不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第十一話 息をするまで
デンジは自分の胸を指した。
「俺を食わせろって言ってんの?」
「そうすれば、ほかの人間は全員、無事に外へ返してやる」
廊下を塞ぐ肉の間で、小さな目が動いていた。鼻も、耳もある。清掃用のカートは片側の車輪を浮かせ、天井へ押しつけられようとしていた。
少女は椅子を壁際へ寄せた。アキが戸口へ進む。
姫野は灰皿へ煙草を押しつけた。
「それ、契約ってことでいいの? デンジ君を食べたら、私たちには手を出さずに帰してくれる?」
「おい。何で食わせる話してんだよ」
「条件を聞いてるだけ。まだ渡すなんて言ってないでしょ」
「契約だ。お前たちがデンジを殺せ。私は残りの人間を解放する」
デンジが布団を蹴り退ける。その端につまずきながら靴を履くと、コベニが起き上がった。
「外へ、出られるんですか……?」
「俺を食わせりゃ出してやるってよ!」
コベニの片足が、床に着く前に止まった。荒井がそばへ寄ると、彼女は袖を掴む。
「本当に、帰してくれるんでしょうか」
「契約なら……姫野先輩、悪魔も約束を守るんですよね」
「契約を破った方は死ぬ。だから、結ぶ前に考えないとね」
「俺の前で相談すんなって!」
アキがナイフを抜いた。
「全員、戸口から下がれ」
姫野の指が曲がる。
廊下の肉がへこみ、天井へ押し上げられた。蛍光灯が割れ、幾つもの頬へ破片が刺さる。
「痛い! 痛い、痛い!」
床を這う腕をアキが斬った。落ちた肉片が少女の靴へ当たる。切り口が開き、その内側に歯が並び始めた。
「早川、切った方も動いているわ」
アキが蹴り返すと、肉片は元の身体へ沈んだ。天井近くの口が、引き伸ばされたまま笑う。
「無駄だ。ここは私の胃の中だ。私の心臓はここにはない」
「痛がってはいるんだけどねえ」
姫野が指を握り込んだ。悲鳴が上がる。その下では別の肉が膨らみ、壁紙を押し剥がしていた。
少女の足元まで絨毯が浮いた。
「姫野先輩、いったん離れます。全員、廊下へ出ろ。右へ走れ!」
デンジとパワーが飛び出した。荒井がコベニの背を押す。少女は扉を支えたが、コベニの身体が途中で止まった。
鞄の肩紐が、椅子の背へ引っかかっている。
「あっ、待ってください。私の鞄が……」
「今は置いて。腕を抜いてくれる?」
少女が紐を持ち上げると、コベニは肩を縮めて抜け出した。荒井に引かれ、廊下を走る。
残るのは姫野だけだった。
頭上で木が裂けた。戸枠の一部が少女の肩へ落ちる。
「先に行って。私もすぐ行くから!」
少女も扉を離した。靴の中へ入った破片が踵を刺す。立ち止まって捨てる暇はない。前を走るコベニの背へ追いつこうとした時、その足が止まった。
「ひゃっ!」
床から指が出ていた。
足首へ巻きつき、コベニを引き倒す。荒井が腕を掴んだが、引くたびに膝が絨毯へ擦れた。
「俺の腕に掴まれ! 立てるか!」
「痛い、痛いです! 足が抜けません!」
「荒井、そのまま引かないで。私が手を切るから」
少女はコベニの踵を支えた。肉が靴下まで巻き込んでいる。刃を寄せると、足が逃げた。
「少しだけ、動かさないでいてくれる?」
「無理です、何か、足に入って……!」
「俺が支えます。コベニ、膝は曲げたままでいい」
荒井が膝の下へ腕を入れた。少女は刃先を皮膚から外へ向け、指の付け根を切る。一本。もう一本。踵が抜け、最後の指には靴だけが残った。
荒井がコベニを抱え上げる。
少女も立とうとした。
左手が離れない。
掌の下に口が開いていた。前腕の両側へ歯が入り、袖を引き込んでいる。肘を曲げると、肉の中で歯が動いた。
「姫野、腕を噛まれたわ! 口を開けてほしいの!」
顎の端へナイフを入れる。刃が硬いものに当たり、跳ねた。
「そのまま動かないで!」
戻ってきた姫野が手を伸ばす。
まだ離れない。少女は姫野の指を待った。早くしてほしかった。手を伸ばしてくれているのは分かる。それでも、もう少し早く。
