不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第十三話 お茶でも酔える
店の階段は、人が一人通るので精いっぱいだった。頭の上から笑い声が降ってくる。少女が踊り場で足を止めると、後ろから来たデンジが、その肩越しに上を覗いた。
「もう始まってんの?」
「隣のお客さんじゃない?」
「こっちも負けてらんねえな」
「何を競うの」
返事を待たずにデンジが横を抜けていく。階段の上では、姫野が靴を脱ぎながら片手を振っていた。
「来た来た。奥が空いてるよ~。アキ君、そこ詰めてあげて」
「先輩の荷物をどければ座れます」
「あ、ほんとだ」
上着と鞄が、既に一人分の席を取っていた。姫野はそれをまとめて抱え、自分の後ろへ押しやる。少女は靴を揃え、アキの向かいへ座った。右隣にデンジ、その隣が姫野。卓の端では、パワーがまだ何も載っていない大皿を自分の前へ寄せている。
「それ、皆の分よ」
「まだ何も入っとらんぞ。欲張るでない」
「あなたが寄せたんでしょう」
奥の壁には、短冊に書かれた料理の名前が並んでいた。焼き魚、煮込み、揚げ物。厨房からは油のはぜる音がする。店員が通るたび、少女の背中に暖簾の端が触れた。少し前へ座り直すと、今度は膝が卓の脚に当たる。
狭い。けれど、ここにいる誰も気にしていないらしい。伏という眼鏡の隊員が隣へ挨拶している間にも、姫野は追加のグラスを頼み、パワーは壁の品書きを指差していた。
「肉は全部頼め!」
「全部って言わない。食べる分だけ頼むんだよ」
「全部食べる!」
姫野が笑っている。アキは店員へ向き直り、パワーの注文をいくつかに減らした。
少女の前に冷たいお茶が置かれた。グラスの外側を水滴が滑り、指に触れる。隣のデンジも同じものを受け取っていた。
「酒じゃねえのかよ」
「お茶でいいでしょう」
「別にいいけど。乾杯ってやつはできんだよな?」
「持ち上げれば」
「じゃ、新人歓迎会! かんぱーい!」
姫野の声に、一斉にグラスが上がった。少女も持ち上げる。右からデンジ、左から荒井、向こうから姫野のジョッキが来て、どれに当てればいいのか一瞬迷った。とりあえず近い順にぶつけると、姫野が「律儀だねえ」と笑った。
お茶を飲んだところへ、唐揚げが運ばれてくる。続けて刺身、枝豆、焼き鳥。さっきまで広く見えた卓が、皿で埋まっていった。
「んだコレ、うまそ~!」
デンジの箸が早速伸びた。少女も一本取ろうとして、その唐揚げを取り落とす。まだ持ち直せると思ったところで、パワーの箸が横からさらった。
「あ」
「遅い!」
「今のは私が取ってたのに」
「取れておらんかった!」
少女は皿に目を落とした。まだある。次はしっかり挟み、自分の取り皿へ移す。その様子を見ていたデンジが、口いっぱいのまま笑った。
「動かないから油断したわ」
「唐揚げに油断すんなよ!」
少女も笑い、熱い衣の端をかじった。
*
伏のところの魔人が来ていないことや、姫野がしばらく酒を飲めていなかった話で、卓の向こうが盛り上がっている。コベニは勧められた料理を少しずつ取り、「こんなおいしいご飯、はじめて食べました」と小さく言った。それを聞いた隣の隊員が、もう一皿寄せてやる。
少女がそちらへ目を向けている間、デンジはずっと品書きを見ていた。
食べ終わったわけではない。左手には焼き鳥が一本ある。右手で品書きを持ち、上から下へ目を動かしては、また上へ戻していた。
「何にするの?」
「今、探してんだよ」
「さっきから同じところ見てる」
「読める漢字が少ねえ……」
