不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第三話 先に言って
アキがナイフを抜くより先に、少女は半歩下がった。
朝の訓練室にはまだ人が少なく、靴底の擦れる音が壁に反響する。刃のない練習用だとは聞いていた。それでも柄に指がかかると、身体の方が先に間合いを取ってしまう。
「避けるだけじゃなく、取れるなら腕を取れ。先輩が止めたら離せよ」
返事をしたところへ、アキが踏み込んだ。
突き出された手首を外へ払い、肘を押さえながら脇へ回る。腕を背中へ捻ろうとしたが、アキは逆らわずに身体ごと向きを変え、空いた手を少女の肩へ伸ばしてきた。
その腕の下へ潜り、掴んだ袖を引く。踏み直された足の外側へ自分の足を差し入れると、アキの踵が浮いた。袖へ体重がかかり、もう少し引けば倒れるというところで、姫野の声が飛ぶ。
「はい、そこまで。二人とも離れて」
手を放すと、アキは一歩踏み出して姿勢を立て直した。少女は袖が引き下ろされるのを待って構え直したが、ナイフは鞘へ収まってしまった。
「今の、続けてもよかった?」
「ああ。右へ入るのは速いな。近づいても足が止まらない」
アキは床の線を靴先で示した。
「ここなら足元に何もない。物が散らかってても同じように動けるか、次はそこを見たい」
壁際にいた姫野が上着を取った。
「今日は一件、一緒に来てもらうよ。師匠から話は聞いてるけど、私たちも見ておきたいからさ。キミも、私たちが何をするか知らないと困るでしょ」
「何をするの?」
「中の様子から説明する」
アキが鞄から見取り図を取り出した。少女は隣へしゃがみ、床に広げられた紙を覗き込む。組手の続きは、今日はもうないらしかった。
*
現場は、飲食店の備品を置いている古い倉庫だった。
搬入口には黄色いテープが張られ、脇の事務室から湿った段ボールの匂いが流れてくる。鍵を持った男はシャッターから離れて立ち、奥で金属が鳴るたびに説明を止めた。
早朝、荷物を取りに入った従業員が悪魔を見つけたという。ほかの従業員も全員外へ出ているが、逃げる際に棚が倒れ、入口から奥までは見通せなくなっていた。
「見たのは一体です。ほかには、いないと思うんですが……」
「分かりました。中はこちらで確認します。あそこの警官と待っていてください」
男が離れると、アキは少しだけ上がったシャッターの下を覗いた。少女も屈みかけたが、手で待つよう示され、その場で見取り図を開く。
「私が先に入る?」
「まず俺が見る。聞いてたのと違えば、お前に任せるのはやめるぞ」
図面の中央を、アキの指がなぞった。
「棚が二列ある。俺が左から回るから、お前は入口側を押さえろ。隠れたら追うな。見えるところへ出してから挟む」
「私は右を見てるね。手を出してほしいときは呼んで」
姫野がシャッターの端へ手をかけた。持ち上がるにつれて、暗い床と、散らばった箱が見えてくる。
昨日はナイフを使えると答えた。今朝は、足が止まらないと言われた。
少女は上着の裾を払い、柄の位置を確かめて二人に続いた。
天窓から差す光の下に、引き裂かれた箱が散っていた。右の棚は中ほどから傾き、落ちた荷物が中央の通路を半分塞いでいる。その向こうから細長い腕が伸び、床を探った。
もう一本が棚の柱を掴む。箱の陰で胴が持ち上がると、後ろ側にも二本の腕が見えた。
その間に垂れた、下顎の大きな頭。平たい黒い歯の隙間から、布切れがはみ出している。
「来たア」
口が開き、濡れた布が床へ落ちた。
アキが左の通路へ入ると、悪魔の頭もそちらを向いた。棚を掴んでいた手が、一段高い位置へ移る。
「見えてるか」
「右の棚に上がる。上から来るわ」
言い終える前に腕が上段へ伸び、胴が浮いた。
アキは足を引き、振り下ろされた爪を避ける。コンクリートに白い筋が走った。悪魔が腕を引き寄せるより早く、刀の峰が手首を外へ弾く。