顎が左右へ開いた。
少女が足を踏ん張る。
別の口が膝を挟んだ。
「――ああっ!」
左足が折れた。
身体が横へ落ち、ナイフの先が床で欠ける。少女は柄を握り直そうとしたが、指は初めから固く曲がったままだった。
アキが膝を噛む肉へ刃を入れる。口は離れない。
「ナイフを離せ! 俺に掴まれ!」
差し出された手へ右腕を伸ばした。指が開かず、刃がアキの掌へ触れそうになる。
左腕が引かれた。
「アッ、あああっ!」
袖が張った。
肘から先が、口の中へ消えた。
床を滑りながら、少女はナイフを絨毯へ押しつける。指を無理に外すと、アキが右手首を掴んだ。
脇腹の下で肉が膨らむ。
開いた顎が、胸の下までを挟んだ。
息が押し出された。血が奥歯の間へ上がる。口を開けても吸えない。身体を起こそうとするほど、歯が深く入った。
少女はアキの手を引いた。
どちらでもよかった。ここから出してほしかった。
「引くな! まだ噛まれてる!」
アキの腰を掴んだデンジが踏みとどまる。姫野の足が絨毯を押した。顎がわずかに離れ、アキが刃を差し込む。
「もう少し開けてください!」
「やってる! こっちも離れないんだよ!」
荒井が少女の肩へ腕を入れた。口が緩むのに合わせ、三人が引く。
身体が床を離れた。
シャツの下から血が流れ、アキの腕へ落ちる。少女は咳をしようとした。腹へ力が入らず、血だけが唇から溢れた。
「ハハハ……」
肉は追ってこなかった。廊下を埋めた口だけが、運ばれる少女へ向く。
「逃げるたびに、同じことになる」
姫野が少女の脇腹を押さえた。
「アキ君、いったん下ろして。このままじゃ押さえられない」
デンジが隣の扉を開ける。中へ駆け込み、掛け布団を床へ落とした。
「ここに寝かせろ! ベッド空いてる!」
戸枠へ少女の足が触れた。
喉から声が漏れる。
アキは足を止め、垂れた膝を腕で支えてから入った。
*
背中がシーツへ沈んだ。
アキが腕を抜こうとすると、少女の手が袖を引いた。離したら、また動かされる気がした。ここでも痛い。けれど、運ばれている時よりはよかった。
アキがベッドへ片膝をつく。
「今、手当てする。動くな」
デンジがタオルを抱えてきた。姫野は一枚を畳み、脇腹へ当てる。
「ここ、押さえるよ」
「う、あっ……!」
少女の背が反った。やめてほしかった。押さえなければならないことも、手を退けてほしいことも、どちらの気持ちもせめぎ合っている。
「荒井君は腕をお願い。タオルの上から押さえて」
荒井は切れた袖へ手を伸ばして止めた。床へ落ちたタオルを拾い、別の一枚へ替える。包む間にも、白いところが狭くなっていく。
「このまま押さえていて、いいんですか」
「私が代わるまで離さないで」
喉に血が残っていた。横を向こうとすると脇腹が痛み、息も止まる。
「顔を横にするぞ」
アキの手が頬へ触れた。
「かっ、……こほっ」
少し出た。
次の息は入らない。
デンジが姫野に呼ばれて戸口へ戻る。足音が遠ざかり、廊下の声が近くなった。少女には言葉を聞き取れない。自分の喉が鳴る音ばかりが大きかった。
足元にコベニがいた。片方の靴がない。
靴下に指が残っていないか、脱いで調べてもらいたかった。少女が右手を動かすと、コベニは身を縮める。
「あ、足は……大丈夫です。私、立てますから」
それなら、もうよかった。
少女はアキの袖を引いた。自分の方へ戻ってほしかった。彼の顔はすぐそばにあるのに、もっと近くへ。
「先に吐け。吸おうとするな」
唇をすぼめる。吐けているのか分からない。
「聞こえるか。先に息を吐くんだ」
濡れた上着を掛けられた時も、同じことを言われた。
あの袖は長かった。指を出そうとすると重く、雨の匂いがした。今、胸へ当たる布は熱い。動こうとする身体を押し返してくる。
少女は細く息を吐いた。
今度こそ吸おうとすると、首だけが枕から浮く。アキの手が後頭部へ入った。
「頭は俺が持ってる。そのままでいい」
