不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第二話 また明日
昨夜まで血のついていた手で、少女は卵を割った。
殻の欠片を箸で追いかけているうちに黄身まで崩れ、しばらく見つめてから、そのままかき混ぜてフライパンへ流し込む。後ろから覗いた岸辺が、今日はそういう卵か、と呟いた。
「今、そうなったの。岸辺の分は目玉焼きにできると思うわ」
「同じでいい。もう一つ割れ」
二つ目には殻が入らなかった。きれいな黄身を崩すのは少し惜しかったが、これだけ別に焼くのも面倒で、箸を入れて隣へ流した。
皿に分けている間に、岸辺はパンを出し、新聞を食卓の端へ押しやった。空いたのは皿を置く場所だけ。向かいの椅子には、昨日の新聞がまだ残っている。
少女はそれを脇へ寄せて座り、皿の端についた卵を箸で取った。右手はもう痛まない。昨夜、医者の前では途中までしか曲がらなかった指が、今朝は何もなかったように動いている。
袖の下にも傷はないのに、洗面所には裂けた服がそのまま干してあった。
「九時だったわよね。着替えたら出られるわ」
「その前に靴を買う。昨日のはもう履くな」
「まだ乾いていないから?」
「乾けば足に合うのか、あれは」
玄関には、洗って爪先を上げた靴が並んでいる。傷は増えたが、底が抜けたわけではない。もう少し履けると言いかけ、昨日は踵が浮くたびに爪先へ力を入れていたことを思い出した。
「……九時に間に合う?」
「八時から開いてる店だ。食い終わったら支度しろ」
残りのパンを口へ入れると、急いで飲み込んだせいで喉につかえた。茶を取る少女の前から、岸辺が空の皿を持って立ち上がる。
「店は逃げねえぞ」
急げとは言われていなかった。そう気づいたころには、もうほとんど食べ終わっている。
*
新しい靴では、階段を上っても踵が浮かなかった。
店の中を数歩歩いただけでも違ったが、外へ出ると、もっとよく分かる。足を上げれば靴もついてきて、下ろせばその場所に収まる。その感触を確かめながら歩いていると、肩へ岸辺の手がかかった。
「足は分かった。前を見ろ」
横へずらされて顔を上げると、すぐ先に電柱があった。
「見ていたわ」
「なら避けろ」
少女は足元から目を離した。今度は顔を上げたまま歩き、庁舎の玄関まで来たところで、ようやくもう一度靴を見る。爪先に傷はついていなかった。
受付で名前を告げた岸辺は、案内を待たずに廊下へ進んでいく。扉の脇には、よく似た札がいくつも並んでいた。曲がった場所を覚えようと振り返ると、その間にも背中が遠ざかる。
「今日は話をするだけ? 訓練に使うものは持ってきていないけれど」
「まず面談だ。誰にお前を見てもらうか決める」
「終わったら、岸辺と帰るのね」
前を行く足が止まったので、少女も立ち止まった。岸辺は振り返り、抱え直された鞄へ目を落とす。
「泊まるつもりだったのか」
「分からないから聞いたの。前は、何も持っていなくても、あとから荷物が来たことがあるから」
廊下の奥で電話が鳴っていた。岸辺は少女の顔へ視線を戻すと、先ほどよりゆっくり答えた。
「帰りも俺とだ。昼飯までには済ませる」
「長くなったら?」
「食うものでも考えとけ」
それだけ言って、扉を三度叩いた。
中から返事があり、岸辺に続いて入ると窓を背にした机に女が座っていた。髪を一つに編み、揃えた書類の隣へペンを置いている。
机の上は広く空いていたが、鞄を置いてよい場所には見えない。少女は勧められた椅子へ座り、膝に抱えた。
「おはよう。マキマです。昨日は大変だったね」
挨拶を返すと、マキマは少女の顔を見た。隣では岸辺が椅子を引き、背もたれへ身体を預けている。
「具合はどう?」
「もう大丈夫です。朝も、自分で起きられました」
「右手は?」
鞄から手を離すとマキマの視線が指先へ移った。
「昨日は動かなかったけど、今は――」
「痛むなら、無理に動かさなくていいよ。お医者さんにも診てもらったんでしょう?」
「昨夜のうちにな。今朝は飯も作ってた」
岸辺の返事を聞き、マキマは紙へ短く書き込んだ。少女は開きかけていた手を鞄へ戻す。
