第四話 「グラウンドの視線」
三時間目、一年A組は担当の先生が急な出張で自習になった。
「逢ちゃん、今から調査に行こう!」
美也が机から身を乗り出して、小声で言った。逢は教科書から顔を上げもせずに答える。
「行かない」
「二年生、いま体育だって。ターゲットの運動神経、チェックできるチャンスだよ」
「行かない。というか、それはもう調査じゃなくて、ただの覗きでしょ?」
そう言いながらも、十分後、逢は校庭の隅にある体育倉庫の陰で、美也と並んでしゃがみ込んでいた。廊下を忍び足で抜け、下駄箱でこっそり靴を履き替え、見回りの先生をやり過ごして、ここまで来たのだ。自習中の一年生が校庭にいるなんて、見つかったら間違いなく叱られる。
「……私は、紗江が心配なだけだから」
「うんうん、分かってる分かってる」
にやにやと頷く美也の隣で、逢は自分に言い訳するように続けた。
「あの子、人一倍怖がりでしょ。前に、男の人に声をかけられて固まってたのを見たことがあるの。だから変な人だったらって思うと、放っておけなくて」
「だよね。あたしもそう。だからちゃんと見極めないと」
そういえば、と美也は教室を出るときのことを思い出した。紗江の席は空だった。お手洗いに行ったのだろうと思って気にも留めなかったが。
校庭では、二年三組の男子がサッカーの試合をしていた。土の匂いと、冬の澄んだ空気。その中で、ひときわ目を引く動きをしている少年がいる。
鳴上悠だった。
「あ、いた。……あれ?」
美也が思わず目を丸くする。
悠は、走っていた。軽やかに、少しも無駄のない動きで。相手のディフェンスが二人がかりで寄せてきても、まるでその動きが見えているかのように、ふわりと身体をひねってかわしていく。
「鳴上、こっちだ!」
梅原が手を挙げて叫んだ。悠は視線を上げず、足元のボールを、鮮やかなヒールパスで送り出す。
「うそ……今、見ないで蹴った」
「うん…フォームがすごく綺麗」
逢が、水泳部らしい目つきで呟いた。
「重心の移動が全然ぶれてない。体幹がしっかりしてるんだと思う。相当きたえてるよ、あれ」
「勉強もできそうだし、料理もできるし、運動もできるなんて、ずるくない?」
「ずるいね」
美也はメモ帳を取り出して、さらさらと書き込んだ。
『運動神経:S。周囲への気配り:S。ただし、ずるい:S』
「最後の項目は、評価に入れちゃだめでしょ」
逢が横から覗き込んで突っ込む。
二人がひそひそと話している間にも、試合は続いていた。相手チームが必死に食らいつくが、悠は焦る様子もなく、ゲームを静かに組み立てていく。味方が動きやすいように、ほんの少し前へ出てほんの少し後ろへ下がる。まるで、全員の呼吸が見えているようだった。
相手の選手が勢いよくスライディングを仕掛けたときも、悠はボールを跨ぐようにひょいと跳んでかわし、着地と同時に次の一歩を踏み出していた。土煙の中を、風のように抜けていく。
「あの人、たぶん、周りのことがよく見えてるんだ」
「あー…なんかそういうの、ちょっと分かるかも」
ボールが再び悠の足元へ戻ってきた。ゴール前。悠は迷いなく足を振り抜いた。ネットが大きく揺れた。
校庭に歓声が上がる。悠は小さく息を吐いて、汗を軽く拭った。何でもないことのように、静かに笑っている。
校庭の脇で見学していた二年の女子たちが、「鳴上くん、かっこいい!」と黄色い声を上げた。悠は困ったように、ちらりとそちらへ会釈を返す。梅原が「モテるなあ、お前」と笑いながら背中を叩いた。
「……すごい」
「うん、すごいね」
その直後だった。
「……ねえ、逢ちゃん。あれ、紗江じゃない?」
美也の指差した先、校庭を囲むフェンスのすぐ近くに、見覚えのある長い髪の少女が立っていた。
紗江だった。
「自習、抜け出してきたの?」
「私たち以外にも……?」
二人が呆気に取られる間にも、紗江は気づく様子がなかった。フェンスに両手を添えて、ぎゅっと握りしめる。頬を赤く染めて、きらきらした目でグラウンドを見つめていた
その胸の内では、さっきからずっと、同じ言葉が繰り返されていた。
――すごい。先輩、走ってる姿も、運動してる姿も、こんなに素敵なんだ。
手紙の中の悠は、短くて、飾り気がなくて、ちょっとおかしい人だった。けれど今目の前で走っている先輩は、まるで別の人みたいで、それなのにやっぱり同じ人だった。周りの人を気遣うように動く仕草は猫にまで真剣に話しかけていた、あの優しさそのままだ。
――どうしよう。心臓の音、聞こえちゃいそう。
