不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第十二話 お腹がぺこぺこです
少女が口を離しても、デンジはベッドの横にいた。
荒井は濡れたタオルを握っている。絞るつもりなのか、畳むつもりなのか、両手が逆向きに動いて止まった。
「悪魔と契約すれば、外へ出すという約束は守らせられます」
小さな声だった。部屋のどこからでも聞こえた。
「このまま待っていても、食べ物がなくなるだけです。動けるうちに撤収して、体制を立て直すべきだと思います」
「俺を食わせたあとで?」
「ほかに方法があるなら、俺だって……」
「俺が嫌だっつってんのは、方法に入んねえんだな」
少女はコップを握った。
外へ出たい。それは荒井と同じだった。けれど、食わせると言われるたびに、歯が腕の中で動いた感触が戻ってくる。
デンジの腕は、ベッドのすぐ横にある。
少女はコップを差し出した。彼が受け取り、机へ置く。底が強く鳴った。
アキが戸口へ進む。
「契約は結ばない」
「ですが、早川先輩」
「あいつは自分でデンジを殺さず、俺たちにやらせようとしている。理由があるはずだ」
「心臓がここにないと言っていました。攻撃しても、さっきは……」
「だからって、あいつの望みを叶えてやる必要はない」
アキは廊下へ声をかけた。
「ほかの条件はないのか」
「ない。デンジを殺せ」
「なら断る」
姫野が隣へ移る。
「じゃ、私もそっちで」
「ワシは殺す派じゃァ!」
パワーが手を挙げた。
「ノーベル賞を思いついても、外に出られなければ発表できないからのう! ノーベルのために死んどくれ」
「お前、俺がニャーコ助けたの忘れたのかよ!」
「それとこれとは別じゃ」
「お前は魔人だろ。悪魔と魔人の間に契約は成立しない」
アキの言葉で、パワーの手が止まった。
「ワシだけ置いていくかもしれんということか?」
「お前まで助かる保証はない」
悪魔は何も約束しなかった。
パワーはデンジの隣へ移り、肩へ顎を載せた。
「デンジは殺さん方がよいのう」
「離れろよ! さっき殺せっつっただろ!」
「ワシはもう言っておらん」
「さっきの話してんだよ!」
アキが二人の前へ腕を出す。
「とにかくデンジは殺さない。俺たちはデビルハンターだ。殺すのは悪魔だけだ」
荒井はタオルを椅子へ置いた。
デンジには答えなかった。
パワーが顎を外す。
「暇だから手押し相撲するか!」
「すぐ俺を殺そうとするからヤだ!」
*
食べられるものは、近くの客室に少しずつ残っていた。
姫野が廊下で悪魔を警戒し、荒井とパワーが部屋を回る。コベニもついていこうとしたが、片方の靴がなかった。
少女が足を下ろすより先に、荒井がスリッパを持ってきた。
「左右とも、これに替えた方が歩きやすいと思う」
「すみません……」
荒井は返事を待たず、食料を探しに戻った。
少女はベッドの縁へ座り直す。膝に手を置けば立てそうだった。少し前へ重心を移すと、腹の奥が引きつった。
「お前は待ってろよ」
デンジが戸口に立っていた。
「食いもんくらい持ってこれるだろ、あいつら」
「向こうの部屋くらいなら歩けると思うの」
「持ってくる前にお前が行ったら、行き違いになるじゃん」
少女は足を戻した。
アキが姫野へ話しかけていた。
「どうしようもなくなったら、刀を使います」
「それはダメ」
「刀使えば出られんなら、使えばいいじゃん」
デンジが口を挟む。
「どうしようもなくなっても、刀は使わない。その時は悪いけど、デンジ君が死んで?」
「え〜……さっきと言ってること違うじゃん」
姫野は笑わなかった。
隣で袋を開ける音がした。
しばらくして、荒井が怒鳴った。
「ないっ! ここに置いてあった食料が……!」
デンジが出ていく。少女も壁へ手をつき、隣の客室まで歩いた。
ベッドには空き袋があった。バタークッキーの箱と、塩味のクラッカーの包み。パワーがその横で腕を組んでいる。
「貴様が全部食べたのか……」
「ワシじゃない。デンジが食べておったわ」
「俺、今来たんだけど!」
