不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第十話 八階
「お前、来る日決まってんなら先に言えよ」
廊下の角を曲がったところで、デンジが追いついてきた。肩に掛けた鞄が肘まで落ちると、身体を傾けて押し戻す。持ち手が捩れたままだった。
「おはよう。今日は一緒だと聞いていたけど」
「仕事じゃなくて、家に来る日。なんか買っとくから」
「まだ岸辺に予定を聞いていないわ。帰ったら聞いてみる」
「先に決めとけばいいじゃん」
「私だけで決めても、行けなくなるかもしれないでしょう」
デンジは落ちてきた鞄を脇へ挟んだ。
「じゃあ、腐んねえやつにするか」
「何を買うつもりだったの?」
「まだ決めてねえ。お前が来てから買いに行ったら、その間、俺いねえじゃん」
一緒に買いに行けばよいと思ったが、デンジは家にいるつもりらしい。少女が着く前から、何かを置いて待っている。その間、自分はまだ道を歩いているのだと思うと、遅れるわけにはいかなくなった。
少女は鞄へ手を伸ばした。デンジが身を引く。
「俺が持てるって」
「持つんじゃなくて、ここを直したいの。少し腕を抜いてくれる?」
捩れを戻し、肩へ掛け直す。デンジは肩を二度動かしてから先へ進んだ。今度は押さえなくても落ちない。
窓際では荒井とコベニが待っていた。二人は挨拶をすると、揃って鞄を持ち上げる。
「まだ出発しないわ。姫野たちも来るから」
「あ……すみません。もう行くのかと思って」
コベニは鞄を下ろした。荒井は持ったまま、少女へ向き直る。
「包帯とタオルは、予備も入れてあります。ほかに必要なものはありますか」
「私も持っているから、足りなくなったらお願いするわ」
「俺、替えのパンツ持ってきた」
「お前には聞いてないだろ」
「クソ漏らしたらどうすんだよ。お前は替えねえの?」
荒井が口を開いたところへ、姫野の声が届いた。
「おはよー。朝から何の話?」
「装備の確認です」
「パンツの話」
姫野の隣でアキが書類を畳んだ。後ろからパワーが追い越し、玄関へ向かう。
「説明は移動中にする。全員、行くぞ」
少女も歩き出し、デンジへ声をかけた。
「家へ行く日は、帰ってから聞いておくわ」
「おう。決まるまでは買わねえでおく」
「腐らないものにするんじゃなかったの?」
「置いとくと俺が食っちまうからな」
*
ホテルの入口には、営業休止の紙が貼られていた。
アキが取り出した肉片は、吊った紐を斜めに張っている。風が止んでも、建物へ引かれる角度は変わらない。
「このホテル内のどこかに悪魔が潜んでいる。それも、ただの悪魔じゃない」
「銃の悪魔本人がいるんじゃねえの?」
「肉片が大きければ大きいほど強く引き寄せられる。この程度じゃ違う。肉片を食った悪魔がいるんだ」
「いいのぉ、それ……ワシによこせ!」
アキは容器を閉じた。
「お前ら。敬語はどうした?」
「あ?」
「はァ?」
デンジが鞄を地面へ下ろす。
「何の得もねえのに、だーれがテメエに敬語使うかよォ!」
「人間は愚かで傲慢じゃ~!」
アキのポケットから板ガムが二枚出てきた。
デンジの足が揃う。
「早川先輩」
「先輩」
「よし」
一枚ずつ受け取ると、二人は包みを開けた。少女には、大声で断った直後に頼み直す方が難しく思えたが、デンジはもう噛んでいる。パワーに至っては、もう一度掌を差し出していた。
「先輩」
アキは容器をしまった。掌は下がらない。
「早川先輩。そいつらに背中を任せて、本当に大丈夫なんですか」
荒井が横から尋ねる。
「片方は魔人で、もう片方は……チンピラです。自分は信用できません」
