不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第二十六話 知っている歌
鼻歌は、同じところで一度切れた。
少女は扉の向こうに立つ女の背中を確かめた。カウンターの内側で、白いカップを拭いている。髪は後ろへまとめられ、首には黒い飾り。腰で結んだエプロンの紐が、身体の動きに合わせて揺れていた。
次は、少し高くなる。
少女が待っていると、女は息を吸い、覚えているとおりの節を口ずさんだ。
買い物袋が脚へ当たった。
暗い弾薬庫の奥で、誰かが膝を抱えている。毛布の端を二人で引き寄せ、声を出してよいか、扉の向こうの音を聞いていた。途中で足音がすれば、歌も話もやめる。
今は、誰も止めなかった。
カウンターの男は帳面へ何かを書いている。窓際の客も新聞を広げたまま。女は一曲の終わりまで歌い、拭き終えたカップを棚へ戻した。
「卵、扉に当たってるぞ」
デンジに言われ、少女は袋を持ち上げた。
殻が割れていないか確かめなければ。そう思うのに、持ち手から指を離せない。歌が終わってしまうと、さっき本当に聞いたのかどうかまで分からなくなった。
「ごめんなさい」
デンジは何も聞き返さず、扉を大きく開け直した。
少女が敷居を越えたところで、女が振り向く。
「デンジ君! 今日は歩いて来たんだ」
「当たり前だろ。雨も降ってねえし」
「昨日、私より先に着いてたからさ。ふふっ、マスターもちょっと困ってたよ」
「困ってなかったろ! タオル貸してくれたし」
声まで似ていた。
少女は女の顔を捉えかけ、カウンターの小瓶へ目を逃がした。花が一本挿してある。横には砂糖の袋と、重ねた受け皿。
どれも、ここにあっておかしくないものだった。
女も、この店で働いているのなら、そこに立っていて何もおかしくない。
ただ、自分の知っている人であるはずがなかった。
「お友達?」
尋ねられたデンジが、少女のほうへ顎を向ける。
「こいつも菓子食うから。昨日言ってたやつ、ある?」
「あるよ。ちょうど――」
女の声が止まった。
少女はようやく顔を上げた。
覚えている頬より細い。髪形も違い、立ち方まで知らない。こちらに笑いかけようとして、その途中で止まった口元だけを、どうしても見覚えがあると思ってしまう。
「その歌」
女の手に、まだ布巾があった。
少女は息を吸い直す。名前を呼んで、違うと返されたら、今浮かんできたものまで間違いになる気がした。
「どこで覚えたの?」
布巾がカウンターへ置かれた。
女はすぐに返事をしなかった。こちらの顔から肩、買い物袋へと確かめ、もう一度顔へ戻る。その仕草を待っている間にも、少女の掌は汗ばんでいく。
「……リン?」
少女は袋を落としかけた。
デンジが横から持ち手を掴み、下へ引かれた腕を支える。
「おい、だから卵――」
女がカウンターの端へ回った。
「リンだよね?」
少女は頷こうとして、その前に確かめなければならないことがあると思い直した。
「レゼ?」
彼女の唇が少し開いた。
「うん。私」
明るい店内で、その声だけが、昔と同じ近さに聞こえた。
*
レゼはカウンターの外へ出てきた。
少女は、床を踏む彼女の靴を追った。近づけば服の擦れる音がし、止まれば、その場に影が残る。顔を確かめるために瞬きをしても、姿は消えなかった。
「どうして、ここにいるの」
思っていたより強い声が出た。
レゼはエプロンへ片手を当てる。
「ここで働いてるの。さっきも、デンジ君と――」
「いつから?」
「まだ長くないよ」
少女はカウンターの男を確かめた。
レゼもそちらを向き、「少し、いい?」と尋ねる。男は二人を見比べてから帳面を閉じ、空いた席を示した。
それだけで、レゼは仕事の手を止められた。
