不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話   作:@taka

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第九話 看板メニュー

第九話 看板メニュー

 

 姫野が地図に丸をつけた場所は、任務先から少し離れていた。

 

 少女は机へ手をついたまま、先ほどアキが示した倉庫と、その丸を見比べた。川を渡り、二つ目の角を曲がったところ。悪魔が出たという通報には、こちらの住所はなかったはずだ。

 

「こっちも調べるの?」

「ううん。ご飯」

「地図に書いていいのかしら」

「私のだからいいんだよ。終わったら寄ろうと思って。アキ君、ここ覚えてる?」

 

 鞄へ資料を入れていたアキが、差し出された地図を覗いた。

 

 丸の脇に書かれた店名を見たところで、手が止まる。

 

「……まだやってるんですか」

「やってるよ。先月、近く通ったもん」

「二人で行ったことがあるの?」

 

 尋ねると、姫野は机の端へ腰を預けた。

 

「店には入ってないんだけどね。前に近くで張り込んでたとき、出前を取ったの。なかなか終わらなくってさ。お腹空いたアキ君、全然喋ってくれなくなるんだよ」

「見張ってたんです」

「食べたあとも喋らなかったじゃん」

「先輩」

 

 顔を見合わせた二人の間へ、少女はもう一度地図を寄せた。

 

「何のお店?」

「ラーメン屋。看板のやつがあってね、一度食べると忘れられないの」

「チャーハンはうまいぞ」

 

 アキが言った。

 

 姫野は口を開きかけ、そのまま彼を見る。

 

「それも頼めばいいでしょ。三人いるんだし」

「先に言っておこうと思っただけです」

「何を?」

「チャーハンがうまいって」

 

 少女が聞き直しても、それ以上は続かなかった。アキは鞄を閉じ、机に残っていた写真を姫野へ渡す。姫野も地図を畳みかけたが、少女がまだ見ていることに気づき、店名のところだけ表にしてくれた。

 

「食べてみる? 今日は私が出すよ」

「任務が終わったら?」

「そう。お腹空かせておいて」

「先輩が払うなら、俺もチャーハンにします」

「アキ君は自分で払いなよ」

「俺には奢ってくれないんですか」

 

 姫野が顔を上げた。少女もつられてそちらを見ると、アキはもう入口へ向かっていた。

 

「……聞いた? 今、自分から言ったよ」

「姫野が二人とも誘ったからでしょう」

「そうなんだけど。ちょっと待って、アキ君。大盛りは別ね」

 

 背中へ声をかけながら、姫野が地図を鞄へ押し込む。少女もあとに続き、入口で待っていたアキの横を通った。

 

「ラーメンも、美味しかったの?」

 

 アキの視線が、少女の肩越しに動いた。

 

「……食えば分かる」

 

 それはそうだが、食べる前に聞いているのに。

 

 姫野が後ろから肩へ手を置き、階段の方へ促した。

 

     *

 

 川沿いへ出る頃には、風が強くなっていた。

 

 少女は首元へ入った髪を引き出し、前を歩く二人との間を詰めた。姫野の上着の裾が風に膨らみ、そのたびに脇へ抱えた鞄へ当たっている。

 

「早川の家、行ったんだって?」

 

 振り返らずに聞かれ、少し早足になった。

 

「ええ。カレーをごちそうになったわ。ニャーコにも触れたの」

「いいなあ。私も呼んでくれればよかったのに」

「呼ぶほどのことはしてませんよ」

 

 アキが答えると、姫野はそちらの顔を覗くように身体を傾けた。

 

「カレー作って、皆で食べたんでしょ。それ、私が行ってもよかったじゃん」

「先輩、その日は別の現場だったでしょう」

「あれ、そうだっけ」

「夕方、電話してきましたよ」

 

 姫野は少し考え、それから少女へ向き直った。

 

「じゃあ次。次は私にも教えて」

「早川に聞いてからね。四人でも、少し狭かったから」

「私はアキ君の隣でいいよ」

「そこにはパワーが座っていたわ」

「じゃあ、交代してもらおうかな」

「食ってる途中に動かすと、皿まで持って移りますよ」

 

 アキが横道の奥へ目を向けた。倉庫の屋根が見えている。

 

