不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話   作:@taka

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第三十話 夜の授業

第三十話 夜の授業

 

 喫茶店の扉に手をかける前に、デンジは一度、胸のあたりを押さえた。

 

 自分の心を見つけてくれたのはマキマだ。だから、これはマキマだけのもの。そのことは分かっているし、映画を見た日のことだって忘れていない。

 

 それなのに、今日もここまで来てしまった。

 

 昼飯を食うだけなら、ほかにも店はある。もっと近いところにも、もっと安いところにも。そう考えながら扉を開けると、本から顔を上げたレゼが笑った。

 

「あ、お客様だ!」

 

 もう、入ってよかった気がした。

 

「昼、食いに来た」

「一週間も続けて来るほど、おいしくないでしょ、ここ」

 

 デンジは席へ腰を下ろし、メニューを開いた。

 

「うまいよ?」

 

 カウンターの中から、マスターも同じように言う。

 

「おいしいよ」

「バカ舌」

 

 レゼは小さく舌を出してから、本へ目を戻した。悪口を言われたはずなのに、追い返されている感じは少しもしない。

 

 デンジはメニューを眺め、食いたいものから順に指を移した。

 

「そうだなあ……カレーと、アイス。あ、あとチャーハン!」

 

 注文を聞いたマスターが奥へ引っ込むと、レゼが頬杖をついた。

 

「こっちの机で食べないですか、お客様~」

「いいよ。勉強中だろ? 店員のくせによ」

「君は学校行ってないだろ~? 十六歳のくせによ」

 

 同じ調子で返され、デンジはメニューの上から顔を出した。

 

「そっちのほうがヤバいと思いますけどねえ」

「そうかなあ……そうかあ?」

「学校行かないでデビルハンターなんて、珍種だよ、珍種」

 

 そんなに変なことなのか。

 

 考えているうちに、レゼは本と筆記具を抱えて立ち上がった。こちらへ来るなり腰を屈め、座面を指で示す。

 

「こっちで勉強しよ~と。そっち詰めて、詰めて」

 

 デンジは窓のほうへ尻をずらした。

 

 向かいも空いているのに、隣だった。レゼは何でもない顔で本を開き直し、転がりかけた鉛筆を指で止める。

 

「今日はリンと一緒じゃないんだね」

「あいつは別の仕事じゃねえの。今日は会ってねえし」

「そっか。昨日も忙しかったのかな」

 

 ページの端へかけた指が、そこで止まった。

 

 デンジはその横顔を見た。リンの話をしに来たわけではないが、心配しているところへ別の話を始めるのも違う気がする。

 

「来たら聞けばいいじゃん」

「うん。そうだね」

 

 レゼは頷き、今度こそページをめくった。

 

 並んだ文字を眺めていると、知っているものより知らないもののほうが多い。デンジは頬杖をつき、目についた一行を指で辿った。

 

「……漢字は読めるようになりたいかな」

「漢字、読めないの!? じゃあ教えてあげる!」

 

 レゼが紙を一枚引き寄せた。

 

「問題、ジャジャン! これは何と読むでしょう?」

 

 鉛筆の先が動き、二つの漢字が並ぶ。

 

「キンタマだろ! エロ女!」

「なんだ、分かってるじゃん!」

「唯一、キンタマだけは読めるんだよ!」

「あはははは! なんじゃそりゃ!」

 

 レゼは鉛筆を置き、口元を押さえた。それでも笑いが止まらず、肩まで揺れている。

 

 デンジはその様子を見ていた。別に面白いことを言おうとしたわけではないのに、こんなに笑う。間違えたところを怒られるより、ずっといい。食事が来るまで、デンジは教わった字を紙の余白へ書き写した。

 

「レゼとなら学校行きたかったな。なんか楽しそうだし」

 

 口にしてから、少し遅れて意味が追いついた。

 

 何言ってんだ、俺は。

 

 レゼの笑い声がやみ、こちらを見る目がわずかに大きくなる。デンジがメニューへ視線を逃がそうとすると、彼女は顔を寄せてきた。

 

「行っちゃいますか? 夜」

「夜?」

「一緒に夜の学校、探検しよ?」

 