誰と何を話すのか、どれくらいかかるのか。細かく答えなくても、男は奥へ戻っていく。
「リン、座ろう。ほら、荷物もあるし」
伸びてきた手に、少女の肩が引けた。
レゼの指は袖へ届く前に止まった。そのまま下がっていく手を追い、少女は慌てて一歩戻る。
「違うの。嫌なわけではなくて」
そこまで言っても、レゼの手は戻ってこなかった。
近づいてほしい。顔も、声も、もっと確かめたい。けれど、向こうから急に触れられそうになると、何もかも受け入れる準備ができていないことに気づく。
昔の姿を探していたのに、目の前のレゼは知らない匂いがした。石鹸と、店のコーヒーの匂い。
デンジが窓際の椅子を引いた。
「とりあえず座れよ。これ、俺が持ってっから」
彼の手には、少女の買い物袋があった。いつ渡したのか覚えていない。返してもらおうと手を出したが、デンジは椅子の脇へ袋を置いてしまった。
少女は座面へ両手をつき、腰を下ろした。
「お前ら、知り合いだったの?」
「昔、一緒にいたの」
答えたのはレゼだった。
彼女は向かいへ座りかけ、何かを思い出したようにカウンターへ戻る。少女は思わず腰を浮かせ、膝を卓へぶつけた。
「水! 水を持ってくるだけだよ」
レゼが振り返った。
少女は椅子へ座り直し、膝を押さえる。痛みがある。その間にもレゼはグラスを三つ並べていて、デンジはメニューを開いていた。
「……すごい久しぶり、とか?」
「ええ」
「そっか」
デンジはそれ以上聞かず、メニューの角を指で曲げた。普段なら何か言い足しそうなのに、今は黙って待っている。
少女はその沈黙に少し困り、何か説明しようとした。けれど、どこから話せばよいのか分からないうちに、レゼが水を運んできた。
「はい。こぼさないでね」
誰へ言ったのか、彼女自身にも決まっていないような声だった。
少女はグラスを両手で持った。水が喉を通り、ようやく舌が動かしやすくなる。向かいのレゼもひと口飲み、長く息を吐いた。
「びっくりしたあ……」
それから、少女の顔をもう一度確かめる。
「私、変な声出したよね」
「私も、うまく喋れなかったわ」
「今も、ちょっと変かも」
レゼが笑おうとしたので、少女も口元を緩めた。どちらもすぐにやめてしまい、卓上にはグラスの水滴だけが増えていく。
*
「リン、日本にはずっといたの?」
名前を呼ばれると、返事が少し遅れた。
岸辺にも呼ばれる名前なのに、レゼの声だと、昔の自分まで一緒に振り向いてしまう。返事をせずにいると、もう一度呼ばれそうだったので、少女はグラスを置いた。
「しばらく前から。今は岸辺と暮らしているわ」
「岸辺……ああ。そうなんだ」
「仕事でいないことも多いけれど」
レゼは指先でグラスを回した。
「買い物も、自分でするの?」
「今日は卵と糸を買ったの。あとで買うと忘れるから」
「糸? 何か作るんだ」
「上着を直すだけよ。岸辺に渡したら、穴が増えてしまって」
隣でデンジが吹き出した。
「先生、縫い物できねえの?」
「糸を強く引きすぎるのよ」
「へえ〜! あのオッサンにも、できねえことあんじゃん。今度、それやらせようぜ」
「何のために?」
「だって、いつもこっちばっかやられてんだぞ。たまには困ればいいだろ」
「では、デンジのシャツを渡す?」
「俺のじゃねえよ!」
声が大きくなり、デンジは窓際の客を確かめてから座り直した。
少女の口元にも、少しだけ笑いが戻る。
レゼは二人を眺めていた。目が合うと、彼女はグラスから指を離す。
「リンも、デビルハンターなの?」
「ええ。デンジたちと一緒に働いているの」
「一緒に……」
返事が続かなかった。
少女は何か言おうとして、レゼが自分の左手を確かめていることに気づいた。卓へ置いた手を少し動かすと、彼女はすぐ顔を戻す。
