不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話   作:@taka

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第十二話半 日常のいくつか

第十二話半 日常のいくつか

 

一 買い出し失敗

 

「今日はキミに奢ろうと思って」

 

 呼び鈴の音のあと、玄関に立った姫野は開口一番そう言った。少女は靴を履きかけたまま、少し眉を寄せる。

 

「奢るって、何を」

「決まってるでしょ、労いだよ労い。あんな場所にずっと閉じ込められたんだから」

「私はほとんど休んでたわ。最後の方は」

「休んでたって言うのやめない? あれは休んでるって言わないから」

 

 少女は返事に迷い、代わりに袖を見た。少女は左手を握り、指を一本ずつ開いた。引っかかるところはない。それでも、袖口から出た手をもう一度見てしまう。姫野は急かさず、靴を履き終えるのを待っていた。

 

「じゃあ、今日は私のおごりで、好きなもの買っていいから」

 

 豪気な申し出だった。少女は少し警戒しながらも頷き、姫野のあとについて外へ出た。

 

 商店街は昼前の緩い賑わいの中にあった。魚屋の声、揚げ物の匂い、自転車のベルの音。姫野はその中を機嫌よく歩き、少女は半歩後ろから、彼女の右肩を時々確かめるように見ていた。

 

「そんなに見なくても大丈夫だよ」

「まだ、痛そうにしてる」

「これはただの癖。もう治ってる治ってる」

 

 姫野は右腕をぶんぶんと振って見せた。振った拍子に顔が一瞬だけ強張ったのを、少女は見逃さなかった。

 

「痛いんでしょう」

「痛くない」

「今、顔が」

「顔の筋肉が疲れてただけ」

 

 通用しない言い訳だった。少女はそれ以上追及しなかったが、店に入ると、姫野は右手で籠を取った。少女が横から持ち手をつかむ。

 

「持てるって」

「私が持つから、今日は選んで」

「子供扱いしないでよ」

「子供じゃなくて、怪我人扱いよ」

 

 姫野は少女を見てから、渋々手を離した。

 

「じゃあ重いやつも買っちゃおうかな~」

「食べる分だけにして」

 

「じゃあキミは荷物持ち、私は選ぶ方担当。役割分担ね」

「それ、単に私が働いてるだけじゃない?」

「奢る側の仕事は財布を出すことだから」

 

 その言葉が、あとで少しだけ効いてくることに、このときの姫野はまだ気づいていなかった。

 

*

 

 野菜の棚の前で、姫野は長ねぎを一本取り、剣のように構えてみせた。

 

「見て、これ」

「ねぎよ」

「知ってる。でも刀っぽくない?」

「刀は持ったことないわ」

「そういうツッコミじゃなくてさあ」

 

 姫野はしばらくねぎを振り回してから、これも買っていいかと聞いた。少女は「食べるものだから」と答え、姫野はそれを籠へ、ではなく少女の抱えた籠へ入れた。

 

 その後もキャベツを抱えては「重量級」と呟き、豆腐を持ち上げては「これはガラス細工くらい繊細に扱わないと」と言いながら普通にぶつけて危うく崩しかけ、少女の方が先にそれを取り上げる、という流れが何度か繰り返された。

 

「姫野、遊んでる?」

「買い物って人生の縮図だからね。真剣にやってるだけだよ」

「真剣な人は豆腐を落としかけないわ」

 

 文句を言いながらも、少女の口元は緩んでいた。姫野の軽さは、真剣にぶつかってくる相手と話すより、ずっと呼吸がしやすい。

 

 肉のパックを選んでいるとき、姫野がふと声のトーンを落とした。

 

「あのさ。八階でのこと、まだちょっと引きずってる」

「でも、助け出してくれたでしょう」

「助け出したときには手遅れだったんだよ。私には、それでよかったとは言えないな」

 

 少女が言うと、姫野は少し黙った。

 

「もっと早く退かせるべきだったなって、たまに思う」

「私は、あのときのままでよかったと思ってる」

「私は思ってない」

 

 珍しく、軽さのない声だった。それでもすぐに、姫野は元の調子へ戻す。

 

「まあ、終わったことはしゃーない。だから今日はキミに奢るの。分かった?」

「よく分からない理屈だけど、分かったわ」

 

 姫野は満足そうに頷き、また肉のパックを吟味し始めた。少女はそれ以上聞かなかった。聞かなくても分かることが、たまにある。

 

*

 

 レジの前に来て、事件が起きた。

 

「じゃ、会計」

 

 姫野が上着のポケットに手を入れ、しばらく探ったあと、反対側のポケット、それから鞄の中を探り、最後にもう一度最初のポケットへ戻った。

 

