第八話 「寄り道」
帰り道、商店街の入り口に差しかかったところで、悠がふと足を止めた。
「少し、寄り道していこうか」
「え……いいんですか?」
「うん。せっかくだからさ」
夕暮れの商店街は、明かりが灯り始め、賑やかな声で満ちていた。
提灯のような明かりが軒を連ね、揚げ物の匂いと、誰かの笑い声が入り混じっていた。紗江は、こんなふうに賑やかな通りをゆっくり歩くのは久しぶりだった。
「わ、あの本屋さん、覗いてもいいですか?」
紗江が、小さな書店の前で足を止めた。悠が頷くと、彼女は嬉しそうに店内へ入っていく。棚に並んだ文庫本を、指先でそっとなぞりながら紗江は普段より少し饒舌になっていた。
「わたし、ミステリーが好きなんですけど、先輩は、どんなジャンルを読みますか?」
「俺は雑食かな。特にこだわりはないな」
そう言いながらも、悠は棚の隅で、一冊の本を手に取った。裏表紙のあらすじを読んで、紗江に差し出す。
「これ、面白そうじゃないか?」
「あ……この作家さん、知ってます! でも、まだ読んだことがなくて」
「じゃあ、今度感想を聞かせくれないか?」
「はい、必ず……! あ、でも、先輩は、何を読んでるんですか。さっき、雑食って言ってましたけど」
「最近は、さっき話した漫画ばかりかな。あとは、料理のレシピ本」
「先輩らしいです」
紗江は、思わずくすりと笑った。
紗江はその本をそっと胸に抱いた。棚と棚の間を歩きながら、二人はいくつもの本を手に取ってはあれこれと感想を言い合った。誰かとこんなふうに本を選ぶのは、紗江にとって初めての経験だった。
書店を出ると、狭い路地から香ばしい匂いが漂ってきた。屋台のたこ焼き屋の前で、二人は自然と足を止める。
「食べていく?」
「た、食べたいですっ」
熱々のたこ焼きを、紙皿に載せてもらう。二人並んでベンチに座り、ふうふうと息を吹きかけながら口に運んだ。
「あつっ」
「ここの結構熱いから。気をつけて」
紗江の口の端についたソースを悠が指さして教える。紗江は慌てて拭い、耳まで赤くなった。悠は、それ以上からかうことなく、静かに笑って自分の分をゆっくりと食べ進めた。並んで座るベンチの背もたれ越しに、商店街の賑わいが遠く近く聞こえてくる。ソースの匂いが漂う中、紙皿を膝に載せたまま、二人はしばらく他愛もない話を続けた。
商店街の奥にあるゲームセンターにも、二人は寄っていった。
「先輩、あれ……」
紗江の視線の先には、クレーンゲームの筐体があった。中には、小さな猫のぬいぐるみが並んでいる。
「取ってみようか」
悠は、慣れた手つきでレバーを操作した。一度目は失敗し、二度目でアームがぬいぐるみの耳を掠める。紗江は、両手を握りしめて見守った。ガラス越しに映る悠の真剣な横顔が、なんだか少しおかしくて、紗江は思わず口元を緩めた。
「あと少し……!」
三度目、アームがしっかりとぬいぐるみを掴み、そのまま落とし口へと運んでいく。取り出し口から、猫のぬいぐるみを拾い上げた悠が、それを紗江に差し出した。
「はい、これ」
「え、いいんですか……!?」
「うん。似合うと思って」
紗江は、ぬいぐるみを両手で受け取り、ぎゅっと胸に抱きしめた。頬が緩むのを、隠しきれなかった。
「名前、つけようかな……」
「いいね。何にするの?」
「まだ、考え中です」
悠が、興味深そうに覗き込む。紗江は少し照れながら、ぬいぐるみの頭を撫でた。
商店街の賑わいが徐々に遠ざかり、街灯の間隔が広くなっていく。いつもの帰り道に差しかかった頃、前方から小さな泣き声が聞こえてきた。
道の端で、三歳ほどの男の子が、しゃくり上げながら泣いていた。周りに、保護者らしき姿は見当たらない。
紗江が驚いて足を止めるより早く、悠はすでに男の子のもとへ歩き出していた。膝をついて、目線を合わせる。
「どうしたの? ママは?」
男の子は、しゃくり上げながら指をさすことしかできなかった。悠は、慌てる様子もなく穏やかな声で続ける。
「大丈夫だよ。一緒に探そう。何色の服、着てた?」
男の子が、途切れ途切れに答える。青い帽子、白いシャツ。悠はそれを丁寧に聞き取りながら、周囲を見渡した。ちょうど通りかかった商店の店主に事情を話し、迷子のアナウンスを頼む。そのわずかな間も悠は男の子の隣にしゃがみ続け、小さな手をそっと握っていた。泣きじゃくる声が少しずつ落ち着いていくのが、離れたところからでも分かった。
「怖かったね。もう大丈夫だから」
その声には、少しの動揺もなかった。まるで、こういう場面に何度も立ち会ってきたかのような落ち着いた対応だった。