「ねえ、菓子は頼んでいい?」
デンジがメニューを二人の間へ出した。
「俺、昨日からこれ食いたかったんだけど」
「あ、うん。ごめん! そうだったね」
「私も同じものを頼むわ」
「半分でよくね? で、違うやつも頼んでさ」
「デンジは、一つ食べたいのでしょう?」
「お前のも一口食いてえんだよ」
レゼが息を漏らした。
「ふふっ。先に言っておくけど、大きくないよ?」
「じゃあ、二ついるじゃん」
「同じものを二つね」
少女が決めると、デンジはまだメニューを眺めていたが、反対はしなかった。
レゼが席を立つ。今度は少女も、その動きに合わせて腰を浮かせずにいられた。
カウンターの中では、彼女が店主へ注文を伝えている。皿を出し、引き出しからスプーンを取る。どこに何があるのか、誰かへ尋ねる必要もない。
手伝おうかと言いかけ、少女はグラスを持った。
自分は、この店のことを何も知らなかった。
*
白い菓子は、皿を置くと少し揺れた。
横に添えられた赤いジャムを、デンジが早速スプーンですくっている。少女はまず何もついていないところへ手を伸ばしたが、レゼに名前を呼ばれて止めた。
「甘いもの、まだ好き?」
「好きよ」
その答えだけは、すぐに出た。
レゼの肩が少し下がった。少女はひと口食べ、冷たい甘さが舌の上でなくなるまで待つ。
「おいしい」
「よかった。ジャムもつけてみて」
「それ、ウマいぜ。さっき俺も――」
デンジは言いかけ、こちらの皿へ手を伸ばしかけている自分に気づいたらしい。スプーンを引っ込め、自分の残りをすくった。
少女は赤いところを少し取った。
昔、レゼと何を食べただろう。
思い出したいものはあるのに、浮かぶのは食べ物を入れた器ばかりだった。縁の欠けたもの、底に傷のあるもの。どちらが多いか比べたことは覚えているが、味が出てこない。
今、目の前にあるものは甘い。
レゼも同じものを知っている。そのことを確かめるようにもうひと口食べると、彼女が笑った。
「ゆっくり食べていいよ。デンジ君に取られないように見てるから」
「取らねえって! もう自分の頼んだろ」
「自分のを食べたあとが心配なのよ」
「お前まで!」
少女は皿を少しだけ手前へ寄せた。
レゼが「あはは」と笑い、デンジが文句を続ける。今度はその声を聞いても、昔の場所は浮かばなかった。
食べ終える頃、デンジが壁の時計を確かめた。
「あ、やべえ。俺、豆腐買って帰るんだった」
「それだけ?」
「いや、ほかにも……紙があったわ」
彼がポケットを探る間に、少女も足元の袋へ手を伸ばした。
帰らなければならない。
そう思った途端、まだ何も聞けていないことに気づく。レゼがここで働いている。それだけ分かっても、明日また会える理由にはならない気がした。
空いた皿へ伸びたレゼの手に、少女は触れた。
手首の少し上。指を置くだけのつもりが、離せなくなる。
レゼは動かなかった。
「明日も、ここにいる?」
「いるよ」
「何時まで?」
「夕方もいる。今日と同じくらいに来られる?」
少女は頷きかけ、仕事の予定を思い出した。
「終わったら来るわ。遅くなるかもしれないけれど」
「うん。急がなくていいから」
レゼの手が返り、少女の指を下から支えた。
「私、いるし」
掌が温かい。
少女は握り返し、強すぎたかもしれないと思って少し緩めた。レゼの親指が手の甲を擦る。その感触を確かめていると、デンジが紙をポケットへ押し込んだ。
「俺も来るぜ」
「デンジ君は、砂糖を用意しておくね」
「だから自分で入れるって! もう覚えたし!」
レゼが笑った。
少女も少し笑い、そこでようやく指を離せた。
「お店の番号を、教えてくれる?」
「あ、そうだね。待ってて。書いてくる!」
