不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第二十四話 話すことが多すぎる
買い物袋から長葱が落ちた。
少女が屈むより早く、デンジの靴がその上へ乗る。転がるのを止めるには間に合ったが、足を退けると、白いところに靴底と同じ筋がついていた。
「……洗やいいだろ」
「早川に渡すとき、自分でそう言ってね」
「ガハハ! 叱られるぞ!」
「お前が袋を振り回したんだろうが!」
「葱が勝手に出たんじゃ!」
少女は長葱を拾い、土のついた外側を確かめた。折れてはいないので、袋からはみ出さないよう横にして入れ直す。その間にパワーは手を離し、もう自分の荷物ではないという顔で歩き始めていた。
右手にも左手にも、買い物袋。
「パワー。これを持って」
「ワシはさっき持った」
「途中まででしょう。家までは運んでいないわ」
「俺は卵があるからな」
頼んでいないほうまで、十個入りのパックを胸に抱えて遠ざかる。少女は二人の背中を追い、パワーが欠伸で口を開けたところへ袋の持ち手を差し出した。
「肉が入っているほうよ」
「先に言わんか」
ようやく受け取ってもらえた。今度は振り回さず、袋の底まで片手で支えている。
早川家の玄関では、扉を開けたアキがまずその袋を受け取った。少女も残りを渡すと、飛び出した長葱の白い部分が、ちょうど彼の手の上へ載る。
「この葱、どうした」
「転がりそうになったところを、デンジが止めてくれたの」
「そうだよ。俺が止めたんだよ」
少女はデンジが卵を置くまで待ってから、アキの手の上で葱を半分だけ回した。靴底の跡が表へ出る。
「足で」
「お前、その言い方やめろよ!」
アキは葱を持ったまま、玄関に並ぶ靴へ顎を下げた。
「三人とも手を洗え。デンジは靴も拭け」
「そもそもパワーが落としたんだって!」
「ワシは肉を運んだ。無傷じゃ」
パワーが袋を持ち上げるので、少女はその下を通って先に上がった。背後からデンジに名前を呼ばれたが、振り返る前に口元を手で隠しておく。
*
姫野の退院祝いをしようと言い出したのは、姫野だった。
デンジが作戦の打ち上げも兼ねることにし、パワーが肉を要求した結果、夕飯は早川家で鍋ということになったらしい。少女が誘われたときには、家主から買い物の紙まで渡されていた。
台所のアキは食材を並べながら、流しの横を少し空けてくれた。
「白菜を切ってくれ。まな板は下にある」
「このくらいの大きさでいい?」
少女が葉の上へ包丁を当てると、アキはそれより少し先を指した。切ったものからざるへ移し、硬い芯と葉を分けておく。その横で葱の外側が剥かれ、靴の跡がようやく見えなくなった。
デンジは居間へ皿を運んでいたが、三枚目を置いたところで、買い物袋の中へ手を戻した。
出てきたのは、六枚切りの食パン。
「今、食うなよ。もう飯にするぞ」
「俺のじゃねえって。こいつに作ってやるんだよ」
「私に?」
少女が包丁を置くと、デンジはパンの袋を持ち上げた。
「前に言ったじゃん。最強のパン、食わせてやるって」
「ああ。今日、作ってくれるの?」
「おう。お前、いつ来るか分かんねえから、ジャム残しとくの大変だったんだぞ」
「お前が食わなきゃ残るだろ」
アキの言葉は聞かなかったことにしたらしい。デンジは戸棚を開け、苺ジャム、マーマレード、蜂蜜を順に並べる。冷蔵庫からはバターまで出てきた。
少女は白菜の最後の一枚をざるへ移し、布巾で手を拭く。隣へ来たパワーが蜂蜜の蓋を開けようとすると、デンジはその手から瓶を取り返した。
「まだだ。順番があんだよ」
「どうせ全部腹へ入るじゃろ」
