第五話 「妹のように」
悠は蛇口を閉めて、タオルで手を拭いた。冬の風が、水飲み場の濡れた地面をさらりと撫でていく。少しだけ間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「最初の手紙が届いたのは、転校して二日目の朝だった」
二人は思わず背筋を伸ばした。
「水色の封筒でね。丸みのある、丁寧な字で書いてあった。何度も書き直したんだろうなって、消しゴムの跡で分かったよ」
悠は、ふっと目を細めた。
「直接話すのは苦手だから手紙にします、って。でも、読んでみたら、すごく朗らかな文章だったんだ。毎朝の通学路で見かける猫のこと、夕焼けがきれいだったこと。些細なことばかりなのに、読んでいると、こっちまで明るい気持ちになる」
悠は、胸ポケットに手をやった。そこには、いつも水色の便箋が一枚、入っている。
「猫の落書きが端っこに描いてあった日があって。それを見つけたときは、思わず笑ってしまったよ。落ち込んでいた日に届いた手紙で、元気をもらったこともある。中多さんは、きっと知らないだろうけど」
「……はい」
逢が、小さく頷く。
「返事を書くと、次の日には必ず、また返事が来る。僕が卵焼きを甘く作ったと書けば、その感想を一生懸命に書いてくれる。どんなに小さなことにも、ちゃんと真心を込めて返してくれるんだ。あんなに誠実な人は、なかなかいないと思う」
美也は、いつのまにか、ごくりと唾を飲み込んでいた。こんなふうに紗江のことを語る人を、初めて見た気がした。これは、もしかして。もしかして――。
「だから、僕は……」
悠は、ほんの少し言い淀んで、照れくさそうに頬をかいた。
「中多さんのことを、妹みたいに思ってるんだ」
「……え?」
「前に住んでいた町に、年の離れた従妹がいてね。素直で、一生懸命なところが、ちょっと似てるんだ。だから、つい大事にしたくなる」
沈黙が落ちた。
美也の肩が、がくりと落ちる。逢は額に手を当てて、ゆっくりと天を仰いだ。ずっこけそうになるのを、必死にこらえているのが分かる。
「い、いもうと……」
「変かな」
「……いえ。変では、ないです。先輩らしい、です」
逢が、やっとの思いで言葉を絞り出した。
――この人、本当に気づいていない。
あれだけ紗江が全力で好意を向けているのに。フェンスにしがみついて、真っ赤になって、九十度のお辞儀をして逃げていったのに。授業中に手紙を読んでしまうほど、待ちきれずにいるのに。
――鳴上先輩は、やっぱり、どこか抜けている。
美也は、力の抜けた笑いを漏らした。
「……分かりました。ありがとうございます。調査は、ひとまず終了です」
「そうか。少しは、安心してもらえたかな」
「はい。ある意味、すごく」
悠が不思議そうに首を傾げる。その仕草がまた、妙に無邪気で、二人はもう一度、深いため息をついた。
「あの、先輩」
美也が、最後の悪あがきのように、恐る恐る口を開いた。
「もし、もしですよ。紗江が、先輩のことを、その、特別に……」
「特別に?」
「……い、いえ! 何でもないです!」
悠は「そうか」と素直に頷いた。美也は、心の中で頭を抱える。これは、想像以上に手ごわい。
「二人みたいな友達がいて、中多さんは幸せだと思う。これからも、そばにいてあげてほしい」
悠のまっすぐな言葉に、逢は返す言葉を見つけられないまま、ただ静かに頭を下げた。
* * *
教室へ戻る廊下で、美也が足を止めた。
「ねえ、逢ちゃん。このこと、紗江には内緒にしよう」
「え?」
「言えないよ、あんなの。紗江、絶対に傷つく。せめて、あの人がちゃんと気づくまで、黙ってたほうがいい」
逢は、すぐには返事をしなかった。美也の言い分は、痛いほど分かる。紗江の落ち込む顔を想像しただけで、胸が締めつけられた。
「……うん。分かった」
そう答えながら、逢の胸の奥には、小さな引っかかりが残っていた。守るための沈黙が、本当に紗江を守ることになるのだろうか。答えの出ないまま、二人は教室の扉を開けた。
* * *
その日の午後、紗江はずっと落ち着かなかった。昼休みに書きかけた手紙は、何度読み返しても、しっくりこない。今日は、先輩に何を書こうか。窓の外を眺めながら、ペンの先で便箋をとんとんと叩いてばかりいた。
放課後の教室は、夕暮れの橙色に染まっていた。
美也は担任に呼ばれて、職員室へ行っている。教室に残った紗江は、鞄に荷物を詰めながら、そわそわと逢を窺っていた。
「あの、逢ちゃん。今日、美也ちゃんと、先輩のところに行ったんだよね……?」
「……うん」
「変なこと、言われなかった? 先輩に」
紗江の不安そうな瞳を、逢はまっすぐ見つめ返した。
