不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第十二話半 日常のいくつか
一 買い出し失敗
「今日はキミに奢ろうと思って」
呼び鈴の音のあと、玄関に立った姫野は開口一番そう言った。少女は靴を履きかけたまま、少し眉を寄せる。
「奢るって、何を」
「決まってるでしょ、労いだよ労い。あんな場所にずっと閉じ込められたんだから」
「私はほとんど休んでたわ。最後の方は」
「休んでたって言うのやめない? あれは休んでるって言わないから」
少女は返事に迷い、代わりに袖を見た。少女は左手を握り、指を一本ずつ開いた。引っかかるところはない。それでも、袖口から出た手をもう一度見てしまう。姫野は急かさず、靴を履き終えるのを待っていた。
「じゃあ、今日は私のおごりで、好きなもの買っていいから」
豪気な申し出だった。少女は少し警戒しながらも頷き、姫野のあとについて外へ出た。
商店街は昼前の緩い賑わいの中にあった。魚屋の声、揚げ物の匂い、自転車のベルの音。姫野はその中を機嫌よく歩き、少女は半歩後ろから、彼女の右肩を時々確かめるように見ていた。
「そんなに見なくても大丈夫だよ」
「まだ、痛そうにしてる」
「これはただの癖。もう治ってる治ってる」
姫野は右腕をぶんぶんと振って見せた。振った拍子に顔が一瞬だけ強張ったのを、少女は見逃さなかった。
「痛いんでしょう」
「痛くない」
「今、顔が」
「顔の筋肉が疲れてただけ」
通用しない言い訳だった。少女はそれ以上追及しなかったが、店に入ると、姫野は右手で籠を取った。少女が横から持ち手をつかむ。
「持てるって」
「私が持つから、今日は選んで」
「子供扱いしないでよ」
「子供じゃなくて、怪我人扱いよ」
姫野は少女を見てから、渋々手を離した。
「じゃあ重いやつも買っちゃおうかな~」
「食べる分だけにして」
「じゃあキミは荷物持ち、私は選ぶ方担当。役割分担ね」
「それ、単に私が働いてるだけじゃない?」
「奢る側の仕事は財布を出すことだから」
その言葉が、あとで少しだけ効いてくることに、このときの姫野はまだ気づいていなかった。
*
野菜の棚の前で、姫野は長ねぎを一本取り、剣のように構えてみせた。
「見て、これ」
「ねぎよ」
「知ってる。でも刀っぽくない?」
「刀は持ったことないわ」
「そういうツッコミじゃなくてさあ」
姫野はしばらくねぎを振り回してから、これも買っていいかと聞いた。少女は「食べるものだから」と答え、姫野はそれを籠へ、ではなく少女の抱えた籠へ入れた。
その後もキャベツを抱えては「重量級」と呟き、豆腐を持ち上げては「これはガラス細工くらい繊細に扱わないと」と言いながら普通にぶつけて危うく崩しかけ、少女の方が先にそれを取り上げる、という流れが何度か繰り返された。
「姫野、遊んでる?」
「買い物って人生の縮図だからね。真剣にやってるだけだよ」
「真剣な人は豆腐を落としかけないわ」
文句を言いながらも、少女の口元は緩んでいた。姫野の軽さは、真剣にぶつかってくる相手と話すより、ずっと呼吸がしやすい。
肉のパックを選んでいるとき、姫野がふと声のトーンを落とした。
「あのさ。八階でのこと、まだちょっと引きずってる」
「でも、助け出してくれたでしょう」
「助け出したときには手遅れだったんだよ。私には、それでよかったとは言えないな」
少女が言うと、姫野は少し黙った。
「もっと早く退かせるべきだったなって、たまに思う」
「私は、あのときのままでよかったと思ってる」
「私は思ってない」
珍しく、軽さのない声だった。それでもすぐに、姫野は元の調子へ戻す。
「まあ、終わったことはしゃーない。だから今日はキミに奢るの。分かった?」
「よく分からない理屈だけど、分かったわ」
姫野は満足そうに頷き、また肉のパックを吟味し始めた。少女はそれ以上聞かなかった。聞かなくても分かることが、たまにある。
*
レジの前に来て、事件が起きた。
「じゃ、会計」
姫野が上着のポケットに手を入れ、しばらく探ったあと、反対側のポケット、それから鞄の中を探り、最後にもう一度最初のポケットへ戻った。
