不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第二十七話 明日もある
帰宅してから、少女は手帳に挟んだ紙をもう一度取り出した。番号を確かめ、そのまま上着のポケットへしまったので、夕飯のあいだもそこに入っていた。
食卓へ置くと、汁を飛ばすかもしれない。そう思ってしまったのに、座るたびに折れていないか気になり、少女は箸を持っていないほうの手で何度も布の上から押さえていた。
岸辺が向かいで酒を飲んでいる。帰宅したときには新聞を読んでいて、買ってきた卵を冷蔵庫へ入れても、いつもどおり台所から声がした。
何も変わっていない家へ帰ってきたことが、今日は少し不思議だった。
「あのね。今日、知っている人に会ったの」
岸辺は杯を口から離した。
「どこで」
「デンジに連れていってもらった喫茶店。そこで働いていたわ」
少女は箸先についた米を取り、茶碗の縁へ戻す。先に食べてしまえばよかった。口に入れるには話を止めなければならず、戻した米も気になって、次の言葉がなかなか出てこない。
岸辺は急かさず、小鉢の漬物を一つ取った。
「レゼという子よ。施設で、一緒にいたの」
箸が小鉢へ戻った。
少女はポケットから紙を出し、食卓の乾いたところへ広げる。何度も確かめた数字なのに、岸辺の側へ向けると、初めて見せるもののように頼りなく思えた。
「鼻歌が聞こえて、それで分かったの。顔は少し変わっていたけれど、向こうも私を覚えていたわ」
「名前を呼ばれたのか」
「リンって。私が名乗る前に」
岸辺は紙を持ち上げず、書かれた番号と店の名前を読んだ。
嬉しかったところを話したかったのに、順番に確かめてもらう話になっている。少女は茶碗を置き、膝の上で両手を重ねた。
「明日も会う約束をしたの」
「そうか」
「行ってもいい?」
岸辺がようやく顔を戻した。
「俺が駄目だと言ったら、どうする」
「理由を聞くわ」
「聞いてから?」
「それは、理由によるでしょう」
少し強くなった声が、自分でも耳に残った。岸辺は怒らず、杯を食卓へ戻す。
「だったら、最初からそう言え。もう約束してきたんだろ」
少女は紙の角を指で伸ばした。
駄目だと言われたくなかった。けれど、黙って会い続けるのも嫌だった。どちらも叶えるための聞き方を探していたのだと気づくと、今さら言い直すのが難しい。
「会いたいの。明日も、そのあとも」
「帰りが遅くなるなら連絡しろ」
「それだけ?」
「店の場所も書いとけ」
岸辺は新聞の下から鉛筆を抜き、少女へ渡した。
紙の余白に、駅と曲がり角を描く。喫茶店の前には小さな看板があり、その隣に鉢植えがあったはずだ。描き足していると、岸辺の指が駅から店へ続く道を押さえた。
「向こうでは、何をしてた」
「レゼが?」
「一緒にいた頃だ」
少女の鉛筆が止まる。
毛布を半分ずつ使ったこと。足音が近づくと、レゼが先に歌をやめたこと。壁へ耳をつけている横顔を覚えているのに、昼間どこへ連れていかれていたかは知らない。
「夜に会うことが多かったわ。いつも同じ部屋にいたわけではないから」
「日本へ来た話は聞いたか」
「まだ。私も、岸辺と暮らしていることくらいしか話していないの」
鉛筆を置いてから、少女は付け加えた。
「思い出したくないことも、あるでしょう」
岸辺はしばらく黙っていた。台所の冷蔵庫が低く鳴り始め、少女はその音の中で返事を待つ。
「お前が聞き出す必要はない」
「岸辺は調べるの?」
「ああ」
「会ったばかりなのに」
「だからだ」
それ以上、岸辺は説明しなかった。
少女は紙を畳もうとして、まだ渡していないことに気づいた。店の場所を書いた部分だけ切り離せればよかったが、番号まで同じ紙にある。迷っていると、岸辺が手帳を出し、自分で写し始めた。
「取らんよ」
「そういうつもりではないわ」
