不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第四話 客の来る日
靴の傷は、どれだけ磨いても消えなかった。
昨日、倉庫の棚に擦ったところだ。汚れは落ちたのに爪先の細い線だけが残り、光へかざすと消えて、床へ置けばまた見える。履いている間もこの角度ならいいのだが、それでは踵だけで歩くことになる。
「そろそろ勘弁してやれ。穴まで開ける気か」
振り向くと、岸辺が食卓へ皿を置いていた。少女はもう一度だけ布を往復させ、靴を玄関に揃える。
「買ってもらったばかりなのに、もう傷がついたわ」
「足の代わりに擦れたんだろ。仕事はしてる」
爪先を隠すように置いていた方も、隣と同じ向きに直した。少し離れれば、そう目立つ傷ではない。
食卓では、岸辺が先にパンを食べ始めていた。二枚焼いた卵のうち、縁が黒くなった方が向かいの皿に載っている。
「姫野から、昨日のことは聞いた?」
「ああ。よく動くとな」
「ほかには?」
岸辺はパンを飲み込んでから、少女の左腕を見た。
「そいつを餌にしかけたとも聞いた」
「出してはいないわ。自分でやめて、姫野に頼んだの。頭を上げてもらったら、ちゃんと届いたから」
箸を持ったまま待っていると、岸辺は皿へ目を戻した。
「なら、次も呼べ。使える手があるんだ」
少女も卵を切り分けた。腕を出さなかったことは、もう聞いていたらしい。それなら最初からそちらも言ってくれればいいのに。
一口食べると、昨日より塩が少なかった。
*
クァンシが来ると聞いたのは、昨夜のことだった。
そのとき岸辺は、明日の朝に片づけると言った。朝になっても新聞を読んでいたので少し疑ったが、少女が皿を洗っている間に、居間から酒瓶と古い新聞がなくなっていた。椅子を引いても何も落ちてこない。
「こんなに広かったのね」
岸辺は返事をせず、台所で肉を裏返した。醤油と生姜の匂いが広がり、少女も皿を出そうと棚を開ける。
畳みきれていない新聞が、端をはみ出させていた。
指で押し戻し、その上の段から皿を三枚取った。
昼前に呼び鈴が鳴った。玄関まで急いだものの、取っ手に手をかけたところで一度止まる。違う客だったら、ずいぶん待ち構えていたことになる。
扉の隙間に銀色の髪が見え、今度は大きく開けた。
「少し早かったか」
「ううん。もうご飯もできるところ。入って、今日は広いから」
クァンシは靴を脱ぎ、部屋を見渡した。それから台所の岸辺へ顔を向ける。
「何か捨てたのか」
「片づけただけだ」
差し出された紙袋を受け取り、少女はクァンシの後について歩いた。
「昨日、悪魔を倒したのよ。姫野と早川と一緒に。腕が四本あって、棚に掴まってたんだけど」
「聞いてる。あとで話してくれ」
袋の底へ手が添えられた。
「ぶつけるぞ」
椅子の背に引っかけるところだった。食卓へ載せて中を覗くと、見覚えのある菓子の箱が入っている。棚から同じものを出して隣へ並べると、クァンシが岸辺を見た。
「お前も買ったのか。前は最後の一個まで食ってたな」
「欲しけりゃ言えばよかったんだよ」
「もう口に入れてたもの。言っても遅いでしょう」
少女は岸辺の買った方を開け、中身を確かめた。こちらはまだ減っていない。
クァンシは持ってきた箱を少女の手元へ寄せた。
「こっちはお前にやる。しまっておけ」
台所から、先に飯だ、と声がかかった。
「三人分あるぞ」
「食べてきた。昼飯もここでとは聞いてない」
少女は出しておいた皿を見た。余った一枚を取ろうとすると、クァンシが椅子を引く。
「少しなら食べる。次は先に言ってくれ」
「今度は言うわ。何が食べたいかも聞いておく」
岸辺が盛りつける横で待っていると、クァンシの分だけ肉が少なかった。横から覗いていたら、その皿を渡される。
「運べるか」
「ええ」
食卓へ置き、箸の向きを揃えた。最後に岸辺が腰を下ろすと、足元で瓶の触れる音がした。
クァンシが机の下を見る。