デンジは紙を少し傾けた。角度を変えても読めるようにはならなかったらしい。眉間にしわを寄せ、指で一つの名前を押さえる。
「これ、肉?」
「揚げ出し豆腐」
「豆腐かよ。強そうな名前してんな」
「揚げてあるの」
「肉揚げりゃよくね?」
少女は隣を指差した。
「これは鶏の唐揚げ。今食べたやつ」
「それ読めた。もう覚えた」
「じゃあ、こっちは?」
「試験にすんなよ。飯食いに来てんだから」
少女は笑って、品書きを二人の間へ置いた。写真のないところを指で辿る。
「だし巻き卵。焼きおにぎり。ほっけ」
「ほっけって何だ」
「魚」
「急に名前がかわいいな」
「若いんだから、もっと頼めよ!」
向こうから声をかけられ、デンジが顔を上げた。
「いいんすか。あとから俺の給料から引いたりしねえ?」
「しないしない。食え食え」
「じゃあ唐揚げ! あと、この卵のやつ!」
少女は通りかかった店員を呼び止め、注文を伝えた。自分の声が思ったより大きく出たが、店員は気にせず頷いた。
「あと、焼きおにぎりも二つ」
「おっ、それ俺の?」
「一つは私の」
「分かってるって」
デンジが笑いながら品書きを伏せる。少女はグラスを口へ運んだ。氷が唇に当たり、冷たかった。
*
「新人歓迎会なんだから、新人は立って自己紹介~!」
姫野に言われ、デンジが立ち上がった。卓の下へ入れていた足が痺れていたらしく、一度よろける。少女が皿を引くと、「そっち心配すんのかよ」と文句が来た。
「皿は自分で立てないもの」
「俺も今ちょっと立てねえんだけど!」
どうにか姿勢を整えたデンジが、名前と年齢、それから食べることと寝ることが好きだと言う。十六という数字に何人かが驚き、姫野はすぐに彼のグラスを確かめた。
「アンタ、お酒飲んでないよね!?」
「お茶!」
デンジは証拠のようにグラスを持ち上げた。姫野が安心した顔で自分の酒を飲む。
次に立った荒井は、両手を身体の横へ揃えた。
「私は荒井ヒロカズです! 二十二歳で、契約している悪魔は狐。趣味は俳句です!」
「声でけえ」
「お前に言っていない!」
少女が吹き出すと、荒井はますます背筋を伸ばした。
コベニは名前と年齢を言ってから、契約悪魔は秘密だと続けた。好きなものを尋ねられ、「おいしい物を食べる事です」と答える。隣の隊員に服を褒められ、姉のお下がりなのだと、裾を押さえながら少し笑った。
少女の番になると、姫野が頬杖をついた。
「キミの趣味、私も聞きた~い。休みの日は何してるの?」
「買い物」
「この間、一緒に行ったもんね」
「お金、返してもらったわ」
「そこから紹介しなくてもよくない!?」
笑い声が上がった。少女も口元を緩める。
「ちゃんと返してくれたって言ったのよ」
「そうだけどさあ。もうちょっと私が優しい話、なかった?」
「籠を持たなくてよかった」
「私が優しくされてる方じゃん、それ!」
デンジが卓を叩いて笑い、アキが揺れたグラスを押さえた。
「お前、今日よく喋るな」
「聞かれるから」
「いつもはもうちょっと考えてから喋るだろ」
「今日は考える前に次の話になるの」
言ったそばから、パワーが自分の紹介を始めていた。少女は声を上げて笑った。隣の荒井がつられたように笑い、それを見たコベニまで肩を揺らす。
姫野が、少女のグラスを覗いた。
「ほんとにお茶だよね?」
「さっきから同じものよ」
「いいねえ。安く済む子だ」
少女はお茶を飲もうとして、また笑ってしまった。氷が鼻に当たる。今度は姫野まで笑った。
*
デンジが姫野へ身を寄せて、何かを尋ねた。