「口についてるだろ! 食べかすが!」
パワーは唇の端を舐めた。
「何もついとらん」
「今、舐めただろ!」
少女は戸枠へ肩を預けた。嘘の続きは聞きたくなかった。一枚でよかったのに。食べたと言うなら、欠片くらい残っていないか尋ねられるのに。
コベニが空き袋を逆さにした。
二つ、欠片が落ちた。
少女の指が動いた。拾う前に、コベニが袋を握り潰す。
「わかっちゃった……」
「コベニ?」
「私、わかっちゃった……絶対スパイだああアアあ!!」
「スッパイじゃ」
「うあっ!」
荒井が身を引く。コベニはデンジを指したまま、息を吸い直そうとしている。
「あああああ! 私達を、ここで……!」
壁が鳴った。
少女の肩へ振動が伝わる。廊下の肉が膨らみ、床を押し上げながら迫っていた。
「全員、外へ出ろ! 奥へ走れ!」
少女も肩を離す。
一歩目で膝が緩んだ。
アキの腕が脇へ入る。
「俺に掴まれ。足は動かせるか」
「動くわ。少し、支えていて」
廊下をまっすぐ進んだ。前に荒井とコベニ、その先にデンジとパワー。姫野は後ろで足を止め、追ってくる肉を押さえている。
少女が次の足を置こうとした。
床が逃げた。
デンジが壁へぶつかる。パワーが取っ手を掴んだ。廊下の先が持ち上がり、背後の悪魔へ向かって通路全体が傾いていく。
「開いてる部屋へ入れ! 戸枠を掴め!」
荒井がコベニを横の客室へ押し入れた。デンジとパワーが続く。少女もアキに引かれ、敷居を越えた。
室内の床も傾いていた。ただし、廊下とは違う方向だった。窓側へ椅子が滑り、ベッドが机へぶつかる。入口のある壁だけが高く残り、その脇の浴室の出入口に、少女は靴を引っかけた。
姫野が飛び込んでくる。
アキが腕を掴んだ。
その背後で、廊下が立った。
左右に並んでいた扉が、穴の壁を上下へ連なっている。さっき走った絨毯は、戸口からまっすぐ下へ。
指が敷居を掠めた。
少女は左手を引いた。噛まれた場所が痛んだ気がした。
アキのナイフが指を断つ。
少女はもう一度枠を掴んだ。傷のない手だった。体重を掛けるまでには、少し時間がかかった。
窓側で家具が噛み合い、床の傾きが止まる。荒井はベッドの脇へコベニを座らせた。パワーもその横へ下りる。
入口と窓の間には、片側の壁に沿って人一人が通れる斜面が残っていた。
アキが背中の刀へ手を伸ばした。
「アキ君。それは使わないで」
「このままじゃ全員死にます」
「使ったら、君の寿命が縮むんだよ」
少女も手を出しかける。
先に、アキの肘が背中へ回った。
何もないところから押され、身体が壁へつく。姫野の手が彼へ向いていた。
「先輩、放してください」
「嫌だ。ほかを考えて」
「そんなことしてる場合じゃ――」
「アキ君はまだ、やらなきゃいけない事がたくさんあるんだ。だから、ごめんねデンジ君」
デンジが一歩退いた。その踵が少女の靴へ当たる。
「何でそこで俺に謝んだよ」
窓側で、コベニが立った。
「もう、嫌……」
上着から包丁が出た。
「もう嫌ですうっ!」
「おい、来んなって!」
コベニが壁沿いの斜面を駆け上がる。
デンジの後ろには少女がいた。その先は、廊下の穴。
「先輩、手を!」
姫野の指が開いた。
アキが間へ入る。
息の詰まる音。
コベニの肩が止まった。
アキの腹から、包丁の柄が出ていた。
「アキ君?」
デンジが崩れる身体を支える。少女も肩へ手を伸ばしたが、引き上げる力が入らなかった。
「何で庇ってくんだよ!」
「あ……違う、私、そっちじゃ……」
荒井がコベニを退かし、アキの反対側へ入る。
「窓側へ運びます。デンジ、足を滑らせるな!」
二人が壁沿いに下りる。少女も続こうとした時、背後で爪が木を掻いた。
敷居に指。
落ちたアキのナイフを拾い、付け根へ刃を入れる。腕が穴へ落ちた。
「痛い! 痛い!」
もう一本が伸びる。
少女は枠へ肩を押しつけた。先ほどより指に力が入る。だからといって、噛まれたいわけではなかった。
奥でアキが話していた。
「そいつは……銃の悪魔を殺そうとしている」
「お前、今もそれ言うのかよ」