カウンターへ戻る彼女を、今度は座ったまま待つ。
レゼは店主からペンを借り、紙へ番号を書いた。二度確かめてから持ってきてくれたので、少女もその場で数字を読んだ。
間違いはないらしい。
紙を手帳へ挟み、買い物袋を持とうとすると、デンジが先に引き上げた。
「これは俺が持つ。お前、今日危なっかしいし」
「ぶつけないでね」
「俺が助けた卵だぞ!」
レゼが入口まで見送りに来た。
少女は敷居を越え、一度だけ振り返る。彼女はまだそこにいて、こちらが手を上げると同じように返してくれた。
少女は手帳をしまった鞄の口を、指で押さえた。
*
閉店後、レゼは窓際のテーブルを拭いた。
デンジの席には砂糖が落ちていた。昨日も同じだったので、布巾で集め、掌へ受けて捨てる。隣の席には何も残っていない。
リンはスプーンを皿へ揃え、グラスを端へ寄せてから立った。
昔からそうだった気もする。けれど、同じ皿を使った覚えはない。今の姿を見て、前もそうだったと思い込もうとしているのかもしれなかった。
レゼは椅子を引き、リンが座っていた場所へ腰を下ろした。
ここからなら、カウンターの中がよく見える。
自分が水を取りに戻ったとき、彼女は立ち上がろうとした。少し離れただけなのに、追いかけてきそうな顔をしていた。
それなのに、最初に手を伸ばしたときには身を引いた。
あの肩の動きが、何度も戻ってくる。
昔と同じように触っていいと思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
レゼは卓上へ左手を置き、その手首を右手で包んだ。帰り際、リンが触れたところ。指は冷たかったが、握り返す力は強かった。
嫌なら、あんなふうには触らない。
そう思っても、最初の一歩は消えなかった。
「古いお友達?」
奥から店主に尋ねられ、レゼは手を離した。
「うん。ずっと会ってなかったの」
「よかったね。明日も来るんだろう?」
「仕事が終わったらって」
リンの返事を、そのまま繰り返していた。
仕事。
デンジと一緒に悪魔を殺しているのだという。二人はそれを、説明するまでもない日常として話した。帰りに買う豆腐のことと、同じくらい普通に。
岸辺と暮らしている。
買い物へ行き、上着を縫い、デンジに言い返して笑う。レゼが知らないことばかりなのに、リンはそれを一つも特別な話として語らなかった。
自分の知らないところで、何度こんなふうに笑ったのだろう。
そう考え、レゼは布巾を畳み直した。
笑って暮らしていてほしかった。ずっとそう思っていたはずなのに、実際に聞くと、もっと早く教えてほしかったという文句まで出てきそうになる。
どうやって知らせろと言うつもりだったのか。
レゼは椅子から立ち、カウンターへ戻った。小瓶の花は、昨日より少し開いている。茎を持ち上げ、水を替え始めた。
デンジは、明日も来る。
リンも来る。
前もって二人が知り合いだと分かっていたら、もう少し普通に迎えられただろうか。あんな声で名前を呼ばずに済んだかもしれないし、手を引っ込めるところも見られなかったかもしれない。
けれど、準備をして待っていたら、今日と同じように嬉しかっただろうか。
瓶から水が溢れた。
レゼは蛇口を閉め、濡れた指を拭く。花を戻してから棚を開けると、白い菓子が三つ残っていた。
「マスター。これ、明日の分に取っておいてもいい?」
「お客さんの分?」
「うん。二人、来るから」
許可をもらい、小さな紙へ数字を書こうとした。
二つなら、デンジとリンの分。
レゼはペンを止めた。今日、自分は向かいで食べるところを眺めていただけだった。明日もそうするつもりだったのかと考え、紙を裏返す。
三つ、と書いて皿のそばへ置いた。