「……あれ」
「どうしたの」
「財布」
「忘れたの?」
「家に、たぶん、置いてきた……いや、待って、本当にどこ行った」
レジの店員が、穏やかな顔でこちらを見ている。後ろには一人、二人と客が並び始めていた。少女は静かに財布を取り出した。
「私が出すわ」
「いや、待って、これは私の奢りの話で」
「奢りは財布があるときに成立するの」
言い返せず、姫野は「今度、絶対返す」と小さく繰り返しながら、少女の後ろに隠れるように立った。少女は会計を済ませ、店を出たところで、袋の中身を確かめた。
「お肉と、野菜と……これは何?」
袋の底の方から、見覚えのない菓子の箱が二つ出てきた。姫野は目を逸らした。
「それは、その、目についたから、ついでに」
「私が払ったのよ」
「今度返すって言ったじゃん」
「労いのはずだったでしょう」
「労いの気持ちは本物だから」
少女はしばらく姫野の顔を見て、それから小さく息を吐いた。怒る気にはならなかった。この人の「今度返す」は、たぶん本当に返ってくるのだろうと、なんとなく分かる。
「次は、財布があるか先に確認してから誘って」
「はーい」
軽い返事だった。それでも、帰り道、姫野はさっき手にしていた菓子の箱の片方を、何も言わずに少女の手へ押しつけた。
「……これは?」
「奢りの代わり。せめてもの」
「お肉と野菜、全部私が払ったのに」
「だから、せめてものって言ってるでしょ」
少女は箱を見て、それから姫野を見た。理屈は通っていない。それでも、もらっておくことにした。
「ありがとう」
「うん。……今度は、ちゃんと財布持ってくるから」
少女は頷いた。左手で箱の蓋を撫でると、指がすんなり動いた。新しい方の手も、少しずつ、慣れてきているらしい。
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二 洗濯物事件
戻ってきてから初めての洗濯物は、いつもより時間がかかった。
少女は洗い終えたものを一枚ずつ広げ、床に並べていった。自分のシャツが一枚、上着が一着。どれも、ホテルでの戦いの跡が残っている。
「これは、もう無理ね」
左袖の付け根が大きく裂けたシャツを持ち上げ、少女は宣告した。腕がなくなったときに一緒に裂けたものだ。岸辺は食卓で新聞を読みながら、目だけをこちらへ向けた。
「捨てろ」
「これも」
次に持ち上げたのは、血の染みが取れなかったシャツだった。岸辺は少し考え、頷いた。
「それもいい」
最後に、上着を広げたところで、少女の手が止まった。脇の縫い目が大きく裂け、裏地が覗いている。それでも、生地自体はまだしっかりしている。少女が「これは直せそう」と口にしかけたとき、岸辺が新聞を下げた。
「それは触るな」
「破れてるわよ」
「俺が直す」
少女は聞き間違えたかと思い、もう一度確認した。
「岸辺が?」
「悪いか」
「裁縫できるの?」
「できないとは言ってない」
できるとも言っていない、という点を、少女は指摘しなかった。岸辺は珍しく胸を張るような姿勢で、裁縫箱を持ってこいと言った。
少女はしばらく、その顔を見ていた。ホテルに閉じ込められているとき、岸辺はそばにいなかった。あとから話を聞いて、何を思っただろう。聞いても教えてくれる人ではないので、少女は何も尋ねなかった。ただ、いつもより丁寧に、彼のために裁縫箱を持ってきた。
*
裁縫箱を前にした岸辺は、まず針に糸を通すのに五分かかった。
「……貸して」
「いい。自分でやる」
六分目、ようやく糸が通った。少女はそれを見届けてから、自分の分の繕い物を持って、離れた場所に座った。近くで見ていると口を出したくなる。それは分かっていたので、あえて距離を取った。
最初の一針は、悪くなかった。二針目も、まあまあだった。問題は三針目からで、岸辺の指の力加減が上着の生地には強すぎたらしく、縫おうとした場所の隣に、新しい穴が開いた。
「……」
「岸辺」
「何でもない」
何でもなくはなかった。少女がちらりと見ると、岸辺は険しい顔で糸を引いている。引くたびに、穴は増えているように見えた。
