不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第十六話 明日、持ってきて
病院の廊下で、少女は左腕の包帯を押さえていた。
巻き終えたときより、内側がきつく感じられる。傷口がどうなっているのか確かめたかったが、処置をした看護師から、勝手に外さないよう念を押されている。腕を下ろすと今度は腹が痛み、壁へ預けた背中を少しずつずらすことになった。
向かいの扉は閉まったままだ。姫野も早川も、この先へ運ばれていった。
通りかかった看護師に椅子を勧められ、少女は断りかけた。けれど、立っていても扉の向こうが分かるわけではない。空いた座面へ腰を下ろすと、腹を庇っていた右手からようやく力が抜けた。
隣では、パワーが靴の爪先で床を擦っている。
「遅いのう。いつまで待たせる気じゃ」
「まだ手術が終わっていないのよ」
「ワシは腹が減ったんじゃ。あれだけ働かせおって、飯も出さんのか」
「売店があったわ。少し待っていてくれる?」
鞄へ手を伸ばすと、パワーが少女の膝にそれを押し戻した。
「金だけ出せ。ウヌが歩くと遅い」
「場所は分かる?」
「人間がおるじゃろ。聞けばよい」
財布から小銭を出す間にも、パワーは袖についた血を剥がしていた。乾いた赤黒い欠片が床へ落ちる。少女が渡した硬貨を握ると、すぐには立たず、閉じた扉へ顎を向けた。
「あやつ、途中から全部ワシに持たせおったぞ」
「姫野のこと?」
「ほかに誰がおる。自分の脚くらい自分で動かせばよいものを」
裏口を出たときは、まだ足を運んでいた。路地の途中で膝が折れ、パワーが抱え直してからは、靴の先が地面を擦るばかり。呼びかけると一度だけ返事をしたが、少女には何と言ったのか聞き取れなかった。
肩を掴んでいた手も、救急隊員へ引き渡したときには離れていた。
「姫野にも伝えるわ。パワーが運んでくれたって」
「肉を奢るように言っておけ。ワシは菓子では済まさんぞ」
パワーは硬貨をポケットへ押し込み、売店の案内板を探しながら歩いていった。
少女は椅子の背へ身体を預けた。廊下を行き交う人たちの靴は、誰も血で汚れていない。自分の靴だけがひどく場違いで、爪先を座席の下へ引こうとして、腹の痛みにやめる。
また扉が開いた。
今度の医師は、少女のところで足を止めた。
*
アキが目を覚ましたとき、窓には白いカーテンがかかっていた。
身体を起こしかけると胸の奥が引きつり、息が喉で止まる。右腕には点滴の管が繋がっている。布団の下へ手を入れ、胸に厚く当てられたものを確かめたところで、ベッド脇から声がした。
「動かないほうがいいわ。看護師さんを呼ぶから」
少女が呼び出しのボタンを押した。左の袖から包帯が覗いているが、自分で立ち、こちらへ話しかけている。
アキは乾いた唇を開いた。
「ここは病院か」
「そうよ。手術が終わったの」
「四課の連中はどうなった」
少女の手が、ボタンのそばに残った。
「デンジとパワーは生きてるわ。デンジはコベニが助けてくれたって」
「東山も無事なんだな」
「病院に来ていたわ。怪我も診てもらってる」
そこまで聞いて、アキは少女の左腕へもう一度目をやった。包帯の端が、袖口に引っかかっている。
「お前の腕は」
「治り始めてる。お腹も診てもらったから、大丈夫」
「ほかは。荒井と伏はどうなった」
少女は椅子に座り直した。すぐに答えないので、アキは返事を促しかけ、その口を閉じる。
「二人とも、亡くなったって」
廊下で誰かが看護師を呼んでいた。アキはその声を聞きながら、少女が続けるのを待った。
「荒井は、コベニを庇って撃たれたの。ほかにも連絡が取れていない人がいるけれど、私が聞いたのは、そこまでよ」
荒井は昨夜、酔ったデンジの面倒を見ていた。文句を言いながらも放っておけず、結局、自分が一番近くで背中を支えていた男だ。
伏の隣には、誰が座っていただろう。宴会の席を思い出そうとすると、顔と椅子の位置がうまく重ならなかった。
アキは唾を飲み込んだ。喉が痛む。
「姫野先輩は」
その名前だけが、まだ出ていない。
少女が口を開くまでの間、アキは彼女の顔から目を離せなかった。店の床に広がった血が浮かぶ。自分を支えていたゴーストの手と、呼んでも近づけなかった距離。最後に聞いた声さえ、はっきりと思い出せない。
