら、屋上かも。あの子、考え事するとき、よくあそこに行くから」
「ありがとう」
「先輩……紗江のこと、お願いします」
美也の真剣な一言に、悠は、しっかりと頷いた。
礼を言って、悠は、すぐに屋上へと向かった。
* * *
屋上の扉を開けると、フェンスの前に、紗江の姿があった。冷たい風に吹かれながら、ぼんやりと、遠くの空を見つめている。
「中多さん」
声をかけると、紗江は、はっとしたように振り返った。その顔には、申し訳なさが、色濃く浮かんでいた。
「先輩……」
「探したよ。部室に、来てないから」
紗江は、指先の包帯を、無意識になぞっていた。
「ごめんなさい。その……行かなきゃとは思ってたんですけど」
紗江は、言葉を選ぶように、しばらく黙り込んだ。風が、二人の間を、静かに吹き抜けていった。
「怪我のこと、まだ気にしてる?」
その問いに、紗江は、小さく頷いた。
「迷惑ばっかり、かけてしまって。学園祭の準備も、ほとんど、お手伝いできなくなっちゃって……。それに」
言葉が、また途切れる。
「それに?」
悠が優しく促すと、紗江は、消え入りそうな声で続けた。
「先輩に、呆れられたんじゃないかって思ってしまって……。それが、怖くて」
声が、震えていた。言ってしまってから、紗江は自分の弱さを見せてしまったことに、少し後悔した。
その告白に、悠は少し驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと、紗江の隣に歩み寄った。
「そんなこと、思ったことないよ」
「でも……」
「怪我は、誰にでもあることだから。中多さんのせいじゃない」
悠の声は、どこまでも穏やかだった。それでも、紗江の表情は、まだ晴れなかった。
「わたし、何もできなくて……。はるか先輩と、先輩に負担ばかりかけて」
「負担だなんて、思ってないよ」
悠は、フェンスにもたれて、紗江と同じ高さに目線を合わせた。
「はるか先輩だって中多さんのこと、何も責めてなかっただろう?」
「それは、そうですけど……」
「怪我をしたこと自体は、仕方のないことだよ。それよりちゃんと休んで、治すことの方が、大事だと思う」
紗江は、俯いたまま、小さく首を振った。
「でも、わたし、一度決めたことなのに、途中で、投げ出してるみたいで……」
「投げ出してなんて、いないよ」
悠の声は、どこまでも穏やかだった。
「怪我をしたのは、君のせいじゃない。それに、ここで一人で抱え込んでいる方が、俺は、よっぽど心配だ」
その言葉に、紗江は、ようやく、少しだけ顔を上げた。
悠は、紗江の目をまっすぐに見つめた。
「むしろ、中多さんに、どうしてもやってほしいことがあるんだ」
「え……?」
悠は、少し言葉を探すように、間を置いた。
「学園祭の出し物のこと。人手は、何とか集められそうなんだ。でも、接客も調理も、ただ人数を揃えればいいってものじゃない」
悠は、一度、言葉を区切ってから、続けた。
「お客さんが喜んでくれる味を、丁寧に作れる人。それができるのは、中多さんなんだ」
紗江は、目を見開いたまま、悠の言葉を聞いていた。
「でも、わたし、手が……」
「手伝えることは、きっとあるんだ。中多さんが考えたメニュー俺はちゃんと最後まで形にしたいんだ。それに」
悠は、少し照れくさそうに、続けた。
「君が、隣にいてくれるだけで、僕は、頑張れる気がするんだ」
その言葉に、紗江の瞳から、涙が、ぽろりとこぼれた。
「でも……こんな、迷惑ばっかりかけるわたしで、本当に、いいんですか……?」
震える声で、紗江は、それでも、まっすぐに悠を見つめた。
悠は、少しの迷いもなく、はっきりと答えた。
「君じゃないと、駄目なんだ」
その一言が、紗江の胸に、まっすぐ届いた。飾り気のない、まっすぐな声だった。
震えていた肩が、少しずつ落ち着いていく。涙を拭いながら紗江は、小さく、けれど確かに頷いた。胸の奥に渦巻いていた不安が少しずつ、溶けていくのが分かった。
「……はい、私でよければ、頑張ります」
真っ直ぐな瞳で、紗江ははっきりとそう言った。
その表情を見て、悠はようやく、心からの笑みを浮かべることができた。ずっと胸の内にあった不安が、嘘のように晴れていくのを感じる。
「うん。一緒に、頑張ろう」
夕暮れには、まだ早い午後の光が、屋上を柔らかく照らしていた。二人は、顔を見合わせて、それから、連れ立って、家庭科部の部室へと戻っていった。
続
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