 少女は風で折れかけた地図を押さえながら、もう一つ付け足した。

 

「あと、人参を置かれるわよ。隣の皿に」

「へえ。アキ君、食べてあげたんだ」

「戻しました」

「私が隣なら、そんなことしないのに」

「先輩は俺の皿から取るでしょう」

 

 姫野が笑い、少女も地図の陰で口元を緩めた。

 

「食べたいものが二つあるなら、先に言ってくれればいいわ。違うものを頼めるから」

「ほんと? じゃあ今日、そうしよう」

「今日はチャーハンも頼むんでしょう?」

「うん。それと、ラーメンね」

 

 姫野がアキの方を見た。今度はアキも何か返しかけたが、前方の警察官に気づくと歩調を変える。

 

 規制線の手前まで来たところで、姫野の手が少女の肘へ軽く触れた。

 

「地図、しまって。ここからは足元も見てね」

 

 川から離れているのに、道路が濡れていた。

 

 水の筋は倉庫の開いた門から続き、排水溝の縁に、透明な丸いものがいくつも引っかかっている。泡に見えたが、風に吹かれても割れなかった。

 

 姫野は少女を門から離れた側へ寄せ、アキが説明を聞き終えるのを待った。

 

     *

 

 倉庫の裏には、使われなくなった貯水池があった。

 

 岸に沿ってコンクリートの通路が延び、その端へ錆びた手すりが残っている。水面は低く、底の泥が所々に露出していた。悪魔は、その真ん中にいる。

 

 魚の頭だった。

 

 大きな口が斜め上を向き、長い胴の左右から、細く折れ曲がった脚が突き出している。尾が動くたびに泥水が跳ね、身体の下から丸い泡が浮かんだ。

 

 門の外で見たものと同じだ。泡は水に浮くものもあれば、岸へ押し寄せ、そのままコンクリートに貼りつくものもあった。

 

「近づかないでね」

 

 姫野が少女の前へ腕を出した。

 

 足元にあった泡が、触れてもいないのに潰れる。薄い膜が弾け、手すりの支柱へ飛んだ。錆の浮いた表面から、細く煙が立つ。

 

 少女は足を引いた。

 

「跳ねるのね」

「うん。私たちが踏んでも、同じことになると思う」

 

 悪魔の頭がこちらへ動いた。泥から脚が抜け、胴が持ち上がる。見えていたよりも長い。

 

 アキが刀を抜きながら、貯水池の左側へ進んだ。

 

「こっちへ向けます。先輩は脚を。お前は右へ回れ。泡のないところだけ使えよ」

「右の手前なら押さえられる。アキ君、奥へ入りすぎないでね」

 

 姫野の返事を聞き、少女はナイフを抜いた。

 

 通路の上には倒れた柵があり、その先は泡で塞がっている。柵を跨いだところで止まり、悪魔の脚が岸へかかるのを待った。

 

 魚の口が大きく開いた。

 

 歯の隙間から水が流れ、アキへ向けて頭が突き出される。脚が一斉に伸びたが、右の一本だけが途中で止まった。胴が傾く。その下をアキが抜け、地面へ突き立った脚に刀を入れた。

 

 硬いものが割れる音がした。

 

 切断には至らず、悪魔が身体を捻った。姫野に止められていた脚が震え、通路の端を削っていく。

 

「思ったより強いなあ。キミ、そっち入れる?」

「もう一本、岸に上がったら。今は水の上だから――」

 

 言い終わる前に尾が持ち上がった。

 

 水面が膨らみ、泥水が通路へ押し寄せる。少女は柵へ片足をかけ、後ろへ退いた。さっきまで乾いていた場所にも、丸い泡が転がってくる。

 

「そこ離れて!」

 

 姫野の声に、さらに二歩退く。

 

 止められていた脚が岸を叩き、コンクリートの角が欠けた。姫野はすでに位置を変え、アキへ空いた通路を示している。

 

「左、今なら通れる!」

「分かりました!」

 

 アキが先ほど傷をつけた脚の内側へ回った。

 

 少女は柵の向こうを見た。右の脚が岸へ上がり、体重を支えている。関節の下に、薄く折れ込んだ皮膚があった。

 

