第七話 「屋上の午後」
放課後、紗江は階段を一段ずつ上っていた。
「大丈夫、大丈夫」
背後から、美也の小声が追いかけてくる。
「あたしたちは下の踊り場で待機してるから。何かあったら、すぐ駆けつけるからね!」
「無理しないで、ゆっくりでいいから」
「うん」
逢の言葉に、紗江はこくりと頷いた。手のひらに、じんわりと汗がにじんでいる。昨夜何度も繰り返した練習が、今になって頭の中からすっかり消えてしまったようだった。心臓が、痛いくらいに脈打っている。深呼吸を、もう何度繰り返しただろう。それでも、扉の前に立つと、足がすくんでしまう。振り返ると踊り場の壁に隠れた美也が、両手でガッツポーズを作って見せていた。逢も小さく頷いて、口の形だけで「大丈夫」と伝えてくれる。紗江は、胸の前で両手を握りしめ、大きく一つ、息を吸い込んだ。
「……行ってきます!」
紗江は、震える手で扉を押し開けた。金具の軋む音が、やけに大きく響いた。冷たい風が、頬を撫でる。屋上のフェンスの前に、悠が立っていた。夕暮れの淡い光を浴びながら、遠くの海を見つめている。少し物憂げな横顔だった。
その瞬間、紗江の鼓動が、大きく跳ねた。
「……鳴上、先輩」
悠が振り返った。穏やかな笑みが、すぐに浮かぶ。
「来てくれたんだね」
「は、はい……!」
近くで見る悠の顔は、教室で見るよりも、どこか穏やかだった。夕陽を受けた横顔が、彼の輪郭をやわらかく縁取っている。紗江は、その光景から目が離せなかった。
紗江は、フェンスの少し手前で立ち止まった。悠が隣を軽く手で示す。恐る恐る紗江はその隣に並んだ。潮の匂いを含んだ風が、二人の間を通り抜けていく。何から話せばいいのか分からず、紗江はしばらく、フェンスの向こうの海をじっと見つめていた。
「あの……まず、お礼を言わせてください」
紗江は、鞄の持ち手をぎゅっと握りしめた。
「この前、助けていただいて。あのとき、ちゃんとお礼が言えなくて」
「はは、まだ気にしてたのか?」
はい。でも、ちゃんと言いたかったんです。ありがとう、ございましたっ」
深く頭を下げる紗江に、悠は少し困ったように、それでも優しく頷いた。
「どういたしまして」
そこから、紗江は少しずつ言葉を紡いでいった。
「お手紙、毎日、すごく楽しみにしてました。朝、下駄箱を開ける瞬間が、一日で一番好きな時間だったくらいです」 「俺も、同じだったよ」
悠が静かに頷くと紗江の胸に、じんわりとした温かさが広がった。
「それと……体育の授業のとき、先輩、あんなに運動神経がいいなんて知りませんでした」
「え?あれ見てたの?」
「あ……」
紗江は、思わず口を押さえた。悠は、くすりと笑った。
「冗談。フェンスのところで、手を振ったっけ?」
「見ら、見られてました……」
真っ赤になる紗江に、悠は目を細める。少し照れくさそうに悠は頭をかいた。
「実は、前の学校でもサッカー部に誘われたことがあってね」
そう切り出して、悠は少しだけ遠い目をした。
「八十稲羽っていう、田舎町に住んでたんだ。あの町では、いろいろあってね」
紗江が、じっと耳を傾ける。
「ちょっと不思議な事件があって、町の人たちが騒然としていた時期があった。俺は、そこで出会った仲間たちと、力を合わせて、真相を突き止めたんだ」
「事件……?」
「うん。今思えば、だいぶやんちゃなことをしていたと思うよ。でもあの仲間がいなかったら、乗り越えられなかったな」
悠は遠くの水平線に目をやりながら、少しだけ声を落とした。
「怖い思いも、たくさんした。でも、その分、絆というものが、どれだけ人を強くするか、身をもって知った気がする」
紗江は静かにその言葉を噛みしめた。飄々として見える先輩の中に、想像もしなかった重みがあることに胸を打たれる思いがした。
「…先輩はいつも、そうやって大変なことも笑いながら話すんですね」
「そう見える? そうだといいけどな」
悠は少し困ったように笑った。強さの裏にある不器用さを見た気がして、紗江の胸がまた少し温かくなった。
悠の声は、懐かしそうで、どこか温かかった。
「居候してた家に、菜々子っていう小さな女の子がいてね。妹みたいに可愛がってた。人懐っこくて、料理を教えると、すごく喜んでくれるんだ」
紗江は、少し驚いたように瞬きをした。頬が、じんわりと熱くなる。彼が語る過去の話は、どれも紗江の知らない先輩の一面ばかりで、聞いているだけで胸がいっぱいになった。
「先輩、小さい子にも優しいんですね」
「そうかな?菜々子には、いつも助けられてた気がするけど」
悠は、懐かしそうに目を細めた。
「毎朝一緒に朝ごはんを作ってね。休みの日は、二人でお使いに行ったり。今も、たまに手紙が来るんだ」
「手紙、好きなんですね。先輩」
