七羽町の恋文
第三話 「探偵ミヤの尾行」
「紗江ちゃん、最近ぜったい変だよ」
昼休みの中庭。ベンチに並んで座った橘美也は、ストローをくわえたまま、隣の紗江をじーっと見つめた。
「へ、変って……?」
「変だよ。朝は誰よりも早く登校するし、下駄箱の前でこそこそしてるし、授業中はノートより鞄の中を見てるし」
「そ、それは……!」
「しかもさっき、牛乳飲みながらニヤニヤしてたよ」 「し、してないよ!」
紗江は真っ赤になって首を振ったが、ニヤニヤの件は否定しきれなかった。隣で弁当を食べていた七咲逢が、堪えきれずに小さく吹き出す。
「逢ちゃんまで……!」
「ごめん。でも、美也の言うとおりだと思う。最近の紗江、ずっと嬉しそうだから」 「ほら、逢ちゃんも言ってるよ!」
美也は身を乗り出した。くりくりとした大きな目が、好奇心できらきら光っている。
「白状して! 何があったのか、全部!」
「な、何もないよ……」
「うそ。あたしの探偵の勘が言ってる。これは、恋の匂いだよ!」
「こ、こい……!?」
紗江の顔から、ぼんっと湯気が出そうだった。手の中の牛乳パックが、ぺしゃりと潰れる。
「あ、あああ、あの、それは、その……!」
「紗江」
逢が静かに名前を呼んだ。責める調子ではなく、ただ見守るような声だった。紗江は潰れたパックを見つめたまま、しばらく唇を噛んでいたが、やがて観念したように、蚊の鳴くような声で言った。
「……気になる、人が、います」
「きゃーっ!」
美也が両手を頬に当てて飛び上がった。逢は「やっぱり」と小さく頷く。
「誰誰誰!? 同じクラス?」
「ううん……」
「じゃあ、他のクラス?」
「ううん……」
「じゃあ、先輩?」
紗江は、両手で顔を覆ったまま、こくりと頷いた。
「もしかして、この前転校してきた——」
「あ、逢ちゃん……!」 「あ、ごめん」
慌てて口を押さえた逢の言葉を、美也が聞き逃すはずもなかった。
「二年の転校生!? 名前は? 名前は何ていうの!?」
しばらくの沈黙のあと、紗江は指の隙間から、消え入りそうな声で答えた。
「……鳴上、悠、先輩」
「なるかみ、ゆう」
美也はその名前を、噛みしめるように繰り返した。そして、ぴたりと動きを止めたかと思うと、ぐっと拳を握りしめる。
「決めた」
「え?」
「あたしが、その人がどんな人か、確かめてくる!」
「や、やめて美也ちゃん! お願いだから、そっとしておいて……!」
「だめ。紗江は世界一いい子なんだから、変な人に引っかかったら大変でしょ。この探偵ミヤが、しっかり偵察してあげる!」 「やめなよ、美也……」
逢のため息も、今の美也にはまったく届かなかった。
翌日、探偵ミヤの尾行は昼休みから始まった。
屋上へ続く階段の踊り場。美也は壁に背中をぴたりとつけ、扉の隙間から、そっと屋上を覗き込む。フェンスのそばで悠がひとり、風に吹かれながら便箋を広げていた。淡い水色の便箋だった。
悠は、ゆっくりと読み進めながらふっと表情を緩めた。それは、教室で見せる穏やかな笑顔とは少し違うもっと素の、柔らかな笑みだった。読み終えると、彼は便箋を丁寧に折りたたんで胸ポケットにしまい、空を見上げる。
「……あの顔、反則だよ!」
美也はこっそり呟いて、慌てて首を振った。
放課後になると二年三組の教室から少し離れた廊下の柱の陰に、ひとりの小柄な影が張りついていた。片手に新聞、もう片手に小さな鏡。新聞で顔を隠しているつもりらしいが、どう見ても目立っている。
「ターゲット、教室にいる……」
美也は小声で呟きながら、そっと鏡を傾けた。鏡の中に、窓際の席で鞄を整える少年の姿が映る。すらりとした立ち姿、落ち着いた横顔…なるほど、確かにただ者ではなさそうな雰囲気だ。
悠の周りには、自然と人が集まっていた。クラスの女子が「鳴上くん、ノート貸して!」と声をかけ、男子が「今日、寄り道しねえか」と肩を叩く。悠はそのひとりひとりに、穏やかな笑みを返している。
「むむ、人気者だ。でも、それだけじゃ分からないな」
やがて、悠が席を立った。美也は慌てて新聞を広げ直し、柱の陰に身を縮める。悠は廊下の反対側へ歩いていったが、途中でふと立ち止まり重そうな荷物を抱えた先生に声をかけた。
「持ちます」 「お、鳴上か。悪いな」
段ボール箱をひょいと受け取り、職員室まで並んで歩いていく。その背中を見送りながら、美也は「ほほう」と目を細めた。
「困ってる人を見たら、迷わず手を出すタイプだね。ポイント、加点」
メモ帳にさらさらと書き込んだところで、美也は悠が階段を降りていくのを見つけて、慌てて追いかけた。
悠は、昇降口に向かった。
美也は、一年生の下駄箱の陰に身を潜める。心臓がどきどきと鳴っていた。探偵ごっこのつもりがどこか本当に悪いことをしているような気もして、少しだけ胸が痛む。それでも、紗江のためだと自分に言い聞かせた。
悠は、一年A組の列の前で足を止めた。
周囲をさっと見回してから、鞄の中から白い封筒を取り出しひとつの下駄箱にそっと差し入れる。名札には「中多」と書かれていた。