「じゃあ、飯を食え。さっきから米を一粒いじってる」
茶碗の縁に、まだ残っていた。
少女はそれを箸で取り、今度こそ口へ入れた。岸辺の鉛筆が止まるまでに、冷めかけた御飯も半分ほど減っている。
返された紙をポケットへしまうと、ようやく両手が空いた気がした。
*
翌日、仕事は思っていたより二十分早く終わったので、少女はその足で喫茶店へ向かった。
早すぎると思い、少女は角の手前で一度立ち止まった。別の店を覗いてから来てもよいのだが、そのあいだにレゼが出かけてしまったら困る。昨日は仕事が終わる頃に、としか聞いていない。
結局、扉を開けた。
「いらっしゃ――あ、リン!」
カウンターで布巾を絞っていたレゼが、手を止めた。
昨日と同じ声だった。エプロンも、髪を留めたところも、花の入った瓶もある。少女は扉の取っ手を離し、鞄を抱え直す。
「早かったかしら」
「ううん。私がまだ終わってないだけ。座っててよ、もう少しだから」
「手伝えることはある?」
「お客さんに働いてもらったら、私が怒られるよ」
奥にいた店主が、少女へ軽く頭を下げた。
「急がなくていいからね。そこの席、空いてるよ」
少女は昨日と同じ椅子へ座った。レゼがコップを運んできたので、鞄を隣へ移して場所を空ける。
「今日はデンジ君と一緒じゃないんだ」
「仕事が長引くかもしれないって。間に合ったら来るそうよ」
「そっか。じゃあ、二人で先に食べちゃおうかな」
「昨日のお菓子?」
「そう。残してあるよ」
残してある。
その言葉が嬉しくて、少女は水を飲む前に笑ってしまった。レゼもつられたように口元を緩めたが、呼ばれるとすぐにカウンターへ戻っていく。
少女はその背中を、今日は立ち上がらずに待った。
*
休憩に入ったレゼは、エプロンを畳みながら店主へ声をかけた。
「少し出てきます。夕方には戻るね」
「気をつけて」
「行こう、リン。ずっと座ってたら、お腹空かないでしょ」
少女は鞄を取り、レゼの後ろから外へ出た。
どこへ行くのか聞く前に、レゼは右へ曲がっている。少女が追いつくと、歩く速さが少し落ちた。肩が触れそうで触れない距離を、二人で並ぶ。
「買いたいものがあるの?」
「石鹸。そろそろなくなるから。リンも何かある?」
「糸は昨日買ったし……今日は、特に」
「じゃあ、私のを選んでよ。種類が多くて、いつも同じのにしちゃうんだ」
店先には、箱入りの石鹸が積まれていた。
白い箱と桃色の箱をレゼが一つずつ持ち、少女の鼻先へ寄せる。箱に入ったままではよく分からず、少女は少し顔を近づけた。
「こっちのほうが甘い匂いね」
「お菓子みたい?」
「食べたいとは思わないわ」
「そこまでは聞いてないよ、ふふっ」
レゼが笑い、桃色の箱を籠へ入れる。少女は白いほうを棚へ戻したあと、値札を確かめた。二つで少し安くなるらしい。
「もう一つ買う?」
「使い切ってからでいいかな。荷物も増えるし」
返事は何でもない調子だった。
少女は頷いたが、棚へ戻した指だけが少し遅れた。石鹸を二つ置いておける場所はあるのだろうか。聞こうとして、鞄の紐を握り直す。昨日会ったばかりなのに、暮らしの隅まで確かめられたら、レゼも困るかもしれない。
「リンは、今どんな部屋で寝てるの?」
先に尋ねられ、少女は顔を戻した。
「ベッドが一つと、机があるわ。棚は、岸辺が使っていたものを空けてもらったの」
「一人の部屋?」
「そうよ」
「へえ〜。じゃあ、寝る前まで電気つけててもいいんだ」
少女は少し考えた。
「つけたまま寝てしまうと、岸辺が消すわ」
「怒られる?」
「朝、言われるの。電気代を払うかって」
「あははっ。払ってるの?」
「今のところ、請求されていないわ」
レゼは笑いながら財布を開いた。
会計を済ませる指を眺めているうちに、少女の口から言葉が出る。
「今度、来る?」
小銭をしまう手が止まった。
「家に?」
