不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第九話 看板メニュー
姫野が地図に丸をつけた場所は、任務先から少し離れていた。
少女は机へ手をついたまま、先ほどアキが示した倉庫と、その丸を見比べた。川を渡り、二つ目の角を曲がったところ。悪魔が出たという通報には、こちらの住所はなかったはずだ。
「こっちも調べるの?」
「ううん。ご飯」
「地図に書いていいのかしら」
「私のだからいいんだよ。終わったら寄ろうと思って。アキ君、ここ覚えてる?」
鞄へ資料を入れていたアキが、差し出された地図を覗いた。
丸の脇に書かれた店名を見たところで、手が止まる。
「……まだやってるんですか」
「やってるよ。先月、近く通ったもん」
「二人で行ったことがあるの?」
尋ねると、姫野は机の端へ腰を預けた。
「店には入ってないんだけどね。前に近くで張り込んでたとき、出前を取ったの。なかなか終わらなくってさ。お腹空いたアキ君、全然喋ってくれなくなるんだよ」
「見張ってたんです」
「食べたあとも喋らなかったじゃん」
「先輩」
顔を見合わせた二人の間へ、少女はもう一度地図を寄せた。
「何のお店?」
「ラーメン屋。看板のやつがあってね、一度食べると忘れられないの」
「チャーハンはうまいぞ」
アキが言った。
姫野は口を開きかけ、そのまま彼を見る。
「それも頼めばいいでしょ。三人いるんだし」
「先に言っておこうと思っただけです」
「何を?」
「チャーハンがうまいって」
少女が聞き直しても、それ以上は続かなかった。アキは鞄を閉じ、机に残っていた写真を姫野へ渡す。姫野も地図を畳みかけたが、少女がまだ見ていることに気づき、店名のところだけ表にしてくれた。
「食べてみる? 今日は私が出すよ」
「任務が終わったら?」
「そう。お腹空かせておいて」
「先輩が払うなら、俺もチャーハンにします」
「アキ君は自分で払いなよ」
「俺には奢ってくれないんですか」
姫野が顔を上げた。少女もつられてそちらを見ると、アキはもう入口へ向かっていた。
「……聞いた? 今、自分から言ったよ」
「姫野が二人とも誘ったからでしょう」
「そうなんだけど。ちょっと待って、アキ君。大盛りは別ね」
背中へ声をかけながら、姫野が地図を鞄へ押し込む。少女もあとに続き、入口で待っていたアキの横を通った。
「ラーメンも、美味しかったの?」
アキの視線が、少女の肩越しに動いた。
「……食えば分かる」
それはそうだが、食べる前に聞いているのに。
姫野が後ろから肩へ手を置き、階段の方へ促した。
*
川沿いへ出る頃には、風が強くなっていた。
少女は首元へ入った髪を引き出し、前を歩く二人との間を詰めた。姫野の上着の裾が風に膨らみ、そのたびに脇へ抱えた鞄へ当たっている。
「早川の家、行ったんだって?」
振り返らずに聞かれ、少し早足になった。
「ええ。カレーをごちそうになったわ。ニャーコにも触れたの」
「いいなあ。私も呼んでくれればよかったのに」
「呼ぶほどのことはしてませんよ」
アキが答えると、姫野はそちらの顔を覗くように身体を傾けた。
「カレー作って、皆で食べたんでしょ。それ、私が行ってもよかったじゃん」
「先輩、その日は別の現場だったでしょう」
「あれ、そうだっけ」
「夕方、電話してきましたよ」
姫野は少し考え、それから少女へ向き直った。
「じゃあ次。次は私にも教えて」
「早川に聞いてからね。四人でも、少し狭かったから」
「私はアキ君の隣でいいよ」
「そこにはパワーが座っていたわ」
