不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第二十九話 覚えているところまで
岸辺は、食卓へ置いた封筒を開ける前に、醤油差しを端へ寄せた。
少女は向かいの椅子へ座り、膝に載せていた鞄を床へ下ろす。帰りに買ったパンが潰れないよう横に倒すと、岸辺の手が止まった。
「食うなら、先に食え」
「あとでいいわ。夕飯まで食べられなくなるもの」
「そうか」
封筒から出てきたのは、文字の薄い複写だった。日本語の紙が一枚ずつ重ねられ、端には細い付箋がついている。
少女は最初の一枚にある数字を読んだ。
日付より先に、自分につけられていた番号が分かった。
「また、見つかったの?」
「ああ。明日、マキマがお前に話を聞きたいと言ってる」
「何の話?」
「お前の血を、別の奴に飲ませたときのことだ」
少女は紙へ手を伸ばしかけ、食卓の縁へ戻した。
白い容器を覚えている。口をつける部分だけ少し厚く、その下へ指をかけると持ちやすかった。床へ落としたときには割れず、遠くまで転がったはずだ。
何を聞かれるのか考えていたのに、浮かんだのはそんなことだった。
「私が死んだときの話ではないのね」
「別の記録だ。日が近いものもあるが、同じことを調べてたわけじゃない」
岸辺は重ねた紙をずらし、二つの日付を示した。少女が身を寄せても、先へめくろうとはしない。
「覚えていないところもあるわ」
「そこを埋めろとは言ってない」
「でも、聞かれたら、思い出すでしょう」
「ああ」
短い返事のあと、岸辺が紙から手を離した。
少女は膝の上で指を組んだ。行きたくないと言うほどではない。自分の知らないことが書かれているなら、読みたいとも思う。ただ、明日のことなのに、もうあの部屋の匂いがするのが嫌だった。
「岸辺も、一緒にいてくれる?」
「そのつもりだ」
すぐに返ってきたので、用意していた理由が余った。
少女は鞄を足元へ引き寄せ、紙袋からパンを出した。岸辺が書類を少し遠ざける。
「食うんじゃねえか」
「半分だけにするわ」
袋の口を開けたが、うまく二つに割れなかった。中のクリームが片側へ寄ってしまい、少女はしばらく両手の大きさを比べる。
岸辺は何も言わず、空いている皿を寄せた。
*
マキマの部屋には、少女の分の椅子も用意されていた。
岸辺は隣へ座り、昨日の封筒を膝に置く。マキマの机にも同じ紙が並んでいたが、少女の前へ押し出されることはなかった。
「今日は、覚えていることを聞かせてください。記録と違っていても構いませんよ」
「どうして、今なの?」
「新しい資料が届いたからです。それと、治療に使える可能性を確かめたいんです」
少女は椅子の背から身体を離した。
「誰の治療?」
「早川君です。あの刀の契約で、寿命を失っていることは知っていますね」
知っている、と答えるまでに少し間が空いた。
病院を出てきたアキは、自分で歩いていた。今は仕事にも戻り、夕飯を作り、デンジたちに怒っている。具合が悪そうに見える日がなければ、考えずに済んでしまうことだった。
「私の血で、戻るの?」
「まだ、そうとは言えません。ただ、以前あなたの血を飲んだ人に、処置の前とは違う状態が記録されています」
「どこが変わったの?」
「それを、あなたの覚えていることと照らし合わせたいんです」
岸辺が封筒から一枚抜き、机の空いているところへ置いた。
「結果が書いてあるだけだ。やり方まで分かったわけじゃない」
「ええ。今日は何も行いません」
マキマは少女へ向き直った。
「相手の人は、何をするのか分かっていましたか」
少女は口を開き、いったん閉じた。
椅子に座らされていた人がいる。自分より大きな手が容器を支え、縁へ血の筋がついていた。渡したときに何を話したかより、その人が飲むまで待たされたことのほうが、はっきりしている。
「私の血だとは、伝えたわ」
「何のために飲むのかも?」
「助けられると……そう言われていたから」
自分が言ったのか。そばにいた大人の言葉を、繰り返しただけなのか。
少女はそこを考え始め、机の角へ指を添えた。
「ごめんなさい。どちらが先に言ったのか、分からない」
「順番は、今はいいですよ。その人は自分で飲みましたか」
頷こうとして、少女は手元の容器を思い出した。誰かが持っていた。それは確かなのに、最後まで相手の手だったかどうかが出てこない。
「私が、飲ませたかもしれないわ」
「口を押さえた?」
「そうではなくて。持てなかったから、支えて……でも、そのあとが」
途中で、岸辺の手が紙を裏返した。
「そこまでだ」
「まだ話せるわ」
「今、紙に書いてあるほうへ合わせようとしてた」
少女は反論しかけたが、さっき読んだ訳文の一行が頭に浮かんだ。
自発的に摂取。
その言葉を読んでから、自分もそうだった気がしていた。
マキマはペンを置き、机の脇から水を差し出した。
「飲んだあとのことは覚えていますか。あなたが確かに覚えているところだけで」