「……あれ」

「どうしたの」

「財布」

「忘れたの?」

「家に、たぶん、置いてきた……いや、待って、本当にどこ行った」

 

 レジの店員が、穏やかな顔でこちらを見ている。後ろには一人、二人と客が並び始めていた。少女は静かに財布を取り出した。

 

「私が出すわ」

「いや、待って、これは私の奢りの話で」

「奢りは財布があるときに成立するの」

 

 言い返せず、姫野は「今度、絶対返す」と小さく繰り返しながら、少女の後ろに隠れるように立った。少女は会計を済ませ、店を出たところで、袋の中身を確かめた。

 

「お肉と、野菜と……これは何?」

 

 袋の底の方から、見覚えのない菓子の箱が二つ出てきた。姫野は目を逸らした。

 

「それは、その、目についたから、ついでに」

「私が払ったのよ」

「今度返すって言ったじゃん」

「労いのはずだったでしょう」

「労いの気持ちは本物だから」

 

 少女はしばらく姫野の顔を見て、それから小さく息を吐いた。怒る気にはならなかった。この人の「今度返す」は、たぶん本当に返ってくるのだろうと、なんとなく分かる。

 

「次は、財布があるか先に確認してから誘って」

「はーい」

 

 軽い返事だった。それでも、帰り道、姫野はさっき手にしていた菓子の箱の片方を、何も言わずに少女の手へ押しつけた。

 

「……これは?」

「奢りの代わり。せめてもの」

「お肉と野菜、全部私が払ったのに」

「だから、せめてものって言ってるでしょ」

 

 少女は箱を見て、それから姫野を見た。理屈は通っていない。それでも、もらっておくことにした。

 

「ありがとう」

「うん。……今度は、ちゃんと財布持ってくるから」

 

 少女は頷いた。左手で箱の蓋を撫でると、指がすんなり動いた。新しい方の手も、少しずつ、慣れてきているらしい。

 

---

 

二 洗濯物事件

 

 戻ってきてから初めての洗濯物は、いつもより時間がかかった。

 

 少女は洗い終えたものを一枚ずつ広げ、床に並べていった。自分のシャツが一枚、上着が一着。どれも、ホテルでの戦いの跡が残っている。

 

「これは、もう無理ね」

 

 左袖の付け根が大きく裂けたシャツを持ち上げ、少女は宣告した。腕がなくなったときに一緒に裂けたものだ。岸辺は食卓で新聞を読みながら、目だけをこちらへ向けた。

 

「捨てろ」

「これも」

 

 次に持ち上げたのは、血の染みが取れなかったシャツだった。岸辺は少し考え、頷いた。

 

「それもいい」

 

 最後に、上着を広げたところで、少女の手が止まった。脇の縫い目が大きく裂け、裏地が覗いている。それでも、生地自体はまだしっかりしている。少女が「これは直せそう」と口にしかけたとき、岸辺が新聞を下げた。

 

「それは触るな」

「破れてるわよ」

「俺が直す」

 

 少女は聞き間違えたかと思い、もう一度確認した。

 

「岸辺が?」

「悪いか」

「裁縫できるの?」

「できないとは言ってない」

 

 できるとも言っていない、という点を、少女は指摘しなかった。岸辺は珍しく胸を張るような姿勢で、裁縫箱を持ってこいと言った。

 

 少女はしばらく、その顔を見ていた。ホテルに閉じ込められているとき、岸辺はそばにいなかった。あとから話を聞いて、何を思っただろう。聞いても教えてくれる人ではないので、少女は何も尋ねなかった。ただ、いつもより丁寧に、彼のために裁縫箱を持ってきた。

 

*

 

 裁縫箱を前にした岸辺は、まず針に糸を通すのに五分かかった。

 

「……貸して」

「いい。自分でやる」

 

 六分目、ようやく糸が通った。少女はそれを見届けてから、自分の分の繕い物を持って、離れた場所に座った。近くで見ていると口を出したくなる。それは分かっていたので、あえて距離を取った。

 

 最初の一針は、悪くなかった。二針目も、まあまあだった。問題は三針目からで、岸辺の指の力加減が上着の生地には強すぎたらしく、縫おうとした場所の隣に、新しい穴が開いた。

 

「……」

「岸辺」

「何でもない」

 

 何でもなくはなかった。少女がちらりと見ると、岸辺は険しい顔で糸を引いている。引くたびに、穴は増えているように見えた。

 

 三十分ほど格闘したあと、岸辺は裁縫箱を静かに閉じた。

 