少女にはよく聞こえなかった。姫野の方は隠す気がないらしく、もう少し酔ったら、と明るく答えている。デンジは途端に機嫌をよくし、直後、座敷の入口を見て固まった。
「キス?」
マキマが立っていた。上着を腕にかけ、空いている席へ目を向けている。
「マキマさん、ここ! ここどうぞ~!」
姫野が手を振った。アキが膝立ちになって荷物をどける。少女も端に寄っていた皿を動かし、店員からおしぼりを受け取って渡した。
マキマは礼を言い、席についた。デンジは焼き鳥を持ったまま、その動きを目で追っている。
「デンジ君、誰かとキスするの?」
「しません!」
「え~、デンジ君。キスしないのぉ?」
「しまァす!」
少女はお茶を飲むのをやめた。飲んでいたら危なかった。
「どっちなの」
「お前はちょっと黙ってろよ!」
デンジが小声で言ったつもりの声は、隣の荒井にまで届いていた。荒井が顔をしかめ、姫野はますます楽しそうにデンジの肩へ腕を回す。
料理が追加され、マキマのジョッキが運ばれてきた。アキがホテルの悪魔について話し始めると、少女は箸を置いた。
銃の悪魔の肉片。デンジを知っていた悪魔。最近の動き。
アキの声は普段の仕事中と変わらない。マキマは頷きながら聞き、最後にジョッキを傾けた。
「私より飲んだら教えてあげる」
アキが店員を呼んだ。姫野も手を上げる。
「アハハ、私もやろ~。生もう一つ~!」
少女は二人を見比べた。
「飲んでから聞いたこと、覚えていられるの?」
「大丈夫だよ。アキ君が覚えてる」
「先輩も聞いてください」
「じゃあ私も半分覚える。二人で一人分」
「そういう話じゃないでしょう」
少女はまた笑いかけたが、アキが本気で注文しているので、途中で口を閉じた。
それから、空のジョッキが増えた。
一つ片づけられると、また一つ置かれる。姫野の声は大きくなり、アキの返事は遅くなった。マキマだけは、最初に座ったときと同じ調子で料理を取っている。
少女の前へ、焼きおにぎりが来た。醤油の焦げた匂いがする。デンジへ一つ渡し、自分の分を箸で割った。中から白い湯気が立つ。
「これ、もう一個頼もうかな」
「まだ食ってねえじゃん」
「おいしそうだから」
「分かる」
二人で頷いたところへ、パワーが箸を伸ばした。少女は皿を持ち上げる。
「これは駄目」
「一口じゃ!」
「あなたの一口は大きいの」
「小さくすればよいんじゃな!」
「駄目って言ったでしょう!」
少女の声に、伏が笑った。
「岸辺さんとこの子も、こんな顔するんだね」
「どんな顔ですか」
「楽しそうな顔」
少女は焼きおにぎりへ目を落とした。口の端が上がっているのが、自分でも分かった。
「おいしいので」
「まだ食ってねえって」
今度こそ、少女は一口食べた。
*
アキは卓に伏せていた。姫野も隣で顔を横に向け、頬を腕へ載せている。マキマが店員へ、空いたグラスを下げてよいか尋ねていた。
少女はアキの肘のそばから小皿を抜いた。袖に醤油がつくところだった。
「寝ちゃったの?」
「少し休んでるだけだ」
目を閉じたまま返事があった。
「さっき姫野もそう言ってた」
「先輩と一緒にするな」
その姫野は、もう返事をしなかった。
卓の向こうでは、マキマがパワーを褒めている。魔人でありながら行動を抑えられることを褒められ、パワーは胸を張った。
「ワシはIQが高いからの!」
「IQで決まるの、そういうの。IQどれくらいあるの?」
「……百?」
「百って高いの? 私も確か百くらいだったけど」
「じゃあ百二十じゃ」
少女は箸を置いた。
「増えた」
「思い出したんじゃ!」