「こいつらに背中は任せない。悪魔駆除には基本、この二人を先行させる。逃げたり、悪魔に寝返った場合は俺達が殺す」
「畜生みたいな扱いじゃな!」
「お前らに人権はない」
足元へ落ちた包み紙を、少女はパワーへ差し出した。
「もう一枚欲しいなら、食べ終わってから頼んだら?」
「一枚貰うのにこれほど待つんじゃぞ。今から頼んでおかねば間に合わん」
デンジは銀紙を畳み、胸のポケットへ押し込む。
「コイツめっちゃキレてんじゃ~ん。朝のアレのせいだな」
「あのイタズラはさすがにまずかったの……」
「あれはイタズラレベルじゃねえ! 殺すぞ!」
コベニが鞄を抱え直した。姫野はアキの肩へ手を置く。
「アキ君、厳しくしてばっかじゃ可哀想だよ」
「そうだぜ。コウモリに殺されかけたと思ったら、すぐ仕事だ。褒美くれ」
「よっし。私が一肌脱いでやろう」
姫野が入口の前へ回った。
「今回の悪魔を倒した人には、私がほっぺにキスしてあげまーす」
「え」
「そんな事は、そんな事やめてください!」
荒井の声が重なった。
「結婚前の乙女が、そんな……」
「ご褒美あった方がやる気出るでしょ。ねえ?」
肩を寄せられたコベニは、鞄の陰へ顎を引く。少女が自動扉へ近づくと、ガラス戸は半分ほど開いて止まった。押しても動かない。
「一人ずつなら通れるわ。コベニ、先に入っていてくれる?」
「キスは俺もいいや」
「おろ?」
デンジは胸を張った。
「俺ぁ初めてのチューは誰にするか決めてんだ。その人のために肉片だかなんだか集めてよお。銃の悪魔をぶっ殺すまでキスはしねえ」
「お前が銃の悪魔を?」
アキには答えず、デンジは姫野へ続ける。
「それに、知り合ってばっかのアンタの唇にゃあ興味ないね」
「へえ。そうなんだ。へえ〜〜〜」
少女はコベニを通し、扉を押さえる手を替えた。姫野がデンジへ近づき、声を落とす。
「じゃあ、デンジ君が悪魔を倒したら、ベロ入れたキッスしてあげる」
デンジの口が止まった。
銀紙を取り出してガムを包む。角まで折り、ポケットへ戻した。
「悪魔はどこすか」
「勝手に入るな! まだ先輩の指示が出てないだろ!」
荒井が入口へ出ると、デンジも同じ隙間へ肩を入れた。
「俺らを先に行かせるって言ったじゃん! お前こそ後ろにいろよ!」
「だから、配置を決めてからだ!」
「お前、俺より先に倒す気だろ!」
「そういう話をしてるんじゃない!」
二人の鞄がぶつかり、扉が少女の手へ戻ってきた。内側からコベニが支えてくれたので、少女は壁へ身体を寄せる。
二人が通ったあと、パワーが姫野の袖を引いた。
「ワシが倒したらキスはいらん。ガムをよこせ」
「ガムはアキ君に頼んで」
「先輩。今度は仕事の報酬じゃ」
*
八階には洗剤の匂いが残っていた。廊下の角には清掃用のカート。積まれたタオルの端が、車輪のそばまで垂れている。
前ではデンジがパワーを追い越そうとしていた。彼が右へ寄れば、パワーも右へ寄る。
「……お前、さっきから邪魔なんだよ」
「急ぐならワシの前を歩けばよかろう」
「だから通れねえって言ってんだろ」
角の向こうで、小さな頭が跳ねた。
短い足で起き上がり、顎を床へ擦りつける。
「コケっ」
少女がコベニの前へ腕を出す。頭が跳ぶ。パワーの手に集まった血が槌になり、そのまま振り下ろされた。
肉が潰れた。
飛沫が壁紙へ細い筋を引く。
「あっ! 俺のだったのに!」
「遅い者が悪い!」
アキと姫野が屈む間、少女は腕を下ろした。荒井が近づくと、コベニは小さく首を振る。
「怪我は、してません。すみません、何もできなくて……」
「鞄の紐が落ちているわ。掛け直しておきましょう」
「ワシしか働いとらんのう!」
