不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第一話 少女と失敗
第一話 少女と失敗
「置ケ。頭、ツぶすぞ」
男の革靴が、濡れた舗装を擦っていた。
悪魔の指に頭を包まれ、爪先だけでどうにか身体を支えている。少女と目が合うと唇が動いたが、声になる前に指が締まり、伸ばしかけた手が宙を掻いた。
「呼ぶまで動くな。俺が離すから、お前は男を受け取れ」
隣に立つ岸辺が、拳銃を地面へ置いた。少女が頷くのを確かめてから押し出すと、銃は薄い水たまりを横切り、悪魔の足元で止まる。
縦に並んだ三つの顔がそれを追った。いちばん上の口が、歯を見せて笑う。
「後ロのも、置ケ」
「先に拾えよ。返してもらうぞ」
悪魔が余った腕を伸ばした途端、岸辺のコートが翻った。
人質を掴んでいた手首から血が飛び、三つの口が一斉に開く。その下から押し出された男を受け止めると、予想より重く、少女の靴が半歩滑った。壁へぶつかる前に頭を抱え込み、肩に回った腕を掴んで支える。
「通りまで連れていけ。こっちは俺がやる」
岸辺はもう悪魔へ向き直っていた。
男の息が耳元で荒い。少女は少し膝を曲げて顔を覗き込み、両足が地面についているのを確かめた。
「歩ける? 私につかまって。向こうの明かりのところまで行きましょう」
頷いたので歩き出したが、最初の一歩で男の膝が折れた。抱え直そうと腕に力を込めると、今度は呻き声が上がる。
「すみません、足が……」
「私が速かった? ……待つわ。足をついてからでいいから」
街灯までは、ほんの数歩。一人ならすぐに着く距離なのに、肩へ腕を回されているだけで、どちらの足から出せばいいのか分からなくなる。
男が右足を引きずったので、それに合わせて進もうとしたときだった。
背後で鉄のひしゃげる音がした。
振り返ると、悪魔の腕が非常階段へ食い込んでいる。岸辺はその懐へ入り、下の顔を斬り上げた。返り血が壁へ散り、さらに踏み込んだ背中の後ろで、悪魔の胴が縦に開く。
内側に並んだ、白い歯。
岸辺はまだ顔を上げない。あのまま閉じれば、背中ごと挟まれる。
「ここで待っていて。すぐに来るから」
男を壁へ寄りかからせ、腕の下から身体を抜いた。袖を掴まれたが、その手を外して膝へ置き直す。
「待って、どこへ――」
最後まで聞かずに地面を蹴った。
呼べば、岸辺がこちらを振り向いてしまう。コートを掴んで横へ引けばいい。あと二歩もあれば手が届くのだから。
その先にある歯は見ないようにした。岸辺を外へ出す。それから自分も――。
「来るな!」
怒鳴られたときには、すでに手を伸ばしていた。
指先をコートがかすめ、横へ抜けていく。掴めるはずの身体が、そこにない。
慌てて足を踏ん張ったものの、濡れた靴底が滑った。背後から襟を引かれて喉が詰まり、続いて布の裂ける音がする。
肩へ歯が食い込んだ。
押し返そうとした右手まで挟まれ、口から短く息が漏れる。足を突っ張っても、相手の身体がぬるりと逃げて支えにならない。胸を締めつける力は、その間にも強くなっていく。
嫌だ。まだ閉じないでほしい。
口を開けても空気は入らず、引き抜こうとした手は指さえ動かなかった。この痛みは知っている。けれど、知っていたところで何の役にも立たない。肩を引き、足をばたつかせ、逃げられる場所を探してしまう。
歯の向こうへ伸ばした手に、誰かの指が触れた。
岸辺の声がする。
あの人を、壁に。
伝えようとした言葉が、血と一緒に喉へ引っかかった。もう一度口を動かそうとしたところで顎が閉じ、声も聞こえなくなった。