「じゃあ、交代してもらおうかな」
「食ってる途中に動かすと、皿まで持って移りますよ」
アキが横道の奥へ目を向けた。倉庫の屋根が見えている。
少女は風で折れかけた地図を押さえながら、もう一つ付け足した。
「あと、人参を置かれるわよ。隣の皿に」
「へえ。アキ君、食べてあげたんだ」
「戻しました」
「私が隣なら、そんなことしないのに」
「先輩は俺の皿から取るでしょう」
姫野が笑い、少女も地図の陰で口元を緩めた。
「食べたいものが二つあるなら、先に言ってくれればいいわ。違うものを頼めるから」
「ほんと? じゃあ今日、そうしよう」
「今日はチャーハンも頼むんでしょう?」
「うん。それと、ラーメンね」
姫野がアキの方を見た。今度はアキも何か返しかけたが、前方の警察官に気づくと歩調を変える。
規制線の手前まで来たところで、姫野の手が少女の肘へ軽く触れた。
「地図、しまって。ここからは足元も見てね」
川から離れているのに、道路が濡れていた。
水の筋は倉庫の開いた門から続き、排水溝の縁に、透明な丸いものがいくつも引っかかっている。泡に見えたが、風に吹かれても割れなかった。
姫野は少女を門から離れた側へ寄せ、アキが説明を聞き終えるのを待った。
*
倉庫の裏には、使われなくなった貯水池があった。
岸に沿ってコンクリートの通路が延び、その端へ錆びた手すりが残っている。水面は低く、底の泥が所々に露出していた。悪魔は、その真ん中にいる。
魚の頭だった。
大きな口が斜め上を向き、長い胴の左右から、細く折れ曲がった脚が突き出している。尾が動くたびに泥水が跳ね、身体の下から丸い泡が浮かんだ。
門の外で見たものと同じだ。泡は水に浮くものもあれば、岸へ押し寄せ、そのままコンクリートに貼りつくものもあった。
「近づかないでね」
姫野が少女の前へ腕を出した。
足元にあった泡が、触れてもいないのに潰れる。薄い膜が弾け、手すりの支柱へ飛んだ。錆の浮いた表面から、細く煙が立つ。
少女は足を引いた。
「跳ねるのね」
「うん。私たちが踏んでも、同じことになると思う」
悪魔の頭がこちらへ動いた。泥から脚が抜け、胴が持ち上がる。見えていたよりも長い。
アキが刀を抜きながら、貯水池の左側へ進んだ。
「こっちへ向けます。先輩は脚を。お前は右へ回れ。泡のないところだけ使えよ」
「右の手前なら押さえられる。アキ君、奥へ入りすぎないでね」
姫野の返事を聞き、少女はナイフを抜いた。
通路の上には倒れた柵があり、その先は泡で塞がっている。柵を跨いだところで止まり、悪魔の脚が岸へかかるのを待った。
魚の口が大きく開いた。
歯の隙間から水が流れ、アキへ向けて頭が突き出される。脚が一斉に伸びたが、右の一本だけが途中で止まった。胴が傾く。その下をアキが抜け、地面へ突き立った脚に刀を入れた。
硬いものが割れる音がした。
切断には至らず、悪魔が身体を捻った。姫野に止められていた脚が震え、通路の端を削っていく。
「思ったより強いなあ。キミ、そっち入れる?」
「もう一本、岸に上がったら。今は水の上だから――」
言い終わる前に尾が持ち上がった。
水面が膨らみ、泥水が通路へ押し寄せる。少女は柵へ片足をかけ、後ろへ退いた。さっきまで乾いていた場所にも、丸い泡が転がってくる。
「そこ離れて!」
姫野の声に、さらに二歩退く。
止められていた脚が岸を叩き、コンクリートの角が欠けた。姫野はすでに位置を変え、アキへ空いた通路を示している。
「左、今なら通れる!」
「分かりました!」
アキが先ほど傷をつけた脚の内側へ回った。