けれど、近くで見学していた二年生の女子たちが「鳴上くん、かっこいい!」と声を上げるたびに胸の奥が、ちくりと小さく痛んだ。わたしなんかがここにいて、いいのかな。そんな弱気な考えが、ふと頭をかすめる。
悠がゴールを決めると紗江は、自分でも気づかないうちに、小さく拍手をしていた。それから慌てて、その手を胸元でぎゅっと抱え込む。
「あんなに近くで……」
「私たち、隠れてる意味、なくない?」
逢の呟きに、美也は思わず苦笑した。遠くの物陰で息を潜めている自分たちを、まるで置き去りにするみたいに、紗江はまっすぐ悠だけを見ている。
そのときだった。
悠が、ふとこちらを振り返った。
灰色の瞳が、まっすぐフェンスの方へ向く。紗江が、びくっと肩を跳ねさせた。悠は少しだけ目を細めて、片手を小さく上げた。
紗江は、固まった。
数秒後、彼女は真っ赤になって、 九十度に近い角度で深々とお辞儀をすると、ぱたぱたと校舎の方へ駆け出していった。
校舎の陰まで走ったところで、紗江は立ち止まり、壁に背中を預けた。胸に手を当てると、鼓動が痛いくらいに跳ねている。
「……手、振ってくれた」
小さく呟いた声は、自分でも驚くほど嬉しそうだった。ふと我に返って時計を見ると自習が終わるまであと少し。紗江は慌てて、誰にも見つからないよう教室へ急いだ。
「……今の、見た?」
「見た」
「あの人、絶対、気づいてたよ」
「うん。鳴上先輩、周りをよく見てる」
美也は拳を握りしめた。心臓が、なぜか少しどきどきしていた。
「よーし…もう決めた」
「何を?」
「直接聞く。紗江のこと、ちゃんと聞いてみたい!」
逢は、しばらく美也の顔を見つめてから、小さくため息をついた。それから、ゆっくりと口元を緩める。
「止めても、無駄みたいだね」
「うん」
「じゃあ、私も行く。……紗江の友達として、ちゃんと確かめたいから」
体育の授業が終わったあと、悠は梅原と並んで、水飲み場へ向かっていた。
「なあ鳴上。さっきフェンスのとこにいた子、誰だ?」
「後輩だよ。手紙をくれる、大事な友達」
「へえー、手紙ねえ」
梅原がにやにやと笑う。悠が首を傾げると、梅原は「いや、いい顔してるなと思ってさ」と肩をすくめて、先に教室へ戻っていった。一人になった悠が蛇口をひねったところで、背後から二つの足音が近づいてきた。
水で顔を洗っていた悠の前に、二人の一年生が立った。一人は、以前遊歩道で見かけた、小柄で元気そうな少女。もう一人は背筋のすっと伸びた、落ち着いた雰囲気の少女だった。
美也は、いつもの勢いはどこへやら、握りしめた拳がわずかに震えていた。逢が横から、そっとその背中を押す。
「……どうかしたのかな」
悠が濡れた手をタオルで拭きながら、穏やかに言った。美也がぐっと胸を張る。
「橘美也です。今日の調査も、全部ばれてたんですよね」
「あれだけ熱心に見られていたら、さすがにね」
「……七咲逢です。紗江の友達です」
逢が、一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「宜しく。君とは初めて会ったっけ」
「はい」
「先輩、私たちがどこにいたか、分かってたんですか?」
「体育倉庫の陰だよね。二人分の影が、はみ出してた」
逢が、ぐっと言葉に詰まった。美也は「影……!?」と自分の足元を見下ろして、慌てて首を振る。
「ぜ、全然隠れられてなかったんだ、私たち…」
悠の柔らかな声に、二人は少しだけ肩の力が抜けたようだった。それでも美也はまっすぐ悠の目を見て、きっぱりと言った。
「聞きたいことがあるんです」
「うん」
「鳴上先輩は、紗江のこと、どう思ってるんですか」
逢が静かに言葉を継いだ。
「紗江、すごく真剣なんです。だから、もし軽い気持ちなら、やめてほしい。私、紗江が傷つくところは、見たくないので」
水飲み場の蛇口から、水がぽたりと落ちた。遠くで、休み時間を告げるチャイムが鳴り始める。
悠は、すぐには答えなかった。空を見上げて、少し考えるように目を閉じてからゆっくりと二人に視線を戻す。
その沈黙は、逃げるようなものではなかった。言葉を選んでいる人の、誠実な間だった。逢はそれを感じ取って、そっと息を呑む。
「二人が中多さんのことを、それだけ大事に思っているのは、よく分かった。だから、ちゃんと答えたい」
「……そうだな」
穏やかな声で、悠は言った。
「まず、手紙のことから話そうか」
続
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