重みを預けた。袖が指から滑りかけ、アキが握り直す。
布ではなく、指だった。
少女も掴もうとした。
何か言いたかった。まだ手を離さないでほしい。それだけなのに、口を開けると血が顎へ流れた。
腕の痛みが遠くなっていく。
アキの指は分かる。握っているつもりの自分の手は動かない。
息が欲しかった。
口を大きく開けた。喉が動き、胸がわずかに持ち上がる。
吐いた息が唇を抜けた。
次は、続かなかった。
*
握っていた指から力が抜けた。
アキは少女の口元へ顔を寄せた。頬に何も触れない。胸へ当てられた布も動かず、唇の端に血が溜まっている。
「おい。聞こえるか」
姫野が片手を首へ移した。指の位置を変え、待つ。もう一度、少し下へ。
「姫野先輩、どうですか」
荒井が腕のタオルを押し直した。
「もう一枚、持ってきます。これじゃ足りません」
「荒井君」
「まだ出てるんです。下から……」
姫野は首へ指を当てたまま口を開いた。
「……息も、脈もない」
コベニのタオルが落ちた。
「うそ……」
デンジが戻ってきた。少女の顔へ手を出しかけ、ベッドの縁を掴む。
「さっきまで動いてたじゃん。手も動かしてたろ」
アキの掌にある手は温かい。汗と血で滑る。握り直しても、少女の指は同じ形のままだ。
「おい。もう一度、息をしろ」
姫野がアキの手首へ触れた。彼は振り払わなかった。少女の手も離さない。
「ハハ……ハハハハ」
「うるせえ!」
デンジが怒鳴ると、廊下からさらに大きな笑い声が返った。
姫野は手首の血を上着の内側で拭う。
「師匠は、この子は生き返るって言ってたんだよね」
「記録にも、そう書かれていました」
「こんな怪我でも、戻ったことがあるの?」
アキは答えられなかった。
「アキ君は、再生するところを見たことある?」
「俺は、まだありません」
「だったら、俺たちは何をすればいいんですか」
荒井は布を押さえ続けていた。返事がないと、もう一度力を入れる。
少女は動かない。
「血を飲ませりゃいいんじゃねえの。俺はそれで治るぞ」
デンジが自分の指を出した。
「誰か、ちょっと切ってくれよ」
「今は飲み込めない。無理に入れるな」
「口に入れりゃ、少しは……」
少女の唇へ伸ばした手が止まった。血は端から乾き始めている。
「俺なら、それで動くんだよ」
姫野が荒井の横へ移った。
「私が代わるから、少し離して」
彼はすぐには動かなかった。名前を呼ばれると、指が一本ずつ浮く。布は腕に貼りつき、手だけが離れた。
コベニは落としたタオルを拾おうとして膝をつき、そのままベッドの脚を掴んだ。
「私が、転んだから……」
アキは少女の掌を親指で押した。
その分だけへこんだ。
廊下で扉を押さえていた手だった。まだ自分の袖にも、その指が引いた皺がある。
「いつまで待つんじゃ」
パワーが入口へ座った。
時計は八時十八分。
アキは少女の手を握り直した。
*
隣の子が、長い袖を折っていた。
少女も同じようにしたが、片方からは指が全部出てしまう。袖を並べると、今度は隣の子の方が短かった。
「あなたが引っ張るからでしょう」
「私は引っ張ってないわ」
広げてみると、自分の袖だけ二回折ってあった。
「私が間違えて折っていたのね」
「ふふっ」
隣の子が手伝ってくれた。
扉の外で箱を下ろす音。
二人とも服の中へ手を引っ込めた。足音が止まり、やがて遠ざかる。鍵は回らない。
隣の子が歌い始めた。
朝になったら卵を食べる。そのあと公園へ行って、水族館にも行く。少女は袖の端を揃え、自分の番を待った。
声が出なかった。
「歌、忘れたの?」
「忘れてないわ。今はまだ、歩いているところなの」
隣の子が笑う。
少女も笑いたかったが、息がなかった。待って、と言おうとすると、袖を折る手が遠くなる。
掴むための手も見つからない。
首の下へ、温かいものが入った。
頭が少し持ち上がる。
*
姫野の手の下で、布が膨らんだ。