少女はコップを両手で受け取った。
「あの人が起きたの。前より、喋れるようになっていたと思う」
「そのとき、あなたはそばにいましたか」
「起きたあとには。でも、ずっとではないわ。私も、途中で眠ってしまったから」
岸辺が隣で姿勢を変えた。椅子が小さく鳴る。
眠ってしまった。
昔も、そう言われた気がする。だから自分も、同じ言葉を使ってきた。けれど、眠るつもりで横になった覚えはなかった。
「目を開けたときには、別の場所にいたわ」
「身体で、いつもと違ったところは?」
「寒かった。手を動かそうとしても、うまく……」
少女はコップを机へ置いた。水はまだ減っていない。
傷のことを思い出そうとすると、何度も違う日の腕が浮かんだ。巻かれた布の厚さも、痛む場所も同じではない。どれを話せば、早川を助けることに繋がるのだろう。
間違ったものを渡したら。
「今日は、これだけでも十分です」
マキマの声に、少女は顔を戻した。
「早川は、この話を知っているの?」
「詳しい方法は、まだ伝えていません」
「では、治せると言わないでほしいの。私にも、まだ分からないから」
「分かりました」
返事があまりに滑らかで、少女は次に何を言えばよいか分からなくなった。
岸辺が紙を封筒へ戻している。その手を追ってから、少女はもう一度マキマへ尋ねた。
「もし思い出しても、すぐにやるわけではないのよね」
「二人に話してから決めます」
「俺にもな」
岸辺が付け足すと、マキマはそちらへ小さく頷いた。
少女はようやく水を飲んだ。両手で持つほど冷たくも重くもないコップだった。
*
廊下へ出ると、窓際にアキがいた。
書類を片手に持ち、空いたほうで自動販売機の釣銭を取っている。少女に気づくと缶を持ち上げたが、顔を確かめたところで、その手が下がった。
「何かあったのか」
「早川に、聞きたいことがあるの」
岸辺は少し先で足を止めた。
「俺は下にいる」
少女が返事をする前に、彼は階段へ向かっていた。アキは書類を脇へ挟み、通行の邪魔にならないよう窓の端へ寄る。
「マキマさんから聞いたの。寿命のこと」
缶の蓋は、まだ開いていなかった。
アキは少女の背後にある扉を一度確かめ、それから廊下の空いた椅子を示した。
「座るか」
「私は立っていられるわ」
「俺もだ」
それなら、どうして椅子を勧めたのだろう。そう考えたところで、少女は自分が鞄の紐を両手で握っていることに気づいた。
指を離しても、曲がったところがすぐには伸びない。
「あと、どのくらいなの?」
「二年だと言われた」
アキは言い直さなかった。
少女は彼のシャツの襟を見つめた。昨日と同じように揃い、ネクタイも曲がっていない。この人が二年先にはいないと言われても、どこを確かめれば分かるのだろう。
「姫野は?」
「知ってる」
「そう」
自分だけ知らなかった、と言いそうになり、少女は唇を閉じた。
教えてもらえば、何かできただろうか。それを今、探しているところなのに。
「私の血を使えるかもしれないんですって。昔、ほかの人に飲ませたことがあるから」
「お前は、どうなった」
「そこを、よく覚えていないの」
「なら、先にそっちを調べろ」
アキは缶を窓枠へ置いた。
「今、何かしてくれと言ってるわけじゃない」
「でも、知らなかったことにはできないわ」
「知っておいてくれればいい」
少女は、少し腹が立った。
知っているだけでは、二年は延びない。何も変わらないことを、よいことのように言わないでほしかった。
けれどアキは、自分の袖口を留め直している。少女の返事を急かすでもなく、困った顔をして助けを求めるでもない。
「調べるわ。覚えているところを、ちゃんと」
「ああ」
「治せるとは、まだ言えないけれど」
「聞いた」
そこで缶の蓋が開いた。
少女は音に肩を少し揺らし、アキは口へ運ぶ前に、持ち上げた缶を止める。どちらも謝らなかった。
「下で岸辺が待っているの。行くわね」
「気をつけて帰れよ」
いつもと同じ言葉だった。少女は一歩進んでから戻り、言い忘れたことを口にする。
「明日も来るわ」
「仕事だろ」
「それは、そうだけれど」
アキの口元が少しだけ動いた。
「じゃあ、また明日な」
*
その夜、少女は机へ紙を一枚広げた。
覚えていることを書こうとして、日付のところで手が止まる。岸辺に聞いた数字なら書けるが、自分が覚えているわけではない。
日付を空け、白い容器の絵を描いた。
その隣に、寝台。起きたとき、上へ掛けられていた布。誰かが手を握っていた気もするが、それを描き足すのはやめておく。
窓の外で車が止まり、扉を閉める音がした。
少女は鉛筆を置いた。
レゼなら、知っているだろうか。
喫茶店で笑っていた顔が浮かぶ。あそこへこの紙を持っていくと、レゼも同じ部屋を思い出すことになる。自分に会ったせいで、また。
机の端には、店の電話番号があった。
少女は二枚の紙を離し、描きかけのほうだけを裏返した。