三十分ほど格闘したあと、岸辺は裁縫箱を静かに閉じた。
「今日はここまでにする」
「進んだの?」
「進んだ」
少女が上着を覗き込むと、脇の裂け目はむしろ広がり、その周りに新しい穴が三つほど増えていた。縫い目は歪み、糸の始末もされないまま垂れている。とても「進んだ」とは言えない状態だった。
それでも少女は、何も言わなかった。ただ「そう」とだけ答え、自分の繕い物へ戻った。
*
その夜、岸辺が風呂に入っているあいだ、少女は上着を手に取った。
歪んだ縫い目をいったんほどき、裏地を整え直す。時間はかかったが、難しい作業ではなかった。糸を選び直し、目立たない色を選ぶ。三十分もかからず、裂け目はきちんと閉じられた。
風呂から戻った岸辺は、椅子の背にかけられた上着を見て、しばらく黙っていた。
「……これは」
「直しておいたわ」
「俺がやると言った」
「進まなかったでしょう」
岸辺は何か言いかけて、口を閉じた。少女は特にそれ以上説明せず、洗い物へ手を伸ばした。
「文句があるなら、元に戻すけれど」
「……いや」
短い返事だった。岸辺はコートを一度手に取り、縫い目を確かめるように指でなぞった。それから、何でもないことのように呟いた。
「悪くない仕上がりだな」
「そうでしょう」
「俺の手も、悪くなかったと思うが」
「三十分で三つも穴を開けてたわ」
「……あれは練習だ」
苦しい言い訳だったが、少女はそれ以上追及しなかった。岸辺はしばらく上着を眺めたあと、湯飲みを持ち上げる前に、珍しく声を落として言った。
「無事でよかった」
それだけだった。少女は何と返せばいいか分からず、蛇口をひねって水音の中へ紛れさせた。振り向くと、岸辺はもう新聞へ戻っている。
「今度は、本当に教えてあげましょうか」
「……考えておく」
岸辺の答えは短かったが、少女には、それが完全な拒絶ではないことが分かった。
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三 休日ゴロゴロ
「今日は安静にしていろ、以上」
医者に言い渡された言葉を、アキは自分の口で繰り返した。食卓の向かいで、デンジはパンを咥えたまま片眉を上げる。
「腹刺されたばっかなんだから当然だろ」
「分かってる」
「分かってて、何で今スープの鍋見てんだよ」
「味を確認しようとしただけだ」
「味見は安静に入んねえよ」
その日、公安からも正式に「休め」と言い渡されていた。パワーは朝から出かけていて、家にはアキとデンジの二人だけだった。デンジはそれを聞いて、いい機会だとばかりに寝間着のまま居間へ寝転がった。あの三日間、ろくに眠らずに戦い続けた身体は、まだ本調子ではない。今日一日くらい寝ていたかった。
「じゃあ俺も何もしねえ」
「勝手にしろ」
その宣言どおり、アキは十分後に洗濯機を回し始めた。
「……早パイ、それ安静にしてろって言われたばっかだろ」
「洗濯機を回すだけだ」
「腹に力入るだろうが」
「入れてない」
デンジは寝転んだまま、天井を見上げてそれだけ返した。洗濯機の音が部屋に響き、アキはその間に、たたんでいない衣類の山を片付け始める。デンジがもう一度声をかけた。
「傷、開いたらどうすんだよ」
「開かない」
「お前が言うと信用ならねえんだよ」
図星だったのか、アキは一瞬だけ手を止めた。それでも、口では認めない。
「これが終わったら、本当に何もしない」
その言葉どおり、洗濯物を畳み終えたアキは、いったんソファに座った。三分後、傷を庇うように少しだけ身体をひねって、掃除機を手に取っていた。
「……」
「言っとくけど、それも安静じゃねえからな」
「音が気になっただけだ」
「静かにしてりゃ気になんねえよ」
デンジの指摘は正しかったが、アキは掃除機のスイッチを入れた。轟音の中、デンジはクッションで耳を塞ぎながら、こいつは刺されても懲りない人種だと確信した。
*
昼になり、掃除も洗濯も終わったところで、アキはようやくソファに深く座った。腹の傷に触れないよう、少し斜めに。
「これで終わりだ。あとは本当に何もしない」
「二時間かかったな」
「早い方だ」