「パンの上へ入れんだよ!」
焼けた食パンが皿へ載ると、まずバターが塗られた。端まで行き渡ってもまだナイフを動かしているので、少女はその厚さを横から確かめた。黄色いところを覆うように苺ジャムが広がり、空いている場所にはマーマレード。仕上げに蜂蜜が、パンの耳を越えて皿へ垂れる。
「それも載せるのね」
「うめえもんしか載せてねえからな」
「一枚を二人で食え。鍋が入らなくなる」
アキが包丁を差し出したところで、呼び鈴が鳴った。
少女が玄関へ出ると、姫野は菓子箱を抱え、開いた扉の隙間から鼻をひくつかせた。
「いい匂い。もう何か焼いてる?」
「デンジがパンを作ってくれたの」
「退院祝いって、パンも出るんだ。私、鍋だと思って来たよ」
靴を脱いだ姫野は、台所に並ぶ瓶を順に確かめる。最後に皿の上で止まり、少女の肩へ軽く手を置いた。
「これ、一人で全部食べるの?」
「半分ずつにするわ」
「残りは俺のだからな!」
居間からデンジが念を押してくる。姫野は手を引き、持ってきた菓子箱をアキへ渡した。
「大丈夫。私は後で甘いもの食べるから」
「先輩まで食べ始めなくて助かりました」
少女は座卓へ運ばれたパンを持ち上げた。底から蜂蜜が落ちそうになり、すぐに皿を寄せてひと口齧る。苺の甘さのあとから、温かいバターとオレンジの皮が一緒に来た。何も塗られていない部分が、ほとんどない。
向かいのデンジは、自分の分を持ったまま待っている。
「どうだよ」
「甘いわ。端まで」
「うめえだろ?」
「うん。沼ラーメンより、全然食べられるわ」
姫野が口へ運びかけていた茶を戻した。
デンジはしばらく黙り、自分のパンへ歯を立てた。大きくひと口取ってから、まだ飲み込んでもいないのに文句が出る。
「何で沼と比べんだよ。これ、俺がうめえと思って作ったやつだぞ」
「おいしいと言っているのよ。ちゃんと全部食べられるもの」
「あれと比べたら、大体のものは食べられるからねえ」
姫野の肩が揺れている。少女はもうひと口齧り、今度は苺ジャムの多いところを噛んだ。確かに、比較に出さなくてもよかったかもしれない。
「今度は、お茶を先に用意して食べたいわ」
「今もあるだろ。飲めばいいじゃん」
「次も作ってくれる?」
「お前がジャム全部食わなきゃな」
デンジはようやく残りを口へ押し込み、指についた蜂蜜まで舐めた。パワーが空になった皿を引こうとしたので、少女は自分の半分から小さく切り分けて渡す。
「ワシの分はこれだけか!」
「味を見るなら足りるでしょう」
「味が足りん!」
まだ口にも入れていない。少女は皿を自分の膝へ移し、パワーが追加を要求する前に、残りを齧ってしまった。
*
パンの皿を下げに立った少女は、買い物袋の底から一枚の紙を取り出した。
途中で見つけて、畳んでおいたものだ。折り目を伸ばして座卓へ置くと、緑色の丼の写真を認めたデンジが、すぐに顔をしかめる。
「お前、それ何だよ」
「お店の営業案内よ。修理が終わるまでは、駅の向こうの別店舗で営業しているんですって」
「あの店、まだやってんの?」
「厨房も使えるし、看板メニューも同じだそうよ。営業には問題ないと書いてあるわ」
少女は紙の下半分を広げた。地図の横には店主の挨拶があり、沼ラーメンの写真には、変わらぬ味でお待ちしております、と添えられている。
姫野が身を乗り出した。
「別店舗って、もう一軒あったんだ」
「もともと駅の反対側にもあるんですって」
「そんなに売れてるの、あれ」
「普通のラーメンは普通でしたから」
鍋を運んできたアキが、紙を濡らさないよう端へ寄せる。姫野はまだ信じられないらしく、箸袋を開けながら首を傾けていた。
