第九話 「家庭科部」
翌朝、七羽町には薄く霜が降りていた。教室の窓ガラスも、うっすらと白く曇っている。紗江が教室に入るなり、待ち構えていたように、美也に両手を掴まれた。
「紗江ちゃん、もしかして…あの後先輩と一緒に帰ったりした?」
「な、なんで知ってるの……!?」
「勘だよ、探偵の勘!」
紗江が困惑していると、美也はにやにやしながら顔を近づけてきた。
「本当は、朝、下駄箱のところで、鳴上先輩が笑ってるの見ちゃったんだよね。それで、何かあったなって」
「そ、そんなところまで……」
得意げに胸を張る美也の隣で、逢が小さく笑った。
「実は、私たち、あの後ついていかなかったの。さすがに、無闇に見張るのは野暮かなって」
「え……」
「昨日は、あえて何もしないでおこうって、二人で決めたの。ずっと見張られてたら、紗江も、鳴上先輩も、気を遣うでしょう」
美也が、うんうんと頷く。
「これでも、探偵ミヤは、引き際を知ってるんだよ」
「だから、今朝、本人の口から聞きたかったの」
紗江は、少し迷ってから、昨日の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。本屋で選んだ本のこと、たこ焼きを分け合ったこと、ゲームセンターでもらった猫のぬいぐるみのこと。そして、迷子の子供を助けた悠の姿を見てまた胸が熱くなったこと。
話しているうちに、紗江の頬は、だんだんと赤みを増していった。美也と逢は、その様子を微笑ましそうに見守っている。鞄からちらりと覗く猫のぬいぐるみの耳に、逢が目ざとく気づいた。
「それ、もしかして」
「あ……はい。先輩に、取ってもらいました」
紗江は、慌てて鞄の口を閉じたが、時すでに遅かった。
「一緒に、帰ったんだ……」
美也の頬が、みるみる赤く染まっていく。
「な、なんか、ちゃーまで照れてきた……」
「美也まで赤くなってる」
「だ、だって! 二人の関係、進みすぎでしょ!」
からかうように笑っていた逢だったが、ふと表情を改めた。
「紗江。ちょっと、聞いておいてほしいことがあるの」
「な、何……?」
「昨日、二人が一緒に歩いてるところ、何人かの生徒に見られてたみたい。もう、ちょっとずつ噂になってる」
紗江の顔から、さっと血の気が引いた。
「う、噂……」
「鳴上先輩、それなりに人気があるから。もしかしたら、何か言われることがあるかもしれない。だから、気をつけてね」
逢の声には、からかいではなく、本気の心配が滲んでいた。
「変なことを言ってくる人がいたら、すぐに言ってね。みゃーも美也も、味方だから」
「うん……ありがとう、逢ちゃん」
紗江は、こくりと頷いた。心のどこかで、浮かれてばかりもいられないのだと、改めて気を引き締める。
美也が、ふと真剣な顔になった。
「でも、紗江ちゃんが幸せそうなのが一番だから。噂なんかに負けないでね」
「うん……ありがとう」
放課後、いつものように屋上で待ち合わせると、悠は少し困ったような顔をしていた。
「先輩?どうかしたんですか」
「いや……梅原に、からかわれてね」
悠は、頭をかきながら苦笑した。屋上の風は、昨日よりも少しだけ和らいでいるように感じられた。
「昨日、可愛い女の子と歩いてただろって。俺にはもったいない相手だって、さんざん言われたよ」
紗江の心臓が、どきりと跳ねた。
「も、もったいない、なんて……」
「否定はしなかったけどね。可愛い、っていうのは」
さらりと告げられた言葉に、紗江は、一瞬、呼吸を忘れた。頬に、じわじわと熱が広がっていく。
「な、なな……!」
「どうかした?」
「な、なんでもないです……!」
悠は、少し不思議そうにしていたが、やがて小さく笑って話を続けた。
「梅原には、からかわれっぱなしだったな。今度、埋め合わせにジュース奢れって言われた」
「先輩、大変ですね」
「まあ、悪い気はしないけどね」
悠は、不思議そうに首を傾げた。紗江は両手で顔を扇ぎながら、必死に平静を装った。手紙の中で交わした言葉より、ずっと直接的な響きが胸の奥に長く残った。