「姫野、手前の脚をもう一度。曲がらなければ切れるわ」

「長くは持たないよ」

「合図して。そっちに合わせる」

 

 足元の泡を避け、柵の切れ目へ移った。

 

 姫野が腕を伸ばす。悪魔の脚が外へ引かれ、関節の皮膚が張った。

 

「今!」

 

 柵を越え、低くなって脚の内側へ入る。薄いところへ刃を当て、身体ごと引いた。手首に抵抗がかかり、途中で止まりかけたが、残りは向こうの力で裂けた。

 

 支えを失った胴が落ちる。

 

「抜けて!」

 

 少女は柄を引き戻すより先に足を動かした。刃が肉から離れ、すぐ後ろへ胴が叩きつけられる。泥が首へ飛んだ。

 

 正面でアキが刀を振り抜いた。傷のあった脚が折れ、魚の頭が片側へ傾く。

 

 それでも、口は閉じなかった。

 

 顎を岸へ擦りつけながら、少女の方へ向きを変える。残った脚が地面を掻き、背後では尾が持ち上がっていた。

 

「上から来る!」

 

 振り返りかけたとき、上着の背中が引かれた。

 

 足が地面を離れ、視界の端を尾が通り過ぎる。すぐに靴底が通路へ触れたので、膝を曲げて受け止めた。振り向くと、姫野がこちらへ伸ばしていた手を下ろすところだった。

 

「立てるね?」

「ええ」

「じゃあ右、見てて。アキ君の方へ回さないで」

 

 姫野は返事を待たず、悪魔へ向き直った。

 

 尾がもう一度持ち上がろうとして、途中で横へ折れる。見えない何かに引かれ、胴が捻られた。アキはその動きに合わせて岸の縁へ足をかけ、頭の後ろへ刀を突き入れる。

 

 少女は右へ回り込もうとした脚を斬った。

 

 歯が鳴った。顎が何度か開閉し、泥の上を滑ったあと、頭の重みで岸が沈む。残った脚も、尾も、しばらく動いていたが、姫野は手を下ろさなかった。

 

 アキが刀を抜き、距離を取る。

 

 少女も泡の残る場所を確かめながら退いた。呼吸を整えて待っているうちに、最後まで曲がっていた脚がゆっくり伸び、それきり動かなくなった。

 

     *

 

 姫野は、悪魔の頭へ腰を下ろしていた。

 

 少女が靴についた泥を落としている間に上がったらしい。片膝へ肘を載せ、アキが傷口を調べるのを見ている。

 

「そこ、服が汚れない?」

「もう汚れてる。背中、見える?」

 

 少し身を捻られたので、少女は頭の脇へ回った。

 

 上着の裾に、泥が広く跳ねていた。

 

「ついてるわ。右にも」

「じゃあ座っても同じだね」

「あとで乾くと、椅子にも落ちるでしょう」

「先に払えば大丈夫。アキ君も何か言いたそうだけど、今は聞こえないことにしよ」

 

 アキは何も言わなかった。

 

 傷口へ入れていた手を止め、指先で小さな塊を摘み上げる。血が落ちた。

 

「見つけました」

 

 姫野の靴先が止まった。

 

 少女はアキの手元へ近づいた。肉には見えたが、悪魔の身体のどこにも同じ色の部分はない。

 

「銃の悪魔の?」

「ああ。容器、出してくれ」

 

 鞄を開けて探していると、上から姫野の声がした。

 

「やっぱり食べてたか。雑魚悪魔にしちゃ、強かったからね」

 

 少女は容器を取り出したが、姫野が続けたので、そのまま手に持っていた。

 

「食べたのか、食べさせたのか」

 

 アキは肉片を見ている。

 

「どっちでも、やることは同じです」

 

 血が指を伝い、袖口へ近づいた。拭くものも要るだろうと、少女は鞄の脇へ手を入れる。

 

「悪魔は全部殺す。その先に、奴がいる」

 

 姫野から返事はなかった。

 

 少女が布を取り出して顔を上げると、彼女はもう肉片を見ていなかった。アキの横顔へ目を向け、膝に載せていた手を、ゆっくり下ろす。

 

