第六話 「屋上への招待」
夕食を終え、お風呂も済ませた紗江は、自室のベッドに寝転んで、お気に入りの恋愛漫画を開いていた。
「会話の、勉強……」
誰に言うでもなく呟いて、ページをめくる。実際のところ、勉強と呼べるほど計画的なものではなかった。ただ、直接話す練習をしなければ、と思った瞬間に、真っ先に手が伸びたのが、この本だった。物語の主人公は、物静かでふとした瞬間に優しさが滲む男の子だった。クラスメイトに慕われながらも、どこか摑みどころがない。ヒロインの些細な変化にすぐ気づいてさりげなく手を差し伸べる。困っている女の子を助ける場面、雨の日に傘を差し出す場面。何度も読み返して、セリフまで覚えてしまったページだった。
――なんだか、鳴上先輩に似てる。
そう思った瞬間、紗江の中で何かがかちりと嚙み合ってしまった。ページの中の主人公が、ヒロインに向かって静かに微笑みかける。その顔がいつの間にか悠の顔に重なっていた。ヒロインの台詞を、自分がそのまま口にしているような錯覚。頬がかあっと熱くなる。
「な、なな……!」
紗江は本を胸に抱えたまま、ベッドの上でじたばたと転がった。枕に顔をうずめて、足をばたつかせる。しばらくそうしていたがふと動きを止めて、天井を見上げた。
――明日、本当に、話せるのかな。
さっきまでの高揚が、すうっと冷えていくのが分かった。手紙の中でならいくらでも言葉が浮かぶ。けれど、面と向かうと、喉の奥が固まって、何も出てこなくなる。あの路地で助けてもらったときも、お礼のひとつも、ろくに言えなかった。
「……大丈夫。大丈夫、だよね」
自分に言い聞かせるように呟いて、紗江は漫画をそっと閉じ、机の隅に置いた。引き出しから書きかけの便箋を取り出す。今日も一日の出来事を綴ろうとして、けれどペン先はなかなか動かなかった。もし明日直接話せたなら、手紙はもう必要なくなるかもしれない。そう思うと寂しいような、それでいて胸が高鳴るような、不思議な気持ちになる。
結局、便箋は真っ白なまま引き出しの奥にしまわれた。紗江は明かりを消し、布団の中で何度も明日の自分に言い聞かせた。
「大丈夫……ちゃんと、言える」
そうして、なかなか寝つけない夜を過ごした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、悠は少しだけ早足で登校していた。今日はどんな返事が届いているだろうか、と考えるだけで冷たい朝の空気も気にならなかった。下駄箱の前に立ち、上履きを取り出す。だが、そこにあるはずの水色の封筒が、見当たらなかった。
「……ないな」
もう一度中を覗き込む。上履きだけが、ぽつんと収まっている。悠は少し首を傾げた。何かあったのだろうか。体調でも崩しただろうか。そう考えていると、背後から遠慮がちな声がかかった。
「あ、あの……鳴上先輩」
振り返ると、紗江が立っていた。鞄の持ち手を、両手でぎゅっと握りしめている。
「おはよう、中多さん」
「お、おはよう、ございます……!」
紗江は勢いよく頭を下げ、それからはっと何かを思い出したように顔を上げた。頬は、朝の冷たい空気のせいかそれとも別の理由か、ほんのり赤い。
「あの、今日、手紙……ないんです」
「ああ、今気づいたよ。何かあった?」
紗江は、こくりと唾を飲み込んだ。昨夜、何度も頭の中で練習したはずの台詞がいざとなると出てこない。それでも、両手を強く握りしめてなんとか言葉を押し出した。
「か、代わりに……その、放課後、屋上に、来ていただけますか」
言い終えた瞬間、紗江の顔が耳まで真っ赤に染まった。
悠は、少し驚いたように瞬きをした。それから、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「分かった。放課後、屋上だね」
「は、はい……! お願い、します……!」
紗江は、もう一度深く頭を下げると逃げるように昇降口を駆けていった。悠は、その後ろ姿をしばらく見送ってから小さく口元を緩めた。
「今日は手紙じゃなくて、直接…か」