少女は柵の向こうを見た。右の脚が岸へ上がり、体重を支えている。関節の下に、薄く折れ込んだ皮膚があった。
「姫野、手前の脚をもう一度。曲がらなければ切れるわ」
「長くは持たないよ」
「合図して。そっちに合わせる」
足元の泡を避け、柵の切れ目へ移った。
姫野が腕を伸ばす。悪魔の脚が外へ引かれ、関節の皮膚が張った。
「今!」
柵を越え、低くなって脚の内側へ入る。薄いところへ刃を当て、身体ごと引いた。手首に抵抗がかかり、途中で止まりかけたが、残りは向こうの力で裂けた。
支えを失った胴が落ちる。
「抜けて!」
少女は柄を引き戻すより先に足を動かした。刃が肉から離れ、すぐ後ろへ胴が叩きつけられる。泥が首へ飛んだ。
正面でアキが刀を振り抜いた。傷のあった脚が折れ、魚の頭が片側へ傾く。
それでも、口は閉じなかった。
顎を岸へ擦りつけながら、少女の方へ向きを変える。残った脚が地面を掻き、背後では尾が持ち上がっていた。
「上から来る!」
振り返りかけたとき、上着の背中が引かれた。
足が地面を離れ、視界の端を尾が通り過ぎる。すぐに靴底が通路へ触れたので、膝を曲げて受け止めた。振り向くと、姫野がこちらへ伸ばしていた手を下ろすところだった。
「立てるね?」
「ええ」
「じゃあ右、見てて。アキ君の方へ回さないで」
姫野は返事を待たず、悪魔へ向き直った。
尾がもう一度持ち上がろうとして、途中で横へ折れる。見えない何かに引かれ、胴が捻られた。アキはその動きに合わせて岸の縁へ足をかけ、頭の後ろへ刀を突き入れる。
少女は右へ回り込もうとした脚を斬った。
歯が鳴った。顎が何度か開閉し、泥の上を滑ったあと、頭の重みで岸が沈む。残った脚も、尾も、しばらく動いていたが、姫野は手を下ろさなかった。
アキが刀を抜き、距離を取る。
少女も泡の残る場所を確かめながら退いた。呼吸を整えて待っているうちに、最後まで曲がっていた脚がゆっくり伸び、それきり動かなくなった。
*
姫野は、悪魔の頭へ腰を下ろしていた。
少女が靴についた泥を落としている間に上がったらしい。片膝へ肘を載せ、アキが傷口を調べるのを見ている。
「そこ、服が汚れない?」
「もう汚れてる。背中、見える?」
少し身を捻られたので、少女は頭の脇へ回った。
上着の裾に、泥が広く跳ねていた。
「ついてるわ。右にも」
「じゃあ座っても同じだね」
「あとで乾くと、椅子にも落ちるでしょう」
「先に払えば大丈夫。アキ君も何か言いたそうだけど、今は聞こえないことにしよ」
アキは何も言わなかった。
傷口へ入れていた手を止め、指先で小さな塊を摘み上げる。血が落ちた。
「見つけました」
姫野の靴先が止まった。
少女はアキの手元へ近づいた。肉には見えたが、悪魔の身体のどこにも同じ色の部分はない。
「銃の悪魔の?」
「ああ。容器、出してくれ」
鞄を開けて探していると、上から姫野の声がした。
「やっぱり食べてたか。雑魚悪魔にしちゃ、強かったからね」
少女は容器を取り出したが、姫野が続けたので、そのまま手に持っていた。
「食べたのか、食べさせたのか」
アキは肉片を見ている。
「どっちでも、やることは同じです」
血が指を伝い、袖口へ近づいた。拭くものも要るだろうと、少女は鞄の脇へ手を入れる。
「悪魔は全部殺す。その先に、奴がいる」
姫野から返事はなかった。
少女が布を取り出して顔を上げると、彼女はもう肉片を見ていなかった。アキの横顔へ目を向け、膝に載せていた手を、ゆっくり下ろす。
岸の向こうで無線が鳴った。