「今だ!」
少女は箱を跨ぎ、床についた別の腕へ踏み込んだ。肘の内側へ刃を当て、走り抜ける勢いで引く。硬い筋が切れた途端、支えを失った頭が床へぶつかった。
「ギャッ、痛エ! 何すんダ!」
跳ねた顎を避けたところで、横から伸びた手に上着を掴まれる。引き寄せられる前に身体を捻り、指の間へ刃を返した。布が裂け、頬へ血が散る。
上着は抜けた。悪魔は残った腕で棚を押し、箱を倒しながら奥へ逃げていく。
もう一歩出れば、背中に届く。
少女は爪先を浮かせたが、箱の陰へ消えた手を見て足を戻した。頭は見えていても、残りの腕がどこにあるか分からない。
「奥へ行く。左から回ってもいい?」
「待て。こっちへ出す」
左の通路を抜けたアキが、奥にあった台車を押した。荷台の角が悪魔の胴へ当たり、退こうとした身体が入口側へ向き直る。
棚を掴んで踏ん張った腕が、不意に横へ引かれた。
右の通路には姫野がいる。何も持っていない手を動かしていたが、その先を見るより、空いた脇へ入る方が早かった。
少女はナイフを突き入れ、体重を乗せて引いた。甲高い悲鳴とともに頭が振られ、大きな口がこちらへ向く。
「やめろォ! 痛エだろォ!」
顎が鼻先を通り過ぎた。身を引いたぶんだけ刃も抜け、首の付け根には届かない。
血を流しながら揺れる頭を追い、ナイフを持ち直す。
左腕を噛ませれば、近づける。
肘を上げかけたところで、歯が見えた。昨日、抜けなかった指まで思い出し、左手を握り込む。
棚の向こうに、姫野の顔が見えた。
「頭も止められる? 顎を上げてほしいの!」
「いいよ。今?」
足元には潰れた箱があった。少女はそれを蹴り退け、一歩入れる場所を空けた。
「お願い!」
悪魔の顎が持ち上がった。床を掴もうとする腕まで浮き、喉が伸びる。
踏み込んで刃を突き上げると、硬いものに当たって手首が止まった。左手を柄へ添え、膝を伸ばしながら押し込む。頭上で濁った声が響き、刃を横へ引いたところで途切れた。
襟へ温かい血が流れ込んだ。
ナイフを抜いて退くと、悪魔の身体が床へ落ちる。まだ動いていた腕が棚の脚を叩き、積まれた箱が揺れた。
少女は構えを解かず、指が曲がったまま動かなくなるまで待った。
「離れろ。確認する」
アキに場所を譲る。柄を握り締めていた掌がじんじんしたので、指を一本ずつ緩めた。
棚の脇から姫野が出てきた。何かをしまう様子も、悪魔を連れている様子もない。
「さっき、何で持ち上げたの? 腕も、頭も」
「私が契約してる悪魔。見えなかったでしょ」
「まだ、そこにいる?」
「いるよ。握手してみる?」
少女は差し出しかけた自分の手を見た。指の間まで血で濡れている。
「洗ってからでもいいかしら」
「そうだね。先に拭こうか」
姫野が肩に貼りついた紙片を摘まんだ。ところが今度は指から離れなくなり、摘まみ直すうちに破れてしまう。
「あー、もう。拭くもの持ってくるから、ちょっと待ってて」
*
倉庫を調べ終えて外へ出ると、日差しが眩しかった。
荷物を置いた台の脇で、少女は頬を拭き、次にナイフへ布を当てた。アキは倉庫の男と話している。荷物を動かすのは確認が済んでからにしてほしい、と念を押していた。
説明を終えてこちらへ来たので、拭き終えた刃を下げる。
「どうだった?」
アキは足元から、裂けた上着へ目を移した。
「組手より迷わず動いてたな。棚の間でも足は止まらなかったし、腕を斬って崩す判断もよかった」
布を畳む手が少し遅くなった。ナイフはもうしまえるが、続きを聞いてからにする。
「最後、左腕を出そうとしただろ。噛ませるつもりだったのか」
「近づけると思ったの。頭が動かなければ、喉に届くから」
「噛んだまま振り回されるかもしれない。お前まで一緒に動いたら、こっちも狙えなくなるぞ」
少女は倉庫へ顔を向けた。あの頭は、刃を入れても暴れていた。腕を取られていたら、後ろへ退けなかっただろう。