伏が笑いながらグラスを置く。隣の隊員が、伏のIQは百三十四だったはずだと言った。伏は大きく否定するでもなく、口元だけを緩めている。
少女はその顔を見て、隣のデンジへ少し身を寄せた。
「わざわざ覚えてるあたり、自慢に思ってそう」
「お前、聞こえてんぞ」
「聞こえてるよ」
伏に言われ、少女は顔を上げた。
「でも、違うんですか?」
「いや、まあ。忘れるほど嫌な数字でもないし」
「ほら」
「ほらじゃねえよ!」
デンジが笑った。少女も笑う。伏まで笑っていたので、たぶん大丈夫だった。
「ワシは五百じゃったか、千じゃったか……」
誰も聞いていなかった話を、パワーがまだ続けていた。
「そんなにあったら、どっちか覚えとけるだろ」
「数字が多すぎて忘れたんじゃ!」
デンジが口を開きかけたとき、姫野が顔を上げた。
少女は最初、水でも欲しいのかと思った。姫野の手が卓を離れ、デンジの頬へ伸びる。呼びかける間もなく、二人の顔が近づいた。
周りが騒いだ。誰かが笑い、誰かが手を叩いた。
少女は、持っていた取り皿を膝の上へ下ろした。デンジの肩が変に持ち上がっている。さっきまでうるさかった口が塞がれて、目だけが忙しく動いていた。
その目が、マキマの方を向く。
少女もつられてそちらを見た。マキマはジョッキを持ったまま、静かに二人を見ていた。
もう一度デンジへ目を戻したとき、姫野の喉が動いた。
変な音がした。
姫野が顔を離す。デンジの口元に何かが残っている。
少女の手が止まった。何が起きたのか、すぐには分からなかった。デンジも分かっていない顔をしている。目を見開いたまま、顎を引くこともできずにいた。
酸っぱい匂いが届いた。
「デンジ、出して」
立ち上がろうとして、膝の上の皿が傾く。少女はそれを卓へ押しやり、おしぼりに手を伸ばした。
「飲まないで。こっち向いて」
コベニが口を押さえた。隣の隊員が笑いながら顔を背け、伏は引きつった顔で何か言っている。マキマが店員へ拭くものを頼んだ。
「マズいぞ! これはマズいぞ!」
パワーの声が、やけにはっきり聞こえた。
「デンジは口に入れた栄養になるモンを、飲み込むクセがあるんじゃ!!」
少女はデンジの肩へ手をかけた。
喉が動いた。
「あ」
おしぼりを広げたまま、少女は固まった。
デンジの顔が、ゆっくりこちらを向いた。目が合ったが、何を言えばよいのか分からない。彼は口を開きかけ、すぐに押さえた。
荒井が立ち上がる。
「どいてくれ! トイレ!」
少女は脇へ退き、座布団を足で押しのけた。荒井がデンジを抱えるように立たせる。デンジは自分で歩こうとしたが、二歩目で前に折れた。
「まだだ! ここじゃない、もう少し!」
荒井が連れていく。少女も後ろからついていき、廊下へ出る襖を開けた。店員とすれ違いざまに頭を下げ、トイレの場所を指してもらう。
背後では姫野が何か言っていた。少女には、もう聞き取れなかった。
*
「オエエエ……!」
扉の向こうから聞こえ、少女は水の入ったグラスを持ち直した。
店内の笑い声は、ここまで来ると少し遠い。壁際に置かれた掃除用のバケツと、手洗い場の青い石鹸が見える。少女は濡らしたタオルを絞り、荒井へ渡した。
「ここに置くわね。水も」
「ああ、ありがとう」
荒井はデンジの背中をさすっていた。上着は脱いで、廊下の端へ置いてある。少女が拾い上げると、袖が床に触れる前に畳んでくれと頼まれた。こういうときでも、そこは気になるらしい。
「姫野先輩にも、自制心が足りないんだ……」
「うえ……」
「吐かせるのが上手いだろう。仕事帰りに酔った母さんを、よく介抱してたんだ」
デンジは返事の代わりに、もう一度便器へ顔を向けた。荒井は慌てず、背中へ手を戻す。