 近すぎて、うまい返事を考えられなかった。

 

「……します」

 

 心はマキマさんのものなのに。

 

 そう思った時には、レゼが満足そうに笑っていた。

 

     *

 

 夜の校舎には、窓の明かりが一つもなかった。

 

 靴箱の前を通り、階段の横を抜けると、自分たちの足音だけが廊下へ伸びていく。壁に貼られた紙も、教室の札も、昼なら何でもないものなのだろうが、デンジにはその昼の様子が分からない。

 

「デンジ君、怖くないの?」

「あ~……怖いっつうか、変な感じっつうか」

「なんじゃそりゃ」

 

 レゼが笑った。

 

 そのまま隣へ並ぶと、少しだけ声を落とす。

 

「少し怖いから、手、繋いでいい?」

 

 断る理由を考えるより先に、指が触れた。

 

 デンジは前を向いたまま歩いた。暗いから手を繋いでいるだけだ。はぐれたら困るし、怖いと言っているのを放っておくわけにもいかない。

 

 頭の中でマキマへ言い訳をしながら、手だけはしっかり握り返す。

 

 三年B組の前で、レゼが足を止めた。

 

 教室には机と椅子が整然と並び、窓から入る光が端の列だけを薄く照らしている。デンジが席へ座ると、レゼは黒板の前へ回り、チョークを手に取った。

 

「では、この問題、解ける人!」

 

 一足す一。

 

「はい! はい! 二! 二!」

「正解! 天才!」

 

 両腕を上げたデンジに、レゼがチョークを向ける。

 

 たったこれだけで天才になれるのだから、学校というのは案外悪くない。次に書かれた英語にはさっぱり見覚えがなかったが、デンジは構わず手を上げた。

 

「はい! 知らねえ!」

「正解はデカケツでした」

「エロ女!」

 

 レゼは答えを教え、その意味まで得意げに言った。昼と似たようなふざけ方だったので、デンジも同じように言い返し、二人で笑う。

 

 黒板の前にいるのは先生で、自分は教わる側。それだけのことが、妙に面白かった。

 

「はあ~……学校ってこんな感じなんだな。だいたい掴めてきたぜ」

 

 机へ両肘をつき、頬を挟む。

 

 レゼは笑いながらチョークを置いたが、振り返った時には、少し違う顔をしていた。

 

「デンジ君って、本当に小学校も行ってないの?」

「あ? うん」

 

 驚かれるほどのことでもないので、デンジはそのまま頷いた。

 

 ところが、レゼはすぐには次の問題へ進まない。

 

「それってさ……なんか、ダメじゃない?」

「ダメ?」

「ダメっていうか……おかしい」

 

 十六歳なら、まだ子供だとレゼは言った。受験勉強をしたり、部活を頑張ったり、友達と遊びに行ったりするのが普通なのだという。

 

 デンジは机の端を指で擦った。

 

 友達と遊ぶのは分かる。受験や部活は、言葉を聞いても今ひとつ想像がつかなかった。

 

「それなのにデンジ君は悪魔を殺したり、殺されそうになったり……今いる公安っていう場所は、本当にいい場所なの?」

「まあ、すげえいいとこだぜ? 一日三回食えるし、布団で寝れるし」

「それって日本人として最低限の……当たり前のことだよ?」

 

 デンジは口を開きかけ、いったん閉じた。

 

 当たり前と言われても、前はそうではなかった。毎日食えて、風呂にも入れて、雨が降っても寝床が濡れない。十分いい暮らしだと思うのに、レゼの話を聞いていると、それだけでは足りないような気がしてくる。

 

「う~ん……」

 

 机に載せた腕へ顎を預けた。

 

「考えすぎて頭、熱くなってきた」

 

 レゼの口元が少し緩んだが、すぐに笑い出すことはなかった。隣の椅子を引き、デンジと同じ高さまで腰を下ろす。

 

「リンも、学校には行ってないの?」

「あいつが通ってるって話は聞かねえな」

「仕事は、デンジ君と同じ?」

「悪魔が出たら行くし、人が残ってりゃ逃がすし。まあ、同じじゃね」

「……そっか」

 

 レゼは机の上を見ていた。

 