 岸の向こうで無線が鳴った。

 

 アキは容器へ肉片を収め、蓋を確かめてから応じた。少女も鞄を閉じる。姫野は悪魔の頭から滑り下り、靴の裏についた泥を岸の縁で払った。

 

     *

 

 引き継ぎを終えると、倉庫の外には車が増えていた。

 

 少女は使った布を袋へ分け、ナイフの留め具を閉じた。横で姫野が上着を脱ぎ、裾を払っている。乾きかけた泥が落ちたが、背中の高いところに薄い木片が一本、貼りついたまま残っていた。

 

「姫野、少し貸して」

「何がついてる?」

「木。引っかかっているから、そこを引っ張らないで」

 

 上着を受け取り、糸を切らないよう木片を抜いた。途中で先が折れたので、残りを爪で摘まむ。

 

 姫野が横から覗いた。

 

「そんなとこまで飛んだんだ。キミの方は?」

「首に泥が入ったわ。あとで洗いたい」

「ああ、そこ。ちょっと動かないでね」

 

 襟を外へ引かれ、冷たい布が首の後ろへ触れた。少女が肩を上げると、姫野は手を止める。

 

「冷たかった?」

「先に言ってほしかったわ」

「言ったよ。動かないでって」

「冷たい方を」

 

 姫野が小さく笑い、今度は布を見せてから当てた。少女も木片を抜き終え、穴が開いていないことを確かめて返す。

 

「さっき、引っ張ってくれてありがとう。尾は見えたけど、避ける方に柵があったから」

「うん。あそこ狭かったもんね。背中、苦しくなかった?」

「大丈夫。脚を離すときも、言ってくれたから退けたわ」

 

 姫野は布の面を変え、耳の下まで拭いてくれた。

 

「じゃあ、次も聞いてて。私もずっと押さえてられるわけじゃないから」

「ええ。もういい?」

「待って。ここだけ残ってる」

 

 指で髪を分けられる。下を向いたまま待っていると、アキの靴が近づいてきた。

 

「終わりました。戻れます」

「こっちも終わり。はい、綺麗になったよ」

 

 少女は首を動かし、襟が貼りつかなくなったのを確かめた。

 

 姫野は上着を羽織り直し、門へ向かう。少女も鞄を持ったが、朝の地図を思い出して呼び止めた。

 

「ラーメンのお店は、まだ開いているのかしら」

 

 姫野が振り返った。

 

「あ、行く?」

「行かない? もう戻らなければならないなら――」

「大丈夫。ね、アキ君」

「報告は入れてあります。食ってからで間に合いますよ」

 

 姫野は鞄から地図を抜き、広げかけてやめた。

 

「こっち。橋を渡ったら近いよ」

 

 少女が隣へ追いつくと、空腹だったことを思い出したように、腹の奥が動いた。姫野にも聞こえたかもしれない。顔を向けたが、こちらは見ずに前を歩いていた。

 

 ただ、少しだけ歩調が速くなった。

 

     *

 

 店の前には、緑色の幟が出ていた。

 

 風で巻きついていた布が開くと、大きな文字が読める。

 

「沼ラーメン」

 

 声に出した少女の隣で、姫野が店の引き戸へ手をかけた。

 

「それそれ。看板も変わってないね」

「沼って、あの沼?」

「ほかにあるか?」

 

 アキに聞き返され、少女は幟をもう一度見た。

 

 ないと思う。けれどラーメンの名前として書かれると、自分が知らないだけで、別の意味もあるのかもしれなかった。

 

 店内には油と醤油の匂いがこもっていた。

 

 昼の混む時間は過ぎているらしく、カウンターの端で客が一人、チャーハンを食べている。厨房から顔を出した店主が三人だと確かめ、奥のテーブルを示した。

 

 壁にも同じ名前が貼ってあった。

 

 名物、沼ラーメン。

 

 写真のスープは暗い緑色で、真ん中に白いものが浮いている。光が反射しているのかと思ったが、どうも具らしい。

 

「これ、何が入っているの?」

 

 向かいへ座った姫野に聞くと、メニューをこちらへ寄せてくれた。端に材料らしい文字が並んでいたが、細かく、いくつかは読めなかった。

 