「看板、あれだよ? 初めて来た人は、あれを頼むじゃん」
「私も頼んだわ」
「それで二軒目まで続いたんだ……」
「お前が食わせようとしたんだろうが!」
デンジが姫野を指し、続いて少女のほうへ指を曲げる。
「こいつ、俺らにも食わせようとしたからな」
「まだ食べていないでしょう。だから、次に行くときは」
「行かねえよ」
「まだ日も決めていないわ」
「日が空いてりゃ行くと思うなよ!」
少女は案内を自分の手元へ戻した。裏面にも写真がある。大盛りは百円増し。そこまで読んだところで、パワーが横から覗いてきた。
「ワシは大盛りじゃ」
「お前、何の話か分かってんのか?」
「少ないほうを選ぶ理由がない!」
「では、パワーは大盛りね」
「待て! その緑のやつは違う!」
少女は折り目へ爪を当て、ゆっくり紙を畳む。パワーが訂正し終わるより先に鞄へ入れてしまうと、デンジが座卓越しに手を伸ばしてきた。
「おい、変な約束したことにすんなよ」
「まだ何も書いていないわ」
「書こうとしてたのかよ!」
「パンを作ってもらったから、今度は私が御馳走しようと思って」
デンジの手が途中で止まった。
少女はその指先を眺めながら、鞄の口を閉じる。御馳走、のところだけは聞き流せなかったらしい。
「……普通のラーメンならな」
「看板のほうが少し高いわよ」
「高けりゃいいってもんじゃねえだろ!」
「さっきは、打ち上げなのに安い肉ばかりだと言っていたでしょう」
姫野が「あははっ」と声を上げ、腹へ手を添えた。アキは鍋を置いたまま、まだ話し続けようとする少女へ取り皿を渡す。
「食う前から次の飯で揉めるな」
「私は御馳走する話をしているのに」
「自分で同じものを食う気になってから誘え」
少女は返事の代わりに、姫野へ取り皿を回した。今度こそ食べさせたいが、自分ももう一杯という条件は、できれば外しておきたい。
*
乾杯をする前に、パワーの箸が肉を攫った。
「あっ! まだだろ!」
「もう煮えとるぞ!」
「パワーちゃん。お祝いされる私、まだ何も言ってないんだけど」
姫野が茶の入ったコップを持ち上げる。少女も続いたが、パワーは箸を置くつもりがなく、アキからコップを持たされてようやく肉を皿へ下ろした。
「じゃあ、退院した私と、頑張ったみんなに。乾杯!」
ばらばらに伸びた手が卓の中央へ集まり、少女は届かなかった自分のコップを、隣のデンジのものへ軽く当てた。
茶をひと口飲んでいるうちに、もう鍋から肉が減っている。さっきパンを食べたばかりの二人が、白菜の下へまで箸を入れていた。
「取り箸を使え」
「今、こいつに取られそうなんだよ!」
「箸を持ち替える間に盗るつもりじゃな!」
アキが取り箸を差し入れ、二人の箸の間から肉を救い出す。そのまま姫野の皿へ入れると、二人は同時に不満を言いかけたが、姫野はもう食べ始めていた。
少女は豆腐を崩さず取れたところで、空いた場所へ次の肉を入れようと立ち上がった。冷蔵庫から皿を持って戻ると、二人の箸が揃って待機している。
「今度は、まだ食べていない人の分よ」
「俺、まだ全然食ってねえけど」
「パンのことは忘れてしまったの?」
「あれとこれは別だろ」
「私の分の肉は、ここへ入れるわね」
少女はデンジから遠い側へ肉を沈め、その隣に姫野とアキの分を置いた。パワーが位置を確かめようと身を寄せるので、鍋の蓋を持ち上げて間に入れる。
「煮えたら教えるわ」
「ワシにも分かる!」
「では、手を出さずに待てるわね」
蓋の脇からデンジが顔を出した。
「お前、今日ずっと嫌な感じだな」
「パンはおいしかったわ」
「今、褒めても遅えよ!」