「岸辺には先に聞くけれど。お茶くらいなら、私が淹れられるわ」
レゼは財布を閉じ、買った石鹸を袋へ入れた。すぐ返事が来なかったので、少女は鞄の持ち手を握り直す。
「無理にではないのよ」
「うん。今日は、お店に戻らないと」
「今日でなくてもいいわ」
「じゃあ、また今度。リンの部屋、見てみたいし」
店を出ると、レゼが少女の袖を軽く引いた。
「あっちも寄っていい? 髪留めがある」
少女は引かれたほうへ歩きながら、さっきの返事をもう一度頭の中で繰り返した。
また今度。
いつかを決めるのは、今日はやめておいた。
*
レゼは赤い髪留めと青い髪留めを、自分の頭へ順番に当てた。
「どっち?」
「もう少し横につけてくれる? そこでは髪が留まらないでしょう」
「似合うか聞いてるんだけどなあ〜」
言われて、少女は慌てて顔のほうへ注意を戻す。レゼは笑って赤を戻し、青いほうをもう一度当てた。
「これなら?」
「そちらが好きだわ」
「じゃあ、こっち」
あまりにすぐ決まったので、少女はもう片方を確かめた。
「赤も、似合わないわけではないのよ」
「うん。でも二つは要らないから」
店先の小さな鏡を借り、レゼは買った髪留めをつけた。後ろが引っかかっているので少女が手を伸ばすと、鏡の中で二人の顔が並ぶ。
少女の指が、一瞬止まった。
昔は、こんなふうに並んでも同じ高さではなかった。もっと低いところからレゼの手元を覗き込み、邪魔だと言われないよう首だけを伸ばしていたはずだ。
「痛かった?」
「ううん。どうしたの?」
「少し、髪が挟まっているだけ」
細い束を抜いてやると、留め具がきちんと閉じた。
レゼは鏡を傾け、横からも確かめている。気に入ったらしく、指先で一度触れてから、少女へ振り向いた。
「変じゃない?」
「変なら、先に言うわ」
「本当かなあ。リン、昔は何でもいいって言ってたじゃん」
少女は言い返そうとして、やめた。
そうだったかもしれない。選べるものがあっても、自分が先に決めてよいのか分からず、レゼの手が伸びるまで待っていた。
「今は、そうでもないわ」
「じゃあ、今度はちゃんと聞かせてもらおうっと」
レゼが先に歩き出したので、少女もその隣へ戻る。喫茶店へ向かう道では、二人の袖が何度か擦れた。
*
店には、もうデンジがいた。
窓際の席で頬杖をつき、二人が入ると大きく身体を起こす。前には空の皿と、半分ほど残ったコーヒーが置かれていた。
「おっせえ! どこ行ってたんだよ」
「買い物。デンジ君、仕事は?」
「終わった。そんで来たら、二人で出かけたって言うじゃん」
「お菓子、もう食べたのね」
少女が空いた皿へ鞄をぶつけないよう椅子を引くと、デンジは皿を自分の側へ寄せた。
「待ってたら腹減ったんだよ」
「では、私たちも食べましょう」
「おう。俺も、もう一個頼むわ」
「さっき食べたでしょう」
「それは待ってるときのだろ。今はお前ら来たじゃん」
レゼがカウンターの向こうで吹き出した。
「ごめん。今日は、あと二つ!」
「ええ〜!? もっと作っといてくれよ!」
「毎日デンジ君が二個食べると思ってなかったもん!」
運ばれてきた白い菓子の上には、赤いジャムが少しずつ載っている。
少女はスプーンで端をすくい、わざとゆっくり口へ運んだ。向かいからデンジの不満そうな声がする。
「お前、今わざとやってんだろ」
「味を確かめているのよ」
「さっき俺の顔、見たじゃん」
「欲しそうにしているから」
レゼが自分の皿を少しだけ中央へ寄せた。
「ひと口ならあげるよ」
「マジ?」
「デンジ。大きく取りすぎないでね」
少女が言い終えるより早く、デンジのスプーンが皿の上で止まった。最初に狙った場所から、少し端へ戻る。
レゼはそれを見て笑っていた。
少女も自分の皿へスプーンを戻した。明日は三つで足りるのだろうかと考えながら、残ったジャムを白いところへ広げる。
まだ、半分以上あった。