アキは容器へ肉片を収め、蓋を確かめてから応じた。少女も鞄を閉じる。姫野は悪魔の頭から滑り下り、靴の裏についた泥を岸の縁で払った。
*
引き継ぎを終えると、倉庫の外には車が増えていた。
少女は使った布を袋へ分け、ナイフの留め具を閉じた。横で姫野が上着を脱ぎ、裾を払っている。乾きかけた泥が落ちたが、背中の高いところに薄い木片が一本、貼りついたまま残っていた。
「姫野、少し貸して」
「何がついてる?」
「木。引っかかっているから、そこを引っ張らないで」
上着を受け取り、糸を切らないよう木片を抜いた。途中で先が折れたので、残りを爪で摘まむ。
姫野が横から覗いた。
「そんなとこまで飛んだんだ。キミの方は?」
「首に泥が入ったわ。あとで洗いたい」
「ああ、そこ。ちょっと動かないでね」
襟を外へ引かれ、冷たい布が首の後ろへ触れた。少女が肩を上げると、姫野は手を止める。
「冷たかった?」
「先に言ってほしかったわ」
「言ったよ。動かないでって」
「冷たい方を」
姫野が小さく笑い、今度は布を見せてから当てた。少女も木片を抜き終え、穴が開いていないことを確かめて返す。
「さっき、引っ張ってくれてありがとう。尾は見えたけど、避ける方に柵があったから」
「うん。あそこ狭かったもんね。背中、苦しくなかった?」
「大丈夫。脚を離すときも、言ってくれたから退けたわ」
姫野は布の面を変え、耳の下まで拭いてくれた。
「じゃあ、次も聞いてて。私もずっと押さえてられるわけじゃないから」
「ええ。もういい?」
「待って。ここだけ残ってる」
指で髪を分けられる。下を向いたまま待っていると、アキの靴が近づいてきた。
「終わりました。戻れます」
「こっちも終わり。はい、綺麗になったよ」
少女は首を動かし、襟が貼りつかなくなったのを確かめた。
姫野は上着を羽織り直し、門へ向かう。少女も鞄を持ったが、朝の地図を思い出して呼び止めた。
「ラーメンのお店は、まだ開いているのかしら」
姫野が振り返った。
「あ、行く?」
「行かない? もう戻らなければならないなら――」
「大丈夫。ね、アキ君」
「報告は入れてあります。食ってからで間に合いますよ」
姫野は鞄から地図を抜き、広げかけてやめた。
「こっち。橋を渡ったら近いよ」
少女が隣へ追いつくと、空腹だったことを思い出したように、腹の奥が動いた。姫野にも聞こえたかもしれない。顔を向けたが、こちらは見ずに前を歩いていた。
ただ、少しだけ歩調が速くなった。
*
店の前には、緑色の幟が出ていた。
風で巻きついていた布が開くと、大きな文字が読める。
「沼ラーメン」
声に出した少女の隣で、姫野が店の引き戸へ手をかけた。
「それそれ。看板も変わってないね」
「沼って、あの沼?」
「ほかにあるか?」
アキに聞き返され、少女は幟をもう一度見た。
ないと思う。けれどラーメンの名前として書かれると、自分が知らないだけで、別の意味もあるのかもしれなかった。
店内には油と醤油の匂いがこもっていた。
昼の混む時間は過ぎているらしく、カウンターの端で客が一人、チャーハンを食べている。厨房から顔を出した店主が三人だと確かめ、奥のテーブルを示した。
壁にも同じ名前が貼ってあった。
名物、沼ラーメン。
写真のスープは暗い緑色で、真ん中に白いものが浮いている。光が反射しているのかと思ったが、どうも具らしい。
「これ、何が入っているの?」
向かいへ座った姫野に聞くと、メニューをこちらへ寄せてくれた。端に材料らしい文字が並んでいたが、細かく、いくつかは読めなかった。
「食べたら分かるんじゃない?」
「早川にもそう言われたわ」
