不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第八話半 小さな夢
鍵を開ける前に、中から煙草の匂いがした。
少女は買い物袋を片手へまとめ、扉を押した。岸辺の靴がある。呼びかけると奥から返事があり、続いて新聞を畳む音がした。
「ただいま。もう帰っていたのね」
「お前よりはな。袋、そこへ置け」
台所まで運ぶつもりだったが、岸辺が手を出したので肉の入った方を渡した。残った小さな紙袋を持ったまま靴を脱ぐと、そちらも見られる。
「それは」
「シュークリーム。岸辺の分よ」
「四つ持っていったんじゃなかったか」
「それは皆で食べたの。帰りに一つ買ったわ」
岸辺は紙袋を受け取り、中を覗いた。
「お前はもう食ったんだな」
「ええ。でも、食べたくなければ置いておいて。明日までには私が食べるから」
「俺に買ったんじゃないのか」
「だから、食べたくなければって言ったでしょう」
袋は食卓の、岸辺がいつも座る場所へ置かれた。
手を洗ってから冷蔵庫を開けると、昨日なかった豆腐が入っていた。買ってきた肉の置き場所を空け、葱を取り出す。岸辺は棚から皿を二枚出していた。
「早川んちはどうだった」
「カレーを作ってくれたわ。デンジとパワーが話している間も、鍋を見たり、猫を戻したりしていたの」
「忙しそうだな」
「ええ。パワーが人参を早川の皿へ置くから、それも見ていないといけなくて」
葱を洗い、根元を切り落とした。鍋を出そうと振り返ると、岸辺が先にコンロへ置いてくれる。
「お前もやったのか」
「人参は食べたわ。私のところへも置こうとしたけど、断ったの」
「そうか」
「デンジは皿を洗っていたわよ。私が拭くのが追いつかないくらい」
包丁の先で切った葱を寄せ、肉を出した。
「棚の場所も知っていて、大きいお皿から重ねろって教えてくれたの。前に反対にして怒られたんですって」
「一度で覚えりゃ上等だ」
「岸辺は、柔軟剤の場所を覚えた?」
「洗剤を頼むときに毎度言うだろ、お前が」
思わず顔を上げると、岸辺は袋から豆腐を出していた。
「今日は間違っていないわね」
「見りゃ分かる。切るぞ」
まな板を空け、少女は鍋へ油を引いた。
肉が焼ける音がし始めると、岸辺は食卓へ戻った。新聞を開き直す気配はなかったが、こちらを見続けるわけでもなく、煙草の箱を指で寄せている。
「次は、デンジが買ってくれるって」
「何を」
「お菓子。今日もらったから、今度は自分が買うって言ってくれたの。パンも作る約束をしているから、何時に行けばいいのかしら」
「早川に聞け。俺んちの朝飯抜いて行くなら、前の日までに言っとけよ」
菜箸を動かしていた手が止まり、肉の端が鍋底へ貼りついた。慌てて剥がす。
「次も、行っていいのね」
「日も決まってねえのに駄目とは言えんだろ。訓練と重なったら、そっちをずらすなよ」
「分かってるわ。先に聞いてから決める」
火を弱めて調味料を入れると、湯気が顔まで上がってきた。蓋をしてから振り向いても、岸辺はもう別の方を見ていた。
「あとね、ニャーコにも触れたの。寝返りを打たれて、最初は届かなかったけど」
「猫の都合もあるからな」
「パワーは待たずに抱くのよ。それで逃げられていたわ」
「お前は追わなかったのか」
「少しだけ」
岸辺が鼻で笑ったので、少女は鍋へ向き直った。
「起こしてはいないわ。起きてからよ」
*
夕食を終えると、岸辺は紙袋を手元へ引き寄せた。
皿を下げていた少女が見ていると、中から出したシュークリームを袋の上へ置き、台所へ手を伸ばす。
「小皿を一枚くれ」
「そのまま食べないの?」
「こぼす」
昼間のことを思い出し、皿と一緒に小さなナイフを渡した。岸辺は真ん中へ刃を入れ、片側を皿へ載せる。
「ほら」
「私、もう食べたと言ったでしょう」
「ずっと見てるから、食いたいんだと思った」
否定しようとして、半分になった断面を見た。中には、店で見たときよりたくさんクリームが詰まっている。
「……半分なら」
椅子へ戻ると、皿を押してくれた。
切ってあれば食べやすい。そう思ったのに、持ち上げた途端、開いたところからクリームが出かけた。指で押さえる前に皿へ戻し、向きを変える。
「昼もそうなったの」
「だろうな」
「デンジが、大きく食べればいいって。それで真似をしたら、頬についたわ」
「お前の口まで大きくなるわけじゃねえからな」
岸辺は自分の半分を二口で食べ、袋についた分を指で取った。
「美味しい?」
「ああ。茶が欲しいな」
立とうとすると、岸辺の方が先に椅子を引いた。少女は座り直し、今度はクリームが出ている方から齧る。
台所で湯を注ぐ音がした。
デンジの話も、岸辺に聞けば何か言ってくれるかもしれない。何をしたかまで話さなくても、楽しみにしていたことが思ったほどではなかった、と言えば。
「岸辺」
「ん?」
湯飲みが目の前へ置かれた。
少女は残ったシュークリームを見てから、顔を上げた。
「次、何を持っていけばいいと思う? 何もいらないって言われたんだけど」
「なら持っていくな」
「でも、今度は向こうが買ってくれるのよ」
「お前が今日買ったんだろ。毎度買い合ってたら、菓子が増えるだけだ」
それはそうかもしれない。パンまで作ってもらうのだから、食べきれなくなる方が困る。