「あ、そういえば、話したいことがあったんだ」
悠が、話を切り替えるように言った。
「実は、部活に入ろうと思っていてね」
「部活、ですか」
「うん。密かに気になっていた部があって」
紗江が首を傾げると、悠は少し照れくさそうに、頬をかきながら答えた。あまり見たことのない仕草に、紗江は思わず見入ってしまう。
「家庭科部、なんだけどね」
意外な単語に、紗江は思わず瞬きをした。それから、すぐに納得したように頷く。
「先輩、料理、好きですもんね」
紗江が納得したように頷くと、悠はほっとしたように微笑んだ。
「転校生だから、一人で入るのは、少し心細くてね」
その言葉に、紗江は、迷わず答えた。
「わ、わたしも、一緒についていきます!」 「本当に?」 「はい! 先輩が心細いなら、わたしが……!」
言ってから、少し大げさだったかと恥ずかしくなり、紗江は俯いた。けれど悠は、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。心強いよ」
その笑顔に、紗江の胸がきゅっと締めつけられた。
部室に向かう道すがら、紗江は少し緊張しながら尋ねた。
「家庭科部って、どんな活動をするんですか」
「よくは知らないんだけど、料理したり、お菓子を作ったりする部らしいよ。作りたてらしいから、部員はあまり多くないみたいだけど」
「先輩、本当に料理が好きなんですね」
「うん。誰かのために作るのが、特に好きかな」
何気ない一言のはずなのに、紗江の胸は、また小さく高鳴った。
家庭科室の隣にある小さな部室には、「家庭科部」と書かれた手作りの札が、控えめに掲げられていた。扉を開けると、窓際の椅子に腰かけた、艶やかな長い髪の先輩が振り返った。
「あら」
その顔立ちの美しさに、紗江は思わず息を呑んだ。学校で一番の美少女と噂される、三年生の森島はるかだった。艶やかな髪、涼しげな目元。教室の隅で見かけたことはあっても、こんなに近くで見るのは初めてだった。
はるかは、椅子に片足を乗せたまま、気だるげな仕草で二人を見つめた。
「見ない顔ね。あなたたち、入部希望?」
はるかは、興味深そうに目を細めて、悠を見つめた。
「キミ、転校生クンでしょ。噂、聞いてるよ〜?」
「鳴上悠です。よろしくお願いします」
「ふぅん。で、貴方は?」
視線が、隣の紗江へ移る。
「あ……中多、紗江です」
「女の子も一緒なのね」
興味深そうに、はるかは二人を交互に見た。
部室の中には、小さなキッチンと木のテーブルが置かれていた。棚には色とりどりのエプロンが並んでいる。
「この部ね、なんとなく暇つぶしで作っただけなんだけど。今まで、わたし目当ての男の子が、沢山来たの」
くすりと笑って、はるかは悠に向き直った。
「もしや…キミも、その口なのかな?」
「いえ」
悠は、迷いなく答えた。
「正直、森島先輩のことは、あまりよく知らなくて。ただ、部活に興味あって」
「あれ」
はるかは、目をぱちくりさせた。
「じゃあ、わたしのこと、噂でも聞いてないの? ミスサンタコンテスト、二連覇したんだよ?」
「初耳です」
「……ふぅん、面白いキミだね」
くすくすと笑うはるかに、紗江は少し呆気に取られた。噂に聞いていた「男殺しの天然女王」という異名の意味が、なんとなく分かった気がした。
一瞬の沈黙のあと、はるかはぱちぱちと瞬きをした。それから、堪えきれないように、ふふっと笑った。
「珍しいわ。わたし目当てじゃない子、初めてかも」
「すみません、期待に沿えなくて」
「いいの、別に。むしろ、そのほうが面白いかも」
はるかは、頬杖をついて、悠をまじまじと見つめた。
「キミ、なんだかわたしと似た匂いがするなぁ。物事、あんまり深く考えないタイプでしょ?」
「よく言われます」
「ふふ、やっぱり」
意気投合したように、はるかは何度も頷いた。年齢差など気にする様子もなく、まるで前から知り合いだったかのような自然なやり取りだった。