「俺一人じゃ殺せない。立ち向かう奴が、一人でも多く要るんだ……」
姫野の指の下で、シャツの赤い部分が広がっていた。
「パワー。早川の血を止められない?」
「他人の血は難儀じゃ」
「私にはできないの。お願い」
「チョンマゲが死んだら、メシを作る人間がいなくなるからのお」
パワーが腹へ手を置いた。
「止まる? ねえ、これ、止められるんだよね?」
姫野の指が布の上を迷う。
「アキ君、ちょっと待って。今……どうしよう、アキ君」
さっきまで自分を押さえていた手だった。
少女は刃を外へ向け直した。姫野のところへ行きたかったが、目の前の指を切らなければならない。
コベニが通り道に立っていた。荒井が浴室へ上がろうとしても、動けずにいる。
「コベニ。足元の椅子を寄せてくれる? 荒井が通れないの」
「私、あの……」
「背もたれを持てるかしら」
コベニは椅子を引きずった。荒井が通ると、握ったまま座り込む。
穴の底から笑い声。
「ハハハハ!」
デンジが立った。
*
「そこ、どける?」
少女が肩をずらすと、デンジは敷居へ足をかけた。
下の顔が一斉に動く。いちばん大きな口が歯を剥いた。
「勝つ算段があるのか?」
アキの声が窓側から届く。
デンジは胸元へ指を入れた。
「糞痛えけど……チェンソーになる」
「チェ……チェンソー……」
コベニが椅子の陰で呟いた。
「あの悪魔、なんだか知らねえが俺のチェンソーにビビってやがる! だから自分じゃ手を出せなくて、テメエらに俺を殺すよう言ってんだ!」
少女はナイフを止めた。
自分を噛んだ口は、デンジへ同じようには襲いかからなかった。今も開いている。開いたまま、殺せと繰り返している。
「それに、あの悪魔……攻撃を受けた時に痛いって言ってやがった」
デンジが歯を見せる。
「だったらよお〜。アイツが死にたくなるまで痛めつけて、自殺させりゃいい!」
「悪魔みたいな発想じゃな!」
パワーだけが声を上げた。
デンジはアキへ向き直った。
「テメエ、俺を庇いやがって……」
アキは返事をしなかった。
「余計な事すんじゃねえよ、糞が。俺ぁ誰かに借り作んのは、も〜ウンザリなんだよ」
デンジが紐を掴む。
「外出れたら、貸し借りナシだから!!」
引いた。
まだ人間の顔のまま、敷居を蹴る。
少女が伸ばした手の先で靴が遠ざかった。幾つもの腕が集まり、巨大な口が開く。
白いシャツが消えた。
顎が閉じた。
歯の隙間から、血。
「やった……」
コベニの声が背後でした。
少女は枠を握った。姫野が隣へ来る。
低い音が響き始めた。
歯が割れる。
長い刃が内側から突き出した。肉を裂き、顎を押し開く。頭と両腕にチェンソーを生やしたデンジが、血の中へ立ち上がった。
「アアアア!! やっぱり生きてたか、チェンソオオオ!」
腕を振る。
顔が裂けた。
返した刃が次の顔へ入り、足元の肉を抉る。肩へ腕が巻きついた。
「死ねえええエエエ!!」
歯が首へ食い込む。
頭が横へ引かれた。
「痛ってええエエエ!!」
少女は身を乗り出した。
デンジの手が胸へ戻る。紐が伸び、エンジンが唸った。傾いた頭が起き上がる。
「完〜治!!」
噛みついた口ごと、刃を振り下ろした。
「無駄だ、チェンソオオ!! 私の心臓はここにはないいいい!!」
その顔も割れた。
「殺す事はできないぞおおお!!」
「だったら、ずっと痛えまんまだなァ!」
悲鳴が重なる。デンジのシャツも裂け、彼の血が足元へ流れていく。刃の音が低くなった。
「マズいのぉ」
パワーはアキの腹から手を離さなかった。
「デンジの血がなくなり続けておる。そうすれば、あのチェンソーは引っ込むぞ」
刃が肉に挟まる。
引き抜こうとした肩へ、また歯。
「昔よりずっと弱くなってる!! 哀れ!! チェンソー!」
少女は足をかけ直した。下りる場所を探そうとして、止まる。
デンジが肉へ噛みついていた。
裂いたところへ口をつけ、血を飲む。垂れかけた腕の刃が、再び唸り始めた。
「ドブみてえのマヂィ血でもよお……!」
血を垂らしながら顔を上げる。