早くない、とデンジは思ったが、口には出さなかった。代わりに、自分はその二時間、ほとんど寝転がったままテレビを見ていた。特に面白い番組でもなかったが、何もしないというのはこういうことだと信じて、律儀に何もしなかった。
静かな時間が少し続いたあと、アキがぽつりと言った。
「お前は、それで飽きないのか」
「何が」
「ずっと寝転んでるだけだろう」
「休んでんだよ、言われた通り」
「……そうだな」
アキは黙って頷いたが、しばらくすると、また落ち着かなそうに脚を組み替えた。デンジはそれを見て、あることに気づいた。
「お前、なんか俺が寝てるのもイライラしてね?」
「していない」
「してるだろ、その顔」
「別に、何もしないことがそんなに簡単なのかと思っただけだ」
矛盾した文句だった。安静にしろと言われたのも、実際にそうしようとしているのもアキ自身なのに、目の前でうまく休んでいる人間を見ると、それはそれで落ち着かないらしい。
「お前も寝てみりゃいいじゃん。傷に響かねえし」
「昼から寝るのは怠惰だ」
「今何もしてねえじゃん、俺ら」
「これは安静だ、怠惰とは違う」
その区別が、デンジには最後まで理解できなかった。
*
夕方近くになって、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ただいまじゃ! 人間ども、辛気臭い顔しておるな!」
パワーが猫を肩に乗せたまま帰ってきた。ニャーコは迷惑そうに耳を伏せている。
「何もしてねえの、辛気臭いのかよ」
「暇そうな顔ということじゃ」
「お前もそれ暇そうじゃん」
パワーは反論しかけたが、アキが立ち上がって夕飯の支度を始めたのを見て、興味を猫用の餌の方へ移した。
台所へ向かうアキの背中を見て、デンジはソファから起き上がった。
「腹、大丈夫かよ」
「立って動くくらいは平気だ」
「じゃあ今日一日、何だったんだよ」
「安静だ」
もう分かった、とデンジは言わなかった。分からないままの方が、突っ込みがいがある。文句を言いながらも、デンジは台所へついていき、野菜を切る手伝いを始めた。腹の傷を気にして、アキの分だけこっそり多めに切り分ける。気づかれれば怒られる気がしたので、黙っていた。
二人分、いや、途中から加わったパワーの分もあわせて三人分の夕飯を、狭い台所で作った。安静にするはずだった一日は、結局、いつもとそう変わらない忙しさで終わった。
それでも、食卓に並んだ皿を前にして、デンジはふと思った。
「今日、なんもしてねえのに、疲れたな」
「俺もだ」
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四 奢り勝負のリベンジ
最初のうち、荒井はデンジのことが気に入らなかった。
挨拶もろくにしない態度、命がけの現場だというのに緊張感のかけらもない振る舞い。そんな男を、公安のデビルハンターとして同じ現場に立たせること自体が間違っていると思っていた。だから、永遠の悪魔が「デンジの心臓を渡せば外に出してやる」と持ちかけてきたときも、荒井は迷わずその提案を受け入れようとした。教育も受けていない野良の人間より、公安の仲間の命を優先するのは当然だと、そう信じていた。
結局、ホテルから全員を脱出させたのは、そのデンジだった。
悪魔が音を上げるまで痛めつけるという、誰も思いつかなかった方法。荒井はあの光景を、今でもうまく飲み込めずにいる。真面目に訓練を積み、規則を守り、常識の範囲で最善を尽くしてきたつもりの自分より、あの型破りな男の方が、よほどデビルハンターらしい何かを持っている。そう思うと、素直に感謝だけしていられない苛立ちが、いつまでも胸の底に残った。
*
結局あの日のキスの話は、有耶無耶になったまま、誰の手にも渡らなかった。だが荒井の中では、まだ何かが片づいていなかったらしい。
「デンジ。今日こそ、決着をつけよう」
庁舎の廊下で呼び止められ、デンジは食べかけのパンを持ったまま振り返った。荒井が仁王立ちしている。目つきは無駄に真剣だった。
「何の決着だよ」
「先日のキスの話は俺の中で終わっていない」
