不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第二十話 先の話
姫野がみかんの皮を剥くのを、少女は向かいの椅子から眺めていた。
親指を差し込み、少し剥いては、みかんを回す。手伝おうかと尋ねたときには、自分でできると返された。それからずいぶん待っているのに、実はほとんど出てこない。代わりに、皮が膝の上まで細長く垂れている。
「さっきから見てるけどさ。そんなに面白い?」
「どこまで切れずに剥けるのかと思って」
「あ~、そっち。私も途中から気になっちゃって」
「その細いところが切れそうだわ」
「言わないで。今、そこを通るから」
姫野は皮の付け根を指で支え、慎重にみかんを回した。少女も椅子の上で身を乗り出す。ここで切れても困ることはないのだが、これだけ待ったのだから、最後まで繋がっていてほしい。
病室の戸が開いたのは、そのときだった。
「何してるんですか」
「記録に挑戦してる」
「食べてください。昼飯も残したんでしょう」
「食べるために剥いてるんじゃん」
アキはベッド脇の椅子から紙袋を退け、ゆっくり腰を下ろした。今日は病衣ではなく、白いシャツにネクタイを締めている。背筋はいつもどおり伸びていたが、座る直前、膝へついた手に少し力が入った。
姫野の指が止まる。
「退院したんだ。今日はこのまま帰るの?」
「午後から契約です。迎えが来ます」
「退院した日にねえ。公安っていい職場だなあ」
みかんの皮が切れ、長いほうが布団へ落ちた。姫野は残った一片を隣へ置くと、今度は普通の剥き方で実を取り出し始める。
少女は膝に載せていた上着を畳み直した。狐の悪魔が呼びかけに応じなくなったことは聞いている。あの刀を使えば寿命が減ることも。ただ、アキにどれだけの時間が残っているのかは、まだ知らない。
「変なのに当たらなきゃいいけど」
「悪魔なんて、大体変でしょう」
「話が通じる変な奴と、通じない変な奴がいるじゃん。うちの新人たちを見てみなよ」
少女が上着を押さえたまま黙っていると、アキがこちらへ顎を向けた。
「お前の話じゃない」
「私も新人でしょう」
「入りたいなら入れてやるよ」
「その分け方には、あまり入りたくないわ」
「ははっ。自分から確認したのに」
姫野は笑いかけ、途中で腹へ手を添えた。アキが椅子を引くより先に、空いた手を振ってみせる。
「大丈夫。今のはちょっと響いただけ」
笑いが収まるのを待ってから、姫野はみかんを二つに割った。半分をアキの掌へ載せても、すぐには手を引っ込めない。
「条件が決まったら教えてよ。帰りでいいから」
「電話します」
「そこは返事早いんだ。少しくらい面倒そうにしてもいいのに」
「黙っていたほうが面倒になるので」
「よく分かってるじゃん」
姫野の手が布団へ戻った。アキはみかんを一房外したが、口へ運ぶ前に、壁の時計を確かめる。
少女は自分の上着を脇へ置き直した。迎えが来るまで、まだ少しある。姫野も残った半分を急いで食べようとはせず、実についた白い筋を一本ずつ取っていた。
*
病室を出ると、少女は洗濯物の入った紙袋を抱えてアキに並んだ。エレベーターの前まで来たところで、先に用件を口にする。
「今日、早川の家に寄ってもいいかしら。デンジに、片づけを手伝ってほしいと頼まれているの」
「片づけくらい、あいつらでできるだろ」
「三人いたほうが、早く終わると思うわ」
アキがボタンを押した。階数を示す数字が一つ変わっても、少女は紙袋の持ち手を握り直すばかりで、話を続けない。
「……俺が留守の間に、家で何をした」
「岸辺との訓練よ。家の中と、廊下を少し使ったの」
「訓練する場所なら、ほかにもあるだろ」
「岸辺が来るところで待っていないと、作戦にならなかったから」
開いた扉を、アキは片手で押さえた。少女を先に乗せ、自分も入ってから一階のボタンを押す。
「……帰るまでに、何を壊したか全部数えておけ」
紙袋の中で、洗濯物を包んだ袋が擦れた。
*
公安の地下へ下りるにつれ、上の階から届いていた人声が遠ざかっていった。
天井の配管に沿って照明が並び、閉じた扉を順番に照らしている。天童が先を歩き、アキの斜め後ろには黒瀬。靴音に混じって何かを引きずる音が聞こえたが、どの扉の向こうからなのかは分からなかった。
「これから会うのは、未来の悪魔です」
天童が一枚の扉の前で足を止めた。