「テメ〜のそん苦しい顔見ながら飲めゃあ、いちごジャムみてえだぜええええ!!」
刃が走った。
少女は足を戻した。
行かなくて済む。
そう思った途端、膝の力が抜けた。デンジはまだ噛まれている。その声を聞きながら、少女は敷居の内側へ座った。
枠から指を外すのに、片方の手を使った。
やがて、デンジの膝が折れた。
姫野が手を伸ばす。
肉へ沈んだ胸元から、紐が引き出された。少女には掴む手が見えない。エンジンの音だけが立ち上がる。
デンジの背が反った。
「ひらめいたぜ〜……」
寄ってきた腕を切り、血を飲んだ。
「テメエが俺に切られて血ィ流して! 俺がテメエの血ィ飲んで回復……!」
両腕が持ち上がる。
「永久機関が完成しちまったなアア〜!! これでノーベル賞は俺んモンだぜ〜!!」
悲鳴が客室へ吹き上がった。
姫野は手を下ろさなかった。胸元が肉に隠れるたび、膝をずらして位置を変える。
「キミは少し寝なよ」
「姫野も、ずっと起きているでしょう」
「紐を引っ張るの、私がいちばん向いてるじゃん」
下でデンジが笑った。
「ぎゃはははは! 逃げんなよォ!」
少女は立とうとした。
立てなかった。
姫野の脇にあった乾いたタオルを寄せ、それを最後にナイフを床へ置いた。
*
部屋の低い側へシーツを敷き、アキを移した。浴室へ続く壁沿いの通路には、滑らないよう畳んだタオルを置いた。
少女はそこを上がって水を汲んだ。
戻る途中、コップが傾く。こぼれた水が指へ伝った。
「俺が持ちます」
荒井が下から手を添えた。
少女は握り直そうとして、やめた。
「お願い」
コップが手を離れた。空いた手をどこへ置けばよいか迷い、膝へ載せる。
荒井がアキへ水を飲ませる間、少女は座っていた。
「ワシにも持ってこい」
パワーが言う。
少女は顔を上げたが、先に荒井が答えた。
「今、汲んでくる。お前は手を離すな」
コベニがシーツの端を折っていた。少女がそちらへ身体をずらすと、人が横になれる幅が空いている。
「こちら、使ってください……」
少女は壁を背に横たわった。
悪魔が叫ぶ。
何かが落ちる。
左腕を胸へ寄せた。手はある。袖にも触れる。もう一度、指を曲げた。
近くで布が擦れた。
「眠れないの?」
コベニが息を呑む。
「すみません。起こしましたか」
「まだ眠っていなかったわ」
「胸が、動いてなかったので……」
少女は仰向けになった。吸うとシャツが持ち上がる。
「この向きなら分かるかしら」
コベニは頷いた。
少女も目を閉じた。誰かがまだ起きている。そこまで分かっていれば、顔を動かさなくてもよかった。
*
次に起きた時、口の中が乾いていた。
明かりは変わらない。時計も八時十八分。エンジンだけが、眠る前と同じ場所で鳴っていた。
パワーは壁へ背を預けている。アキの腹から手を離していたが、布の赤いところは広がっていない。
「早川の血は止まったの?」
「ワシが止めた」
「代わりに起きているから、少し休んだら」
「ウヌが寝とる間にも、ワシは働いておったんじゃぞ」
「起こしてくれてもよかったのに」
「起こすのも面倒じゃ」
彼女が身体をずらすと、ポケットから薄い包みが落ちた。
荒井が拾う。
クッキーの欠片がこぼれた。
「まだ持ってたのか」
「それは空じゃ」
「デンジが食べたんじゃなかったのか!」
「こやつは今も下で食っとるじゃろうが」
血が跳ねる音。
「こっちにも少しは残しておけよ……」
荒井は包みを畳んだ。少女は落ちた欠片を指で集めた。シーツの繊維が一本ついていたので、それだけを外す。
誰も何も言わなかった。
荒井が水を持ってきた。
「飲みますか」
「私の分も欲しいわ」
受け取って、先に飲んだ。
それから姫野の分を持ち、壁沿いに戸口へ上がった。
姫野は同じ場所にいた。コップを受け取ろうとして、手を外へ戻す。
エンジンが止まりかけた。
紐が引かれる。
音が戻る。
「そのまま飲ませてくれる?」
少女は口元へコップを運んだ。二口飲むと、姫野が顎を引く。
「ありがと。キミも飲んだ?」
「先に飲んだわ」
「ならよかった」
少女は隣へ膝をついた。