人だかりができるほどでもない、静かな一角での出来事だった。数分後、青ざめた顔の母親が走って駆けつけてきた。男の子は母親の姿を見た途端わっと泣き声を大きくして飛びついた。
「本当に、ありがとうございました……!」
何度も頭を下げる母親に、悠は「見つかってよかったです」と静かに笑いかけた。母親に手を引かれながら、男の子が振り返って小さく手を振る。悠も、それに気づいて、軽く手を振り返した。
その一部始終を見ていた紗江は、胸の奥が、じんと熱くなるのを感じていた。困っている人を前にして、迷いも、戸惑いもなく動く先輩の姿。それは、路地裏で自分を助けてくれたときと、まったく同じ強さだった。
――やっぱり、先輩は、すごい。
路地裏で助けてもらったときは、自分が守られる側だった。けれど今は少し離れたところから、その強さを見つめている。同じ優しさなのにこうして見ると、また違う輝きを放っているように感じられた。
その思いが確かな輪郭を持って、紗江の胸に刻まれていく。
再び歩き出した帰り道、紗江はぬいぐるみを抱えたまま、小さく笑った。
「今日、すごく楽しかったです」
「僕も、楽しかったよ」
悠が穏やかに答える。二人の間に、心地よい沈黙が流れた。ぬいぐるみを抱えた腕に、まだ今日一日の温もりが残っているような気がした。
やがて、いつもの分かれ道に差しかかる。紗江の家は右へ、悠の家は左へ。足が、自然と重くなった。
「じゃあ、また明日」
悠の言葉に紗江は頷きかけて、けれど胸の奥にちくりとした寂しさを感じた。ほんの少しだけ、言葉に詰まる。
言葉を探すように黙り込んだ紗江の様子に、気づいたのか、悠が、ふと付け加えた。
「また、どこか、一緒に行こうか」
紗江の顔が、ぱっと明るくなった。
「はい! ぜひ、また!」
「ああ。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい、先輩!」
紗江は元気よく手を振って、駆け足で家路についた。夜の風が頬を撫でていくのも、今は少しも気にならなかった。角を曲がる直前にそっと振り返ると、悠もまだこちらを見ていて、小さく手を振り返してくれた。それだけで胸がいっぱいになった。
自宅に戻った紗江は、荷物を置くと、真っ先にベランダへ出た。
夜空には、星がいくつも瞬いている。昼間の賑やかさが嘘のようにあたりは静まり返っていた。手すりに寄りかかりながら、紗江は今日一日をゆっくりと思い返した。
本屋で交わした会話。たこ焼きの湯気。クレーンゲームで取ってもらった猫のぬいぐるみ。そして、迷子の子供に駆け寄っていった迷いのない背中。
――まるで、本当の……。
そこまで考えて、紗江は自分の頬がかあっと熱くなるのを感じた。まるで、恋人同士みたいな一日だった。そんな考えが浮かんだ瞬間、恥ずかしさでその場にしゃがみ込みたくなる。頬に当てた手のひらから体温が伝わってくるほど、顔が熱かった。
本当は、恋仲だなんてそんなはずはない。分かっているのに、今日一日の一つひとつの場面が、まるでそうであるかのように、鮮やかに思い出されてしまう。手を振ってくれた笑顔もぬいぐるみを渡してくれた瞬間も。
「な、なに考えてるの、わたし……」
抱えたぬいぐるみに顔をうずめて、紗江はしばらくじたばたした。それでも、頭の中には悠の最後の言葉が繰り返し響いていた。
――また、どこか、一緒に行こうか。
たったそれだけの一言がこんなにも心を温かくするなんて、知らなかった。手紙で交わす言葉とは、また違う響きがその一言にはあった。
ぬいぐるみを机の上にそっと座らせてから、紗江は部屋に戻り、布団に入った。それでもなかなか寝つけなかった。目を閉じるたびに、今日の出来事が、次々と浮かんでは消えていく。たこ焼きを頬張る悠の横顔。ゲームセンターで見せた、少し得意げな笑み。迷子の子供に向けた、優しい眼差し。
「また、一緒に……か」
紗江は、ぬいぐるみを抱きしめたまま何度もその言葉を呟いた。まぶたの裏に今日一日の光景が、繰り返し浮かんでは消えていく。時計の針は、とっくに日付を跨いでいた。それでも紗江の頭の中には悠の声や表情が、次から次へと浮かんでは消えていく。
窓の外では月が静かに、七羽町を照らしていた。紗江は、悠のことを考えながら、いつの間にか、眠りに落ちていった。
続
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