「すでに契約している公安の人間がいます。ただ、同じ条件で契約できるとは限りません」
「その人たちは、何を渡したんですか」
「一人は寿命の半分。もう一人は両目と、味覚と嗅覚です」
半分なら、一年。
計算はすぐに済んだ。二年と告げられたときには、何もできないほど短いと思ったのに、今はその半分まで取られるのが嫌だった。病室でみかんを剥いていた指が浮かび、アキは扉の錠へ意識を戻す。
「入る前から、そんな顔をするなよ」
「まだ条件は聞いてません」
「だから言ってるんだ。向こうが何を欲しがるかも分からないだろ」
黒瀬の言葉に返すより早く、錠の外れる音がした。天童が扉を引くと、奥に立っているものの輪郭が、廊下の明かりに浮かび上がる。
最初は木に見えた。頭から枝のようなものが伸び、胴の真ん中には大きな穴が開いている。その暗がりに、丸い目。
木のような身体が片脚を上げた。
「未来! 最高!」
両腕を広げ、今度は反対の脚で床を踏む。垂れ下がった細いものが揺れるたび、乾いた音が部屋に響いた。
「未来! 最高!! イエイ、イエイ!」
アキは入口から数歩進んだところで、その動きが終わるのを待った。悪魔は腕を上げたままこちらを向き、しばらくすると、不満そうに身体を傾ける。
「オマエも未来最高と叫びなさい!!」
「俺はお前と契約をしに来た。俺の何が欲しいか言え」
「過去最悪の態度だぞオマエ!」
叫べば条件がよくなるのなら、先にそう言ってほしかった。背後ではすでに扉が閉まっている。黒瀬たちも、この声を外で聞かされているのだろうか。
悪魔は下ろした腕をぶらつかせていたが、やがて腹の穴をアキへ突き出した。
「まあいい。オマエの未来を見せな! 契約内容は、それから考えるぜ!」
「どうすれば見せられる」
「ここに頭を突っ込めばいいんだよ。早くしろ!」
近づくと、穴の縁は木の皮にも乾いた肉にも見えた。奥に目があることは分かるのに、そこまでの距離が掴めない。
アキは膝を曲げ、腹の傷を庇いながら身を屈めた。
「噛むなよ」
「腹だぞ」
悪魔の言い分を信用したわけではなかったが、これ以上立ち止まっていても始まらない。息を吐いて頭を入れると、額にも頬にも何も触れず、自分の呼吸だけが近くなった。後頭部には、まだ部屋の冷えた空気が当たっている。
これから殺す悪魔を見られているのか。それとも、またあの刀を抜くところか。
姫野の顔が浮かび、アキは目を閉じた。
「ム」
頭上で声がした。
悪魔の動きが止まる。かさかさと続いていた音も消えた。
「……あ?」
今度は、小さい声だった。
アキは肩へ力を入れた。
触られてはいない。それでも、向こうが何かを見つけ、さらに顔を近づけてきたような気がした。
「おい」
「黙ってろ」
初めて、浮ついた調子が消えた。
アキは口を閉じた。
待っているうちに、曲げた腰が痛くなってきた。姿勢を変えようと足を動かしたところで、頭上から息が漏れる。
「フフ」
笑っていた。
「フフフ。ウフフフフフ……!」
頭を抜くと、悪魔は自分の腹を覗くように身を折っていた。
それが勢いよく顔を上げる。
「いた!」
腕が伸びた。
肩越しを指され、アキが振り向きかける。
「いたいたいた! こんなところに続いてやがった!!」
「何の話だ」
「こっちの話だ!」
床を踏み、両手を高く上げた。
最初より大きな動きだった。枝の先が壁を擦っている。アキは一歩離れ、腕が通り過ぎるのを待った。
「条件を言え」
指が顔の前へ突き出された。
「決まった! オマエの右目に俺を住ませろ。そうすれば力を貸してやる!」
「目が見えなくなるのか」
「見えなくしちまったら俺も困るだろ!」
「寿命や、ほかのものは取らないんだな」
「いらねえよ。そこに住めれば、それでいい!」
アキは悪魔の指を払いのけず、その奥の顔を確かめた。寿命を半分渡した人間がいる。両目と、味も匂いも失った人間がいる。それなのに、自分の条件は右目に住まわせるだけだという。
「どうして俺は、それだけでいい」
「オマエの未来を、間近で見たくなったからな」
「今、見たんじゃないのか」
「だから気に入ったんだよ! 特等席で見せてもらうぜ!」
悪魔はまた声を上げて笑った。
安く済んだと喜ぶべきなのだろう。それでも、この笑い声を上げさせる何かが自分を待っていると思うと、礼を言う気にはなれなかった。
「知りてえか? 俺が何を見たのか」
差し出された顔から、アキは目を逸らさなかった。