「おー……忘れてねえぜ」
デンジは約束を確認し、永遠の悪魔との戦いを思い返す。
「俺きっちりと止め刺したじゃんかよ。もう終わった話じゃねえの」
「終わってない。確かにお前が悪魔を殺した。だが姫野先輩のキスについては納得はできん」
「知らねえよそんなん。負けは負けだろ」
「だから、再戦を申し込む」
真顔だった。デンジは食べかけのパンを見て、それから荒井を見た。命がけの戦いを一緒に潜り抜けた相手が、今こだわっているのがこれだという事実に、少し呆れる。
「別に、奢ってもらえんならいいけど」
「お前が勝ったら、今日の飯代は俺が出す」
「負けたら?」
「姫野先輩の件を辞退してほしい」
「そりゃ割に合わねえよ!! 飯一回で諦めるわけねえだろ!」
少しの沈黙のあと、荒井はふと声を落とした。
「……それとは別に、言っておきたいことがある」
「何だよ、急に」
「永遠の悪魔のときだ。俺は、お前を殺してその悪魔と契約するべきだと言った」
デンジはパンを咀嚼する手を止めた。
「あれは、間違っていたとは思ってない。今でも、あの状況ならああ言うしかなかったと思ってる」
「じゃあ何だよ」
「それでも、仲間を売ろうとした。そのことを謝りたい」
デンジはしばらく荒井を見ていたが、やがてパンの残りを口へ放り込んだ。
「別に、もういいよそれ。生きてるし」
「……そうか」
「それより、勝負の内容は?」
勝負の内容は、二人で相談した末、目の前の定食屋で「先に丼を食べ終えた方の勝ち」に決まった。定食屋で偶然合流した少女は近くの席で、その様子を見ていた。
「本気なの、二人とも」
「本気じゃなきゃ、リベンジなんて言葉使わねえだろ」
デンジが箸を構える。荒井も両手を合わせ、真剣な顔で丼を見据えた。
「いただきます!」
合図もなく始まった勝負は、あっという間にデンジの優勢に傾いた。荒井が三口目を噛んでいる間に、デンジは半分以上を平らげている。
「はやっ……」
「悪魔食ってた奴に飯の速さで勝てると思ったのかよ」
言われて初めて、荒井は自分の作戦の甘さに気づいたらしい。それでも箸を止めず、意地で口へ運び続ける。
「まだ、負けたわけじゃ……げほっ」
「無理すんなよ、それ喉に詰まる系のやつ」
案の定、荒井はむせた。水を飲み、涙目で睨むと、デンジはとっくに丼を空にして満足げにしていた。
「勝った」
「くっ……次だ。次こそ」
「お前、次もあんのかよ」
少女は水を差し出しながら、荒井の顔を見た。悔しそうではあるが、以前のように張り詰めた感じはしない。負けても、次を約束できる余裕があるらしかった。
「ねえ、次の勝負が決まったら教えて」
「……別に、面白いものじゃないですよ」
「見るのは面白いわ」
荒井は少し赤くなりながら、それでも水を飲み干した。
「今度は、絶対に勝ちます」
その言葉を、デンジは半分も聞いていなかった。丼のおかわりを頼んでいたからだ。
*
その日の訓練の帰り道、少女はふと思い出して姫野に尋ねた。
「歓迎会、いつやるの」
「んー、今週中かなあ。も〜アキくん、あの女のどこがいいって言うのさぁ〜……」
姫野が壊れた。少女はかける言葉を探したが見つからなかった。
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五 尾行日和
「コベニと、荒井が、二人で出かける約束をしておる」
パワーが、いかにも重大な機密情報を手にしたような顔で、少女に耳打ちした。猫のニャーコを肩に乗せたまま、目だけが妙にきらきらしている。
「休みが合ったから、一緒に出かけるだけじゃないの」
「甘いのう。あれは、デートというやつじゃ」
少女はコベニの手帳へ視線を落とした。表紙の端に、待ち合わせ場所と時間が几帳面な字で書き込まれている。荒井の字だと、すぐに分かった。
「確かめに行くぞ!!」
「確かめてどうするの」
「確かめてから決める!」
結局、少女はパワーに押し切られる形で、二人のあとをつけることになった。
*
待ち合わせ場所は、駅前の時計台の下だった。コベニが先に来ていて、何度も鞄を持ち直しては、時計を見上げている。少女は隣の花壇の陰にしゃがみ、パワーはその後ろで、電柱に半分だけ隠れていた。