「師匠がさ。頭のネジがぶっ飛んでる奴が、悪魔には怖いんだって言ってたんだよね」
デンジは噛まれた腕を抜こうとしなかった。その口へ、頭の刃を押し込む。
「こういうの、言ってたのかな」
少女の左腕が、腹へ寄った。
「私は、あんなに笑えないわ」
「キミまでやらなくていいよ」
姫野が少し横へずれた。
少女は空いた場所へ座り、コップを両手で包んだ。
*
エンジンの音で眠り、同じ音で目を覚ました。
空のコップは浴室の前へ並べた。水を汲む者が、起きている者の分も運ぶ。使ったタオルは袋へ入れ、乾いたものが少なくなると、一枚を二人で使った。
荒井が眠っている間、コベニはアキのそばにいた。
ずれた上着を直す。アキが動くと手を引く。少し待って、もう一度掛ける。
姫野の声がかすれた。少女が水を差し出す前に、彼女は自分からコップを指した。
誰も食事の時間を言わなくなった。
パワーが窓側の机を蹴った。
「ここはまだ開けておらんじゃろう。菓子が入っとるかもしれん」
「俺が開ける」
荒井が立ち上がる。
「ワシを信用しとらんな」
「今度は俺が持っておく」
机の引き出しは、ベッドに押されて開かなかった。二人が動かそうとした時、エンジンが止まった。
姫野の手が伸びる。
下から声がした。
「もう、やめてくれ……」
少女はコップを床へ置いた。
底の当たる音が、はっきり聞こえた。
悪魔の肉が左右へ分かれる。顔が奥へ引っ込み、その間から小さな塊が押し出された。
「私の心臓だ。もう、痛いのは嫌だ……殺してくれ」
デンジが立っていた。
両腕から血が垂れている。
片方の刃が持ち上がった。
回転音。
*
床が戻った時、少女はコップを掴み損ねた。
水が広がる。家具が軋み、ベッドが元の壁へ滑った。荒井がアキの身体を支え、パワーが机を押し返す。
姫野は戸口へ身を乗り出した。
廊下が横へ続いていた。
壁際にデンジが倒れている。頭も腕も、人間の形だった。
少女が膝をつくと、彼の口が動いた。
「終わった?」
「終わったわ」
「じゃあ、寝る……」
動かなくなった。
少女は胸へ手を置きかけ、待った。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
シャツが持ち上がった。
「悪いね。寝るなら外に出てからにしよ」
姫野が肩へ腕を入れる。
「俺が運びます」
荒井が屈み、デンジの腕を肩へ回した。パワーはアキを支えて立っている。
「チョンマゲも重いのう」
「引きずるな。足は動く」
コベニが室内で屈んでいた。転がったコップを机へ戻し、床の水へタオルを広げている。
「コベニ、もう行きましょう」
少女が呼ぶと、彼女は手を離した。
時計が鳴った。
秒針が進んでいた。
*
階段は七階へ続いていた。
次は六階。
その下にも階段がある。
荒井の背中で、デンジの靴が一段ずつ揺れた。少女は手すりを放さず、皆の足音についていく。
一階の自動扉が開いた。
頬へ風。
車が通り過ぎ、遠くで自転車のベルが鳴る。少女は歩道へ出て、目を閉じた。明かりが眩しい。目を閉じても、風は止まらなかった。
姫野が連絡を入れに行った。パワーはアキを入口脇へ座らせ、その横へしゃがむ。
荒井がデンジを下ろした。
少女も屈もうとして、壁へ手をついた。
「お前も座れ」
アキに言われ、その場へ腰を下ろす。
コベニが隣へ来た。踏んでいたスリッパの踵を、座ってから直している。
少女は手を出しかけた。
コベニの指が踵を引き出したので、自分の膝へ戻した。
姫野が帰ってきた。
「救急車、来るって。外の日付は変わってないみたい」
入口の紙は朝と同じだった。
アキが息を吐く。パワーは膝へ額を載せた。荒井がデンジの頭の下へ鞄を入れる。
姫野が少女の前へしゃがんだ。
「キミはどう? まだ痛いところある?」
少女は腹へ手を当てた。
深く吸っても、胸は引きつらない。喉も通る。まだ痛い場所を探すより先に、言いたいことがあった。
「お腹がぺこぺこで死にそうよ」
鞄の上でデンジの目が薄く開いた。
「俺も……」
姫野が立ち上がり、道路の先へ片手を上げた。