もしも鳴上悠が輝日東高校に転校したら   作:アザトゥース

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第二話

 

第二話 「下駄箱の便り」

 

翌朝、悠が自分の下駄箱を開けると、上履きの上に、淡い水色の封筒が一通、ちょこんと載っていた。

宛名はない。けれど裏返すと、丸みのある丁寧な字で、小さく名前が書かれている。

 

『中多紗江』

 

周囲を見回し、誰にも見られていないことを確かめてから、悠は封筒をそっと鞄にしまった。昇降口の喧騒が、少しだけ遠く聞こえた。午前中の授業は、板書を写しながらも、鞄の中の封筒が気になって仕方がなかった。

読んだのは昼休み、屋上でのことだった。冷たい風の中で封を切ると、同じ水色の便箋が二枚、きれいに折りたたまれて入っている。

 

『鳴上先輩へ

 

昨日は、助けていただいて、本当にありがとうございました。直接お礼を言おうとすると、頭が真っ白になってしまうので、お手紙にすることにしました。変なお願いをしてすみません。

先輩が来てくださったとき、わたしは怖くて、ずっと動けませんでした。でも、先輩の声を聞いたら、不思議と足の震えが止まったんです。あの声を、きっとずっと忘れないと思います。

もしご迷惑でなければ、お返事をいただけたら嬉しいです。お返事は、一年A組の下駄箱に入れていただければ大丈夫です。

 

中多紗江』

 

 

 

読み終えても、悠はしばらく便箋を見つめていた。文字の端々に、何度も書き直したらしい跡が透けている。消しゴムのかすれ、ほんの少し歪んだ行。それがなんだか、とても愛おしく思えた。

 

「返事、か……」

 

 

空を見上げて、悠は小さく笑った。

その夜、悠は机に向かい、三度、便箋を書き損じた。ラブレターでもあるまいし。と思うのにどうにも言葉が選べない。結局、飾らないことにした。

 

『中多さんへ

手紙、ありがとう。読んでいて、とても温かい気持ちになったよ。お礼を言われるようなことはしていないよ。困っている人がいたら手を差し伸べるのは、当たり前のことだから。

でも、声を聞いたら震えが止まった、と書いてくれたのは、素直に嬉しかったです。

ところで、中多さんは好きな食べ物はありますか?うちのクラスでは、僕が料理をするという話が広まってしまったので、今度何か作ってみようかと思っています。

 

鳴上悠』

 

 

「うーん……これでいいかな」

 

封をしてから、最後の一文が余計だったかもしれないと思い直した。けれど、書き直すのも野暮な気がして、そのまま鞄に入れた。

 

翌朝、悠はいつもより三十分早く家を出た。

一年A組の下駄箱の前に立つのは、少し緊張した。「中多」と書かれた名札を見つけ、周囲に人影がないのを確かめて、水色ではなく白い封筒を、そっと差し入れる。

早朝の昇降口は静かで、自分の靴音だけがやけに大きく響いた。

 

――これで、いいんだよな?

自分でもよく分からない鼓動を抱えたまま、悠は足早にその場を離れた。

その少し後、登校してきた紗江は、いつものように下駄箱を開けて、ぴたりと動きを止めた。

上履きの上に、白い封筒が載っている。

心臓が、大きく跳ねた。

慌てて封筒を胸に抱え込み、紗江は誰にも見られないよう、廊下の隅に駆け込んだ。指先が震えてうまく封が切れない。ようやく開くと、まっすぐな、少し角張った字が並んでいた。

 

「……先輩の、字だ」

 

小さく呟いた声は、自分でも驚くほど弾んでいた。読み終えたとき、紗江は頬を両手で押さえていた。顔が熱くて、しばらく教室に戻れなかった。

その日から、二人の手紙のやり取りが始まった。

紗江の手紙には、小さな出来事が綴られていた。好きな食べ物は牛乳と甘いもの。毎朝の通学路で見かける、日向ぼっこをする猫のこと。昨日の夕焼けが、あんまりきれいだったこと。

夜、自室の机で、紗江は便箋を前に唸っていた。書いては消し、消しては書く。最後の一行だけが、どうしても決まらない。

 

「……おやすみなさい、って書いたら、変かな」

 

結局そのまま書き、慌てて上から消しゴムをかけ、また書き直した。机の隅には、悠から届いた返事が丁寧に重ねて置いてある。角がそろうように何度も整え直しては、紗江はそれを、大切そうに眺めた。

悠の返事はいつも短くて、飾り気がなくて、でもどこかおかしかった。猫に名前をつけるなら何がいいか、真剣に三行使って考えてくれたり、牛乳に合うお菓子の作り方を、ご丁寧に書いてくれたりした。

 

ある日の手紙にはこんな質問が添えられていた。

 

『先輩は、前はどんな町に住んでいたんですか。』

 

悠は少し考えてから、返事を書いた。

『のどかで霧の多い町だったな。商店街の美味しいお惣菜を食べたり、きれいな河原で釣りとかもたまにしてたかな』と、少し大きめの字で書かれていた。その端には、丸い猫の落書きがちょこんと添えられている。悠はそれを見つけて、思わず目を細めた。

朝の下駄箱を開ける瞬間が悠は少しずつ楽しみになっていた。封筒があるだけで、その日の空気がほんの少し明るく見える。一日の終わりには返事を考えながら帰る道すがらが心地よかった。