「ここへ片づけたのか」
岸辺は足を引き、箸を取った。
*
昨日の話は、食事の途中で聞いてもらった。
朝はアキと組手をしたこと。倉庫の悪魔は、腕を一本斬っても別の手で棚へ逃げたこと。姫野は何も触っていないのに、悪魔の顎を持ち上げられたこと。
頭があった高さを手で示すと、クァンシは箸を止めずにそこを見た。
「そうしてもらえば届くって、自分で頼んだのよ」
「すぐに持ち上げたのか」
「ううん。私の足元に箱があったから、退けるまで待ってもらったわ」
「なら、急がせなくてよかったな」
クァンシは肉を一切れ口へ運んだ。少女も箸を取り直したが、食べる前に別のことを思い出す。
「そのあと、ご飯を食べに行ったの。姫野、自分のを頼んだのに、早川のも欲しがって」
「全部はいらんのだろ」
「一口だけって言っていたわ。でも、食べたらもっと欲しくならない?」
クァンシは皿を見てから、なるかもな、と答えた。
少女が食堂でのやり取りを話しているうちに、岸辺の皿は空になった。最後の肉がなくなるのを見て、聞いてみる。
「岸辺も、昔はクァンシと食べに行っていたの?」
「誘ってはきた。同じことを何度もな」
「日が変われば気も変わるかと思ってな」
「変わらないと言ったはずだ」
ご飯の誘いにしては、ずいぶんはっきり断る。それでも今日は来てくれたのだから、たまには聞いてみるものだ。
「また誘えばいいじゃない。今日は来てくれたんだから」
岸辺が顔を上げた。その前でクァンシは湯飲みを取り、少し間を置いてから、そうだな、と答える。
少女には何がおかしかったのか分からなかったが、声に笑いが混じっていた。
クァンシと暮らしている者たちの話も聞いた。土産を持って帰ると、渡す前に袋を開けられることがあるらしい。
「誰に渡すか決めて買ったのに?」
「ああ。気に入ったものから取っていく」
「止めないの?」
「足りてればいい」
あちらでは、こんなふうに毎日話せるのだろう。何を買ってきたのか、その日のうちに聞ける。次はいつ来るのか、確かめておかなくてもいい。
少女は残っていた肉を一切れ食べた。質問をやめると、その話まで終わってしまいそうだった。
「クァンシの分も取られる?」
「食べ物なら、大抵な」
それでは岸辺と同じだと言いかけたが、向かいではもう皿を重ね始めていた。
*
食後、皿を持って立とうとすると、岸辺が横から受け取った。
「座ってろ。今日は俺が洗う」
「朝のも、まだ流しにあるわよ」
「まとめてやる」
クァンシが隣へ座り直したので、少女も腰を下ろした。台所で水が流れ始めると、公安はどうだった、と尋ねられる。
「マキマさんと話したわ。怪我が治るまでのこととか、前よりできるようになったこととか。でも、ナイフの話ではなかったみたい」
「何と答えた」
「比べたことがないから、分からないって。歩けるまでの時間も、そのときで違うもの」
皿の触れ合う音がした。クァンシは台所へ一度目をやる。
「あいつもいたんだな」
「ええ。住所も電話番号も岸辺だから、私の紙なのに、途中から岸辺が書いていたわ」
袖口へ指を滑らせると、糸が引っかかった。摘まんで引こうとしたところを、クァンシの手に止められる。
「引くな。ほどける」
「洗ったときには、気づかなかったわ」
昨日裂けた上着は干してある。こちらのシャツもどこかへ引っかけたのだろうか。袖を裏返そうとしていると、鋏はあるかと聞かれた。
引き出しを指すと、クァンシが取りに立つ。
「切るくらい、私でもできるわ」
「着たままだろう。そのまま出してろ」
隣へ座り、袖を軽く引いて布から糸を離した。少女は腕を伸ばして、その手元を見ていた。
「昨日は、怪我しなかったのよ」
鋏が閉じ、小さな音がした。
「ああ」
クァンシは切った糸を取り、袖口を放す。
「服だけならいい」
指で撫でても、もう引っかからなかった。少女は一度袖を引き下ろし、鋏を受け取った。
「ありがとう。しまってくるわ」
*