 そのまま黙られると、何かまずいことを言ったような気になる。デンジは椅子の脚を少し鳴らし、続けた。

 

「あいつ、俺より先輩だぜ。知ってた?」

「先輩?」

「俺も最初、知らなかったんだけどよ。あんま偉そうにしねえし、服買う時なんか、ずっと迷ってるし」

「ふふっ。何を着るか決めるの、苦手なのかな」

「ラーメン屋はすぐ決まるぞ。聞いてもねえのに勧めてくる」

「緑色の?」

「お前も聞いたのかよ!」

 

 レゼが口元へ指を添えた。

 

「聞いた。まだ食べてないけど」

「気をつけろよ。おごるって言われても、普通の頼め。あいつ、断ると舌打ちすっからな」

「リンが?」

「するする。で、してないって顔すんだよ」

 

 笑いかけたレゼの顔が、途中で少し止まった。

 

 デンジは構わず、店でのリンの様子を真似てみせる。口を結び、何もしていないように窓へ顔を向けると、今度は本当に笑われた。

 

「そんな顔しないよ~」

「するって!」

「私の前では、まだしてない」

 

 レゼは笑い終えると、机の縁へ指を揃えた。

 

「前は、食べるものを選ぶことも、あんまりなかったから」

 

 デンジはレゼを見た。

 

 もっと聞こうと思えば聞けたが、彼女はその先を話さなかった。リンも昔の話はあまりしない。腹が減っていたということなら分かるので、デンジは自分の机へ向き直る。

 

「今は俺の食うもんまで選ぼうとするぜ」

「そうみたいだね」

 

 レゼは小さく息を吐いた。

 

「……ねえ。リンが無茶しそうになったら、止めてあげてね」

「俺が言ったって聞かねえ時あるぞ」

「それでも」

「言ってるよ。こっちがやろうとしてんのに、勝手に手ぇ出してきたりすっから」

 

 レゼがこちらへ顔を向ける。

 

「怒るの?」

「そりゃ怒るだろ。俺ができねえみてえじゃん」

 

 デンジは鼻の下を擦った。

 

 助けてもらうのが嫌なわけではない。けれど、任せろと言ったところへまで来られると、話が違う。

 

「今は言えば待ってるぜ。痛え時は痛えって言うし、先生の訓練も、無理な日は座って見てる」

「座ってていいんだ」

「怪我してんだもん。俺らが殴られてんの見てるだけってのは、ちょっとムカつくけどな」

 

 レゼは頷いた。

 

 何に納得したのかは分からなかったが、さっきより肩の力が抜けたように見える。

 

「気になるなら、来た時に本人に聞けよ」

「……うん。そうする」

 

 窓の外で、木の葉が擦れた。

 

 レゼはそちらへ目を向け、椅子から立ち上がる。教室にこもった熱気を確かめるように襟元を動かすと、デンジへ手を差し出した。

 

「じゃあ、少し頭、冷やしますか」

 

     *

 

 プールの水面には、校舎の影が長く落ちていた。

 

 レゼが水へ触れ、冷たいと笑う。その隣で、デンジは縁の先を覗き込んだ。

 

「俺、あんま泳げないんだよね」

「じゃあ教えてあげる。泳ぎ方」

 

 何でもないことのように言われた。

 

 レゼは泳ぐつもりで準備を始め、デンジは慌てて視線を外した。自分だけがいちいち驚いているようで落ち着かない。教室で問題を出されていた時よりも、何を言えばいいのか分からなくなっている。

 

 マキマのことを思い出してみても、隣から名前を呼ばれるたびに、考えがそちらへ引っ張られた。

 

 水音がして、レゼの声が響く。

 

「あはは! 冷たっ! デンジ君もおいでよ!」

 

 デンジは縁に立ったまま、両手を合わせた。

 

 ここで行ったら、心まで行ってしまいそうだった。

 

 泳ぎ方を教わるだけ。そう言い聞かせても、手を繋いだ時と同じ言い訳だと自分で分かる。

 

「ははあ~ん、分かった! さては泳げないから、プール怖いんだな!」

 

 その言い方で、迷っていた理由が急に変わった。

 

「うらあっ!」

 