「今日はここまでにする」

「進んだの?」

「進んだ」

 

 少女が上着を覗き込むと、脇の裂け目はむしろ広がり、その周りに新しい穴が三つほど増えていた。縫い目は歪み、糸の始末もされないまま垂れている。とても「進んだ」とは言えない状態だった。

 

 それでも少女は、何も言わなかった。ただ「そう」とだけ答え、自分の繕い物へ戻った。

 

*

 

 その夜、岸辺が風呂に入っているあいだ、少女は上着を手に取った。

 

 歪んだ縫い目をいったんほどき、裏地を整え直す。時間はかかったが、難しい作業ではなかった。糸を選び直し、目立たない色を選ぶ。三十分もかからず、裂け目はきちんと閉じられた。

 

 風呂から戻った岸辺は、椅子の背にかけられた上着を見て、しばらく黙っていた。

 

「……これは」

「直しておいたわ」

「俺がやると言った」

「進まなかったでしょう」

 

 岸辺は何か言いかけて、口を閉じた。少女は特にそれ以上説明せず、洗い物へ手を伸ばした。

 

「文句があるなら、元に戻すけれど」

「……いや」

 

 短い返事だった。岸辺はコートを一度手に取り、縫い目を確かめるように指でなぞった。それから、何でもないことのように呟いた。

 

「悪くない仕上がりだな」

「そうでしょう」

「俺の手も、悪くなかったと思うが」

「三十分で三つも穴を開けてたわ」

「……あれは練習だ」

 

 苦しい言い訳だったが、少女はそれ以上追及しなかった。岸辺はしばらく上着を眺めたあと、湯飲みを持ち上げる前に、珍しく声を落として言った。

 

「無事でよかった」

 

 それだけだった。少女は何と返せばいいか分からず、蛇口をひねって水音の中へ紛れさせた。振り向くと、岸辺はもう新聞へ戻っている。

 

「今度は、本当に教えてあげましょうか」

「……考えておく」

 

 岸辺の答えは短かったが、少女には、それが完全な拒絶ではないことが分かった。

 

---

 

三 休日ゴロゴロ

 

「今日は安静にしていろ、以上」

 

 医者に言い渡された言葉を、アキは自分の口で繰り返した。食卓の向かいで、デンジはパンを咥えたまま片眉を上げる。

 

「腹刺されたばっかなんだから当然だろ」

「分かってる」

「分かってて、何で今スープの鍋見てんだよ」

「味を確認しようとしただけだ」

「味見は安静に入んねえよ」

 

 その日、公安からも正式に「休め」と言い渡されていた。パワーは朝から出かけていて、家にはアキとデンジの二人だけだった。デンジはそれを聞いて、いい機会だとばかりに寝間着のまま居間へ寝転がった。あの三日間、ろくに眠らずに戦い続けた身体は、まだ本調子ではない。今日一日くらい寝ていたかった。

 

「じゃあ俺も何もしねえ」

「勝手にしろ」

 

 その宣言どおり、アキは十分後に洗濯機を回し始めた。

 

「……早パイ、それ安静にしてろって言われたばっかだろ」

「洗濯機を回すだけだ」

「腹に力入るだろうが」

「入れてない」

 

 デンジは寝転んだまま、天井を見上げてそれだけ返した。洗濯機の音が部屋に響き、アキはその間に、たたんでいない衣類の山を片付け始める。デンジがもう一度声をかけた。

 

「傷、開いたらどうすんだよ」

「開かない」

「お前が言うと信用ならねえんだよ」

 

 図星だったのか、アキは一瞬だけ手を止めた。それでも、口では認めない。

 

「これが終わったら、本当に何もしない」

 

 その言葉どおり、洗濯物を畳み終えたアキは、いったんソファに座った。三分後、傷を庇うように少しだけ身体をひねって、掃除機を手に取っていた。

 

「……」

「言っとくけど、それも安静じゃねえからな」

「音が気になっただけだ」

「静かにしてりゃ気になんねえよ」

 

 デンジの指摘は正しかったが、アキは掃除機のスイッチを入れた。轟音の中、デンジはクッションで耳を塞ぎながら、こいつは刺されても懲りない人種だと確信した。

 

*

 

 昼になり、掃除も洗濯も終わったところで、アキはようやくソファに深く座った。腹の傷に触れないよう、少し斜めに。

 

「これで終わりだ。あとは本当に何もしない」

「二時間かかったな」

「早い方だ」

 

 早くない、とデンジは思ったが、口には出さなかった。代わりに、自分はその二時間、ほとんど寝転がったままテレビを見ていた。特に面白い番組でもなかったが、何もしないというのはこういうことだと信じて、律儀に何もしなかった。