隣でアキがコップを置いた。
「普通のラーメンもあるぞ」
「でも、二人ともこっちを食べたんでしょう。一度なら、食べてみたいわ」
姫野が口元へメニューを上げた。
少女はその裏側を見てから、アキへ顔を向ける。彼は何か言いかけ、結局、厨房の方へ手を上げた。
「チャーハンも頼みますよ。大盛りで」
「はいはい。じゃあ沼ラーメン一つと、チャーハン二つ。片方大盛りでお願いしまーす」
姫野が注文を伝えた。
店主は聞き返すこともなく、沼一つね、と応じた。
「二人はラーメンにしないの?」
「私は前に食べたから」
「私も、前に食べたものを頼むことはあるわ」
「今日はチャーハンの気分なんだよねえ」
姫野はメニューを畳み、卓上の調味料の脇へ立てた。アキは割り箸の袋を外している。
何か変だった。
けれど、二人が揃って自分の食べるものを間違えさせようとしているとは、そのときはまだ考えなかった。
*
先に来たチャーハンから、葱と炒めた卵の匂いがした。
米は丸く盛られ、表面に細かい肉が混ざっている。アキは取り皿を一枚引き寄せ、大盛りの端から少女の分を分けた。
「先にこっちも置いとくぞ」
「ありがとう。ラーメンが来てから食べるわ」
「……そうか」
今度は、はっきりと間があった。
姫野がテーブルの下で足を動かしたらしく、アキの膝が少しずれた。彼は姫野を見たが、何も言わない。
厨房で丼を置く音がした。
「沼、お待ちどう」
目の前へ置かれたのは、写真よりも緑色の濃いスープだった。
細かな粒が一面に浮き、湯気の向こうで白い塊がゆっくり動いている。麺は沈んで見えない。レンゲを入れると、表面にできた溝が遅れて埋まった。
香りは、さっきまで店に満ちていたものと違った。
魚だろうか。それに、煮た野菜。鼻を近づける前に甘い匂いも混ざり、何を基準に考えればいいのか分からなくなる。
少女はレンゲを持ち上げた。
向かいの姫野が、自分の皿に手をつけていない。
「食べないの?」
「食べるよ。熱いうちにどうぞ」
「姫野もね」
姫野がようやくスプーンを取ったので、少女もスープへ息を吹きかけた。
少しだけ口へ含む。
最初に、甘かった。
砂糖を入れた卵焼きのような、食事の中にあっても構わない甘さだと思いかけたところへ、魚の匂いが鼻の奥まで上がってきた。続いて塩気が舌の両側へ残り、飲み込もうとすると、今度は青い野菜の苦みが喉の手前へ集まる。
レンゲを下ろした。
まだ口の中にある。
熱いからではなかった。むしろ少し冷ましたおかげで、一つずつ、妙にはっきり分かってしまう。舌で押せば粉っぽいものが残り、それを飲み込もうとすると甘さが戻ってきた。
何を食べたのだろう。
ラーメンだ。それは分かっている。厨房から運ばれ、メニューにも書いてあった。隣の客も同じ店で食事をしているし、店主は平然と鍋を洗っている。何かが混ざったのなら、そんなふうにはしていないはずだ。
少女は丼を見た。
上澄みだけを取ったから、味が偏っていたのかもしれない。だが、偏るということは、下にはこれより多く入っているものがあるということだ。魚か、甘いものか、苦い野菜か。どれが増えても、今よりよくなる気がしなかった。
向かいで、姫野のスプーンが止まった。
「……どう?」
答えたいが、先に飲み込まなければならない。
口を閉じたまま少し顎を引き、ようやく喉へ送った。通ったあとにも匂いが残る。息を鼻から出したのがよくなかった。さっきと同じものが、今度は奥から来た。
水へ手を伸ばしかけ、その前にもう一度、レンゲの中を見た。
施設で出されたものなら、飲み込む方法は知っていた。