「生きてるわ。手術も終わったの」
アキの口から、長く息が漏れた。胸が痛んでも途中で止められず、枕に沈めた頭をわずかに横へ向ける。
「意識は、戻ったのか」
「まだ会えていないけれど、目を覚ましたって。先生は、今は休ませる必要があると言っていたわ」
手術が終わった。目を覚ました。
少女の言葉を一つずつ確かめるうちに、布団を掴んでいた指がほどけていく。掌には、握り込んだ布の跡。アキはそこへ左手を重ね、しばらく何も言わなかった。
姫野が生きている。
もう声を聞けないのだと思いかけていた。あの店で、知らないうちに最後の会話を済ませてしまったのかと。
「……よかった」
声にすると、目の奥が熱くなった。瞬きをしても収まらず、アキは額へ手をかけたまま、もう一度ゆっくり息を吐く。
少女は何も言わず、ベッド脇の椅子に座っていた。
やがて入ってきた看護師に、アキは姫野の病室を尋ねた。今すぐには会えないと言われても、さっきのように息が詰まることはなかった。
「会えるようになったら、教えてください」
看護師が頷いてから、アキは目を閉じた。胸の傷が、ようやく自分のものとして痛み始めていた。
*
翌日、デンジは目を覚ますなり、自分の腹を触った。
シャツを持ち上げて脇まで確かめると、傷はない。斬られたときには脚がどこにあるのかも分からなくなったが、今は布団の下で両足とも動く。何度か膝を曲げてから腹を押したところで、盛大に音が鳴った。
「腹減った……」
「よく寝たのう。ワシは待ちくたびれたぞ」
パワーが椅子に座り、菓子の袋を抱えていた。口元についている粉を舐め取る間にも、次の一枚を取り出している。
「それ、俺のじゃねえのか」
「ワシのじゃ」
「俺のベッドの横に置いてあっただろ!」
「だからワシが取ったんじゃろうが。寝ておったウヌには分かるまい」
デンジが手を伸ばすと、パワーは椅子ごと遠ざかった。袋を胸へ引き寄せたところで看護師が入り、先に身体の具合を確かめると言う。
聞かれたことに答えている間も、袋の音が止まらない。デンジは何度も横を向き、そのたびに看護師から呼び戻された。
ようやく看護師が出ていくと、窓際にいた少女が椅子を寄せてきた。
「気分は悪くない?」
「菓子を食われてるから悪い。お前も止めろよ」
「一度は返したのよ。あなたが起きる前に、また取ってしまったの」
「何回でも止めろって!」
パワーは袋の口を折り、膝へ置いた。デンジが奪おうとしたが、空だと分かると手を引っ込める。
少女の左腕にも包帯があった。さっきから、その腕を庇うように膝へ載せている。
「お前も刀の野郎にやられたのか」
「腕を斬られたの。もう傷は塞がりかけてるけれど」
「あのクソ野郎……。俺、どうやってここまで来たんだよ」
「コベニが助けてくれたって聞いたわ」
デンジは眉を寄せた。ホテルでナイフを突きつけてきた顔なら覚えている。あれが自分を助けたと言われても、すぐには繋がらなかった。
「変な女だな。早パイと姫野は?」
「二人とも生きてるわ。早川は昨日、少し話せたの。姫野には、まだ会えないけれど」
デンジは枕へ頭を戻した。天井を眺めながら腹を撫で、少ししてから横の空袋へ指を伸ばす。
「じゃあ、あいつらに買ってきた菓子かもしれねえじゃん」
「もう食ったぞ」
「だから悪いって言ってんだよ!」
パワーが袋を逆さにした。小さな欠片が一つだけ落ちると、摘まんで口へ入れてしまう。
「まだあったわ」
少女が「ふっ」と息を漏らし、すぐに腹を押さえた。笑いかけた口を閉じようとしても、デンジの顔を確かめると、また少し肩が揺れる。
「笑わせないで。まだ痛いの」
「俺は怒ってんだよ!!」
扉が開き、先ほどの看護師が顔を出した。パワーは空袋を椅子の下へ押し込み、デンジだけを残して口を閉じた。
*
コベニは、病室の外まで来ていた。
少女が扉を閉めると、壁際から半歩だけ近づいてくる。洗い替えのシャツは袖が少し長く、重ねた両手の甲にかかっていた。
「デンジ、起きたわ。お腹が空いたって」
「聞こえました。あの、声が……」
コベニは扉を気にしていたが、入ろうとはしなかった。少女も呼び込まず、廊下の端にある椅子まで一緒に歩く。
「姫野先輩には、まだ会えませんか」