 

「最近、機嫌いいな、鳴上」

 

梅原にそう言われて、悠は首を傾げた。

「そうか?」

「そうだよ。なんかこう、雰囲気が柔らかいっていうかさ」

 

悠は、自分の口元が緩んでいたことに、そこで初めて気がついた。

その夜、悠は久しぶりにお菓子を焼くことにした。

 

「久しぶりに作るな…」

 

小麦粉とバターを量りながら、星形の抜き型がまだ荷物の底に残っていたことを思い出す。誰かのために何かを作るのは、やっぱり嫌いじゃない。オーブンの前で焼き上がりを待つ時間が、妙に楽しかった。

 

一方の紗江は、日を追うごとに落ち着きをなくしていた。

最初のうちは、休み時間まで我慢していた。次に朝のホームルームの前に読むようになった。けれど、三日目、四日目と重なるうちに、下駄箱から抱えてきた封筒が、鞄の中で存在感を放つようになった。

――読みたい。今すぐ、読みたい。

数学の授業中、ノートの上に置いた指が、無意識に鞄のファスナーへ伸びる。先生が黒板に向かった一瞬の隙に、紗江は机の下で、そっと封を切った。

 

『中多さんへ。今日の弁当には卵焼きを入れてみた。少し甘めに作ったので、もしかしたら好みかもしれないな」

 

たったそれだけの一文なのに、頬が勝手に緩む。

 

「……紗江」

 

隣の席から、七咲逢が、声を潜めて囁いた。

 

「それ、授業中だよ」

「っ……!」

 

紗江は慌てて便箋を隠し真っ赤になって俯いた。逢は呆れたように、けれどどこか優しい目で小さくため息をつく。

 

「先生に見つかっても知らないからね」

「ご、ごめん……でも、その、我慢、できなくて……」

 

蚊の鳴くような声で白状する紗江に、逢は「はいはい」と苦笑した。その直後、「中多、この問題を解いてみなさい」と、先生の声が飛んできた。紗江は飛び上がりそうになりながら立ち上がり震える声で黒板の式を読み上げた。幸い答えは合っていて、先生は「よろしい」と頷いたが、席に座った紗江の心臓はしばらく早鐘を打ったままだった。

 

「ほら、言ったでしょ?」

逢が小声で笑った。

その日の放課後、紗江はいつもより長い手紙を書いた。

『鳴上先輩へ。実は、先輩のお手紙が待ちきれなくて、授業中に読んでしまいました。友達に見つかってしまいました。悪い後輩で、ごめんなさい。』

翌朝、悠はその手紙を屋上で読んだ。読み終えて思わず吹き出してしまった。笑い声が冬の澄んだ空に溶けていく。

 

『中多さんへ。授業中に読むのは、あまり感心しないな。でもそこまで待ちきれなかったと言われると、少し嬉しくなってしまうのは内緒にしておいてください。』

 

書き終えた返事を封に入れながら、悠は思う。返事を考える時間がいつの間にか一日の中で一番静かで、一番楽しい時間になっていた。教室で会えば彼女はきっと真っ赤になってまともに話せないだろう。けれど手紙の中の紗江は、素直で、優しくて…ときどきびっくりするほど正直で。

どちらの彼女も、悠にとっては同じくらい大切な存在になりつつあった。

その週の金曜日。紗江が下駄箱を開けると、白い封筒の隣に、小さな紙袋が入っていた。

中には、星形のクッキーが五枚。添えられたメモには、たった一行だけ。

 

『牛乳に合うと思って。どうぞ食べてみて下さい』

 

紗江は、その場で立ち尽くしてしまった。

昼休み、中庭のベンチで一枚だけかじってみる。ほんのり甘くて、バターの香りがして口の中でほどけるように崩れた。

 

「……おいしい」

 

思わず零れた声に、隣で弁当を食べていた逢が顔を上げた。

 

「紗江、すごく幸せそうな顔してる」

「え、えっと、これは、その……」

 

慌てて袋を隠そうとして紗江は結局、正直に一枚を差し出した。

 

「はい。逢ちゃんにも、一枚だけ」

 

「いいの? ……あ、おいしい。誰が作ったの?」

 

「それは……ひみつ」

 

紗江は、ほんの少しだけ得意げに笑った。

その日の放課後。昇降口でばったり顔を合わせた二人は、同時に足を止めた。

 

「あ……」

 

「やっ、中多さん」

 

紗江は、耳まで赤くなって、深々と頭を下げた。口を開いて何か言おうとして、けれど喉の奥で言葉がほどけてしまう。手紙の中ではあんなに話せるのに、どうして目の前だとこうなのだろう。頭の中ではいくらでも言葉が浮かぶのに、結局何も言えなかった。悠は、ただ静かに微笑んで、軽く会釈を返す。すれ違いざま、紗江の鞄から小さく折りたたまれた便箋の端が覗いていた。悠はそれに気づいたけれど、何も言わなかった。

 

 

昇降口を出ると、夕焼けが港の向こうまで真っ赤に染まっていた。悠は立ち止まりその景色を目に焼きつける。手紙に書こうと思った。今日の夕焼けが、あんまりきれいだったことを。

明日の朝もきっと、下駄箱に水色の封筒が待っている。

そう思うだけで冬の風さえ、少しだけ温かく感じられた。

 

続

 

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