少女は蓋を脇へ置き、箸を取った。向かいの姫野が笑いながら自分の皿を少し寄せ、煮えた肉を一枚分けてくれる。
「食べておきな。二人とも、話してる間も鍋しか見てないから」
「姫野も、その豆腐の下を確かめたほうがいいわ。パワーの箸が入っていたもの」
「何じゃ! 豆腐の具合を見ただけじゃ!」
「キミ、お医者さんみたいなこと言うねえ」
パワーは答えず、自分の皿を腕で囲った。
*
「それで、誰がいちばん強かったの?」
鍋の最初の勢いが収まったところで姫野が尋ねると、デンジは胸を張り、少女は箸を置いた。
「俺」
「早川よ」
「そこは俺だろ! 刀の野郎を倒したの、俺だぞ!」
「大会の話ではないの?」
「両方聞きたい。まず、アキ君が勝ったほうから」
アキは鍋の火を弱め、自分の皿へ葱を取った。
少女はその箸が動いているうちに、先を続ける。
「初めは、早く引き渡せと言っていたの。でも、デンジが説明したら、勝ったら何をくれるのかと聞いて」
「そこまで話す必要はないだろ」
「そこがいいんじゃん。私、そこをもう一回聞きたかった」
姫野がアキの腕へ肘を寄せると、デンジも待っていたように身体を乗り出した。
「な! こいつが自分から聞いたんだぜ。俺が無理やり参加させたみてえな顔してっけどよ」
「お前がいつまでも終わらせないからだ」
「始める前に、掴まる場所も確かめていたわね」
「脚が痛かったんだ」
「じゃあ、やめときなよ。普通は」
姫野にそう言われると、アキはようやく箸を置いた。
少女は自分のコップを持ち上げ、飲む前に少しだけ首を傾ける。
「止めると思っていたのに、早川まで参加するんだもの」
「お前も途中から、随分でかい声を出してただろ」
「二人とも聞いてくるから、答えたのよ」
「腕まで上げてたじゃん。こうやってよ!」
デンジが片手を高く掲げた。少女がその袖を引っ張って下ろすと、今度はパワーが同じ姿勢になる。
「ワシもやる!」
「もう終わったわ」
「ワシがおらんのに最強を決めるな!」
姫野は口へ手を当てて笑っていたが、少女の顔を確かめると、さらに肩を揺らした。
「キミが審判だったんだよね。どんなふうに決めたの?」
「声が大きかったほうよ。デンジがそう言ったから」
「二回目は俺のほうが大きかったって!」
「あなたの笑い声まで一緒に数えたら、そうなるわね」
「ちゃんと聞いてたじゃねえか!」
「だから、早川の勝ちにしたの」
デンジは座布団の上で膝を立てかけ、アキに膝頭を押し戻された。姫野がもう一度笑ったので、少女もコップを置く。あのときも、デンジはこんな顔で判定を待っていた。
「あははっ……待って。そんな顔をしないで」
「お前が変な判定するからだろ!」
「だって、あの人まで私の返事を待っていたのよ。もう一回になるかどうか、あなたより真剣に」
「そりゃ待つだろうな」
アキが低く返した。
少女は笑いを止めようとして唇を結んだが、姫野が横で「優勝者が言うと違うねえ」と付け足したので、今度こそ俯いてしまった。膝へ手をついても、息が細かく漏れてくる。
「早川、ちゃんと優勝したって伝えたのに、どうしてそんな顔をするの」
「お前が余計なところまで話すからだ」
「余計じゃないよ。おかげで、よく分かった」
姫野は目尻を指で拭い、途中で脇腹へ掌を当てた。アキがすぐに腰を浮かせる。
「先輩、もうやめましょう」
「笑ったらちょっと響いただけ。座ってて」
「それなら、なおさら」
「じゃあ君が面白いことしなければよかったじゃん」
アキは立ちかけた姿勢のまま止まり、デンジが卓の下で少女の足を小突いた。少女もつま先で押し返したが、笑いが戻ってしまい、しばらく箸を持てなかった。