アキが容器を開けた。肉片は床の頭へ引かれず、廊下の奥へ傾いている。
「別にいる。先へ進むぞ」
「じゃあ次は俺な。お前、ガムが欲しいだけだろ」
「手柄もワシが貰う」
「ガム二枚やるから譲れよ」
「ウヌが先に出せ」
「帰ったらだって」
交渉は歩き出してからも続いた。少女は槌から落ちる血を避け、コベニに歩幅を合わせる。
いくつかの扉を過ぎたところで、コベニが止まった。
「あの。この血、さっきもありませんでしたか」
剥がれた壁紙に、三つの赤い滴。一番下だけが細く伸びている。
清掃用のカートもあった。垂れたタオルの端が、車輪に触れていた。
*
荒井の靴音が、階段を下りていく。
少女は手すりのそばで待った。一階分だけ下り、扉の階数を調べて戻る。足音が途絶えたあと、上から別の音が近づいてきた。
荒井だった。
彼は二段下りたところで足を止めた。
「俺、下りましたよね。途中で引き返してませんよね」
「ええ。ここから下りていったわ」
「下の扉にも八階って書いてあったんです。それで階段へ戻ったら、皆さんが下にいて……」
「札が間違ってんじゃねえの」
「札だけの話じゃない! 何でお前たちが下にいるんだ!」
アキが荒井を呼び戻す。少女も階段へ足を出しかけたが、袖にコベニの指が触れた。
隣の客室から外を調べることになった。
窓を開けると、向こうにもベッドが二つ並んでいる。カーテンの脇からデンジが顔を出した。
「おう。こっちも部屋につながってたぞ」
「そこには廊下から入ったの?」
「そうだよ。反対側の部屋。これ、跨いだ方が早くね?」
「廊下から戻れ。窓は使うな」
アキの声に、デンジは枠から手を離した。
風は入らない。
少女は窓を閉めかけ、もう一度押し開いた。同じベッド。同じカーテン。開け方のせいではなかった。
廊下には扉が幾つもある。どれか一つくらい、外へ続いていてもよいはずなのに。
「アキ君。時計、何時になってる?」
姫野が机の時計を持ち上げた。アキは腕時計を示し、荒井も袖をまくる。
どれも八時十八分だった。
*
デンジは戻るなり靴を脱いだ。
「じゃあ、出られるようになったら起こしてくれよ」
「何で今から寝るんだ!」
「今寝とけば、出た時に眠くねえだろ」
彼はベッドへ潜り込み、枕を二つ重ねた。高すぎたらしく、一つを足元へ押しやる。
出口は見つからないが、枕の高さは直せる。少女も靴を脱いでみたくなった。けれど、誰かに呼ばれてから履くのでは遅い気がして、横倒しになったデンジの靴だけをベッドの下へ寄せた。
アキが客室の鍵をポケットへ入れる。
「俺がほかの場所を調べる。お前はここに残ってくれ」
「二人で回った方が早いでしょう。私も一緒に行くわ」
「ここにも動ける奴が要る。コベニたちを頼む」
扉がゆっくり戻ってきた。少女は隙間へ手を入れ、自分の方へ引く。
アキが足を止めた。
「開けておくのか」
「戻った時に、声をかけてくれる?」
「そうする」
少女は扉を壁まで開いた。
「私達ここで全員死んじゃうんだ……」
コベニはもう一台のベッドで鞄を抱えていた。
「お腹ペコペコで死んじゃうんだ……」
「こっ、コベニちゃん! 気張れ! デビルハンターやって兄を大学に行かせたいんだろう!?」
「半分無理やりなんです……」
荒井がベッドの前へしゃがんだ。
「親が優秀な兄だけは大学に行かせたいからって、私に働かせたんですぅ〜……」
「そうだったのか。俺は、てっきり……」
「風俗かデビルハンターしか選択肢なかったんですぅ〜!」
少女は鞄へ手を添えようとした。
「コベニ、下ろしてもいいのよ。持っておくから」
コベニはかえって強く抱き締めた。
「私も大学行きたかったんですぅ〜!!」
「悪かった。今はその話を――」