「食べたら分かるんじゃない?」

「早川にもそう言われたわ」

 

 隣でアキがコップを置いた。

 

「普通のラーメンもあるぞ」

「でも、二人ともこっちを食べたんでしょう。一度なら、食べてみたいわ」

 

 姫野が口元へメニューを上げた。

 

 少女はその裏側を見てから、アキへ顔を向ける。彼は何か言いかけ、結局、厨房の方へ手を上げた。

 

「チャーハンも頼みますよ。大盛りで」

「はいはい。じゃあ沼ラーメン一つと、チャーハン二つ。片方大盛りでお願いしまーす」

 

 姫野が注文を伝えた。

 

 店主は聞き返すこともなく、沼一つね、と応じた。

 

「二人はラーメンにしないの?」

「私は前に食べたから」

「私も、前に食べたものを頼むことはあるわ」

「今日はチャーハンの気分なんだよねえ」

 

 姫野はメニューを畳み、卓上の調味料の脇へ立てた。アキは割り箸の袋を外している。

 

 何か変だった。

 

 けれど、二人が揃って自分の食べるものを間違えさせようとしているとは、そのときはまだ考えなかった。

 

     *

 

 先に来たチャーハンから、葱と炒めた卵の匂いがした。

 

 米は丸く盛られ、表面に細かい肉が混ざっている。アキは取り皿を一枚引き寄せ、大盛りの端から少女の分を分けた。

 

「先にこっちも置いとくぞ」

「ありがとう。ラーメンが来てから食べるわ」

「……そうか」

 

 今度は、はっきりと間があった。

 

 姫野がテーブルの下で足を動かしたらしく、アキの膝が少しずれた。彼は姫野を見たが、何も言わない。

 

 厨房で丼を置く音がした。

 

「沼、お待ちどう」

 

 目の前へ置かれたのは、写真よりも緑色の濃いスープだった。

 

 細かな粒が一面に浮き、湯気の向こうで白い塊がゆっくり動いている。麺は沈んで見えない。レンゲを入れると、表面にできた溝が遅れて埋まった。

 

 香りは、さっきまで店に満ちていたものと違った。

 

 魚だろうか。それに、煮た野菜。鼻を近づける前に甘い匂いも混ざり、何を基準に考えればいいのか分からなくなる。

 

 少女はレンゲを持ち上げた。

 

 向かいの姫野が、自分の皿に手をつけていない。

 

「食べないの?」

「食べるよ。熱いうちにどうぞ」

「姫野もね」

 

 姫野がようやくスプーンを取ったので、少女もスープへ息を吹きかけた。

 

 少しだけ口へ含む。

 

 最初に、甘かった。

 

 砂糖を入れた卵焼きのような、食事の中にあっても構わない甘さだと思いかけたところへ、魚の匂いが鼻の奥まで上がってきた。続いて塩気が舌の両側へ残り、飲み込もうとすると、今度は青い野菜の苦みが喉の手前へ集まる。

 

 レンゲを下ろした。

 

 まだ口の中にある。

 

 熱いからではなかった。むしろ少し冷ましたおかげで、一つずつ、妙にはっきり分かってしまう。舌で押せば粉っぽいものが残り、それを飲み込もうとすると甘さが戻ってきた。

 

 何を食べたのだろう。

 

 ラーメンだ。それは分かっている。厨房から運ばれ、メニューにも書いてあった。隣の客も同じ店で食事をしているし、店主は平然と鍋を洗っている。何かが混ざったのなら、そんなふうにはしていないはずだ。

 

 少女は丼を見た。

 

 上澄みだけを取ったから、味が偏っていたのかもしれない。だが、偏るということは、下にはこれより多く入っているものがあるということだ。魚か、甘いものか、苦い野菜か。どれが増えても、今よりよくなる気がしなかった。

 

 向かいで、姫野のスプーンが止まった。

 

「……どう?」

 

 答えたいが、先に飲み込まなければならない。

 

 口を閉じたまま少し顎を引き、ようやく喉へ送った。通ったあとにも匂いが残る。息を鼻から出したのがよくなかった。さっきと同じものが、今度は奥から来た。

 