少女が菓子の箱を棚へ収めている間に、岸辺は窓を少し開けた。煙草を一本抜き、箱をクァンシへ向ける。
「マキマは何を聞いた」
岸辺は火をつけ、煙を窓の外へ吐いた。
「今あいつが話したことだ。昔の記録と比べたいらしい」
「記録も見たのか」
「一部だけな」
棚の扉が閉まり、すぐにまた開く。少女は二つの箱を重ね、空いた場所へ押し込もうとしていた。
「ソ連のか」
「ああ」
クァンシは煙草を持ったまま、火を求めなかった。岸辺がライターを置く。
「あいつの前で広げたのか」
「帰すときにな。どこまで読めたかは分からん」
少女は棚から箱を抜き、今度は横に並べた。やはり入らなかったらしく、片方だけ取り出す。
「また聞くつもりだな」
「聞かれたら俺にも話せと言ってある。仕事は姫野と早川に見せた」
「二人の話はよくする」
「飯の話ばかりだがな」
クァンシはライターを取り、ようやく火をつけた。一口吸ってから、少女の方へ顔を向ける。
「私には、怪我をしなかったと言う」
岸辺は黙っていた。
「した日のことは、お前から聞くことになる」
「聞きたいなら、もっと来い」
「来られるときは来てる」
灰皿へ灰が落ちた。棚の前から、箱が擦れる小さな音が聞こえる。
「……前も、聞くだけで済ませた」
クァンシは煙草を押し消した。
「俺も見に行かなかった」
岸辺が言った。クァンシは灰皿から指を離し、窓の外へ目を向ける。岸辺も続きを足さず、短くなった煙草を持っていた。
やがて、少女が箱を抱えてきた。
「片方しか入らなかったわ。こっちは食卓に置いておくから、食べる前に聞いてね」
「俺が買った方だろ、それは」
「同じ箱だから、もう分からないの」
岸辺の手元から少し離して置き、蓋の向きを直した。
*
帰ると言われると、まだ話していないことばかり思い出した。
玄関で靴を履くクァンシのそばへ立ち、少女は鞄を渡す。差し出してから、もう少し持っていてもよかったと思った。
「次は、いつ来られる? 決まったら早めに教えてほしいの」
「まだ分からん。今度は泊まってもいいか」
少女は居間を振り返った。
布団は足りるだろうか。なければ買いに行けばいい。朝食も三人分になるが、卵を一つ増やすくらいなら困らない。
「もちろん。今度は私が何か作るから、食べたいものも教えてね」
「何か持ってくるか」
「お菓子は、まだあるから……一緒に出かけたいわ。岸辺は買うものがある店にしか寄らないの」
「買い物に行ってるんだからな」
後ろから声がしたが、少女はクァンシを見たまま続けた。
「帰り道に、別のパン屋があるのよ。まだ入ったことがなくて、何があるか見てみたいの」
「分かった。連れていってくれ」
いつも曲がる角より、一つ先にある店だ。次に岸辺と買い物へ行ったら、通り過ぎないよう確かめておこう。
「今度は飯を食う前に来いよ」
岸辺が戸口へ寄ってきた。
「この子には伝える」
「俺にも言え。布団を出すのは俺だ」
クァンシは答えず、少女へ片手を上げた。扉が開くと外の空気が入り、玄関にこもっていた料理の匂いが薄くなる。
少女は外へ顔を出し、階段の向こうへ姿が消えるまで見送った。
扉を閉めると、冷蔵庫の音が聞こえた。
まだ昼間なのに、クァンシは帰ってしまった。少女は取っ手から手を離し、岸辺を見上げる。
「今日、泊まっていってって言えばよかったかしら」
「それでいてくれるなら、とっくに言ってる」
「岸辺も、言えばよかったのに」
「今のを聞いてたか?」
岸辺は食卓へ向かった。少女もあとを追う。
「次は泊まるって」
「ああ。今度は聞いた」
菓子の箱へ手をかけたところで、岸辺がこちらを見た。
「一つ食っていいか」
少女は隣へ座り、蓋を取って二つ出した。一つを岸辺へ渡すと、クァンシの座っていた椅子が少し斜めになっているのが目に入る。
片づけるときに直せばいいだろう。
包みの端を探している間に、隣ではもう半分なくなっていた。少女は自分の分を手元へ寄せ、今度は取られる前に一口食べた。