 

 静かな時間が少し続いたあと、アキがぽつりと言った。

 

「お前は、それで飽きないのか」

「何が」

「ずっと寝転んでるだけだろう」

「休んでんだよ、言われた通り」

「……そうだな」

 

 アキは黙って頷いたが、しばらくすると、また落ち着かなそうに脚を組み替えた。デンジはそれを見て、あることに気づいた。

 

「お前、なんか俺が寝てるのもイライラしてね?」

「していない」

「してるだろ、その顔」

「別に、何もしないことがそんなに簡単なのかと思っただけだ」

 

 矛盾した文句だった。安静にしろと言われたのも、実際にそうしようとしているのもアキ自身なのに、目の前でうまく休んでいる人間を見ると、それはそれで落ち着かないらしい。

 

「お前も寝てみりゃいいじゃん。傷に響かねえし」

「昼から寝るのは怠惰だ」

「今何もしてねえじゃん、俺ら」

「これは安静だ、怠惰とは違う」

 

 その区別が、デンジには最後まで理解できなかった。

 

*

 

 夕方近くになって、玄関の扉が勢いよく開いた。

 

「ただいまじゃ! 人間ども、辛気臭い顔しておるな!」

 

 パワーが猫を肩に乗せたまま帰ってきた。ニャーコは迷惑そうに耳を伏せている。

 

「何もしてねえの、辛気臭いのかよ」

「暇そうな顔ということじゃ」

「お前もそれ暇そうじゃん」

 

 パワーは反論しかけたが、アキが立ち上がって夕飯の支度を始めたのを見て、興味を猫用の餌の方へ移した。

 

 台所へ向かうアキの背中を見て、デンジはソファから起き上がった。

 

「腹、大丈夫かよ」

「立って動くくらいは平気だ」

「じゃあ今日一日、何だったんだよ」

「安静だ」

 

 もう分かった、とデンジは言わなかった。分からないままの方が、突っ込みがいがある。文句を言いながらも、デンジは台所へついていき、野菜を切る手伝いを始めた。腹の傷を気にして、アキの分だけこっそり多めに切り分ける。気づかれれば怒られる気がしたので、黙っていた。

 

 二人分、いや、途中から加わったパワーの分もあわせて三人分の夕飯を、狭い台所で作った。安静にするはずだった一日は、結局、いつもとそう変わらない忙しさで終わった。

 

 それでも、食卓に並んだ皿を前にして、デンジはふと思った。

 

「今日、なんもしてねえのに、疲れたな」

「俺もだ」

 

---

 

四 奢り勝負のリベンジ

 

 最初のうち、荒井はデンジのことが気に入らなかった。

 挨拶もろくにしない態度、命がけの現場だというのに緊張感のかけらもない振る舞い。そんな男を、公安のデビルハンターとして同じ現場に立たせること自体が間違っていると思っていた。だから、永遠の悪魔が「デンジの心臓を渡せば外に出してやる」と持ちかけてきたときも、荒井は迷わずその提案を受け入れようとした。教育も受けていない野良の人間より、公安の仲間の命を優先するのは当然だと、そう信じていた。

 

 結局、ホテルから全員を脱出させたのは、そのデンジだった。

 

 悪魔が音を上げるまで痛めつけるという、誰も思いつかなかった方法。荒井はあの光景を、今でもうまく飲み込めずにいる。真面目に訓練を積み、規則を守り、常識の範囲で最善を尽くしてきたつもりの自分より、あの型破りな男の方が、よほどデビルハンターらしい何かを持っている。そう思うと、素直に感謝だけしていられない苛立ちが、いつまでも胸の底に残った。

 

     *

 

 結局あの日のキスの話は、有耶無耶になったまま、誰の手にも渡らなかった。だが荒井の中では、まだ何かが片づいていなかったらしい。

 

「デンジ。今日こそ、決着をつけよう」

 

 庁舎の廊下で呼び止められ、デンジは食べかけのパンを持ったまま振り返った。荒井が仁王立ちしている。目つきは無駄に真剣だった。

 

「何の決着だよ」

「先日のキスの話は俺の中で終わっていない」

「おー……忘れてねえぜ」

 

 デンジは約束を確認し、永遠の悪魔との戦いを思い返す。

 

「俺きっちりと止め刺したじゃんかよ。もう終わった話じゃねえの」

「終わってない。確かにお前が悪魔を殺した。だが姫野先輩のキスについては納得はできん」

「知らねえよそんなん。負けは負けだろ」

「だから、再戦を申し込む」

 