 水へ手を伸ばしかけ、その前にもう一度、レンゲの中を見た。

 

 施設で出されたものなら、飲み込む方法は知っていた。

 

 冷めて表面の固まった粥は、固いところを先に崩す。脂の浮いた薄い汁は、かき混ぜず、器を傾ける位置を選ぶ。何の肉か分からないものは小さくして、あまり長く噛まない。味がなくても、匂いが悪くても、どう口に入れれば早く済むかは覚えられた。

 

 これは温かい。

 

 作ったばかりで、具も、味も、十分すぎるほど入っている。何かが足りなくてこうなったのではない。厨房では材料を選び、量を決め、火へかけ、そのうえでこれを丼に移したのだ。

 

 どこかで味を見る時間もあったはずだった。

 

 そのときは、どうだったのだろう。

 

 自分が間違った場所をすくったのか。混ぜてから食べるものなのか。それとも、これは麺を食べるための汁で、そのまま飲むことが間違いなのか。レンゲは店の人がつけてくれた。なら、飲んでもよいのではないか。

 

 考えている間にも、舌の奥が苦い。

 

 水を飲んだ。冷たさが通り過ぎ、少し薄まったと思ったところで、魚の匂いだけが残った。

 

 薄くすればよいわけでもないらしい。

 

「ねえ。黙っちゃった」

 

 姫野がアキへ話しかけた。

 

 少女はそちらを見る。アキは口元へ拳を当て、窓の外を向いていた。咳をしたわけではない。その肩が一度だけ揺れた。

 

「……何を足したらいいのか、考えているの」

 

 姫野がこちらへ向き直った。

 

「足すの?」

「でも、どれも要らない気がするわ」

 

 胡椒も酢も置いてある。普段なら少し入れて味を変えられるのだろうが、今あるものだけで、もう十分に困っていた。ここへさらに何かを加えた結果まで、考える余裕はなかった。

 

 姫野はスプーンを皿へ置いた。

 

 口元が動き、声を出しかけては閉じる。少女が見続けていると、ついに顔を横へ向けた。

 

「ごめん、ちょっと……足すんだ」

「減らせないでしょう。入っているものは」

 

 そこで姫野が笑った。

 

 肩を揺らし、目元へ指を当てている。アキまで顔を戻さず、テーブルの端へ手をついた。

 

 少女は二人を見比べたあと、レンゲを丼へ戻した。

 

「知っていたのね」

 

 姫野が何度も小さく首を縦に振る。

 

「ごめん。うん。知ってた」

「早川も?」

「……チャーハンは、うまいと言っただろ」

「ラーメンのことも聞いたわ」

 

 アキはようやくこちらを見た。

 

 いつもの、仕事の間違いを見つけた顔ではなかった。口の端がまだ戻っていない。それを隠すように、取り分けたチャーハンを近くへ寄せてくる。

 

「こっちは食える。無理にそっちを食うな」

「それは、飲む前に言ってほしかったわ」

 

 姫野がまた笑いかけ、今度は自分で口を押さえた。

 

     *

 

 チャーハンは、ひと口で分かった。

 

 米を噛むと、卵と油の香りがする。塩気はあるが、そのあとに別のものが割り込んでこない。小さな肉を噛んでも、その味がするだけだ。

 

 もう一口食べた。

 

 姫野は水を飲み、ようやく椅子へ座り直していた。

 

「こっちは美味しいでしょう」

「ええ。とても」

 

 同じ厨房を見た。

 

 同じ店主が鍋を振っていた。少女はチャーハンを食べてから沼ラーメンへ顔を向け、もう一度、店主の背中を見た。

 

「それ、私もやったよ」

 

 姫野に言われ、顔を戻す。

 

「出前の人に、同じ店ですかって聞きたくなった」

「姫野も、最初は知らなかったの?」

「うん。看板だから美味しいんじゃないかと思って、アキ君に勧めたんだよね。そしたら、この人――」

「言わなくていいです」

 

 アキが遮った。

 

 先ほどまでは姫野を止めなかったのに、今度は早かった。

 

 少女はスプーンを皿へ置いた。

 

「どうしたの?」

「一口。ほんとに一口すすった途端、すごいむせて、全部出しちゃったの」

 