冷めて表面の固まった粥は、固いところを先に崩す。脂の浮いた薄い汁は、かき混ぜず、器を傾ける位置を選ぶ。何の肉か分からないものは小さくして、あまり長く噛まない。味がなくても、匂いが悪くても、どう口に入れれば早く済むかは覚えられた。
これは温かい。
作ったばかりで、具も、味も、十分すぎるほど入っている。何かが足りなくてこうなったのではない。厨房では材料を選び、量を決め、火へかけ、そのうえでこれを丼に移したのだ。
どこかで味を見る時間もあったはずだった。
そのときは、どうだったのだろう。
自分が間違った場所をすくったのか。混ぜてから食べるものなのか。それとも、これは麺を食べるための汁で、そのまま飲むことが間違いなのか。レンゲは店の人がつけてくれた。なら、飲んでもよいのではないか。
考えている間にも、舌の奥が苦い。
水を飲んだ。冷たさが通り過ぎ、少し薄まったと思ったところで、魚の匂いだけが残った。
薄くすればよいわけでもないらしい。
「ねえ。黙っちゃった」
姫野がアキへ話しかけた。
少女はそちらを見る。アキは口元へ拳を当て、窓の外を向いていた。咳をしたわけではない。その肩が一度だけ揺れた。
「……何を足したらいいのか、考えているの」
姫野がこちらへ向き直った。
「足すの?」
「でも、どれも要らない気がするわ」
胡椒も酢も置いてある。普段なら少し入れて味を変えられるのだろうが、今あるものだけで、もう十分に困っていた。ここへさらに何かを加えた結果まで、考える余裕はなかった。
姫野はスプーンを皿へ置いた。
口元が動き、声を出しかけては閉じる。少女が見続けていると、ついに顔を横へ向けた。
「ごめん、ちょっと……足すんだ」
「減らせないでしょう。入っているものは」
そこで姫野が笑った。
肩を揺らし、目元へ指を当てている。アキまで顔を戻さず、テーブルの端へ手をついた。
少女は二人を見比べたあと、レンゲを丼へ戻した。
「知っていたのね」
姫野が何度も小さく首を縦に振る。
「ごめん。うん。知ってた」
「早川も?」
「……チャーハンは、うまいと言っただろ」
「ラーメンのことも聞いたわ」
アキはようやくこちらを見た。
いつもの、仕事の間違いを見つけた顔ではなかった。口の端がまだ戻っていない。それを隠すように、取り分けたチャーハンを近くへ寄せてくる。
「こっちは食える。無理にそっちを食うな」
「それは、飲む前に言ってほしかったわ」
姫野がまた笑いかけ、今度は自分で口を押さえた。
*
チャーハンは、ひと口で分かった。
米を噛むと、卵と油の香りがする。塩気はあるが、そのあとに別のものが割り込んでこない。小さな肉を噛んでも、その味がするだけだ。
もう一口食べた。
姫野は水を飲み、ようやく椅子へ座り直していた。
「こっちは美味しいでしょう」
「ええ。とても」
同じ厨房を見た。
同じ店主が鍋を振っていた。少女はチャーハンを食べてから沼ラーメンへ顔を向け、もう一度、店主の背中を見た。
「それ、私もやったよ」
姫野に言われ、顔を戻す。
「出前の人に、同じ店ですかって聞きたくなった」
「姫野も、最初は知らなかったの?」
「うん。看板だから美味しいんじゃないかと思って、アキ君に勧めたんだよね。そしたら、この人――」
「言わなくていいです」
アキが遮った。
先ほどまでは姫野を止めなかったのに、今度は早かった。
少女はスプーンを皿へ置いた。
「どうしたの?」
「一口。ほんとに一口すすった途端、すごいむせて、全部出しちゃったの」
アキが眉を寄せる。