*
岸辺の手には、襟の切れ端が残っていた。
歯の間から出た右手が一度だけ引きつり、そのまま垂れ下がる。岸辺は引こうとしていた腕を止め、反対の手でナイフを握り直した。
「バカめ。ジ分から――」
膝裏へ刃を入れると、悪魔の言葉が悲鳴に変わった。
崩れる身体の背後へ回り、三つの首を繋ぐ肉を斬る。振り回された腕を潜ってもう一度深く引くと、いちばん上の顔が壁へぶつかり、残る二つも遅れて地面を向いた。
巨体が沈みきる前に顎へ足をかけ、歯の間を押し広げる。ずり落ちてきた少女を受け止めたが、その頭は腕の外へ傾いたまま、持ち上がらなかった。
ついさっきまで、人一人を支えていた身体だ。今は抱える場所を変えても、何の反応もない。
壁際へ寝かせ、首へ指を当てる。脈はなかった。
また、助けに来た。
死ぬのが平気なら、まだ分かる。こいつは捕まれば逃げようとするし、痛ければ声も出す。それなのに、誰かが危ないとなれば自分から歯の間へ入ってくる。
逃がしてやれたことより、逃がしてやれなかったことばかり、いつまでも覚えている。
岸辺は少女の顔から手を離した。襟の切れ端をコートのポケットへ押し込み、そのコートを脱いで身体へかける。
少し離れた壁際では、男が座り込んでいた。こちらが近づいても、少女を覆ったコートから目を離そうとしない。
「あの子、俺を連れて……」
「立てるか。続きは外で聞く」
肩へ腕を回させると、男は震える足を何度も地面へつき直した。岸辺はその動きが止まるのを待ち、通りへ連れ出す。
店から出てきた人間に救急を頼み、路地には入るなと言い添えて引き返した。
コートの外へ出た右手に、変化が起きていた。
潰れていた指が形を取り戻し、傷の縁が寄り合っていく。岸辺は横へ膝をつき、顔に張りついた髪を払った。
傷は塞がった。胸は動かない。
もういいだろうと思ってからも、しばらく待たされた。口元の血を拭い、顔を寄せてみても、頬に触れるのは路地を抜ける風ばかり。
「おい」
少女の喉がかすかに鳴った。胸が持ち上がりかけ、途中で止まる。
「……息をしろ」
次の呼吸は咳になった。
肩が跳ね、眉が苦しそうに寄る。岸辺が背中へ腕を差し入れると、力の入らない左手が袖を探り、何度か滑った末に布を掴んだ。
今度は、その手を外させなかった。
*
「一度吐け。吸おうとばかりするな」
声に合わせて息を吐くと、喉を擦って空気が出ていった。次は少しだけ吸えたが、すぐに咳へ変わってしまう。少女は支えられた腕へ身体を預け、口を開けたまま呼吸が収まるのを待った。
目の前に岸辺がいる。
首にも肩にも、傷はなさそうだった。コートを着ていないせいか、いつもより身体が薄く見える。シャツの血は自分のものだろうか。
聞きかけて、別のことを思い出した。
「あの人は? そこに、待っていてって」
「外へ出した。救急が来る」
路地の出口には人影があった。そちらへ顔を向けようとすると、岸辺に右手を見せるよう言われる。
指は全部揃っていた。握ろうとした途端、付け根に痛みが走り、途中でやめた。
「無理に曲げなくていい。ほかは」
「胸が痛い。息をすると、まだ……でも、さっきよりは吸えるわ」
岸辺は右手を離した。背中を支える腕は、そのままだ。
少女はナイフを収めた腰元から顔へ視線を上げた。聞かなくても、もう分かっていた。それでも、一度は確かめたかった。
「避けられたのね。私が行かなくても」
「ああ」
「背中のところに口が開いて、見えてないのかと……引っ張れば、間に合うと思ったの」
「俺なら避ける。分からなきゃ、次は聞け」