姫野が茶を飲み終わるまで待って、アキは鍋へ手を伸ばした。
「あとは食べながらにしてください」
「うん。お肉、もう一枚取って」
「それ、私たちの分よ」
少女が声をかけた先で、パワーの箸が止まる。
姫野へ肉を取っているアキの横から、もう一枚を抜こうとしていた。少女が取り皿を差し出すと、パワーは肉を空中にぶら下げたまま、皿と自分の口を比べている。
「熱いわよ。さっきもそうだったでしょう」
「ワシの舌は強い!」
「では、大会はパワーの優勝に変える?」
「当然じゃ!」
「何でそっちの舌で決めんだよ!」
デンジが立ち上がりかけた隙に、少女はパワーの箸の下へ皿を入れた。肉を受け取り、自分の前へ戻す。
「あっ! ワシの肉!」
「優勝は譲ったでしょう」
*
鍋のあとのうどんまで平らげると、姫野が持ってきた菓子箱を開けた。
小さな苺のケーキが五つ。人数分がきちんと揃っているのに、少女は一つだけ苺が大きいことに気づいてしまった。デンジもパワーも同じところで動かなくなる。
姫野が箱の蓋を外した。
「私が買ってきたんだから、私から選んでもいい?」
「今日は退院祝いだもの。先にどうぞ」
少女は箱を差し出しながら、大きい苺をそっと姫野側へ向けた。デンジの指が、その皿を追って半周する。
「お前、今わざと回しただろ」
「姫野に選んでもらうだけよ」
「その苺、ワシが最初に見つけたんじゃが」
姫野はしばらく五つを比べ、端の一つを取った。苺は小さいが、クリームが少し横へはみ出している。
「私はこれ。アキ君は?」
「残りでいいです」
「じゃあ、こっちにしな。形がきれいだから」
姫野がアキの分も取り、大きい苺が残された。少女が箱を戻すと、デンジはもう拳を握っている。
「じゃんけんな。負けた奴から文句言うのは禁止」
「ワシは勝つから関係ない」
「私も参加するわ」
三人で出した最初の手は揃わず、二度目でパワーが負けた。彼女が指を開き直そうとする前に、少女はその手の甲を指先で押さえる。
「もう出したあとよ」
「今のは手をほぐしただけじゃ!」
「ほぐす前に負けていたわ」
デンジとの決着は、その次についた。
少女は勝った手をすぐには引っ込めず、デンジの拳の前へ開いたまま置いておく。彼が「遅かっただろ」と言い始めると、その掌をゆっくり皿へ下ろし、大きい苺のケーキを引き寄せた。
「負けた人は、文句を言わない約束でしょう」
「お前も食いたかったんじゃねえか」
「だから、じゃんけんしたのよ」
フォークで苺を押さえる。デンジがまだ皿を覗き込んでいるので、少女は一度だけ手を止めた。
「半分にしてほしい?」
「くれんの?」
「沼ラーメンも半分ずつなら、食べやすいと思うの」
デンジは自分の皿へ向き直った。
少女は大きい苺を丸ごと口へ入れた。隣で姫野が笑っているが、今は返事ができない。甘酸っぱい汁を飲み込み、ようやくフォークを置くと、アキがこちらへ茶を注いでくれた。
「その話は、まだ諦めてないのか」
「営業しているのだから、いつでも行けるわ」
「ワシは行かんぞ」
「私、ここまで勧められたことないなあ。最初に食べさせたの、私なのに」
姫野は感心したように言い、自分の皿を少し遠ざけた。少女は手を伸ばしていなかったのに。
*
片づけを始めるころには、パワーの膝へニャーコが収まっていた。
猫がいるから動けないと言うので、少女は食器だけでも渡してほしいと頼んだ。パワーが皿へ手を伸ばした途端、ニャーコは膝を下り、空いた座布団へ移ってしまう。
少女は受け取るはずだった手を下げた。
「もう運べるわね」
「戻ってくるかもしれん」
「では、戻ってくるまでに運びましょう」