 真顔だった。デンジは食べかけのパンを見て、それから荒井を見た。命がけの戦いを一緒に潜り抜けた相手が、今こだわっているのがこれだという事実に、少し呆れる。

 

「別に、奢ってもらえんならいいけど」

「お前が勝ったら、今日の飯代は俺が出す」

「負けたら?」

「姫野先輩の件を辞退してほしい」

「そりゃ割に合わねえよ!! 飯一回で諦めるわけねえだろ!」

 

 少しの沈黙のあと、荒井はふと声を落とした。

 

「……それとは別に、言っておきたいことがある」

「何だよ、急に」

「永遠の悪魔のときだ。俺は、お前を殺してその悪魔と契約するべきだと言った」

 

 デンジはパンを咀嚼する手を止めた。

 

「あれは、間違っていたとは思ってない。今でも、あの状況ならああ言うしかなかったと思ってる」

「じゃあ何だよ」

「それでも、仲間を売ろうとした。そのことを謝りたい」

 

 デンジはしばらく荒井を見ていたが、やがてパンの残りを口へ放り込んだ。

 

「別に、もういいよそれ。生きてるし」

「……そうか」

「それより、勝負の内容は?」

 

 勝負の内容は、二人で相談した末、目の前の定食屋で「先に丼を食べ終えた方の勝ち」に決まった。定食屋で偶然合流した少女は近くの席で、その様子を見ていた。

 

「本気なの、二人とも」

「本気じゃなきゃ、リベンジなんて言葉使わねえだろ」

 

 デンジが箸を構える。荒井も両手を合わせ、真剣な顔で丼を見据えた。

 

「いただきます!」

 

 合図もなく始まった勝負は、あっという間にデンジの優勢に傾いた。荒井が三口目を噛んでいる間に、デンジは半分以上を平らげている。

 

「はやっ……」

「悪魔食ってた奴に飯の速さで勝てると思ったのかよ」

 

 言われて初めて、荒井は自分の作戦の甘さに気づいたらしい。それでも箸を止めず、意地で口へ運び続ける。

 

「まだ、負けたわけじゃ……げほっ」

「無理すんなよ、それ喉に詰まる系のやつ」

 

 案の定、荒井はむせた。水を飲み、涙目で睨むと、デンジはとっくに丼を空にして満足げにしていた。

 

「勝った」

「くっ……次だ。次こそ」

「お前、次もあんのかよ」

 

 少女は水を差し出しながら、荒井の顔を見た。悔しそうではあるが、以前のように張り詰めた感じはしない。負けても、次を約束できる余裕があるらしかった。

 

「ねえ、次の勝負が決まったら教えて」

「……別に、面白いものじゃないですよ」

「見るのは面白いわ」

 

 荒井は少し赤くなりながら、それでも水を飲み干した。

 

「今度は、絶対に勝ちます」

 

 その言葉を、デンジは半分も聞いていなかった。丼のおかわりを頼んでいたからだ。

 

     *

 

 その日の訓練の帰り道、少女はふと思い出して姫野に尋ねた。

 

「歓迎会、いつやるの」

「んー、今週中かなあ。も〜アキくん、あの女のどこがいいって言うのさぁ〜……」

 

 姫野が壊れた。少女はかける言葉を探したが見つからなかった。

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五 尾行日和

 

「コベニと、荒井が、二人で出かける約束をしておる」

 

 パワーが、いかにも重大な機密情報を手にしたような顔で、少女に耳打ちした。猫のニャーコを肩に乗せたまま、目だけが妙にきらきらしている。

 

「休みが合ったから、一緒に出かけるだけじゃないの」

「甘いのう。あれは、デートというやつじゃ」

 

 少女はコベニの手帳へ視線を落とした。表紙の端に、待ち合わせ場所と時間が几帳面な字で書き込まれている。荒井の字だと、すぐに分かった。

 

「確かめに行くぞ!!」

「確かめてどうするの」

「確かめてから決める!」

 

 結局、少女はパワーに押し切られる形で、二人のあとをつけることになった。

 

     *

 

 待ち合わせ場所は、駅前の時計台の下だった。コベニが先に来ていて、何度も鞄を持ち直しては、時計を見上げている。少女は隣の花壇の陰にしゃがみ、パワーはその後ろで、電柱に半分だけ隠れていた。

 

 隠れられていない。角が丸見えだった。

 

「もう少し身を低くして」

「ワシがしゃがむと威厳が失われる」

「威厳より、見つからない方が大事よ」

 

 荒井が到着すると、コベニの背筋が少し伸びた。

 