隠れられていない。角が丸見えだった。
「もう少し身を低くして」
「ワシがしゃがむと威厳が失われる」
「威厳より、見つからない方が大事よ」
荒井が到着すると、コベニの背筋が少し伸びた。
「お、お待たせしました……あの、今日はどこに行きましょうか」
「俺は、東山の行きたいところで構わない」
「じゃあ、じゃあ、あの……」
コベニは少し俯き、それからきっぱりと言った。
「駅の反対側に、パンケーキのお店があるんです。ずっと気になってて。行っていいですか、いえ、駄目なら別に……」
「大丈夫だ。問題ないから行くか」
「本当ですか。……あの、量が少ないお店らしくて、荒井さんの分も少し貰っちゃうかもしれないんですけど」
「あ、ああ」
「それと、混んでるから、順番待ちの間、荒井さんの上着借りていいですか。寒くて」
「……ああ、いいぞ」
少女とパワーは十分な距離を取りながら追いかけた。
「なんか、荒井のやつ、返事する暇もないようじゃの」
「そうね」
「あれ、押されとるのう」
「そうね」
*
パンケーキ店に入る二人を見送ってから、少女とパワーは隣の花屋の陰へ回った。ガラスの向こうで、コベニと荒井がテーブルを挟んで座っている。
「あ、荒井さん、これも一口食べてください。私、頼みすぎちゃって」
「いや、俺はコーヒーだけで」
「駄目です。残したらお店の人に悪いので」
コベニは有無を言わさず荒井の皿へパンケーキを取り分けている。
「あやつ、意外と強引なんじゃな」
「そうね」
窓越しに見える荒井は、渡された皿を黙って食べていた。少しも嫌そうではない。
「これ、うまくいっとるのか、いっとらんのか、分からんな」
「わからないわね」
少女とパワーがそんな話をしていると、店の扉が開いた。出てきたのはコベニと荒井ではなく、店員だった。
「お客様。表で覗き込まれると、営業妨害になりますので」
少女は素直に頭を下げ、何か言い返そうと口を開いたパワーを引きずって少し離れた場所へ移動した。
*
パンケーキ店を出た荒井とコベニは、そのまま公園のベンチへ座った。少女とパワーは、遊具の陰に隠れて様子を見守る。
「荒井さん、次、あっちの雑貨屋も見たいです。だ、駄目ならいいんですけど」
「なら行こうか。時間はまだ余裕がある」
「本当にいいんですか。私ばっかり決めちゃって、すみません」
「気にしなくていい」
「じゃあ、荷物も持ってもらっていいですか。両手が空くと、雑貨屋で選びやすいので」
荒井は素直に紙袋を受け取った。
少女は隣のパワーを見た。パワーは真剣な顔で耳を澄ませている。
「あの……ホテルのこと、まだちゃんと謝れてなくて」
コベニの声が、風に乗って少しだけ聞こえた。
「もういいんだよ、あれは」
「よくないです。私、荒井さんまで巻き込んで……あ、でも、そのぶん、今日は荒井さんに付き合いしますので」
「……それは別の話では」
「すみません」
謝りながらも、コベニは荒井の腕を軽く引いて立たせていた。
「なんじゃあれ。謝っとるのに、結局言うこと聞かせとるぞ」
「そうね」
その瞬間、風に乗ってパワーの頭が動き、遊具の鉄棒に角が当たって高い音を立てた。
「ん?」
荒井がこちらを振り返った。少女は咄嗟にパワーの頭を押さえ、二人でしゃがみ込む。
「……今、何か聞こえたか」
「気のせいじゃないですか」
コベニの返事で、荒井はもう一度前を向いた。少女は息を止めたまま、パワーの口を塞いでいた手を緩めた。
「危なかったわ」
「ワシの角は目立つ運命なんじゃ」
「目立たせないでよ」
しばらくして、ベンチの二人が立ち上がった。荒井は両手に紙袋を提げ、コベニはその半歩後ろを歩いている。手をつなぐでもないが、遠目にもコベニが何かを言い、荒井が頷いているのが分かった。
「これ、デートだったのかしら」
「わからん。だが、荒井が完全に振り回されとったのは分かる」
「そうね」
少女は頷いた。よく分からないまま、二人が並んで歩いているのを見られたことに、少しだけ満足していた。
*