「今は休んでいるの。会えるようになったら、教えてもらうことになってるわ」
「私も、聞いておいてもらっていいですか。私の分も」
少女が頷くと、コベニはようやく座った。膝へ載せた指先で袖口を折り、すぐに元へ戻す。
「荒井君のこと、聞きましたか」
「聞いたわ」
「私が、先に気づいていれば……おばあさんだったから、私、何も」
コベニの口が止まった。廊下の向こうで金属の盆が鳴ると、肩が大きく跳ね、そのまま身体を小さく丸める。
少女は隣へ腰を下ろした。
荒井はホテルで、少女の血を止めようとしていた。生き返ると聞いても手を離さず、目を覚ましたあとには、座っていろと怒った。
その人が死んだと聞いて、自分はこうして座っている。腕の傷は、もう閉じかけているのに。
「姫野先輩に、私から話さなきゃ」
コベニの声が詰まった。袖を目元へ押し当てても息を整えられず、やがて「う、うう……」と声が漏れる。
少女は鞄からハンカチを出した。コベニは受け取ったものの、すぐには顔へ持っていかず、両手で握っていた。
病室のほうから、デンジがまた何か言う声が届く。
荒井なら注意しに行っただろうか。先にコベニの隣へ座っただろうか。少女には、どちらもありそうに思えた。
*
アキがカースを呼んだのは、病室に誰もいなくなってからだった。
枕元には飲み終えた薬の袋が置いてある。廊下を行く足音が遠ざかるのを待ち、布団の上で手を組んだ。
「カース。俺の寿命はあと何年だ」
「二年」
アキは、膝の形に盛り上がった布団を眺めた。
刀を使えば減る。それを承知で三度刺した。あの男を倒すために使い、倒したはずの男に斬られて、今はここで寝ている。
残り二年。
姫野が助かったと聞いて、あれほど息がしやすくなったばかりだった。それなのに、今は窓の外で車が通る音まで遠い。
来年の今ごろも、自分は仕事をしているのだろうか。その次の年には、銃の悪魔へ届いているだろうか。
アキは薬の袋を取り、捨てるために二つに折った。端がずれたので開き直したが、もう一度折っても揃わない。薄い紙を指で挟んだまま、ベッド脇のごみ箱へ手を下ろした。
手を離してからもしばらく、その姿勢でいた。
*
姫野への面会が許されたのは、数日後だった。
少女が扉を細く開けると、ベッドから「入ってきなよ」と声がした。いつもより小さいが、語尾の伸ばし方は変わらない。
「そんなところで止まってると、悪い知らせ持ってきた人みたいじゃん」
「起こしてしまったかと思ったの」
「さっきまで寝てた。もう寝飽きちゃったよ」
少女は点滴の管を避け、ベッド脇へ椅子を寄せた。姫野の唇はまだ色が薄く、身体の向きを変えるだけでも時間がかかる。それでも少女が立ったままでいると、椅子の座面を指してみせた。
「座ってよ。首まで痛くなる」
「首は無事でしょう」
「だから、無事なままにしておいて」
少女が座ると、姫野は枕へ頭を預けた。薄い布団から出した手が、少女の包帯を指す。
「そっちはどう?」
「腕の傷は塞がったわ。お腹は、まだ少し痛いけれど」
「ちゃんと両方診てもらった?」
「診てもらったわ。食事もできてる」
「ならよかった。キミまで勝手に治ったことにしないでよね」
少女は袖を下ろしかけ、包帯に引っかかった布を直した。姫野はその手元を確かめてから、自分の布団へ指を戻す。
「引っ張ってくれて、助かったよ」
「でも、撃たれてしまったわ」
「もう一発もらうよりいいじゃん。私、あのあと一人じゃ立てなかったし」
少女は返事を探したが、姫野は先に口を開いた。
「パワーちゃんに何か言われた?」
「重かったって。肉を奢ってほしいそうよ」
「そんなに? 私、だいぶ血を置いてきたんだけどなあ」
少女の口元が緩んだ。姫野も少し笑い、傷へ響いたのか布団の上から脇腹を押さえる。
「退院したらね。今連れていかれても、食べるところ眺めてるだけになっちゃう」
「伝えておくわ。それと、ゴーストで早川を支えてくれたでしょう。あれがなかったら、運び出せなかったの」
「そっか。あいつも少しは働いたんだ」
姫野は天井へ顔を戻した。
店で何か言いかけていたことを、少女は覚えている。その続きは、デンジのエンジンに遮られて聞けなかった。尋ねようか迷っているうちに扉が開き、看護師の押す車椅子が入ってきた。