「お、お待たせしました……あの、今日はどこに行きましょうか」

「俺は、東山の行きたいところで構わない」

「じゃあ、じゃあ、あの……」

 

 コベニは少し俯き、それからきっぱりと言った。

 

「駅の反対側に、パンケーキのお店があるんです。ずっと気になってて。行っていいですか、いえ、駄目なら別に……」

「大丈夫だ。問題ないから行くか」

「本当ですか。……あの、量が少ないお店らしくて、荒井さんの分も少し貰っちゃうかもしれないんですけど」

「あ、ああ」

「それと、混んでるから、順番待ちの間、荒井さんの上着借りていいですか。寒くて」

「……ああ、いいぞ」

 

 少女とパワーは十分な距離を取りながら追いかけた。

 

「なんか、荒井のやつ、返事する暇もないようじゃの」

「そうね」

「あれ、押されとるのう」

「そうね」

 

     *

 

 パンケーキ店に入る二人を見送ってから、少女とパワーは隣の花屋の陰へ回った。ガラスの向こうで、コベニと荒井がテーブルを挟んで座っている。

 

「あ、荒井さん、これも一口食べてください。私、頼みすぎちゃって」

「いや、俺はコーヒーだけで」

 

「駄目です。残したらお店の人に悪いので」

 

 コベニは有無を言わさず荒井の皿へパンケーキを取り分けている。

 

「あやつ、意外と強引なんじゃな」

「そうね」

 

 窓越しに見える荒井は、渡された皿を黙って食べていた。少しも嫌そうではない。

 

「これ、うまくいっとるのか、いっとらんのか、分からんな」

「わからないわね」

 

 少女とパワーがそんな話をしていると、店の扉が開いた。出てきたのはコベニと荒井ではなく、店員だった。

 

「お客様。表で覗き込まれると、営業妨害になりますので」

 

 少女は素直に頭を下げ、何か言い返そうと口を開いたパワーを引きずって少し離れた場所へ移動した。

 

     *

 

 パンケーキ店を出た荒井とコベニは、そのまま公園のベンチへ座った。少女とパワーは、遊具の陰に隠れて様子を見守る。

 

「荒井さん、次、あっちの雑貨屋も見たいです。だ、駄目ならいいんですけど」

「なら行こうか。時間はまだ余裕がある」

「本当にいいんですか。私ばっかり決めちゃって、すみません」

「気にしなくていい」

「じゃあ、荷物も持ってもらっていいですか。両手が空くと、雑貨屋で選びやすいので」

 

 荒井は素直に紙袋を受け取った。

 

 少女は隣のパワーを見た。パワーは真剣な顔で耳を澄ませている。

 

「あの……ホテルのこと、まだちゃんと謝れてなくて」

 

 コベニの声が、風に乗って少しだけ聞こえた。

 

「もういいんだよ、あれは」

「よくないです。私、荒井さんまで巻き込んで……あ、でも、そのぶん、今日は荒井さんに付き合いしますので」

「……それは別の話では」

「すみません」

 

 謝りながらも、コベニは荒井の腕を軽く引いて立たせていた。

 

「なんじゃあれ。謝っとるのに、結局言うこと聞かせとるぞ」

「そうね」

 

 その瞬間、風に乗ってパワーの頭が動き、遊具の鉄棒に角が当たって高い音を立てた。

 

「ん?」

 

 荒井がこちらを振り返った。少女は咄嗟にパワーの頭を押さえ、二人でしゃがみ込む。

 

「……今、何か聞こえたか」

「気のせいじゃないですか」

 

 コベニの返事で、荒井はもう一度前を向いた。少女は息を止めたまま、パワーの口を塞いでいた手を緩めた。

 

「危なかったわ」

「ワシの角は目立つ運命なんじゃ」

「目立たせないでよ」

 

 しばらくして、ベンチの二人が立ち上がった。荒井は両手に紙袋を提げ、コベニはその半歩後ろを歩いている。手をつなぐでもないが、遠目にもコベニが何かを言い、荒井が頷いているのが分かった。

 

「これ、デートだったのかしら」

「わからん。だが、荒井が完全に振り回されとったのは分かる」

「そうね」

 

 少女は頷いた。よく分からないまま、二人が並んで歩いているのを見られたことに、少しだけ満足していた。

 

     *

 

 帰り道の途中、パワーが唐突に立ち止まった。

 

「荒井に知られたら、次はワシに奢らんかもしれん」

「奢ってもらう約束があるの?」

「まだじゃ。これからさせる。どうする」

「黙っておくしかないでしょう」

 