帰り道の途中、パワーが唐突に立ち止まった。
「荒井に知られたら、次はワシに奢らんかもしれん」
「奢ってもらう約束があるの?」
「まだじゃ。これからさせる。どうする」
「黙っておくしかないでしょう」
二人は頷き合い、何食わぬ顔で帰路についた。
その数日後、姫野から「荒井君とコベニちゃんの尾行、どうだった?」と聞かれ、少女はしばらく答えられなかった。誰から漏れたのかは、最後まで分からなかった。
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六 袖を通す
寝る前に、少女は上着の脇を広げた。縫い合わせた裂け目の横に、小さな穴が残っている。昼の明かりでは目立たなかったのに、卓上灯へかざすと、向こう側から光が漏れた。
「まだ直すのか」
新聞の端を下げ、岸辺が尋ねる。
「縫ったところの隣に、穴が残っているの」
「着れば見えない」
「腕を上げたら見えるわ」
「上げるな」
少女は左腕を上げた。岸辺は新聞を戻す。
今から糸をほどいたら、寝るのが遅くなる。少女は裁縫箱を閉じ、上着を椅子の背へ掛けた。岸辺が椅子を引いたので、背もたれと彼の間から、垂れていた袖を抜いておく。
「背中で潰さないでね」
「椅子に掛けるな」
少女は上着を隣の椅子へ移した。
裁縫箱を棚に戻し、ベッドへ入る。
明日は糸を買っておきたい。姫野と買い物に行ったときには、すっかり忘れていた。財布を忘れた人についていって、自分も買うものを忘れて帰ってきたのだから、あまり強くは言えない。
左手を頬の下へ差し込む。居間では新聞をめくる音が続いている。
次の一枚を待っているうちに、少女は眠った。
*
左の袖が長すぎる。
少女が腕を伸ばしても、指先は出てこなかった。余った布が膝の向こうへ垂れ、右手で引き上げると、肘の辺りに皺が寄る。
「そっちは引かないで」
目の前の女が、袖口をつまんだ。
少女は椅子に座っていた。靴を履いていない足が、床の少し上で揺れている。向かいの女は低い椅子に腰を下ろし、少女の左袖を自分の膝へ広げていた。
長い髪が両頬を隠している。下を向くたびに毛先が布へ落ち、女は手の甲でそれを払った。口元だけが、ときどき現れる。
岸辺ではない。
それなら、今度は穴を増やさずに済むだろうか。
女の傍らには小さな台があり、針と、浅い皿が置かれていた。皿の底には水が溜まっている。女が布の下から糸を引くと、濡れた指から雫が落ちた。
「何か、話して」
「何を話せばいいの?」
「外であったこと」
少女は足を揺らすのをやめた。踵が、女の膝に当たりそうになっていた。
「この前、姫野と買い物へ行ったわ。私に奢ってくれると言って」
「何を買ったの」
「お肉と野菜。姫野がお菓子も入れたから、袋が二つになったの」
女は袖を少し裏返した。左の肘が引かれた気がして、少女は肩を前へ出す。
「でも、財布を忘れていたから、私が払ったわ」
「あなたの財布はあったのね」
「私のはあったの。忘れたのは姫野よ」
「帰ってから、返してもらった?」
「まだ。お菓子は一つくれたわ」
女の指が止まった。
「あなたが払ったお菓子を?」
「そうなの」
女は小さく笑い、袖の下へ手を戻す。
少女はその口元が髪に隠れるまで待った。店を出たときにも、同じところが引っかかったのだった。
「まだ食べていないから、明日食べるわ」
箱は机の上に置いてある。岸辺には、開けないでと言っていない。けれど、あの人は甘いものをあまり食べないので、たぶん残っている。
「少し、じっとしていてね」
女が左袖を押さえ直した。
「岸辺も、上着を縫ってくれたの」
「直った?」
「最後は私が縫ったわ。岸辺が引っ張ると、隣に穴が開いてしまうから」
少女は右の指で、膝の上に小さな丸を作った。
「このくらいのが、三つ」
女は布をつまみ、針を抜いた。糸が引かれると、袖の皺が一つ消える。
「前にも、おもちゃを直してくれたことがあるの。動かないところを引っ張ったら、そこが取れてしまって」
「それは、戻せたの?」
「戻そうとしたら、隣も取れたわ」
少女は右手を開いた。