聞きたいことならある。姫野はどうなるのか。銃の悪魔に届くのか。二年の先に、自分はいるのか。どれか一つを尋ねれば、残りも聞かずにはいられなくなる気がした。
「言わなくていい」
「聞かねえの?」
「俺に必要なのは、戦うための力だ。少し先のことが見えるんだな」
「ああ! 見えたものを避けられるかどうかは、オマエ次第だがな!」
「それでいい。契約する」
悪魔が顔を寄せた途端、右目の奥へ冷たいものが通った。反射的に瞼を閉じると、眼球の裏を押されたような感触が残る。痛みはすぐに引いたが、何度瞬きをしても、そこに何かが収まった感じは消えなかった。
*
扉を出ると、黒瀬が壁から背を離した。
「契約できたか」
「できました。右目に住むことが条件だそうです」
「それだけですか?」
天童の問いに頷くと、二人は一度だけ顔を見合わせた。やはり、珍しい条件らしい。アキは理由まで説明せず、先に廊下を歩き始めた。
黒瀬が脇に挟んでいた書類を持ち直す。その中から一枚が滑り、床へ落ちた。
アキは足を止めたが、足元に紙はなかった。黒瀬の書類も、まだ脇に挟まれたままだ。
次の瞬間、黒瀬が腕を緩めた。さっき見たのと同じ紙が、同じ向きに傾いて滑り出す。アキは手を伸ばし、床へ届く前にその端を掴んだ。
「どうも。今のが、そうなのか?」
「多分」
返した紙から自分の指へと、アキは目を移した。今くらいの速さなら間に合う。だが、あの男の刀が首へ迫るところを見たとして、身体も同じように動くだろうか。
階段を上がり始めると、脇腹の傷が引きつった。アキは手すりを掴み、一段ずつ足を運ぶ。右目に収まったものは、そちらには何もしてくれなかった。
*
玄関を開けると、雑巾を持って床に座ったデンジと目が合った。
奥ではパワーが椅子に乗り、少女は壁へ両手を当てている。三人とも動かなくなったので、アキは靴を脱ぐ前に、開けたばかりの扉を確かめた。
板が打ちつけてある。外からでも気にはなっていたが、内側へ回っても、なかったことにはならない。
「その扉を壊したのは誰だ」
「訓練で壊れたんだって。今、ちゃんと掃除してるだろ」
「掃除で穴は塞がらねえよ」
デンジが雑巾をバケツへ落とし、跳ね返った水に顔をしかめた。アキは靴を揃えて上がると、今度は少女の手元へ近づく。
「壁も見せろ」
「貼ったところが、まだ乾いていないの」
「乾く前でいい」
少女が手を離した。浮き上がった壁紙の下に、細長い傷が走っている。
「そこは先生のナイフだからな」
「岸辺の奴がつけた! ワシも見たぞ!」
「お前らが何をしたのか聞いてるんだ」
デンジは濡れた膝を払って立ち上がった。
「こっちも攻撃しなきゃ訓練になんねえだろ。あのオッサンが避けるから、壁に当たんだよ。好きで家を壊してるわけじゃねえって!」
「好きで壊されたら、今すぐ追い出してる」
「ワシらは強くなるために犠牲を払ったんじゃ」
「払うのは俺の敷金だ」
パワーは椅子の上で腕を組み、口を閉じた。アキが天井を指すと、少女は持っていた布をバケツの縁へ掛ける。
「廊下の天井と、台所の窓の近くにも傷があるわ。病院で言われてから数えたの」
「まだあるのか」
「隠しておくほうが怒るでしょう」
そのとおりだった。だからといって、正直に報告できたことを褒める気にはならない。
「こいつもやったんだぜ。俺らだけ壊したみてえに話してるけど」
「私も訓練したと、先に言ってあるわ」
「その言い方だと、なんかマトモに聞こえるだろ! 俺なんか家を壊した奴だぞ!」
「お前が自分でそう説明したんだろ」
「ははっ! バカじゃのう!」
パワーが椅子を揺らして笑ったので、アキは背もたれを押さえた。
「下りろ。それまで壊すな」
パワーは不満そうに鼻を鳴らしながらも、床へ下りた。その足がバケツに触れかけ、少女が慌てて脇へ引く。デンジは水の飛んだところを擦り始めたが、雑巾が濡れすぎているせいで、拭いた跡が広がっていくばかりだ。
「一度ちゃんと絞れ」
「さっき絞ったって」
「なら、もう一度だ」
デンジから雑巾を取り上げようと屈んだところで、傷が痛んだ。アキが腹へ手を添えると、デンジは差し出しかけた雑巾を引っ込め、自分でバケツの上へ持っていく。
「絞りゃいいんだろ」
水が落ちる音を聞きながら、アキは腰を伸ばした。扉も壁も直させなければならない。言っておくことも、まだある。
それでも、帰ってきた家に三人ともいて、こちらが怒れば言い返してくる。その騒がしさを、今すぐ止めさせたいとは思わなかった。