「でもここで死んじゃうんですぅ〜!!」
「ガハハハハ!」
パワーが腹を抱えた。
「貴様ァ、笑うな!」
「顔が! こやつ、泣くと顔が縮むぞ! うひゃひゃひゃ!」
「うるせえなあ。枕、もう一個ねえの?」
布団からデンジの腕が出た。少女は足元の枕を渡す。
「さっき自分で要らないと退けたでしょう。ほら、そこ」
「頭に被るんだよ」
姫野がコベニの隣へ座った。
「悪魔は恐怖が大好物だからね。恐がってたら相手の思うつぼだよ」
「でも恐いんですぅ〜……」
「水でも飲もうか。ずっと泣いてると、喉が痛くなるでしょ」
「俺が持ってきます」
荒井が浴室へ向かう。姫野は少女の運んできた椅子を叩いた。
「それ、キミが使いなよ」
「私は入口にいた方がいいと思うの」
「椅子ごと持っていけば?」
少女は扉の近くへ座った。鞄は足の間。持ち手を放しても、すぐ拾える位置。
コベニが水を飲む向こうで、デンジの寝息が始まった。
*
「水がなくなります」
コベニが立った。コップにはまだ半分残っている。荒井が受け取って浴室へ入ると、彼女もついていく。
「まだ出るよ。足りなかったら汲んでくるから」
「今は出ても、あとで止まるかもしれません」
少女が入口へ着いた時には、コベニは便座を上げていた。
両手を、水の中へ。
「何をしてるんだ!?」
少女は横から手首を掴んだ。すくった水が指の間から落ちる。
「飲むなら、荒井が汲んでくれた方にしましょう」
「こっちから飲めば、きれいな方を残せるので……」
「残さなくても出てるだろ。ほら、まだ流れてるんだ」
荒井が満杯のコップを差し出す。後ろでは蛇口が開いたままだ。
コベニは便器の縁を握った。
「でも、きれいな方がなくなってから、これを飲むのは嫌なので」
「今も飲まなくていいんだ!」
「少しだけです。私の分しか飲みませんから」
少女は指を一本ずつ外そうとした。一本離れると、隣の指が強くなる。
「こちらの水も残しておくわ。だから、先に手を洗ってくれる?」
「ガッ、ハハハハ!」
入口でパワーが膝を折った。
「デンジ! こやつ、便所の水を飲むぞ!」
「寝てんだから呼ぶなよ」
「今のうちに飲んでおくんじゃと! なくなる前に!」
デンジが頬に枕の跡をつけて来た。
「そのコップの水やればいいじゃん」
「さっきから渡そうとしてるんだよ!」
「そんな怒鳴って渡すからじゃねえの」
彼はコップを受け取り、コベニの前へ屈む。
「ほら。こっちの方が冷てえぞ」
「ごめんなさい。私、先にこっちを飲んでおかないと……」
「そんなに飲みてえの?」
「ガハハハハ! 冷たい方を断りおった!」
パワーは浴室の外へ座り込んだ。デンジが立ち上がり、荒井へコップを返そうとする。二人の肘が少女に当たった。
コベニの手が、また水へ近づく。
「一人、外へ出てくれる? コベニを立たせたいの」「ワシはもう出ておるぞ!」
「お前には言ってねえだろ!」
姫野が来たのは、荒井がコップを取り戻したところだった。
「どうしたの。水、出てるじゃん」
「出てるんです。でも、こっちを先に飲むって……」
姫野は蛇口を閉め、コベニの横へしゃがんだ。
「コベニちゃん、ちょっと休もうか」
手刀が首筋へ落ちた。
声が途切れ、額が少女の肩へ倒れる。姫野も頭を支えた。
「デンジ君、入口に近い方のベッドを空けて」
「俺が寝てたじゃん。もう一個あんだろ」
「こっちの方が運びやすいの。枕は持っていっていいから」
少女はコベニの両手を、服から離して持ち上げた。
「寝かせる前に、手を洗ってもいいかしら」
「それは洗っとこう」
荒井が蛇口を開け直す。
「ハハ……ああ、腹が痛い。もう一度やらんかのう」
「次は呼ぶなよ」