 アキが眉を寄せる。

 

「先輩だって食べなかったでしょう」

「だって目の前であんなになったら、怖いじゃん」

「そのあと俺の水を飲んだくせに」

「私もひと口飲んだもん。スープだけね」

 

 少女はアキの顔を見た。

 

 先ほど、水の入ったコップを近くへ置いてくれたことを思い出す。チャーハンを先に分けたのも、その前に普通のラーメンがあると言ったのも。

 

 止めようとは、少しだけしていたらしい。

 

「早川は、飲み込めなかったのね」

「すすったから、匂いまで入ったんだよ」

「私は飲み込んだわ」

「張り合うな。二口目はいらないからな」

 

 向かいの姫野が、テーブルへ額を近づけた。

 

「待って。私、キミまでそんなこと言うと思わなかった」

「だって、私が食べているときに笑っていたでしょう」

 

 アキが返事をしないので、もう一度そちらを見る。

 

 目が合うと、今度は隠さず少し笑った。

 

「吐くかと思ったんだよ。ずっと黙ってるから」

「吐かない方法を考えていたのよ」

 

 言ってから、少女はコップを取った。

 

 あの施設ではどうしたか、その続きまで話すつもりはなかった。水を少し飲むと、姫野が丼を自分の方へ引こうとしていた。

 

「もういいよ。ごめんね。新しいの頼もうか」

「チャーハンがあるから、大丈夫。でも、それはどこへ持っていくの?」

「こっちへ避けとこうと思って。匂いも来るでしょ」

 

 少女は丼の縁へ指を添えた。

 

 姫野の手が止まる。

 

「取り皿、もう二枚あるかしら」

「……何に使うの?」

「三人で分けるのよ。姫野も、そうしようって言ったでしょう」

 

 姫野がアキを見た。

 

 彼は自分のチャーハンへスプーンを入れ、聞こえなかったように食べ始める。

 

「早川の分もよ」

「俺はいい」

「今日は熱いから、前と違うかもしれないわ」

 

 姫野が顔を上げた。

 

「あ、それ。私も気になってた」

「先輩、さっき変わってないって言ってましたよね」

「見た感じだよ。ほら、出前ってどうしても冷めるじゃん」

 

 アキはスプーンを置き、少女へ向き直った。

 

「そっちにつくのか」

「姫野にも食べてもらうわ」

 

 取り皿を頼むと、店主は小さな器を二つ持ってきた。少女が麺を持ち上げると、スープを吸った緑色の束が現れる。

 

 まだ麺は食べていなかった。

 

 そのことを思い出したが、今から一人で確かめる気にはならなかった。

 

 少しずつ二つの器へ分け、スープも同じだけ入れる。姫野は途中まで見ていたが、レンゲがもう一度沈むところで手を上げた。

 

「それくらいでいいよ。私、味は覚えてるから」

「私も、しばらく忘れないと思うわ」

「うん。そこは嘘つかなかったでしょ」

「美味しいと思うでしょう、普通は」

 

 姫野は差し出した器を受け取った。

 

「はい。ごめんなさい」

 

 語尾はまだ少し笑っていたが、器を押し返しはしなかった。少女はアキの前にも置き、コップを手の届くところへ寄せる。

 

「すすらなければ、少しは違うかもしれないわ」

「よく覚えとく」

 

 アキは箸で麺を二本だけ持ち上げた。

 

 姫野がそれを見て笑いかけたので、少女は彼女の器へ目を向ける。箸が動いた。

 

 三人とも、しばらく喋らなかった。

 

 姫野は口を閉じ、天井へ顔を向けた。アキは眉間を寄せたまま、麺を噛んでいる。少女も自分の分を少し口へ入れたが、噛むたびに汁が出るので、スープだけの方が早く済んだと途中で分かった。

 

 姫野が先に水を取った。

 

「……あったかいね」

「ええ」

「そこしか変わってねえですよ」

 

 アキが静かに箸を置いた。

 

 姫野の顔を見た少女の口元が緩み、慌てて最後の麺を飲み込む。ようやく二人と同じように水を飲めた。

 

     *

 

 沼ラーメンの丼には、まだ半分以上が残っていた。

 