掴んでいた袖を放すと、指の跡に沿って血が乾きかけていた。
「でも、聞いている間に噛まれたら」
「お前が噛まれるよりは、まだ何とかなる」
言い返そうとして咳き込んだ。岸辺は背中を支え直したが、それ以上は何も言わない。少女も下を向き、喉に引っかかるものを何度か飲み込んでから口を開いた。
「……あの人、ずっと待っていたの?」
「ああ。お前が死んでる間、あそこにな」
壁際には、もう誰もいなかった。
袖を掴まれたとき、自分でその手を外した。すぐに帰ると言ったのに、迎えに行ったのは岸辺だ。男が何度こちらを見ていたのかも、少女には分からない。
「ちゃんと連れていきたかったのよ。任せてくれたから。途中までは、できてたでしょう」
「途中に置いてきたんだろ」
コートの端を膝へ引き寄せた。片方を隠すと、もう片方が出てしまう。引っ張り直していると、岸辺が肩にかかったところを緩めた。
「頭のネジを外せとは言ったがな。毎度お前から壊れてどうする」
「噛ませるつもりじゃ……」
そこまで言って、口を閉じる。
岸辺だけ外へ出せればいい。そのあとは。
考えなかったことには、できなかった。
「次は、先に呼ぶわ」
岸辺はコートから手を離した。
「立てるか」
「少し待って。まだ、足に力が入らないの」
通りから車の音がした。岸辺はそちらを見たが、立ち上がろうとはしない。少女が膝を動かしてみる間も、横で待っていた。
*
表通りは、救急車の灯りで赤く染まっていた。
男は隊員に頭を診てもらっていたが、少女を見るなり腰を浮かせ、すぐに止められた。口を開けたまま、こちらを見ている。
少女も足を止めたものの、何と言えばいいのか分からなかった。小さく頭を下げると、男も遅れて下げ返す。
タクシーに乗るまで、その視線は離れなかった。
振り返った拍子に縁石へ靴を引っかけ、岸辺の手に肘を掴まれる。
「足か?」
「少しふらふらするだけ。座れば平気だと思うわ」
「降りるときも言えよ」
先に座席へ入ると、暖気が濡れた靴に当たった。爪先がじんじんしてきたので足を少し引き、コートを膝までかけ直す。
隣へ乗った岸辺が告げたのは、知っている住所だった。
「帰っていいの?」
「医者には来てもらう。風呂は診せてからだ」
窓の向こうで救急車の扉が閉まり、男の姿が見えなくなった。こちらの車も走り出すと、路地はすぐに遠ざかっていく。
向かいの食堂では、客がテレビを見ながら箸を動かしていた。あそこまで連れていけばよかった。店の人を呼んで、座る場所を借りて、それから岸辺のところへ行けば。
右手をコートの下で握ると、さっきより指が曲がった。
それを見せようとして、やめる。代わりに、隣の顔を窺った。
「明日は、家にいた方がいい?」
「具合が悪けりゃな」
「そうじゃなくて。今日、言われたことをできなかったから……四課へ行くのも、なしになるかと思って」
岸辺がこちらを見た。少女はコートの襟から顎を出し、続きを待つ。
「九時だ。朝飯も食うなら、七時には起きろ」
足元へ目をやると、靴の縁から水が滲んでいた。帰ったら中まで拭かなければならない。玄関に置くだけでは、朝になっても乾かないだろう。
岸辺が運転手に、揺れるところはゆっくり頼むと言った。
少女も背もたれへ身体を預け、膝から落ちかけたコートを引き上げる。煙草と雨の匂い。余った袖を畳もうとすると、その下で岸辺の手に触れた。
指の間に血が乾いている。
自分の襟を掴んだ手だった。あのときは布が裂けて、離れてしまったけれど。
「降りるとき、手を貸してくれる?」
岸辺は目を閉じたまま、ああと答えた。