いつもと違う朝の空気に、悠は少しだけ胸が弾むのを感じていた。手紙を待つ朝も好きだったけれど、こうして彼女の声を直接聞けるのも、悪くない。そんなことを思いながら、悠は教室へと足を向けた。
昼休み、一年A組の教室。紗江が机に突っ伏していると、美也が勢いよく駆け寄ってきた。
美也は、紗江の机に両手をついて、興奮を隠しきれない様子だった。
「紗江! 聞いたよ、今朝の!」
「え……?」
「一年の子が見てたんだって! 紗江が鳴上先輩の下駄箱の前で、話しかけてたって!」
紗江は真っ赤になって、両手で顔を覆った。
「み、見られてたの……!?」
「すごいじゃない、紗江」
逢が、優しく微笑みながら隣に座った。
「ちゃんと話しかけられたんだね。よかった」
「わ、わたしも、びっくりした…気づいたら、口が動いてて……」
美也が、興奮した様子で身を乗り出す。
「で、で、何て誘ったの?」
「放課後、屋上に来てほしいって……」
「屋上デートだ!」
美也の叫びに、紗江はますます顔を赤くした。逢が、苦笑しながら小さく咳払いをする。
「それで、屋上で何を話すか、決めてるの?」
紗江の動きが、ぴたりと止まった。
「……あ」
「あ、じゃないでしょ」
美也が、額に手を当てて天を仰いだ。
「ありゃりゃ、気合いだけで誘っちゃったんだ」
「だ、だって……気づいたら、口が勝手に……!」
逢が、小さくため息をついてから、紗江の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。ちゃんと一緒に考えよう」
「う、うん……!」
逢が、紗江の手をそっと握った。
「緊張したら、深呼吸すればいいよ。それだけで、少し落ち着くから」
「深呼吸……うん、やってみる」
紗江は、その場で一度大きく息を吸って、ゆっくり吐き出してみた。心なしか胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。美也が、腕を組んで真剣な顔をする。
「まず、いきなり本題に入ると絶対に紗江ちゃん、テンパるでしょ?だから最初に、この前助けてもらったお礼を、ちゃんと言うところから始めよう」
「お礼……」
「うん。あの日、ちゃんと言えなかったんでしょ?」
紗江はこくりと頷いた。あの路地での出来事を思い出すと、今でも胸がきゅっと締めつけられる。
「それから」逢が続けた。
「手紙をやめたいって、正直に伝えればいいと思う。紗江の気持ちだから、飾らなくていいと思うよ」
「し、正直に……
「うん。紗江ちゃんらしく、でいいの」
美也が、ぐっと拳を握った。
「みゃーたちも、屋上の近くで待機してるから!」
「ええっ、それは……」
「もしものときの、後方支援だよ! 何かあったら、すぐ駆けつける!」
「じゃあ、練習してみよう。みゃーが鳴上先輩ね」
美也は姿勢を正し、わざと低い声を作った。
「やあ、中多さん。今日はどうしたの?」
「え、あ、あの……」
紗江は、たちまち固まってしまった。逢がくすりと笑う。
「本人の前だと、もっと緊張しちゃうんじゃない?」
「そ、そうかも……」
三人で顔を見合わせて、思わず笑いがこぼれた。紗江は、少し困ったように笑ったが二人の言葉に少しずつ肩の力が抜けていくのを感じていた。
「……ありがとう、美也ちゃん、逢ちゃん」
窓の外には、昼下がりの穏やかな日差しが差し込んでいる。放課後まで、あと数時間。紗江は、鞄の中に入れたままの、書きかけの水色の便箋にそっと触れた。指先に、紙の少しざらついた感触が伝わる。この手紙は、もう渡さない。代わりに、今度は自分の声でちゃんと伝えるのだ。
チャイムが鳴り午後の授業が始まる。黒板の文字を写しながらも、紗江の頭の中では屋上での場面が何度も繰り返し再生されていた。お礼を言って、それから手紙のことを伝える。ただそれだけのはずなのに、考えれば考えるほど、心臓が早鐘を打つ。
窓の外の空は、少しずつ雲が流れて、午後の淡い光に変わっていった。
続
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