「掃除が済んだら飯にする。冷蔵庫に何が残ってる」
「肉じゃ!」
パワーが台所へ向かい、少女もその後を追った。アキがネクタイを緩めていると、デンジが横から顔を覗き込んでくる。
「早パイ、目ぇどうかした?」
「新しい悪魔と契約した」
「何ができんの?」
「少し先のことが見える」
デンジの顔が明るくなった。
「じゃあ、今日の晩メシも分かるじゃん」
「そこまでは見えない」
「なんだよ。使えねえな」
「お前が次に怒られるのは分かるぞ」
「それ、悪魔がいなくても分かるやつだろ!」
台所で少女が吹き出した。パワーは冷蔵庫を開けたまま、肉の入った包みを掲げている。
アキは椅子を引いて座り、二人へ鍋とまな板の場所を教えた。
*
病院へ電話をかけると、姫野が出るまで少し時間がかかった。
受話器の向こうから、人の話し声と足音が聞こえる。病室から電話のあるところまで歩かせたのかと考えたところで、姫野の声がした。
「大丈夫。看護師さんに聞いてから出てきたよ」
「まだ何も言ってません」
「聞きそうだったから。契約、どうだった?」
アキは台所へ身体を向けた。少女が鍋をかき混ぜ、デンジは皿を並べている。パワーが自分の前へ大きい皿を置いたが、デンジも同じ大きさのものを探し出したので、今のところ揉めてはいない。
「未来の悪魔と契約しました。寿命は取られてません」
「ほかには?」
「右目に住ませること。それだけです」
受話器の向こうで、息を吐く音がした。
「そっか。よかった」
次の言葉が来るまで、アキも黙って待った。鍋の蓋が鳴り、少女が火を弱める。こちらへ何か尋ねようとしたので、アキは空いている椅子を指した。少女は自分の箸をそこへ置いてから、また台所へ戻っていく。
「目は普通に見えるんだよね?」
「今までどおりです。少し先のことも見えました」
「なら、今度はちゃんと避けてよ。あの刀を使わなくて済むように」
「そのために契約しました」
ここで終われば、安心した声のまま電話を切れる。アキは受話器を持ち直し、壁に残った傷へ目を留めた。
「条件が軽かったのは、俺の未来を見たいからだそうです」
「その悪魔が?」
「何を見たのかは聞いてません。教えようとはしてましたけど、面白がっていたので」
姫野はしばらく返事をしなかった。遠くで誰かが名前を呼ばれ、車輪の転がる音が続いている。
「腹立つねえ。人の先のことを勝手に覗いてさ」
「ええ」
「見物料くらい、きっちり働いてもらわないとね」
アキが返そうとしたとき、背後でデンジが声を上げた。
「おい! それ、今食うやつじゃねえだろ!」
「味見じゃ!」
「なんで二個目を食おうとしてんだよ。一個目で分かれよ!」
「ははっ。そっちは賑やかだね」
「うるさいだけです」
「あの子もいるの?」
「片づけに来て、そのまま飯を食っていきます」
少女がパワーから皿を遠ざけると、デンジは自分の側へ引き寄せようとした。少女はその手も押し戻したが、皿の端に残った小さな肉を一つ摘まんだ。
「お前も食ってんじゃねえか!」
「鍋から出したときに、これだけ落ちそうだったの」
「もう皿に乗ってるじゃろ!」
アキは受話器から少し口を離した。
「全員、箸を置け」
向こうで姫野が笑っている。今度は途中で息が止まらなかった。
「楽しそうじゃん。明日、その話を聞かせてよ」
「あいつらも見舞いに行くでしょう」
「君からも聞きたいの。どうせ自分が怒られたところは短くするんだから」
「それなら、長くなります」
「私、時間だけはあるからさ」
アキは壁の傷から、板の貼られた玄関へ視線を移した。
「仕事が終わったら行きます」
「うん。待ってる」
電話を切ると、デンジが箸を持たずに待っていた。言われたとおりにはした、という顔だった。
「もう食っていい?」
「俺が座るまで待て」
「早く座ってくれよ。冷めるだろ」
椅子へ腰を下ろすと、少女がアキの前へ茶碗を寄せた。鍋から取り分けた肉と野菜は、皿ごとに少しずつ量が違う。パワーの皿が一番多かったが、それでも足りないらしい。
右目の奥に、箸の先が入り込んだ。
アキは自分の皿を手元へ引く。ほんの少し遅れて、パワーの箸が、今まで肉のあった場所を挟んだ。
「ワシの肉!」
「俺の皿だ」
「ははっ! お前、空っぽのとこ掴んでやんの!」
デンジが笑い、少女も茶碗を置いて口元を押さえた。
明日は、まずこれから話そうか。
アキはパワーの届かないところへ皿を置き、自分の箸を取った。