 二人は頷き合い、何食わぬ顔で帰路についた。

 その数日後、姫野から「荒井君とコベニちゃんの尾行、どうだった?」と聞かれ、少女はしばらく答えられなかった。誰から漏れたのかは、最後まで分からなかった。

 

---

六 袖を通す

 

 寝る前に、少女は上着の脇を広げた。縫い合わせた裂け目の横に、小さな穴が残っている。昼の明かりでは目立たなかったのに、卓上灯へかざすと、向こう側から光が漏れた。

 

 「まだ直すのか」

 

 新聞の端を下げ、岸辺が尋ねる。

 

 「縫ったところの隣に、穴が残っているの」

 「着れば見えない」

 「腕を上げたら見えるわ」

 「上げるな」

 

 少女は左腕を上げた。岸辺は新聞を戻す。

 今から糸をほどいたら、寝るのが遅くなる。少女は裁縫箱を閉じ、上着を椅子の背へ掛けた。岸辺が椅子を引いたので、背もたれと彼の間から、垂れていた袖を抜いておく。

 

 「背中で潰さないでね」

 「椅子に掛けるな」

 

 少女は上着を隣の椅子へ移した。

 

 裁縫箱を棚に戻し、ベッドへ入る。

 明日は糸を買っておきたい。姫野と買い物に行ったときには、すっかり忘れていた。財布を忘れた人についていって、自分も買うものを忘れて帰ってきたのだから、あまり強くは言えない。

 左手を頬の下へ差し込む。居間では新聞をめくる音が続いている。

 次の一枚を待っているうちに、少女は眠った。

 

     *

 

 左の袖が長すぎる。

 

 少女が腕を伸ばしても、指先は出てこなかった。余った布が膝の向こうへ垂れ、右手で引き上げると、肘の辺りに皺が寄る。

 

 「そっちは引かないで」

 

 目の前の女が、袖口をつまんだ。

 

 少女は椅子に座っていた。靴を履いていない足が、床の少し上で揺れている。向かいの女は低い椅子に腰を下ろし、少女の左袖を自分の膝へ広げていた。

 長い髪が両頬を隠している。下を向くたびに毛先が布へ落ち、女は手の甲でそれを払った。口元だけが、ときどき現れる。

 

 岸辺ではない。

 それなら、今度は穴を増やさずに済むだろうか。

 

 女の傍らには小さな台があり、針と、浅い皿が置かれていた。皿の底には水が溜まっている。女が布の下から糸を引くと、濡れた指から雫が落ちた。

 

 「何か、話して」

 「何を話せばいいの?」

 「外であったこと」

 

 少女は足を揺らすのをやめた。踵が、女の膝に当たりそうになっていた。

 

 「この前、姫野と買い物へ行ったわ。私に奢ってくれると言って」

 「何を買ったの」

 「お肉と野菜。姫野がお菓子も入れたから、袋が二つになったの」

 

 女は袖を少し裏返した。左の肘が引かれた気がして、少女は肩を前へ出す。

 

 「でも、財布を忘れていたから、私が払ったわ」

 「あなたの財布はあったのね」

 「私のはあったの。忘れたのは姫野よ」

 「帰ってから、返してもらった?」

 「まだ。お菓子は一つくれたわ」

 

 女の指が止まった。

 

 「あなたが払ったお菓子を?」

 「そうなの」

 

 女は小さく笑い、袖の下へ手を戻す。

 少女はその口元が髪に隠れるまで待った。店を出たときにも、同じところが引っかかったのだった。

 

 「まだ食べていないから、明日食べるわ」

 

 箱は机の上に置いてある。岸辺には、開けないでと言っていない。けれど、あの人は甘いものをあまり食べないので、たぶん残っている。

 

 「少し、じっとしていてね」

 

 女が左袖を押さえ直した。

 

 「岸辺も、上着を縫ってくれたの」

 「直った?」

 「最後は私が縫ったわ。岸辺が引っ張ると、隣に穴が開いてしまうから」

 

 少女は右の指で、膝の上に小さな丸を作った。

 

 「このくらいのが、三つ」

 

 女は布をつまみ、針を抜いた。糸が引かれると、袖の皺が一つ消える。

 

 「前にも、おもちゃを直してくれたことがあるの。動かないところを引っ張ったら、そこが取れてしまって」

 「それは、戻せたの?」

 「戻そうとしたら、隣も取れたわ」

 

 少女は右手を開いた。

 外れた部品を掌へ載せられたことは覚えている。何のおもちゃだっただろう。大きな手から小さなものが落ちてきて、なくさないように指を閉じた。その先が出てこない。

 女は続きを催促せず、袖の内側を指でなぞっている。

 

 「もう終わりそう?」

 