黙っていれば、今日は穏やかに終わる。けれど、紗江がいつか知る日は、必ず来る。そのとき、彼女がひとりで受け止めることになるのなら、いまここで隣にいられるほうがいい。逢は、そう思った。水の中でも陸の上でも、向き合うべきものからは目を逸らさない。それが、逢の信じていることだった。
「紗江。今から言うこと、ちゃんと聞いてね」
「う、うん」
「鳴上先輩、紗江の手紙のこと、すごく大事に思ってた。真心のこもった字も、朗らかな文章も、心が温まるって。……それで、紗江のことを」
一拍、置いてから。
「妹みたいに、思ってるって」
紗江の動きが、止まった。
鞄に詰めかけていた筆箱が、手からするりと滑り落ちて、机の上で小さく音を立てた。
「……いもうと」
「うん」
「妹……かぁ」
紗江は、小さく笑おうとした。けれど、唇の端が震えて、うまく笑えなかった。肩がゆっくりと落ちて、視線が机の上に沈んでいく。
「そう、だよね。わたし、先輩の前だと、まともに話せないし。子どもっぽいし。妹みたいに、見えるよね……」
「紗江……ごめん」
「ううん。教えてくれて、ありがとう」
紗江は、机の上の筆箱を拾い上げると、それをぎゅっと胸に抱いた。
「妹みたいって、悲しいはずなのに。……大事にしたいって思ってもらえてたのは、嬉しいって思っちゃったの。変だよね、わたし」
消え入りそうな声だった。逢は、唇を噛んだ。やっぱり言わなければよかっただろうか。そう思いかけたとき、教室の扉ががらりと開いた。
「お待たせ! 先生の話、長くて――」
美也が、教室の空気に気づいて、ぴたりと止まった。
「……え。逢ちゃん、まさか」
「ごめん、美也。私が言った」
「言わないって、約束したのに!」
「うん。ごめん。でも、知らないまま進むより、知ったうえで進むほうが、紗江のためだと思ったの」
美也は唇を尖らせて、言い返す言葉を探した。けれど、うつむいたままの紗江の横顔を見た途端、その言葉は喉の奥でほどけてしまった。約束を破られた悔しさよりも、紗江のことが心配な気持ちのほうが、ずっと大きかった。
「……あたしだって、紗江に悲しい顔、させたくなかったんだよ」
「うん。分かってる」
逢が、静かに頷く。二人は、うつむいたままの紗江に視線を向けた。
教室に、夕暮れの静けさが降りた。遠くの校庭から、部活の掛け声がかすかに届いてくる。かける言葉が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。そのときだった。
がたん、と椅子が大きな音を立てた。
紗江が、勢いよく立ち上がっていた。
うつむいていた顔を、ぐっと上げる。頬は赤く、瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。けれど、その目は、さっきまでとは違う色をしていた。
「……いや」
「え?」
「妹のままなんて、いや」
美也と逢が、同時に目を丸くする。
「このままじゃ、ずっと変わらない。手紙は大好き。先輩のお返事が、毎朝の楽しみで。でも、手紙の中のわたしは、先輩にとって、ただの、手紙をくれる後輩でしかないから」
紗江は、両手をぎゅっと握りしめた。指先が震えている。それでも、言葉は止まらなかった。
「ちゃんと、顔を見て話したい。わたしの声で、伝えたい。先輩が助けてくれたあの日も、ありがとうって、ちゃんと言えなかったから」
紗江は、大きく息を吸った。
「……手紙は、もうおしまいにする。明日から、直接、話しかける」
一瞬の静寂のあと、美也が、ぱっと顔を輝かせた。
「紗江……!」
「無理は、しないでね」
逢が、泣き笑いのような表情で言った。それから、ゆっくりと頷く。
「でも、応援する。私も、美也も」
「うん! 何かあったら、あたしが全力でフォローするから! 作戦会議なら、いつでも開くよ」
「作戦会議……」
「探偵ミヤに任せて」
胸を張る美也に、紗江は思わずくすりと笑った。逢も、つられるように肩の力を抜く。
紗江は、少し驚いたように二人を見て、それから、ふわりと微笑んだ。震えは、まだ止まっていない。けれど、その笑顔は、今日一番、まっすぐだった。
窓の外では、夕焼けが港の向こうまで赤く染まっている。
紗江は鞄の中から、書きかけの水色の便箋を取り出して、しばらく見つめた。それから、そっと折りたたんで、鞄の奥へしまう。
最後の一通になるはずだった手紙は、まだ宛名も書かれていない。それでいい、と紗江は思った。これからは、言葉を紙に預けるのではなく、自分の声で渡すのだ。
――明日、朝いちばんに、先輩に声をかける。
小さな胸の奥で、そう、ちゃんと決めた。
続
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