「昨日のこと、少し聞いてもいいかな。悪魔に噛まれたあとは覚えてる?」
「噛まれたところまでは。その次は、岸辺が目の前にいました」
「目が覚めて、すぐに話せた?」
「最初は咳が出て……息を吸おうとすると、また咳が出るから」
話しているうちに、喉の奥が狭くなった気がした。唾を飲み込み、息を整える。その間もペンが紙を擦る音は続いていた。
「少ししたら、喋れました」
「前にも、同じことはあった?」
「息ができなかったことですか。それとも、死んだこと?」
ペンが止まった。
隣で椅子が鳴り、少女は岸辺を見た。座り直しただけらしく、こちらへ顔は向けていない。
「目が覚めたあとのこと」
マキマの声に、少女は視線を戻した。
「毎回、同じように身体が治るのかなと思って」
「怪我をした場所で違います。すぐ歩けたときもあるし、立とうとしても脚に力が入らないときも……眠っている間のことは、見ていた人に聞かないと分かりません」
「うん。覚えていることだけでいいよ」
鞄の持ち手を握っていた指を緩めた。昨日のことなら岸辺に聞ける。もっと前のことになれば、誰に聞けばよいのかも分からなかった。
マキマが一枚めくり、次の紙へ手を添える。
「昔はできなかったのに、今はできることはある?」
「ナイフは、前より使えるようになったと思います。岸辺には、まだ――」
「訓練したこと以外ではどうかな。傷が治るまでの時間とか、持ち上げられる物の重さとか」
少女は口を閉じた。そういうことなら、答えを考え直さなければならない。
「同じ物を持ったわけではないから、分かりません。時間も、測っていなくて」
岸辺を見ても、答えは足されなかった。マキマは今の返事を書き留め、紙を脇へ置く。
「今度、気づいたら教えてね。仕事をお願いするときにも、知っておきたいから」
「昨日のを仕事に数えるなよ」
岸辺が口を開いた。
「頼んだことを放り出して、勝手に俺の方へ来たんだ」
「報告は読みました」
マキマは頷き、少女へ顔を向ける。
「先生が危ないと思ったんだよね」
「避けられるとは思わなかったんです。呼んでいる間に噛まれたら……それなら、私が動いた方が」
「昨日も聞いた」
少女は鞄の縫い目をなぞっていた指を止めた。
マキマは書類の端を揃えている。言い直すべきか考えていると、その手が止まり、目が合った。
「助けようとしたんだね。でも、先生が頼んでいた方は、途中になってしまった」
「……はい」
「今日は、そのあたりも教えてくれる人を紹介するよ。困ったとき、一人で決めなくて済むようにね」
少女が隣を見ると、岸辺は机上の書類を見たまま、話はしてある、と答えた。
*
次に渡されたのは、名前や住所を書く用紙だった。
今住んでいるところでよいと言われ、覚えた番地を一つずつ書いていく。途中で岸辺の指が伸びてきたので、数字を直して次の欄へ進んだ。
生年月日。
ペンを浮かせたまま見ていると、隣から声がした。
「そこはあとで確認する。空けとけ」
一つ飛ばすと、今度は緊急連絡先だった。
「ここも岸辺?」
「ああ。番号は俺が書く」
用紙を寄せると、岸辺は横から電話番号を書き込んだ。少女の字より小さく、最後の数字だけ少し潰れている。目で追って覚えようとしているうちに、紙が戻ってきた。
公安へ通い、指定された訓練や仕事に参加すること。身体に変化があれば報告すること。
マキマの説明を聞きながら、少女は自分で書いた住所を見た。
「住むところは、今のままですか」
「その方がいいんでしょう? 先生とは話してあるよ」
「はい。それがいいです」
思ったより早く返事が出た。
岸辺は差し出されたペンを受け取っている。何も訂正されなかったので、少女も記入を終えた用紙を机へ置いた。
マキマの指が文字を辿り、空白の欄を通り過ぎる。そのままほかの書類へ重ねられた。
「明日のことは、外にいる二人から聞いてね。先生とは、もう少しお話があるから」
マキマは説明の要点を記した紙を一枚取り、少女へ差し出した。
「これは明日、持ってきてくれる?」
「はい」
紙を受け取り、鞄を持って立ち上がる。隣を見ると、岸辺はまだ座ったままだった。