「先輩だって食べなかったでしょう」
「だって目の前であんなになったら、怖いじゃん」
「そのあと俺の水を飲んだくせに」
「私もひと口飲んだもん。スープだけね」
少女はアキの顔を見た。
先ほど、水の入ったコップを近くへ置いてくれたことを思い出す。チャーハンを先に分けたのも、その前に普通のラーメンがあると言ったのも。
止めようとは、少しだけしていたらしい。
「早川は、飲み込めなかったのね」
「すすったから、匂いまで入ったんだよ」
「私は飲み込んだわ」
「張り合うな。二口目はいらないからな」
向かいの姫野が、テーブルへ額を近づけた。
「待って。私、キミまでそんなこと言うと思わなかった」
「だって、私が食べているときに笑っていたでしょう」
アキが返事をしないので、もう一度そちらを見る。
目が合うと、今度は隠さず少し笑った。
「吐くかと思ったんだよ。ずっと黙ってるから」
「吐かない方法を考えていたのよ」
言ってから、少女はコップを取った。
あの施設ではどうしたか、その続きまで話すつもりはなかった。水を少し飲むと、姫野が丼を自分の方へ引こうとしていた。
「もういいよ。ごめんね。新しいの頼もうか」
「チャーハンがあるから、大丈夫。でも、それはどこへ持っていくの?」
「こっちへ避けとこうと思って。匂いも来るでしょ」
少女は丼の縁へ指を添えた。
姫野の手が止まる。
「取り皿、もう二枚あるかしら」
「……何に使うの?」
「三人で分けるのよ。姫野も、そうしようって言ったでしょう」
姫野がアキを見た。
彼は自分のチャーハンへスプーンを入れ、聞こえなかったように食べ始める。
「早川の分もよ」
「俺はいい」
「今日は熱いから、前と違うかもしれないわ」
姫野が顔を上げた。
「あ、それ。私も気になってた」
「先輩、さっき変わってないって言ってましたよね」
「見た感じだよ。ほら、出前ってどうしても冷めるじゃん」
アキはスプーンを置き、少女へ向き直った。
「そっちにつくのか」
「姫野にも食べてもらうわ」
取り皿を頼むと、店主は小さな器を二つ持ってきた。少女が麺を持ち上げると、スープを吸った緑色の束が現れる。
まだ麺は食べていなかった。
そのことを思い出したが、今から一人で確かめる気にはならなかった。
少しずつ二つの器へ分け、スープも同じだけ入れる。姫野は途中まで見ていたが、レンゲがもう一度沈むところで手を上げた。
「それくらいでいいよ。私、味は覚えてるから」
「私も、しばらく忘れないと思うわ」
「うん。そこは嘘つかなかったでしょ」
「美味しいと思うでしょう、普通は」
姫野は差し出した器を受け取った。
「はい。ごめんなさい」
語尾はまだ少し笑っていたが、器を押し返しはしなかった。少女はアキの前にも置き、コップを手の届くところへ寄せる。
「すすらなければ、少しは違うかもしれないわ」
「よく覚えとく」
アキは箸で麺を二本だけ持ち上げた。
姫野がそれを見て笑いかけたので、少女は彼女の器へ目を向ける。箸が動いた。
三人とも、しばらく喋らなかった。
姫野は口を閉じ、天井へ顔を向けた。アキは眉間を寄せたまま、麺を噛んでいる。少女も自分の分を少し口へ入れたが、噛むたびに汁が出るので、スープだけの方が早く済んだと途中で分かった。
姫野が先に水を取った。
「……あったかいね」
「ええ」
「そこしか変わってねえですよ」
アキが静かに箸を置いた。
姫野の顔を見た少女の口元が緩み、慌てて最後の麺を飲み込む。ようやく二人と同じように水を飲めた。
*
沼ラーメンの丼には、まだ半分以上が残っていた。