「アキ君まで来た。今日、人気あるねえ」
*
少女が部屋を出てから、アキは車椅子のブレーキを確かめた。
姫野のすぐ横まで来ているのに、言うつもりだったことが出てこない。話せると聞いていたし、生きていることも、もう分かっていた。それでも本人の声を聞くと、病室で報告を受けたときとは違うところから力が抜けた。
「何。私の顔、そんなにひどい?」
「いえ」
「ひどいって言われても困るけど。化粧する元気ないんだよね」
姫野が枕の位置を直そうとする。アキは手を出しかけ、自分の胸が痛んだので途中で止めた。
「先輩も、動かないでください」
「アキ君、さっき看護師さんに同じこと言われてたじゃん」
その声を聞いて、アキは短く息を吐いた。笑ったつもりはなかったが、姫野のほうが先に笑う。
「何だよ。やっと喋ったと思ったら、お小言?」
「……会えてよかったです」
姫野の手が、枕の端で止まった。
アキはベッド脇の台へ顔を向けた。呼び出しのボタンが姫野から少し遠い。手前へ寄せれば、わざわざ身体を捻らずに取れる。
「それ、もうちょっとこっち。看護師さんが置くと、毎回遠いんだよね」
言われた場所へ置くと、姫野は指先でボタンに触れた。
「ありがと。私も、君の顔を見に行く手間が省けた」
「先輩は寝ていてください」
「暇なんだってば」
アキは肘掛けから手を下ろした。姫野が布団の上で指を動かすのを、しばらく黙って眺める。店で聞こえなくなった声が、今はすぐそばで、退屈だと文句を言っている。
これ以上、何かを確かめる必要はなかった。
姫野が先に口を開いた。
「刀、使ったでしょ」
アキは膝に載せた手を組み直した。
「あと、どれくらいなの」
「その話は、もう少し回復してから」
「私、寝たまま聞けるよ」
同じ軽い声だった。アキが黙っていると、姫野は呼び出しのボタンから手を離す。
「もう聞いたんだね」
頷くしかなかった。
窓際のカーテンがわずかに膨らむ。換気のために開けた隙間から、外の車の音が入り込んでいた。
「二年です」
姫野は何も言わなかった。布団の折り返しへ指を入れ、少し引き上げる。胸元まで届く前に手が止まり、アキはその先を待った。
「……短いなあ」
アキは唇を結んだ。使わなければどうなっていたか、言いかけた説明が口の中に残る。
姫野が自分の手の甲を擦った。
「今、何か言ったら怒りそう。アキ君、ちょっと黙ってて」
「はい」
病室には、廊下の台車が通り過ぎる音だけが届いた。アキは背もたれへ身体を預けずにいたが、やがて胸の傷が痛み、ゆっくり座り直す。
姫野は布団を引き上げるのをやめた。
「ほかの人には話した?」
「まだです」
「そっか」
それきり、質問は続かなかった。
アキが膝の上で指を開くと、掌が汗ばんでいた。姫野は窓のほうを向いている。呼吸に合わせて動く肩を確かめてから、アキは台の上の水差しへ手を伸ばした。
「水、飲みますか」
「今はいらない。そこにいて」
手を引っ込め、肘掛けへ戻した。
少ししてから、姫野がこちらへ顔を向ける。
「そうだ。本、持ってきてもらおうかな」
「家にある本ですか」
「ソファの横に積んであるやつ。一番上の。途中まで読んで、そのままなんだよね」
「頼んでおきます」
「下のを抜かないように言っておいて。たぶん崩れるから」
「退院したら片づけてください」
「退院して最初の仕事がそれ?」
姫野の口元が少し上がった。アキも返事をしようとして、うまく声にならず、一度喉を鳴らした。
「明日も来られる?」
「看護師に聞いておきます」
「じゃあ、聞いといて。さっきの話だけして帰られると、私、寝つけないじゃん」
アキは頷いた。迎えの看護師が来るまで、車椅子のブレーキには触れなかった。
*
病室から出てきたアキに呼ばれ、少女は廊下の椅子から立ち上がった。
「先輩の家から、本を持ってきてほしいんだが」
「本? どこに置いてあるの?」
「ソファの横に積んである。一番上だそうだ」
「それなら、明日持ってくるわ。鍵も預からないと」
アキは頷いたあと、少女の鞄へ手を向けた。
「全部一度に運ぼうとするなよ。まだ腹が痛むんだろ」
「本一冊なら持てるわ」
「ほかにも頼まれるかもしれない」
看護師が車椅子の向きを変えると、アキはそれ以上言わなかった。少女は二人を見送り、もう一度姫野の病室へ入る。