「そうかもしれない。……もっとも、一番待ち遠しいのは、今は別の人からの手紙だけどね」
紗江は、思わず息を呑んだ。まさか、自分のことを言っているのだろうか。確かめる勇気が出せないまま、耳だけが真っ赤に染まっていく。海風が二人の間を静かに吹き抜けていった。悠は、それ以上何も言わずただ穏やかに微笑んでいる。紗江は、その沈黙にどう応えればいいのか分からず、視線を落として、鞄の持ち手をきゅっと握り直した。
階段の踊り場で、美也が両手を口に当てていた。
「な、菜々子ちゃんって誰……!」 「妹みたいに、って言ってたよ。落ち着いて」
逢が、小声で美也をなだめる。それでも、美也の頬は、なぜか誇らしげに緩んでいた。
「うんうん。紗江ちゃん、ちゃんと話せてるねっ」「うん。安心したね」
屋上では、話がふと別の方向へ流れていった。
「あ、そういえば、最近面白い漫画を読んだんだ」
悠が言った。
「学校が舞台のギャグ漫画で、主人公たちが毎回くだらないことで大騒ぎするやつ」
紗江の目が、ぱっと輝いた。
「もしかして、それ……」
紗江が口にしたタイトルに、悠は驚いたように目を見開いた。
「読んでるの?」
「はい! 生徒会長のキャラが、すごく好きで……!」
「あのキャラ、動きがいちいち大げさで、笑ってしまうよね」
「分かります! 前回の、文化祭の回とか……」
二人は顔を見合わせて笑った。笑い声が夕暮れの屋上に、ふわりと溶けていく。二人の口から、次々と言葉が溢れ出した。好きな場面、笑ったコマ、次の展開の予想。紗江はいつの間にか、緊張を忘れて夢中で話していた。時折り悠は声を上げて笑うこともあった。こんなふうに笑う先輩を、初めて見た気がした。教室で見せる、少し距離のある微笑みとは違う飾らない笑顔だった。
「今度、続きの巻、貸そうか?」
い、いいんですか!?」
「ああ。読み終わったら、感想を聞かせてほしいな」
「はい! ……あの、それも、お手紙で書いていいですか」
「……あはは、まだ書くのか?」
手紙をやめるつもりだったのに、思わずそう口にしてしまい、紗江は慌てて口を押さえた。悠は、それがおかしかったのか、小さく肩を揺らして笑った。
紗江は首を横に振る。手紙のやり取りだけでは知れなかった一面を、こうしてひとつずつ知っていくのがたまらなく嬉しかったから。階段の下で、美也が逢の腕を掴んだ。
「紗江が、あんなに喋ってる……!」 「うん。よかったね」
逢は、目を細めて頷いた。ようやく、紗江らしい笑顔が見られたことが、素直に嬉しかった。風が少し冷たくなり、屋上の空はいつの間にか橙色から、紫がかった色へと変わっていた。話は尽きることなく続いていたが遠くの空に一番星が瞬き始めているのに、二人はようやく気がついた。校舎の窓に、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。
「もうこんな時間か」
悠が、空を見上げて呟いた。
「そろそろ、帰ろうか」
「あ……はい」
名残惜しさを感じながら、紗江は頷いた。屋上を出る間際、悠が、ふと足を止めて振り返った。
「中多さん、一人で帰るの?」
不意に問われて、紗江は言葉に詰まった。
「え、えっと……はい、いつもは……」
「じゃあ、一緒に帰ろうか?」
紗江の思考が、一瞬真っ白になった。頭の中で、昨夜読んだ漫画のワンシーンが、勝手によみがえる。
「……え?」 「方向、同じだろう? 送っていくよ」
あまりにも自然な誘いに、紗江の頭の中は、たちまち大混乱に陥った。心臓が、さっきよりもずっと激しく鳴っている。手紙の返事を待つときの高鳴りとは、まったく違う種類のときめきだった。
「い、いいん、ですか……!?」
「うん、もちろん」
紗江の頭の中に、教室での何気ない一日とこれから始まるかもしれない帰り道が、一気に重なった。手紙の中でしか話せなかった気持ちが少しずつ、現実の言葉になっていく。紗江は、何度も頷きながら顔を真っ赤に染める。踊り場の陰で、美也と逢が、声を殺して抱き合っていた。
「い、一緒に帰るって言った……!」 「うん、聞こえた」
美也は、興奮のあまり、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねた。逢も、珍しく頬を上気させて、小さくガッツポーズを作っている。二人は慌てて口をつぐみ、気づかれないよう、そっと階段を降りていった。
夕暮れの光が差し込む屋上の扉の前で、紗江は、まだ信じられないという顔のまま、悠の隣に並んで歩き出した。冷たいはずの夕方の空気が、今はなぜか、少しも寒く感じられなかった。
続
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