「いいよ。鳴上君、入部、許可しちゃう!歓迎するね」
「ありがとうございます」
はるかは、備え付けのノートを取り出し、悠の名前をさらさらと書き加えた。
「活動日は、特に決まってないんだ〜。気が向いたときに、来ればいいから」
「気楽でいいですね」
「でしょう? そこがこの部のいいところなのよ?」
はるかは、立ち上がると、悠のそばに寄っていった。
「早速だけど今日、何か作ってみる? 冷蔵庫に余ってる材料があるんだ〜」
「いいんですか」
「もちろん。キミの腕前、見てみたいしね!」
はるかは、冷蔵庫を開けて、卵や小麦粉を取り出した。
「クッキーとか、作ってもらおうかな」
「分かりました」
悠は、慣れた手つきで材料を量り始めた。その様子を、はるかは頬杖をついて、興味深そうに眺めている。
「へぇ、手際いいんだね」
「……独学ですけど」
「ワオ!独学でここまでできるの? すごいなぁ」
しばらくして、オーブンから、甘い香りが漂い始めた。焼き上がったクッキーを、はるかは真っ先に一枚つまんで、口に運ぶ。
「……おいしい! これは、拾いものだね」
「ありがとうございます」
紗江も、勧められるままに一枚食べてみた。ほんのりとした甘さが、口の中に広がる。以前、悠が下駄箱に入れてくれた星形のクッキーと、どこか似た味だった。あのときの記憶がよみがえって、紗江の頬が、また緩んだ。
「先輩の作るクッキー、やっぱり美味しいです」
「そう言ってもらえると、嬉しいな」
はるかは、悠の腕を軽く引いて、キッチンの方へと促した。楽しそうに話しかけるその様子を紗江は、部屋の隅で、じっと見つめていた。
――なんだか、胸がもやもやする。
悪い人ではない。それは分かる。けれど、あんなに気安く先輩に話しかける姿を見ていると紗江の胸の奥に、言葉にできない曇りが広がっていく。
はるかが何か言うたびに、悠が笑う。その笑顔が、いつも自分に向けられているものと、同じに見えて。
手紙を交わす仲だと少しは特別になれた気がしていた。けれど、こうして誰にでも分け隔てなく接する先輩を見ていると自分がまだその他大勢の中のひとりでしかないような、心細さが胸をよぎる。
――わたしだって、先輩の隣に、ちゃんと居場所が欲しい。
手紙をやめて直接話すと決めたばかりだった。あのときの決心を、ここで揺るがせるわけにはいかない。紗江は、ぎゅっと拳を握りしめた。
気づけば、紗江は、大きな声を出していた。
「あ、あの! わたしも、入部します!」
キッチンの二人が、揃ってこちらを振り返った。
はるかは、少し驚いたように目を丸くしてから興味深そうに口元を緩めた。
「あれ、女の子も? いいよ〜、賑やかなほうが楽しいし」
「あ、ありがとう、ございます……!」
悠が、少し驚いたようにそれでも嬉しそうに紗江を見た。クッキーの粉がついた手を、エプロンで軽く拭いながら、悠は微笑んだ。
「宜しくな」
「は、はい……!」
はるかは、興味深そうに紗江を見つめて、ふっと笑った。
「貴方もなかなか面白い子だね。鳴上君のこと、放っておけないのかな?」
「そ、そんなこと……」
「フフッ、まあいいわ。二人とも、これからよろしくね」
屈託のない笑顔で告げられ、紗江は、毒気を抜かれたように頷いた。悪い人ではない。それだけは、確かなことのように思えた。
紗江は、精一杯の笑顔を返した。胸の奥のもやもやは、まだ完全には晴れていなかったけれど、少なくとも、今この場所に一緒にいられることは確かだった。
部室を出る頃には、空はすっかり茜色に染まっていた。紗江の手には焼きたてのクッキーを包んだ紙袋が握られている。
「今日、色々あったね」
「はい……疲れましたけど、楽しかったです」
悠が、柔らかく笑った。その笑顔を見て、紗江の胸の中に残っていた小さな曇りが少しずつ晴れていくのを感じた。
窓の外では、夕暮れの光が家庭科室のガラス越しに静かに差し込んでいた。
続
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