パワーが皿を持って立つと、デンジは素早く空いた場所へ座った。ニャーコに触ろうと手を出したところで、アキから空き瓶を渡される。
「ジャムをしまえ。蓋が開いたままだ」
「今、俺が座ったの見てたろ」
「座る前に片づけろ」
少女は流しへ皿を運び、アキが空けてくれた場所に重ねた。洗ったものから渡すと、彼が布巾で拭いていく。デンジも瓶をしまっただけでは帰れず、乾いた皿を受け取る役になった。
居間では姫野がパワーに大会の話をしている。審判が途中から張り切ったという話になったので、少女は蛇口を少し絞った。
「聞こえているわよ」
「聞こえるように言ってるんだよ。私にも、その声で判定してほしかったなあ」
「姫野まで始めたら、退院祝いをやり直すことになるでしょう」
「じゃあ、治ってからね」
「先輩は参加しなくていいです」
アキが布巾を広げ直す。その横で少女が笑うと、水のついた皿が少し滑り、二人で同時に縁を掴んだ。
「こっちは落とさないでくれ」
「早川も、途中で面白いことを言わないで」
「何も言ってねえよ」
最後の皿を渡しても、流しには鍋が残っていた。アキが自分で洗うと言うので、少女は脇へ避けかけ、持ち上がった鍋の底を覗いた。
「焦げていなかった?」
「火は見てた」
「大会の話をしている間も?」
「お前も食ってただろ」
鍋の内側はきれいだった。少女が黙ると、アキはそのままこちらへ傾けてみせる。
「残念そうにするな」
「まだ何も言っていないわ」
居間からデンジの笑い声が聞こえた。
*
帰り支度を始めると、アキが冷蔵庫から保存容器を出してきた。朝のうちに作っておいた煮物で、鍋だけで卓が埋まったため、出しそびれていたらしい。
少女は両手で受け取り、持ち帰り用の袋へ収めた。
「温めてから食べろよ」
「岸辺にも伝えておくわ」
「あのジジイに全部食われんなよ。酒飲みながらだと、ずっと食ってそうじゃん」
デンジは玄関までついてきて、容器が袋に入るところを確かめていた。
「私の分は先に取っておく。デンジも、パンを御馳走さま」
「おう。次はもっとジャム残しとくわ」
「今日の量で十分よ」
「蜂蜜も足りんかったぞ!」
居間からパワーまで口を出す。アキは玄関へ上着を持ってきて、姫野が靴を履き終えるのを待っていた。
少女が袋を持ち直すと、鞄の口から営業案内の緑色が覗いた。デンジはそれを見逃さなかったらしい。
「次に来る日、先に言えよ。でも、そっちの店には行かねえからな」
「お菓子を買いに行くのは?」
「それなら行く」
「では、選ぶところから一緒にしましょう。駅の向こうに」
「待て。何の店だよ」
「まだ、お菓子の話よ」
少女は畳んだ紙を鞄へ押し込み、留め具を閉じた。姫野が壁へ手をつき、「まだ、だって」と笑い始める。
「ワシも行くぞ! 菓子だけじゃぞ!」
「パワーは、自分のお金を持ってきてね」
「デンジが持っておる」
「俺の金だろうが!」
アキが玄関の扉を開けた。少女と姫野が外へ出ても、デンジとパワーは上がり框で言い合っている。
少女は敷居の外から顔を戻した。
「デンジ。今度は私が選んだものも、ひと口くらい食べてくれるでしょう?」
「菓子ならな!」
「聞いたわ」
姫野に肩を押され、少女は階段へ向かった。後ろではまだデンジが何か言っている。二段ほど下りたところで、姫野が小声で尋ねた。
「何を食べさせるつもり?」
「まだ決めていないわ」
「じゃあ、何であんな顔したの」
「もう一度、紙を見せたら嫌がると思って」
鞄から緑色の端を少し引き出すと、玄関から声が飛んできた。
「それは菓子じゃねえからな!」
少女は紙をしまい、手すりを掴んで笑った。