姫野は窓のほうを向いていたが、扉の音で顔を戻した。
「本のこと、聞いた?」
「聞いたわ。鍵を預かってもいい?」
「そこの鞄の内ポケット。ついでに着替えも頼んでいいかな」
「早川が、増えるかもしれないって」
「あいつ、よく分かってるじゃん」
少女は紙とペンを出した。姫野が引き出しの位置を話し始め、途中で何段目だったか分からなくなる。少女が二段目まで書きかけると、三段目かもしれないと訂正された。
「開けてみるわ。持ってくるものは、これで全部?」
「靴下も。病院、足が冷えるんだよね」
「何足?」
「二足。いや、三足あったら三足」
紙の下へ書き足してから、少女は顔を上げた。
姫野は目元に指を当てていた。眠いのかもしれないと思ったが、その手が離れたあとも、何となく訊けなかった。さっきのアキも、話し終えるとすぐに膝へ顔を戻していた。
「疲れたなら、もう帰るわ」
「ごめんね。頼みごとばっかりで」
「場所は全部書いたから、大丈夫」
鍵を鞄へしまうと、姫野は枕へ頬を寄せた。
「じゃあ、明日、持ってきて」
「うん。お昼より前には来るわ」
*
岸辺は病院の入口で待っていた。
少女の腕から包帯がなくなっているのを確かめ、持っていた着替えの袋を差し出す。
「腹は治ったか」
「まだ少し痛いわ。歩けるけれど」
「歩けるのは見りゃ分かる」
少女は袋を受け取り、岸辺の隣へ並んだ。歩道へ出ると車の音が急に近くなる。後ろで荷台の扉が閉まった拍子に足を止め、音のしたほうを確かめてから歩き直す。
岸辺は何も聞かなかった。
信号待ちで袋を持ち替えると、布越しに腹へ角が当たった。中に入っているのは靴だろうか。痛くない向きを探しているうちに、岸辺が持ち手を取った。
「持てるわ」
「さっきから持ち方が決まらんな」
「中で何かが当たるの」
「帰ったら出せ」
少女は指を離した。
信号が変わり、二人で横断歩道へ踏み出す。向こう側へ着いてから、少女は病院を振り返った。窓がいくつも並び、姫野の部屋がどれなのか分からない。
「姫野、喋っていたわ」
「聞いた。しばらく仕事は休みだな」
「もっと早く引っ張っていれば、撃たれなかったかもしれない」
岸辺は歩く速さを変えず、少女の続きを待った。何も出てこないと分かると、袋を反対の手へ持ち替える。
「帰ったら、最初から話せ。順番を抜かすなよ」
「運び出したところまで?」
「ああ。失敗したところだけ選ぶと、話が繋がらん」
少女は店の裏口を思い出した。パワーが姫野を抱え、ゴーストが早川の腰を支えている。自分の肩から一人分の重みが少し浮いたとき、ようやく足を前へ出せた。
「パワーを呼んでいなかったら、運べなかったわ」
「そこも話せ」
角を曲がると病院が見えなくなった。少女は前へ向き直り、岸辺の持つ袋に歩調を合わせた。
*
家で着替えを片づけてから、少女は姫野に頼まれたものの紙を広げた。
本と着替え、靴下が三足。引き出しの段数には訂正の線があり、あとで読んでも分かるよう書き直す。ソファの横の本は、一番上。そこだけは間違いない。
向かいの椅子へ岸辺が座った。
「明日からデンジと魔人を鍛えることになった」
「マキマさんに頼まれたの?」
「ああ」
「二人とも、人の話を最後まで聞かないわよ」
「最後まで聞かせる必要があるか、やってみるか」
少女はペンを止めた。
岸辺は袋から出した靴を玄関へ押しやっている。デンジとパワーが同時に文句を言い始めたところで、この人が静かになるまで待つとは思えなかった。
「先に何をするか、言ってあげてね」
「聞かないんだろ」
少女は返事をやめ、紙の端に書いた「靴下」を丸で囲んだ。二足しか見つからなかったら、二足でもいいだろうか。姫野は、あったら三足と言っていた。
「お前は明日、何をする」
「姫野の家へ寄ってから、病院へ行くわ。本を持ってきてほしいって」
「その紙、全部か」
「最初は一冊だったの」
岸辺が鼻で笑った。
少女は紙を折り、預かった鍵と一緒に鞄へ入れた。ソファの横から本を取るだけなら難しくない。けれど帰り際の姫野に、何を言えばよかったのかは、まだ分からなかった。
鞄を閉じかけて、もう一度紙を出す。
朝になって忘れないよう、玄関の鍵をその上へ置いた。