タオルの端から白いものが伸びる。濡れた布を持ち上げ、先が分かれた。
「アキ君、腕が動いてる」
タオルを退けると、骨を肉が覆っていた。手首になり、指になる。その上を皮膚が繋いでいく。
「ひっ……!」
コベニが椅子へぶつかった。荒井は彼女を支えようとしたが、片手はベッドへ伸びたままだった。どちらにも届かないうちに、少女の膝が戻る。
脇腹の傷も閉じた。
胸は動かない。
「……傷、治ったじゃん」
デンジが足元へ来た。
「なあ。治ったんだろ。何で起きねえんだ」
アキが首へ触れる。
喉が動いた。
少女の背中が跳ねた。
「かっ……ごほっ!」
姫野が肩を支え、アキが顔を横へ向ける。吐いた血が枕を濡らした。
「先に吐け。さっきと同じだ」
短い息。
少女の肩が持ち上がる。喉を擦りながら、空気が入ってきた。痛かった。もう一度吸うと、今度は咳が出た。
「ごほっ、こほ……」
「急がなくていい。そのまま吐け」
アキの袖を掴んだ。
今度は、指が曲がった。
*
毛布が腹に触れると、少女は膝を引きかけた。そこに傷はない。それでも布が重かった。
パワーが端を持ち上げる。
「本当に全部戻っとるのか?」
「毛布から手を離せ」
アキが手首を掴むと、パワーは放した。
少女は丸まった布を引こうとした。指先は届くのに、腹へ力を入れると腕まで止まる。
荒井が胸まで掛けた。
「必要なものがあれば、俺が取ります。まだ起きないでください」
「傷は、もう塞がっているわ」
「でも、自分で毛布も取れないじゃないですか」
彼の指が止まった。乾きかけた血が毛布についている。擦ると広がり、荒井は手を引いた。
「傷がなくなったからって、負傷者に入らなくなるわけじゃないでしょう」
少女は布を放した。
荒井が浴室へ向かう。アキは破れた左袖を折っていた。
「私、腕を噛まれた時、先に呼んだわ」
「聞こえていた」
「でも、呼んでからも口が増えて……」
少女はそこで止まった。
次も呼べばいいのか、ほかに何かできたのか。今は考えたくなかった。アキに答えてほしかったのかも、分からなくなった。
「その話は、あとで聞く。今は身体を起こすな」
折った袖口から、傷のない腕が出ていた。
浴室では水が流れ続けている。
「荒井。そこに石鹸もあるわ」
「使っています」
水は止まらなかった。
コベニがタオルを持ってきた。少女の手へ差し出しかけ、毛布の端へ置く。
「これ、まだ使ってないので……」
礼を言う前に、彼女は壁際へ戻った。
廊下で肉が擦れる。
「いつまで待つ。そいつを殺せば、全員帰れる」
「俺はまだ何も言ってねえだろ」
デンジが戸口へ立つ。姫野もその隣へ移った。
「そんなに欲しいなら、自分で取りに来ればいいのに」
「お前たちが選べ。契約をすれば、外へ返してやる」
少女は毛布の上から腹を押さえた。
音が鳴った。
姫野が戻ってくる。
「痛む?」
「違うの。お腹が空いて……」
枕もシーツも血で濡れていた。その中で、腹だけがもう一度鳴る。
デンジが振り向いた。
「俺も減った。お前、何か持ってねえの?」
「今日は持ってきていないわ」
「ほかの部屋に菓子くらいあるんじゃねえか。ホテルだろ、ここ」
「ワシが探してくる!」
アキが入口を塞いだ。
「一人で行くな。勝手に食うのもなしだ」
「まだ何も食っとらんじゃろうが」
浴室の水が止まった。
荒井が濡れた手をタオルで包んで戻ってきた。指の間を拭き、袖口まで押さえる。
「外へ出れば、病院があります」
姫野は返事をしなかった。
「ここには薬もありません。次に誰かが同じ怪我をしたら、その人まで無事とは限らないんです」
デンジが部屋へ向き直る。
「それで、俺を食わせようって話か?」
少女は上体を起こしかけてやめた。喉が乾いていた。声を出すと、奥が貼りつく。
「デンジ。さっきのコップを取ってくれる?」
「水で腹は膨れねえぞ」
「それでも、飲みたいの」
デンジは机から持ってきた。
少女が持てるようになるまで底を支え、手を離してからもベッドの横に立っていた。