 飛び込むと、思ったより大きな水しぶきが上がった。

 

 冷たさに息が詰まり、顔を出した途端、レゼの笑い声が聞こえる。デンジも息を吐き、濡れた前髪を額から払った。

 

「はっ、はは! 冷てえ!」

「ほら、手」

 

 差し出された手を取ると、レゼは少しずつ後ろへ下がった。

 

「デンジ君の知らないこと、出来ないこと、私が全部、教えてあげる」

 

 そんなことを言われては、断るものが思いつかなかった。

 

 ただ、言われたことと、すぐに出来ることは別である。

 

「デンジ君! 息継ぎ、息継ぎ!」

「げほっ! 先に言えって!」

「言ってるよ~!」

 

 底へ足を下ろすと、レゼは急かさず待っていた。呼吸を整えてからもう一度試すと、今度はさっきより少し先へ進める。

 

「そうそう! 今の感じ!」

「おお……分かってきたぜ」

 

 褒められたので、もう一度やった。

 

 上手くいけば笑ってくれるし、失敗しても手が届くところにいる。何度か水を飲んだが、それでもやめるのは惜しかった。

 

 顔を上げた時、頬に冷たい雫が当たった。

 

 レゼの跳ね上げた水かと思ったら、水面のあちこちに輪が出来始めている。

 

「あはっ、雨だ! 雨!」

「ギャー! 急に降りすぎだろ!」

 

 縁へ向かう二人の周りで、雨粒が次々と弾けた。

 

     *

 

 身支度を整えて教室へ戻っても、雨はいっこうに弱まらなかった。

 

 デンジは窓際の机へ腰を載せ、外を眺めた。向かいの校舎も、さっきまでいたプールも、雨に霞んで見える。

 

「やみませんねえ」

 

 レゼが隣で言った。

 

 デンジは頷いたが、今すぐやんでほしいかと聞かれると、少し迷う。

 

 明日になれば、ここには別の奴らが来る。自分が座った席にも誰かが座り、黒板へ向かって授業を受けるのだろう。今夜だけ使わせてもらった場所を眺めていると、レゼがこちらを向いた。

 

「デンジ君はさ、田舎のネズミと都会のネズミ、どっちがいい?」

「……何、それ?」

「イソップ寓話の一つだよ」

 

 田舎のネズミは安全に暮らせるけれど、食事は質素。都会のネズミはおいしいものを食べられる代わりに、人や猫に殺される危険がある。

 

 話を聞き終えたデンジは、ほとんど迷わなかった。

 

「俺ぁ都会のネズミがいいな」

「え~!? 田舎のネズミのほうがいいよ~。平和が一番ですよ」

「都会のほうがうまいもんあるし、楽しそうじゃん」

「君は食えて楽しけりゃいいのか?」

「ああ」

 

 レゼは少し黙り、窓へ顔を戻した。

 

 デンジも外を見たが、彼女が何を考えているのかは分からなかった。安全なところでまずいものを食べ続けるより、たまに危ない目に遭っても、うまいものを食いたい。

 

 少なくとも、前の暮らしへ戻りたくはなかった。

 

「リンは、どっちだろうね」

 

 レゼがぽつりと言った。

 

「あいつ? 食い物によるんじゃね」

「そこはデンジ君と同じなんだ」

「いや、あいつは危ねえって聞いたら、先に逃げ道とか調べそうだな。で、俺が先に食ったら怒る」

 

 想像すると、いかにも言いそうだった。

 

 待ってと言ったでしょう、と皿を取り上げられるところまで浮かび、デンジは顔をしかめる。

 

「ふふっ。目に浮かぶね」

「だから本人に聞けよ。勝手に決めると、また怒るぞ」

「うん」

 

 レゼは頷いてから、机へ両手をついた。

 

「じゃあ明日さ、近くでお祭りあるから、一緒に行かない? きっと楽しいし、おいしいよ」

「……仕事終わってからなら、いいよ」

「いえーい、やった! 約束ね?」

 

 そう言って笑った顔に、また胸が騒いだ。

 

「ちょっとおトイレ行ってきま~す」

 

 レゼが教室を出ていく。

 

 デンジはその背中を見送り、扉の向こうへ消れてからも、しばらく目を戻せなかった。

 

「超クソかわいい……」

 

 窓の外へ顔を向け、今度は目を閉じた。

 

 するとマキマの顔だけだったところへ、レゼが並んでしまう。

 

 どうしよう。二人になっちまったよ。

 

 頭の中のポチタへ、話しかけてみた。

 

 好きな人、もう一人出来ちまった。誰だと思う?