姫野は店主へ声をかけ、すみません、残しちゃって、と告げた。店主は慣れた様子で丼を下げ、チャーハンは足りるかと聞く。
少女が顔を上げるより早く、姫野がもう一皿頼んだ。
「今度は三人でね」
「それなら、分けられるわ」
空いたところへ水の差し替えが置かれた。
少女は店主が離れるのを待ってから、声を落とした。
「あれ、残してもよかったの?」
「いいよ。無理して具合悪くなったら困るし。勧めたの私なんだから」
姫野が残っていたチャーハンを少女の皿へ少し足した。
「美味しいっていう人もいるのかしら」
「いるんじゃない? ずっと看板だし」
「先輩が人に食わせてるからじゃないですか」
「私、そんな何人も連れてきてないよ」
少女とアキを順に見て、それから指を二本立てる。
「二人」
「二人とも食べられなかったじゃない」
少女が言うと、姫野は立てていた指を畳んだ。
その手を見ながら、アキが茶を飲む。口元に少し笑いが残っていたので、少女はテーブルの下で彼の靴へ爪先を寄せかけ、やめた。代わりに、追加のチャーハンが来たら自分が最初に取ろうと、空いた皿を近くへ置く。
「前は、張り込みだったのよね。そのあと、仕事はできたの?」
「できたよ。アキ君、咳が止まらなくて、しばらく窓から離れてたけど」
「先輩はその間、笑ってただけでしょう」
「外は見てたって。肩叩いてあげたじゃん」
「あれは叩きすぎです」
姫野が少女へ手を伸ばしかける。
「これくらいだったよねえ」
「私で確かめないで」
手が空中で止まり、そのまま自分の髪へ戻った。
追加のチャーハンが運ばれてきた。少女は宣言せず、先に自分の皿へ取った。姫野が話しながらスプーンを伸ばしたところには、もう端の一角がない。
「あ、そこ卵多かったのに」
「私も好きなの」
「じゃあ、こっちにも残しといてよ」
少女は皿を少し回し、反対側の卵が多いところを向けた。姫野がそこを取る間に、アキも自分の分をよそう。
今度は誰も、相手が食べるまで待っていなかった。
「この話、岸辺にしてもいい?」
「いいけど、私が奢ったことも言ってね」
「ラーメンを勧められたことも?」
「そこ抜いたら、チャーハン奢っただけのいい先輩じゃん」
少女は頬の内側で米を寄せ、飲み込んでから言った。
「抜かないわ」
「だよねえ」
姫野は笑い、アキの皿を覗き込んだ。今度は彼も皿を引かず、大皿にまだ残っている方をスプーンで示す。
窓の外を、作業着の男が二人通った。
その向こうには川へ戻る道が見える。アキの鞄は椅子と壁の間に置かれ、封をした容器も、その中にしまわれていた。
少女が追加の分を食べ終える頃、姫野が伝票へ手を伸ばした。
「よし。今日は私が持つよ」
「俺のもですか」
「食べさせちゃったからね。今度は奢って」
「先にそれを言ってくださいよ」
「じゃあ次の分は、今言ったからね」
アキは財布を出しかけた手を止めた。
姫野が席を立つと、少女も鞄を取り、椅子を戻す。壁のメニューが目に入り、少し迷ってから声をかけた。
「次は、私が選んでもいい?」
「いいよ。あそこにあるの、何でも」
返事をしてから、姫野もメニューを見た。
沼ラーメンの隣に、小さく「沼つけ麺」と書いてある。
少女はまだ何も言っていなかったが、アキが先に口を開いた。
「それはやめとけ」
「まだ、見ただけよ」
姫野が会計の前で足を止めた。こちらを見て、それからアキへ顔を向ける。
「でも、つけなければ食べられるかも」
「普通のを頼んでください」
少女は壁から目を離し、二人の方へ歩いた。
次も自分が一番先に食べるつもりはなかった。