 姫野は店主へ声をかけ、すみません、残しちゃって、と告げた。店主は慣れた様子で丼を下げ、チャーハンは足りるかと聞く。

 

 少女が顔を上げるより早く、姫野がもう一皿頼んだ。

 

「今度は三人でね」

「それなら、分けられるわ」

 

 空いたところへ水の差し替えが置かれた。

 

 少女は店主が離れるのを待ってから、声を落とした。

 

「あれ、残してもよかったの?」

「いいよ。無理して具合悪くなったら困るし。勧めたの私なんだから」

 

 姫野が残っていたチャーハンを少女の皿へ少し足した。

 

「美味しいっていう人もいるのかしら」

「いるんじゃない? ずっと看板だし」

「先輩が人に食わせてるからじゃないですか」

「私、そんな何人も連れてきてないよ」

 

 少女とアキを順に見て、それから指を二本立てる。

 

「二人」

「二人とも食べられなかったじゃない」

 

 少女が言うと、姫野は立てていた指を畳んだ。

 

 その手を見ながら、アキが茶を飲む。口元に少し笑いが残っていたので、少女はテーブルの下で彼の靴へ爪先を寄せかけ、やめた。代わりに、追加のチャーハンが来たら自分が最初に取ろうと、空いた皿を近くへ置く。

 

「前は、張り込みだったのよね。そのあと、仕事はできたの?」

「できたよ。アキ君、咳が止まらなくて、しばらく窓から離れてたけど」

「先輩はその間、笑ってただけでしょう」

「外は見てたって。肩叩いてあげたじゃん」

「あれは叩きすぎです」

 

 姫野が少女へ手を伸ばしかける。

 

「これくらいだったよねえ」

「私で確かめないで」

 

 手が空中で止まり、そのまま自分の髪へ戻った。

 

 追加のチャーハンが運ばれてきた。少女は宣言せず、先に自分の皿へ取った。姫野が話しながらスプーンを伸ばしたところには、もう端の一角がない。

 

「あ、そこ卵多かったのに」

「私も好きなの」

「じゃあ、こっちにも残しといてよ」

 

 少女は皿を少し回し、反対側の卵が多いところを向けた。姫野がそこを取る間に、アキも自分の分をよそう。

 

 今度は誰も、相手が食べるまで待っていなかった。

 

「この話、岸辺にしてもいい?」

「いいけど、私が奢ったことも言ってね」

「ラーメンを勧められたことも?」

「そこ抜いたら、チャーハン奢っただけのいい先輩じゃん」

 

 少女は頬の内側で米を寄せ、飲み込んでから言った。

 

「抜かないわ」

「だよねえ」

 

 姫野は笑い、アキの皿を覗き込んだ。今度は彼も皿を引かず、大皿にまだ残っている方をスプーンで示す。

 

 窓の外を、作業着の男が二人通った。

 

 その向こうには川へ戻る道が見える。アキの鞄は椅子と壁の間に置かれ、封をした容器も、その中にしまわれていた。

 

 少女が追加の分を食べ終える頃、姫野が伝票へ手を伸ばした。

 

「よし。今日は私が持つよ」

「俺のもですか」

「食べさせちゃったからね。今度は奢って」

「先にそれを言ってくださいよ」

「じゃあ次の分は、今言ったからね」

 

 アキは財布を出しかけた手を止めた。

 

 姫野が席を立つと、少女も鞄を取り、椅子を戻す。壁のメニューが目に入り、少し迷ってから声をかけた。

 

「次は、私が選んでもいい?」

「いいよ。あそこにあるの、何でも」

 

 返事をしてから、姫野もメニューを見た。

 

 沼ラーメンの隣に、小さく「沼つけ麺」と書いてある。

 

 少女はまだ何も言っていなかったが、アキが先に口を開いた。

 

「それはやめとけ」

「まだ、見ただけよ」

 

 姫野が会計の前で足を止めた。こちらを見て、それからアキへ顔を向ける。

 

「でも、つけなければ食べられるかも」

「普通のを頼んでください」

 

 少女は壁から目を離し、二人の方へ歩いた。

 

 次も自分が一番先に食べるつもりはなかった。

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