少女は畳んだ上着を抱え、扉の横へ寄った。
さっきは楽しそうに笑っていたのに、今は髪の隙間から覗く耳まで赤い。渡したタオルを荒井が首筋へ当てると、デンジが少しだけ顔を上げた。
「……つめて」
「水、飲めるか」
「口ゆすぎてえ」
少女はグラスを渡した。デンジが水を含み、吐き出す。もう一度、少しだけ飲んだ。
荒井はその横にしゃがんだまま、しばらく黙っていた。
「お前みたいに、デビルハンターの才能はなかったな。羨ましい……」
デンジの手が止まった。
「羨ましい、だと……?」
荒井が顔を上げる。
「こっちゃあよォ……初めてのキスが、ゲロの味だぞ……それを羨まし……」
最後まで言えず、また身体を折った。荒井が慌てて背中を支える。
少女は二杯目の水を取りに行った。
戻ると、荒井が唇を噛んでいた。笑うのを堪えている。デンジに見つかり、睨まれた。
「笑ってんじゃねえよ……」
「すまん。いや、悪い。今のは」
「全然、羨ましくねえだろ……」
少女はグラスを置いた。頬が引きつりそうになり、下を向く。
「お前もかよ」
「ごめんなさい」
「謝るなら笑うなよォ……」
もう少しだった。さっきまでの元気な声になるには、あと少し足りなかった。
少女はタオルを洗い直し、今度はデンジへ直接渡した。彼は受け取り、自分で顔を拭いた。
「飯、もう見たくねえ」
「分かったわ」
「唐揚げも」
「分かった」
「しばらくな。ずっとじゃねえぞ」
少女は頷いた。そこは念を押しておきたいらしい。
*
席へ戻ると、宴会は片づけに入っていた。姫野は壁へ寄りかかり、アキは起こされて眉を寄せている。マキマが店員と会計の話をしていた。
少女はデンジが使っていた箸を揃え、皿の端へ置いた。焼きおにぎりはなくなっていた。パワーが口を拭いている。
「食べたの?」
「余っておった」
「余ったんじゃなくて、食べられなくなったのよ」
「ならば同じじゃ」
言い返しかけて、少女は息を吐いた。パワーは少しも困っていない。
荒井はコベニの荷物を確かめに行き、少女は店員へ借りたものを返した。水のこぼれたところを拭いていると、姫野が立ち上がった。
「デンジくーん、帰るよ~」
廊下に座っていたデンジが、ぼんやり顔を上げる。少女は膝を浮かせたが、姫野はもう彼の腕を肩へ回していた。
「荷物持ってあげてくれる?」
「うん」
少女はデンジの上着を渡した。姫野はそれをまとめて抱え、先に階段を下りていく。デンジの足音は、ずるずると重かった。
アキがようやく立ち上がる。卓の端へ手をついたので、少女はそのそばのグラスを避けた。
「歩ける?」
「歩ける。お前は忘れ物、見てこい」
「財布は?」
「ある」
「本当に?」
「姫野先輩と一緒にするな」
少女は笑い、座布団の間を確認した。
店の外へ出ると、風が冷たかった。看板の赤い光が濡れた路面へ映り、少し離れたところでタクシーが客を乗せている。店内では暑いくらいだったのに、袖を通した上着がちょうどよい。
「皆さん、マキマさんの奢りだから感謝しましょうね」
伏の声に、あちこちから礼が上がった。少女も頭を下げる。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「よかった。たくさん食べられた?」
「はい」
マキマは笑ってから、アキとパワーへ目を向けた。
「早川家は私が送っていく。荒井君は姫野ちゃんをお願いね」
荒井が頷きかけたところで、マキマが辺りを見回した。
「あれ。デンジ君は?」
「デンジ君なら、姫野先輩が背負って連れて行きましたよ」