 

 天使のやつじゃねえぞ。あいつ、男なんだってよ。最初は分からなかったが、知ったのだからもう違う。

 

 コベニの顔も浮かんだ。地味にかわいいとは思うけれど、あいつには殺されかけた。思い出すと、顔より先にナイフのことが出てくる。

 

 パワーは、今でも時々こちらを殺そうとする。自分勝手で、嘘をついて、何かあれば全部人のせい。血抜きから戻ってきても、そこまで変わるとは思えなかった。

 

 それから、リン。

 

 あいつも違う。

 

 一緒に飯を食うのは楽しいし、顔だって悪くない。こちらを見て笑うこともある。けれど大抵、デンジが何か失敗した時の、あの少し嫌な笑い方だ。

 

 助けに来る時は来るくせに、安心した途端、遠慮なく文句を言う。パンを分ければ素直に食うが、次には妙なラーメンを食わせようとする。

 

 嫌いではない。むしろ、また三人で飯を食おうとは思っている。

 

 それでも、リンに呼ばれて振り向く時は、さっきみたいにならない。返事をする前から、どんな顔をしていればいいのか分からなくなることはなかった。

 

 レゼだと、なる。

 

 マキマの時にも。

 

 デンジは目を開け、雨に濡れた窓へ額を寄せかけた。冷たそうだと思ってやめ、代わりに両手で顔を擦る。

 

 なあ、ポチタ。

 

 どっちを選べばいいんだよ。

 

     *

 

 廊下で足音がした時、レゼは肩越しに振り返った。

 

「デンジ君……?」

 

 返ってきた声は、別の男のものだった。

 

 暗がりから現れた男の手に、ナイフがある。

 

 レゼは身を翻した。背後で刃が空を切り、走り出した靴が床を鳴らす。男は追いかけながら、ふざけた調子で話しかけてきた。

 

「待ってよ~。お話しようよ~、ねえ~」

 

 レゼは階段を上がった。

 

 踊り場で振り向くと、男がまだ追ってくる。息を乱したまま扉を押し開け、雨の吹きつける屋上へ出た。

 

 行き止まりまで逃げてきたように足を止め、振り返る。

 

「あなた……何なの!?」

 

 男はナイフを持った手を下げ、相手の怯えを楽しむように喋り始めた。

 

 レゼを傷つけてデンジへ見せれば、言うことを聞かせられる。必要なのは彼女自身ではなく、人質として使えるものだけ。

 

 雨音の中で話を聞きながら、レゼは男の立つ位置を見ていた。

 

 デンジのいる教室からは離れた。ここなら声も届きにくい。

 

 男が近づいた。

 

 レゼは細く息を漏らし、怯えた顔のまま一歩退いた。振りかぶった腕が下りてくる、その直前まで。

 

 刃の内側へ踏み込むと、男の身体へ取りつき、持ち上げられた勢いを使って背後へ回った。手首を捻られた男がナイフを落とす。

 

 その音は雨に紛れた。

 

 首へ回した腕を男が掴む。レゼは組みついたまま離れず、暴れる身体が壁へぶつかっても、力を緩めなかった。

 

 男の声が途切れ、靴が水を蹴る。

 

 レゼの唇から、歌が流れた。

 

 昔から知っている歌だった。言葉も、息を継ぐところも、考えなくていい。雨が顔を伝うのを感じながら歌い、抵抗がなくなったところで腕を解いた。

 

 男が倒れる。

 

 レゼは立ち上がり、首元へ触れた。呼吸を整えるほどでもなかったが、しばらくそのまま雨を受ける。

 

 背後の気配へ振り向く時には、もう笑っていた。

 

「嵐で学校に閉じ込めたの、君でしょう? 台風」

 