それでも、今日は出していない。
「……でも、姫野に頼んだでしょう。噛まれる前に」
「ああ。あれでいい。次も実行する前に言え」
アキは鞄を肩へかけた。それで終わりらしい。
少女もナイフをしまっていると、姫野が横から覗き込んできた。
「師匠には、私を上手に使いましたって言っとこうか」
「使ったというか、お願いしたのよ」
「うん。いいところで呼んでくれたよ」
少女は畳んだ布を開き直した。汚れた面が外に出ていたので内側へ折り、今度は少し丁寧に端を揃える。
姫野はその間に、昼食の相談を始めていた。
「この辺、お昼食べるとこある? 朝から動いたらお腹空いちゃった」
「駅の方に食堂があります。報告に戻る前に寄れますけど」
「じゃあ、そこ行こう。キミも食べられる?」
少女は自分の上着を見下ろした。
「この服で入っていいの?」
「脱いどけば大丈夫。シャツまでは汚れてないでしょ」
上着を脱ぐと、裂け目の裏から乾きかけた血が剥がれた。左腕を袖から抜き、肘の辺りを一度撫でる。傷はない。二本とも、朝と同じように動いた。
汚れたところを内側へ畳んでいると、先に歩きかけたアキが振り返った。
「何か気になるか」
「ううん。もういいわ」
上着を鞄へ入れ、二人に追いついた。
*
食堂の壁には、料理の写真と短冊の品書きが並んでいた。
姫野が二つの定食で迷っている間に、アキは生姜焼きを頼んだ。少女はトンカツの写真を見上げ、値段の横にある小さな文字を読もうと首を伸ばす。
「飯と味噌汁がつく。量が多ければ、飯は減らしてもらえるぞ」
「減らさなくていいわ。これにする」
アキが店員へ注文を伝えた。姫野もようやく唐揚げに決めたが、生姜焼きが運ばれてきた途端、そちらへ身を寄せる。
「やっぱり、それもよかったなあ。一口ちょうだい」
「さっきまで迷ってたでしょう」
「迷ってたから、まだ食べたいんだよ」
少女はトンカツを一切れ持ち上げた。こちらも分けられると言おうとしたところで、姫野が唐揚げをアキの皿へ置く。
「はい、交換。これ大きいから、二枚ね」
「一枚です」
話はもう済んだらしい。行き場のなくなったトンカツを口へ運ぶと、衣の中がまだ熱く、少女は慌てて噛むのをやめた。
「キミは師匠と、よく外で食べるの?」
姫野に聞かれ、ようやく飲み込んでから答える。
「ときどき。家では私が作ることが多いわ」
「へえ。何が得意?」
「……昨日は、卵を割るのに失敗した」
「得意なもの聞いたんだけど」
姫野が吹き出した。少女も箸を止めたまま、少し口元を緩める。
「割れたのよ。ただ、殻が入って」
「師匠に取らせればよかったのに」
「取ろうとしたら黄身も崩れたの。岸辺は同じのでいいって言うから、二つとも混ぜて焼いたわ」
「あの人、食べられればいいもんねえ」
次の一切れは、皿の上で少し冷ましてから食べた。
食事が済んでも、姫野はすぐに立とうとしなかった。岸辺は買い物も少女に任せるのかと聞かれ、一緒に行くこともあると答えると、そこから頼んだものを間違えて買ってきた話になった。
途中で店員が皿を下げに来た。鞄を寄せて場所を空けているうちに、どこまで話したか分からなくなる。
「柔軟剤を買ってきたところだろ」
アキに言われ、少女は顔を上げた。
「そう。それで、もう一本あるって言ったら、次は買わずに済むだろって」
「使うものが違うじゃない」
「岸辺にもそう言ったわ。洗濯できないから、結局もう一度買いに行ったの」
姫野が笑う横で、アキが時計を見た。少女は鞄へ手を伸ばしたが、姫野にはまだ聞きたいことがあるらしい。
「今の話、師匠にしていい? 私からも言っとくよ。頼まれたもの買ってきなって」
「それなら、もう一つあるの。詰め替えを買ってきたのに、入れる方の容器がなくて」
アキが伝票を取った。
「歩きながらにしろ。先に払ってくる」