「あっ」
思わず声が漏れて、美也は慌てて両手で口を押さえた。悠はほんの一瞬こちらへ視線を向けかけたが、何事もなかったように静かに昇降口を出ていく。
――手紙。
美也はその場に立ち尽くしたまま、閉じられた下駄箱を見つめた。最近、紗江がやたらと鞄を気にしていた理由。授業中に、そっと何かを隠していた理由。全部が、ぱたぱたと音を立てるように、繋がっていく。
「そっか……手紙、だったんだ」
美也は、ぽつりと呟いた。てっきりもっと軽い遊びなのだと思っていた。けれどあの人は、毎日わざわざ早起きして、この場所に立っているのだ。
「……ちょっとだけ、見直した」
小さく笑って、美也はメモ帳に一行書き足した。
その夜、悠は、ずっと誰かに見られているような気配を感じていた。悪意は感じない。むしろ、子猫が物陰からこちらを窺っているような、そんな類のものだ。だが、それが昨日から続いているとなると、さすがに少し気になった。
「……誰だろう」
翌日の放課後、悠はあえていつもと違う道を選んだ。港沿いの、人気のない遊歩道。潮風の中を歩きながらふと足を止める。
足元の石垣の上に、一匹の三毛猫が丸くなっていた。
「こんにちは」
悠はその場にしゃがみ込み、猫と目線を合わせた。猫は片目だけ開けて、悠を見上げる。
「君に名前はあるのかな。……中多さんが、猫に名前をつけたがっていてね。いくつか候補を考えているんだけど、聞いてもらってもいい?」
猫は、あくびをひとつして、また目を閉じた。悠は真剣な顔で頷く。
「そうか、まだ早いか」
少し離れた植え込みの陰で、その様子を眺めていた美也は、口元を両手で押さえたまま、震えていた。
――真剣に、猫と会話してる……!
笑いをこらえているのか、感動しているのか、自分でもよく分からない。ただ、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。紗江が手紙に書いたであろう猫のことを、この人はきちんと覚えていてこうして真面目に考えているのだ。
「探偵ミヤ、任務中に、胸きゅんしちゃだめでしょ…」
小声で自分を戒めた、その瞬間だった。
「そろそろ、出てきてもいいんじゃないか?」
悠が、猫を見つめたまま静かに言った。
「わっ!?」
思わず変な声が出た。植え込みの陰からひょっこり頭が飛び出す。悠がゆっくりと振り返り灰色の瞳が、柔らかく細められた。
「昨日から、ずっと見てたよね」
「ば、ばれてた……!」
がさがさと植え込みから這い出した美也は、両手を突き出して、必死に言い訳を探した。
「ち、違うの! これはその、通りすがりの探偵で、たまたま同じ方向で……!」
「ああ」
悠は否定も肯定もせずただ頷いた。美也が何か言おうとするより早く、悠はごく穏やかに続ける。
「君、一年A組の子だよね。中多さんと、いつも一緒にいる」
「……なんで、知ってるの」
「昼休みに、中庭で見かけたから。牛乳のパックを潰した中多さんの隣で、すごく心配そうな顔をしてた」
美也はぐっと言葉に詰まった。この人は、あの一瞬の光景を、ちゃんと見ていたのだ。
「……あたしは、橘美也。探偵です」
「探偵?」
「はい」
美也の言葉に、直人の事を思い出す。
「橘さん、か。俺は鳴上悠…ってもう俺の事は知ってるのか。調べたいことがあるなら、直接聞いてくれてもいい」
あまりにもまっすぐな言葉に、美也は完全に毒気を抜かれてしまった。悠の足元では、三毛猫がまた、ゆるりとあくびをしている。
「……まだ、調査は終わってませんからっ」
美也はぷいと顔を背けて、ぼそりと言った。
「でも、もうちょっとだけ、見てから決めてあげます」
「ああ、よろしく」
悠は穏やかに微笑んだ。海鳥の声が、夕暮れの空に遠く響いている。美也は逃げるように走り出した。角を曲がる直前、ちらりと振り返る。悠は、まだ猫の隣にしゃがんでいた。
悪い人じゃ、なさそう。
そう思ってしまった自分がなんだか少し悔しくて。美也は鞄からメモ帳を取り出して、大きく丸をつける。
翌朝、紗江が教室に入ると美也が机に頬杖をついてにやにやしていた。
「調査の途中経過を報告します」
「ほ、ほんとに続けてるの……!?」
「今のところ、悪い人じゃなさそう。荷物は持つし、猫とも話すし」
「猫と……?」 「ううん、こっちの話」
美也は、ふっと真面目な顔になった。
「でも、紗江。もし嫌なことがあったら、ちゃんとあたしに言ってね。ぜったい、味方するから」
紗江は少し驚いてから、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん。ありがとう、美也ちゃん」
その手の中には、今朝も届いた白い封筒が、大切そうに握られていた。
探偵ミヤの調査は、まだ始まったばかりだった。
続
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