デンジは枕を二つ抱え、隣のベッドへ移った。
*
濡れたタオルを掛け、コップを洗うと、少女はようやく椅子へ戻れた。
コベニは眠っている。荒井はそのそばで、自分のハンカチを椅子の背へ広げていた。机の水を拭いたものだった。
「それ、濡れてしまったわね」
「乾けば使えますから」
姫野はアキの様子を尋ねに出た。デンジは二度寝を試みていたが、パワーが布団へ座るたびに足を引いている。
「向こう行けよ。布団が動くんだよ」
「ワシは暇なんじゃ」
「俺を起こしても暇なままだろ」
「だからノーベル賞を考えておった!」
パワーが天井へ指を突き出した。
「ノーベル賞を発明すれば人間はワシにひれ伏すじゃろうて! そのあとはノーベル賞を踏み台に、ワシは総理大臣になる!」
少女はコベニへ布団を掛け直した。端がパワーの靴の下へ挟まっている。
「パワー、足を下ろしてくれる?」
片足だけが下りた。
「人間が苦しんでる姿が見たいからのぉ! 手始めに消費税は百パーセントじゃ!!」
「お前、自分が買う時はどうすんだよ」
「ワシは総理大臣じゃから払わん」
「じゃあ俺のも買ってきてくれよ」
「なぜワシがウヌの使いをせねばならん!」
デンジへ向き直った拍子に、もう片方の足も下りた。少女は布団を引き抜く。
「私が頼んでも、買ってきてくれないの?」
「ウヌも自分で買え」
「一緒に行って払ってもらうだけでもいいわ。荷物は私が持つから」
「おう。それならお前も楽じゃん」
「ワシは忙しい! 総理大臣じゃぞ!」
今は他人が眠る邪魔をするほど暇なのに、一緒に買い物へ行くこともできなくなる。少女には、あまり便利な仕事に思えなかった。
デンジは枕へ顎を載せる。
「じゃあ肉買う時でいいよ。俺のも買ってこいよ」
「肉は別じゃ。肉には税金をかけん」
「全部、肉と一緒に買えばいいじゃん」
廊下で声がした。
「戻ったぞ」
少女は布団から手を離した。アキと姫野が入ってくる。
荒井が立った。
「外へ出られる場所は、ありましたか」
「まだない。今はここで待つ」
「俺も何か手伝えることがあれば……」
「呼んだ時に動ければいい。座って休んでろ」
荒井は椅子へ戻った。鞄は膝の間に立てたままだった。
姫野が灰皿を寄せ、煙草を一本出す。
「ウヌの煙草、アキと同じやつじゃな」
「そりゃアキ君にタバコの味を教えたのは私だもん」
「早川は、初めは吸っていなかったの?」
少女が尋ねると、姫野が笑った。
「最初は断られたんだよ。骨が腐るから嫌なんだって」
「先輩。その話はいいでしょう」
「今は吸っているのに?」
「昔の話だ」
「そんなに昔じゃないじゃん」
煙が天井へ上がる。換気扇の音はするが、風は入らない。
少女はコベニの枕元へ水を置こうとした。隣からデンジの手が伸びてきたので、そのまま渡す。
「これ、飲んでいいやつだよな」
「蛇口の水よ。コップも洗ったわ」
「ならいいけど」
半分ほど飲んだところで、コベニが寝返りを打った。
「こいつ、起きたらまた泣くの?」
「起きてみないと分からないわ」
「じゃあ、その水は置いといて。俺の分はあとで汲むから」
少女は入口の椅子へ座り、鞄から手を離した。
八時十八分。
秒針は動かない。それでもアキは戻ってきたし、コベニは眠った。少女は時計から身体をそらし、廊下へ片足を出した。
車輪が鳴った。
アキがライターを返す。続いて長く擦れる金属音。清掃用のカートが角から押し出され、積まれたタオルが落ちた。
その下から指が伸びる。
肘が現れ、潰れた頭を持ち上げた。頬の下で肉が膨らみ、別の口が開く。
少女は立ち上がった。
「契約しろ」
デンジが枕から頭を離す。
「デンジを殺して、私に食わせろ」