最後の一口を食べ、指を拭いた。
「じゃあ、何も持たずに行くわ」
「ああ。日にちだけは忘れずに言えよ」
茶を飲むと、口に残っていた甘さが薄くなった。
デンジの話は、そのままにした。
*
ベッドへ入ってからも、昼のことがいくつか浮かんだ。
シュークリームを選ぶ前に食べたパワー。声を出せないまま笑っていたデンジ。四人で座ると狭かった食卓。
次はもっと早く行くことになるのだろうか。朝食を向こうで食べるなら、岸辺が起きるより先に支度をしておかなければならない。
廊下で足音がして、扉の下の明かりが消えた。
少女は毛布を肩まで引き上げ、冷たいところへ頬を移した。
*
「そっちは小さい方」
指を差され、少女はパンを持ち上げたまま止まった。
寝台の上に、二つに割った黒いパンがある。隣の子は大きい方をこちらへ押し、小さい方を取ろうとした。
「私が割ったんだから、あなたが先に選んでいいのよ」
「だから選んだの。そっちは、持ってて」
先に一口齧られてしまった。
少女は残ったパンを見た。厚みが違うだけで、上から見れば同じくらいだ。もう少し割って渡そうとすると、相手は両手を背中へ隠した。
「いらないってば」
「まだ何も言ってないでしょう」
「また小さくするつもりだったでしょ。それじゃ、いつまでたっても食べられないよ」
仕方なく口へ運んだ。端が硬く、噛むと小さな欠片が落ちたので、膝の上の布で受ける。
隣の子はそれを一つ拾って、自分の口へ放り込んだ。
通路で木箱を置く音がした。壁の向こうには弾薬の箱が積まれていて、昼間でも窓からの明かりは届かない。天井の電球が一度暗くなり、また元の明るさへ戻った。
二人は扉を見た。
足音は曲がり角の先へ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
「……食べにくいね、これ」
隣の子がパンの硬い縁を指で叩く。
「お茶につける?」
「ふやけるまで待ってたら、冷めちゃう」
湯飲みではなく、縁の欠けた金属のカップだった。持ち手は少し曲がっている。さっき運ばれてきたときには湯気があったが、今は顔を近づけないと温かさも分からなかった。
その子はカップを持ち上げ、口をつけずに少女を見た。
「ご注文は?」
少女はパンを飲み込んだ。
「何?」
「喫茶店。私が店の人をやるから、何か頼んで」
返事を待たず、寝台の端から床へ下りた。上着の裾を引っ張って皺を伸ばし、空いている手を前で揃える。
「いらっしゃいませ」
少し声が大きかった。自分でも気づいたらしく、扉へ目をやってから、次は小さな声になった。
「何になさいますか」
「……何があるの?」
「先に聞いちゃうんだ」
少女が困っていると、その子はカップを見下ろした。
「お茶と、パン」
「それなら、お茶をください」
「はい。どうぞ」
さっきまで飲んでいたカップを渡される。
「これ、私のじゃない」
「今はお店の」
「中身も減っているわ」
「あなたが飲んだからでしょう」
顔を見合わせたまま、どちらからともなく笑った。カップの中身が揺れたので、少女は両手で包んで持ち直す。
「パンもください」
「大きいのと、小さいのがございます」
「小さい方を」
「売り切れました」
相手が残りを口へ入れた。
「今、食べたでしょう」
「売り切れなの」
口元を押さえているのは、まだ噛んでいるからだけではなさそうだった。少女もパンを齧ろうとしたが、向かいの頬が膨らんでいるのを見て、先に息が漏れた。
「お店の人が食べてしまって、いいの?」
「お腹が空いてたんだもん」
ようやく飲み込むと、隣の子はまた寝台へ腰を下ろした。肩が触れる。離れるほどの幅もないので、そのままカップを二人の間へ置いた。
「今度は、もっといろいろある店にしよう」
「どんなもの?」
「卵。あと、甘いもの。丸くて、中に何か入ってるのとか」
その子は両手で形を作った。パン一切れより大きい。
「二人で食べられるかしら」
「食べられるよ」
「全部?」
「うん。残ったら、明日も来ればいいじゃん」
少女は手の中のパンを半分に割った。
今度は渡そうとせず、二人の間へ置いた。隣の子はそれを見たが、何も言わなかった。
「お茶、おかわりしてもいい?」
「まだ残ってるでしょ」
「今じゃなくて、飲み終わったら」
「いいよ。いっぱいあるから」
カップの底が見えかけていた。それでも、その子は持ち上げて中を覗き、まだある、と言った。
やがて、小さな鼻歌が聞こえてきた。
朝に二人で出かけ、喫茶店で食事をする歌だった。少女が知っているところから口を動かすと、相手も途中で言葉を足してくれる。公園のところを今度は飛ばさずに歌えたが、次の節が分からなくなった。
「そのあと、何だったかしら」
「水族館。行きたかったんでしょ」
「今、聞こうとしていたのよ」
「はいはい」
笑いを含んだ声で続きを歌いながら、その子は二人の間のパンを取った。
少女は見ないふりをして、カップを口へ運ぶ。
お茶はもう、ほとんど冷めていた。少しだけ飲んで隣へ渡すと、受け取った指が自分の指へ重なった。
扉の向こうで、何かを引きずる音がする。
鼻歌が小さくなったので、少女も顔を寄せた。今度は間違えずに続けられるよう、その子の口元を見ながら、同じ言葉をなぞった。