「廊下にいるわ」
「ああ。そこで待ってろ」
扉を閉める直前、マキマが新しい書類を広げた。
上端に、見覚えのある文字が並んでいる。一文字目を追ったところで岸辺の肘に隠れ、その先を読めないまま扉が閉まった。
少女は取っ手へ手を残した。戻れば、まだ机にあるだろうか。
「終わった?」
窓際から声がした。
片目を眼帯で覆った女が、こちらへ手を上げている。緩めたネクタイの隣には、襟元まできちんと整えた男。少女の手元を見てから、顔へ視線を移した。
「私は姫野。こっちは早川アキ君。師匠にね、明日ちょっと付き合ってやってくれって頼まれてるんだけど。聞いてる?」
「二人に教わるって、さっき。何をするのかは、まだ」
「まず動きを見せてもらう。普段使ってる武器は?」
アキに尋ねられ、少女は取っ手から手を離した。
「ナイフ。自分のを持ってくればいい?」
「ああ。ほかに使えるものは」
「投げるものなら、少し。あとは岸辺に――」
「はいはい、アキ君。続きは明日でもいいでしょ。この子、今まで面談してたんだよ」
姫野が割って入り、少女は答えかけた口を閉じた。アキも黙ったが、明日の支度は今日のうちにしておかなければならない。
「着替えも要るかしら。汚れるなら、持ってきたいわ」
「一組あればいい。どこまでやるかは、明日見てから決める」
姫野が壁へ肩を預け、ふっと笑った。
「そっちも続けるんだ。ま、準備がいいのは助かるけど」
「ほかにも用意するものがある?」
「ん〜、じゃあ、よく寝てくること! アキ君、こうやってあれこれ聞くから、眠いと大変だよ」
「必要なことしか聞いてませんよ」
「そう? じゃ、もう足りた?」
アキは軽く息をつき、少女へ集合の時間と場所を伝えた。今度は姫野も口を挟まず、聞き終えるまで待っている。
「場所が分からなければ、受付で俺か先輩の名前を出せ」
「早川と、姫野ね」
「そうそう。師匠の名前を出すと、そっちへ連れていかれちゃうからね」
少女は窓の位置を確かめた。受付から曲がった角は二つ。明日は岸辺の背中を追わなくても、ここまで来られるだろうか。
「ところで、それ。持って帰る紙?」
姫野に指され、手元を見る。
「明日、持ってくるようにって」
「なら、しまっときな。さっきから折り目が増えてるよ」
握っていたところだけが細くなっていた。端を伸ばし、鞄へ滑り込ませていると、後ろの扉が開く。
岸辺が三人を見回した。
「もう話したのか」
「挨拶と、明日の支度を少々。師匠こそ、ずいぶんかかりましたね」
「書くものが増えた。明日は頼むぞ」
アキが返事をし、姫野は壁から肩を離した。
「じゃあ、また明日。朝ご飯は食べてきてね」
「ええ。二人も、朝からここに?」
「いるよ。先に着いたら、そこで待ってて」
示されたのは、今、姫野が立っていた窓際だった。
少女はその場所を見た。椅子はないが、廊下を通る人の邪魔にはならない。ここに立っていれば、二人が見つけてくれる。
「また明日」
顔を上げて言うと、姫野がもう一度手を振った。
*
玄関へ向かう途中で、岸辺に昼飯をどうするか聞かれた。
朝通ったパン屋には、卵を挟んだものが並んでいた。名前は見ていないが、場所なら覚えている。説明すると、岸辺は時計へ目をやり、寄っていくかと言った。
「岸辺もあれにする?」
「朝も卵だったろ」
「あっちのは崩れていなかったわ」
「見てから決める」
受付の前で、少女は一度振り返った。奥の廊下から姫野たちが出てくるかと思ったが、行き交うのは知らない人ばかりだった。
「忘れ物か」
「明日は、ここで二人の名前を言えばいいのよね」
「さっき言われただろ」
「覚えてるわ。確かめただけ」
鞄を持ち直すと、中で紙が擦れた。明日持ってくるものは、これとナイフと着替え。帰ったら、忘れないうちに揃えておこう。
庁舎を出ると、朝より日が高くなっていた。
パン屋は来た道の途中にある。岸辺が角を通り過ぎかけたので、少女はコートの袖を引いた。
「こっちよ。さっき通ったでしょう」
岸辺は看板を見つけると、何も言わずに曲がった。少女も隣へ並び、硝子越しに棚を覗く。
卵のパンは、まだ二つ残っていた。