外れた部品を掌へ載せられたことは覚えている。何のおもちゃだっただろう。大きな手から小さなものが落ちてきて、なくさないように指を閉じた。その先が出てこない。
女は続きを催促せず、袖の内側を指でなぞっている。
「もう終わりそう?」
少女が身を乗り出すと、女の髪が頬へ触れた。乾いているのに、触れたところだけが冷たい。
「まだ。引っ張ると、やり直しになるから」
椅子へ座り直し、左手を握った。
袖は動かない。
もう一度、指を曲げる。女の膝に広げられた布が、下から小さく盛り上がった。
少女は右手で左腕を挟んだ。肩から肘までは、いつもの硬さがある。その先を押さえると、生地同士が触れた。袖を手首の方へ辿っても、中に指が当たらない。
左手は握れている。
爪が掌に触れる感触まであるのに。
「私の手は、どこにあるの?」
「ここにあるよ」
女は膝の上の布へ手を添えた。
右手を伸ばすと、女は袖口をかぶせ直した。
「触ると、やりにくいから」
布の下にあるものを、両手で支えている。押さえつけるほどの力には見えない。それでも、少女が左腕を引くと、肘から先がついてこなかった。
ホテルの絨毯。
身体を支えようとついた手に、口が閉じた。引いても抜けず、肩ばかりが後ろへ引かれた、あのときの袖。
少女は椅子の座面を右手で掴んだ。
今は痛くない。痛くないまま引いたら、どこで切れてしまうのだろう。
「いったん、放してほしいの」
「今、戻すから」
女は急がなかった。
踵が椅子の脚へ当たる。足を止めても、しばらくすると、また当たった。
女が身体を傾けた拍子に、椅子の下が空いた。
そこにも器がある。台の上の皿より深く、女の足の間へ半分ほど突き出していた。中には濡れた布。その折り目から、指の先のようなものが一つ出ている。
小さな爪だった。
深爪にならない程度に、短く切ってある。
少女は右手の親指を握り込んだ。
女が袖の下で何かを包む。その親指が往復すると、左手にも感触が伝わってきた。指の付け根を、一つずつ擦られている。
「冷たくなったね」
何を温めているのか、もう分かった。
少女は膝の上の布から、右手を遠ざけた。
「もう少し」
女の指が緩む。
少女が肘を引くと、今度は手の重みも近づいてきた。空だった袖が膨らみ、布が手首に擦れる。
袖口から指先が出た。
少女は左手を開いた。小指から順に曲げ、それから親指を掌へ押しつける。爪の当たる位置も、強さも、自分で変えられる。
手首には傷がなかった。女が引いていたはずの糸も、どこにもない。
女が袖の皺を伸ばしている間に、少女は左腕を胸へ引き寄せた。
椅子を下りる。今度は足の裏が床に着いた。
女の手が伸びてきた。
片側だけ裏返った袖口へ、指が近づく。一歩退くと、女はそこで手を止めた。
「もう、自分でできるわ」
少女は右手で袖の折り返しを直し、布の端を揃えるあいだも、女の手は宙に残っている。
やがて、膝へ下りた。
「そう」
背中のすぐ後ろに扉があった。右手で取っ手を掴む。左手は胸へ当てたまま、指先で服を握っていた。
「私、帰るわ」
女は足元へ屈み、器を椅子の下へ押し戻そうとした。縁に引っかかった布を外すと、隠れていた指先が、もう少しだけ現れる。
少女は自分の左手を開いた。
五本ともある。
「そっちは、もう直さないの?」
女の手が、器の縁で止まった。
髪の奥から口元が現れる。女は少女の袖へ手を伸ばしかけ、途中で膝に戻した。
「そっちは、もう使わないから」
*
台所で皿が重なった。
少女は頬の下から左手を抜いた。指の側面に枕の縫い目がついている。掌を開くと、布団の上に五本の指が広がった。
右手で左の手首を掴む。骨があり、その先も途切れず肘へ続いている。
「起きたなら来い」
岸辺の声がした。
少女はベッドの縁から足を下ろした。踵が床に着く。椅子も、器もない。昨日脱いだ靴下が、片方だけベッドの下へ入っていた。
「今、行くわ」
机の上には菓子の箱。蓋は閉じたままだ。
椅子から上着を取り、左袖へ手を入れかけた。
指が、布の内側で止まる。
いったん抜いて、右腕から通した。左袖は右手で手繰り寄せ、出口を開いてから腕を入れる。
五本の指が出るまで、袖口を離さなかった。