 少女が身を乗り出すと、女の髪が頬へ触れた。乾いているのに、触れたところだけが冷たい。

 

 「まだ。引っ張ると、やり直しになるから」

 

 椅子へ座り直し、左手を握った。

 

 袖は動かない。

 

 もう一度、指を曲げる。女の膝に広げられた布が、下から小さく盛り上がった。

 少女は右手で左腕を挟んだ。肩から肘までは、いつもの硬さがある。その先を押さえると、生地同士が触れた。袖を手首の方へ辿っても、中に指が当たらない。

 

 左手は握れている。

 爪が掌に触れる感触まであるのに。

 

 「私の手は、どこにあるの?」

 「ここにあるよ」

 

 女は膝の上の布へ手を添えた。

 

 右手を伸ばすと、女は袖口をかぶせ直した。

 

 「触ると、やりにくいから」

 

 布の下にあるものを、両手で支えている。押さえつけるほどの力には見えない。それでも、少女が左腕を引くと、肘から先がついてこなかった。

 

 ホテルの絨毯。

 身体を支えようとついた手に、口が閉じた。引いても抜けず、肩ばかりが後ろへ引かれた、あのときの袖。

 

 少女は椅子の座面を右手で掴んだ。

 今は痛くない。痛くないまま引いたら、どこで切れてしまうのだろう。

 

 「いったん、放してほしいの」

 「今、戻すから」

 

 女は急がなかった。

 踵が椅子の脚へ当たる。足を止めても、しばらくすると、また当たった。

 

 女が身体を傾けた拍子に、椅子の下が空いた。

 そこにも器がある。台の上の皿より深く、女の足の間へ半分ほど突き出していた。中には濡れた布。その折り目から、指の先のようなものが一つ出ている。

 

 小さな爪だった。

 深爪にならない程度に、短く切ってある。

 

 少女は右手の親指を握り込んだ。

 女が袖の下で何かを包む。その親指が往復すると、左手にも感触が伝わってきた。指の付け根を、一つずつ擦られている。

 

 「冷たくなったね」

 

 何を温めているのか、もう分かった。

 少女は膝の上の布から、右手を遠ざけた。

 

 「もう少し」

 

 女の指が緩む。

 少女が肘を引くと、今度は手の重みも近づいてきた。空だった袖が膨らみ、布が手首に擦れる。

 袖口から指先が出た。

 

 少女は左手を開いた。小指から順に曲げ、それから親指を掌へ押しつける。爪の当たる位置も、強さも、自分で変えられる。

 手首には傷がなかった。女が引いていたはずの糸も、どこにもない。

 

 女が袖の皺を伸ばしている間に、少女は左腕を胸へ引き寄せた。

 椅子を下りる。今度は足の裏が床に着いた。

 

 女の手が伸びてきた。

 片側だけ裏返った袖口へ、指が近づく。一歩退くと、女はそこで手を止めた。

 「もう、自分でできるわ」

 

 少女は右手で袖の折り返しを直し、布の端を揃えるあいだも、女の手は宙に残っている。

 やがて、膝へ下りた。

 

 「そう」

 

 背中のすぐ後ろに扉があった。右手で取っ手を掴む。左手は胸へ当てたまま、指先で服を握っていた。

 

 「私、帰るわ」

 

 女は足元へ屈み、器を椅子の下へ押し戻そうとした。縁に引っかかった布を外すと、隠れていた指先が、もう少しだけ現れる。

 少女は自分の左手を開いた。

 

 五本ともある。

 

 「そっちは、もう直さないの?」

 

 女の手が、器の縁で止まった。

 髪の奥から口元が現れる。女は少女の袖へ手を伸ばしかけ、途中で膝に戻した。

 

 「そっちは、もう使わないから」

 

     *

 

 台所で皿が重なった。

 

 少女は頬の下から左手を抜いた。指の側面に枕の縫い目がついている。掌を開くと、布団の上に五本の指が広がった。

 右手で左の手首を掴む。骨があり、その先も途切れず肘へ続いている。

 

 「起きたなら来い」

 

 岸辺の声がした。

 

 少女はベッドの縁から足を下ろした。踵が床に着く。椅子も、器もない。昨日脱いだ靴下が、片方だけベッドの下へ入っていた。

 

 「今、行くわ」

 

 机の上には菓子の箱。蓋は閉じたままだ。

 椅子から上着を取り、左袖へ手を入れかけた。

 

 指が、布の内側で止まる。

 

 いったん抜いて、右腕から通した。左袖は右手で手繰り寄せ、出口を開いてから腕を入れる。

 五本の指が出るまで、袖口を離さなかった。

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