隊員の一人が道の先を指した。少女もそちらを見る。店を出たときには、もう二人の姿はなかった。
アキが眉を寄せる。
「先輩が?」
「私が荷物を渡したときは、一緒だったわ」
「どっちへ行った」
「あっち」
少女が指差すと、アキは額を押さえた。マキマが声をかけ、アキは短く返事をする。
コベニが少女の袖へ触れた。
「あの、今日は、楽しかったです」
「最後は大変だったけど」
「はい……最後は」
二人とも、少し黙った。
「でも、ご飯はおいしかった」
「おいしかったですね」
コベニが笑ったので、少女も笑った。
マキマに帰り道を聞かれ、少女は電車で帰れると答えた。駅までは荒井とコベニも同じだった。店の前で皆と別れ、三人で歩き出す。
角を曲がる直前、パワーの声が聞こえた。
「ワシのIQは千じゃからな!」
少女は振り返らなかった。荒井が「まだ言ってるのか」と呟き、コベニが口元を押さえた。
*
玄関の鍵を回すと、奥からテレビの音がした。
少女は靴を脱ぎ、揃えかけたところで壁へ肩を預ける。ようやく静かになった気がした。耳の中にはまだ、姫野の笑い声と皿の触れ合う音が残っている。
「ただいま」
「遅かったな」
岸辺は食卓に座っていた。前に置かれたグラスは半分ほど空いている。少女を見ると、目を細めた。
「飲んだのか」
「お茶」
「ずいぶん機嫌がいい」
「お茶がおいしかったの」
「安上がりでいいな」
姫野にも同じことを言われたと思い、少女は笑った。岸辺は不思議そうな顔もせず、グラスを持ち上げる。
「飯は」
「たくさん食べた。漢字も読んだ」
「飯屋でか」
「デンジが読めない料理を」
「ああ」
上着を脱いで椅子へ掛け、少女は向かいに座った。座ってから、自分がまだ少し笑っていることに気づく。
「アキが酔って寝て、姫野も寝たの。マキマさんは全然変わらなかった」
「張り合ったのか。馬鹿だな」
「二人で飲めば勝てると思ったみたい」
「馬鹿が二人になっただけだ」
少女は声を上げて笑った。岸辺がちらりとこちらを見る。
「楽しかったか」
「うん」
すぐに答えてから、デンジの顔を思い出した。
「途中までは」
「何があった」
「姫野がデンジに吐いた」
「そうか」
「飲んじゃったの」
「……そりゃ気の毒だな」
岸辺のグラスが、口元へ届く前に止まった。
少女は両手を膝へ置いた。
「荒井が背中をさすってくれた。私、何をすればいいか一瞬分からなくて」
「水でも持っていけばいい」
「持っていったわ」
「なら十分だろ」
テレビの中で、誰かが大声で笑った。少女はそちらを見てから、食卓へ目を戻す。岸辺はまた酒を飲んでいた。
「今日は財布、忘れなかったわよ」
「俺がか?」
「姫野」
「出したのか」
「マキマさんが」
「持ってきただけか」
少女は笑いながら頷いた。笑いすぎて、頬が少し疲れている。
立ち上がって台所へ行き、自分のコップに水を注いだ。岸辺の分も要るか聞くと、酒があると返ってきたので、水を一杯置いておいた。
「聞いた意味は何だ」
「返事は聞いたわ」
岸辺は水を見て、それから少女を見る。少女は知らない顔で自分の分を飲んだ。
風呂へ向かおうとしたところで、呼び止められる。
「明日、買い物に行くぞ」
「何を買うの?」
「お前がそんなに喜ぶ茶」
少女は戸口で振り返った。
「同じの買っても、たぶんこうはならないわ」
「高い茶だったか」
「そういうことじゃなくて」
岸辺は返事を待っていた。少女は少し考え、それから笑った。
「今度、一緒に行けば分かると思う」
「財布は持っていく」
少女は頷いて、風呂場の戸を開けた。