 そこに現れた悪魔は、彼女を見るなり態度を変えた。

 

「レゼ様ガイタトハ、知リマセンデシタ」

「今回のことを見逃すから、しばらく私に服従ね」

 

 レゼは倒れた男へ目を向けた。

 

「この男の死体は処理しておいて」

 

 返事を聞いてから、屋上の扉へ戻る。

 

 濡れた靴が鳴った。

 

 階段を下りながら、レゼは袖口を確かめた。雨で濡れた布を指で挟み、絞るほどでもないと手を離す。

 

 リンが無茶をすれば、デンジは怒るらしい。

 

 怪我をしていれば、座って見ていられるらしい。

 

 そんな話を聞いたあとで、自分は屋上へ上がり、人を殺して戻ってきている。

 

 廊下の角で、レゼは一度立ち止まった。

 

 向こうの教室に、デンジがいる。

 

 約束をしたことも、泳ぎ方を教わったことも、疑わずに待っているはずだった。

 

 レゼは濡れた髪を整え、歩き出した。

 

     *

 

 扉のところに人影が見え、デンジは顔を上げた。

 

 レゼが、少しだけ首を傾けて立っている。

 

 さっきまで散々迷っていたのに、顔を見たら口元が緩んでしまった。彼女も笑い、教室へ入ってくる。

 

「おせえ。雨、まだやまねえぞ」

「ごめん、ごめん」

「また濡れてんじゃん」

 

 レゼは袖へ目を落とした。

 

「ちょっと雨に当たっちゃった」

「ふうん」

 

 デンジはそれ以上聞かず、窓のほうへ身体をずらした。隣に座れる場所を空けたのだと分かり、レゼはそこへ腰を載せる。

 

 しばらく二人で外を見ていた。

 

 窓を叩く音が、少しずつまばらになっていく。デンジが指でガラスを示し、やみそうだと言った。

 

「明日、店に行けばいいんだよな?」

「うん。仕事が終わってからね」

「メシ、食わずに待ってろよ。祭りで食おうぜ」

「そんなに食べるつもり?」

「焼きそばとか、肉とかあるだろ。昼、少なくしとくわ」

「今から準備するんだ。あははっ」

 

 笑うと、デンジも得意そうな顔になった。

 

 食べ物を分ければいろいろ食べられるとレゼが言うと、彼は一度、それでは量が足りないと反対した。けれど少し考え、それぞれ違うものを買うならいいと言い直す。

 

 明日の話が、次々に増えていった。

 

 リンも誘おうとは、どちらも言わなかった。

 

 やがて雨が弱まると、デンジは机から下りた。レゼも続き、黒板の前で足を止める。

 

 ふざけて書いた文字が、そのまま残っていた。

 

「あ、これ消しとかねえと。明日、先生に見られるぞ」

「デンジ君が書いたことにしようかな」

「おい! 俺、英語書けねえだろ!」

「ふふっ。そうでした」

 

 黒板消しを滑らせると、白い文字が薄く伸びた。

 

 デンジは椅子を元へ戻し、昼に書いた紙がまだポケットにあるのを確かめ廊下へ出た。レゼが戸を閉めるのを待ち、手を差し出した。

 

 今度は、怖いからとは言わなかった。

 

 レゼも何も聞かず、その手を取る。

 

「学校、面白かったなあ」

 

 歩きながら、デンジが言った。

 

 レゼは隣を見上げた。彼は廊下の掲示物を眺めていて、返事を急かしているわけではなかった。

 

 文字を教えた。泳ぎ方も教えた。

 

 知らないことは全部教えるとまで言ったけれど、自分も学校へ通ったことがないとは、まだ話していない。

 

「……うん」

 

 デンジがこちらを見る。

 

「楽しかったね」

 

 それには、すぐに笑って頷いてくれた。

 

 靴箱の前まで来ると、雨はもう細くなっていた。デンジは外へ掌を出して確かめ、門のほうへ顔を向ける。

 

「これくらいなら行けるな。走るぞ!」

「待ってってば。そんなに引っ張らないで!」

 

 握る力がすぐに緩んだ。

 

 レゼはその手が離れる前に一歩踏み出し、デンジの隣へ並んだ。

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