不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第五話 手の焼ける新入り
第五話 手の焼ける新入り
返却するシャツを畳み直していると、廊下の向こうからアキが歩いてきた。
階段を上がったところで足を止め、手すりを離してからも、なかなか次の一歩が出ない。その隣では、くすんだ金髪の男の子が何か喋り続けていた。アキが顔を背けると、わざわざそちらへ回り込もうとする。
「早川、脚を怪我したの?」
男の子が先にこちらを向いた。
「脚っつうか、もうちょい上。こいつさっき――」
「黙ってろ。お前には聞いてない」
アキは差し出しかけた少女の手を制し、抱えているシャツを見た。
「被服の窓口に行くなら、こいつも連れていってくれ。着替えの支給がまだ済んでない」
「いいけど、一人で大丈夫?」
「書類を出すだけだ。終わったらここに来い」
男の子は慎重に歩き始めた背中へ声をかけた。
「急がなくていいぜ。俺らもゆっくり行くからよ」
「誰のせいで――」
近くの扉が開き、中から職員が出てきた。アキは言葉を切って道を譲り、そのまま入れ違いに部屋へ消えた。
*
女だ。しかも、可愛い。
デンジは閉まった扉を見ているふりをしながら、手前に立つ少女へ目をやった。
歳は自分とそう変わらないだろう。抱えたシャツから覗く指が細く、こちらを向くと髪が頬からさらりと離れる。マキマのように笑いかけてはこないが、アキのように最初から嫌そうな顔をしているわけでもない。
目が合いそうになり、横の掲示板へ顔を向けた。紙が何枚も貼ってある。読める字を探すには近すぎたが、今さら離れるのもおかしい。
「デンジ、でいいのよね。今日から?」
「おう。……お前も、ここのデビルハンター?」
「まだ教わっているところ。四課に来るようになって、一週間くらいよ」
「じゃあ、そんな変わんねえな。もっと前からいんのかと思った」
少女が名乗ったので、危うくこちらももう一度名前を言いかけた。よろしく、とだけ返して掲示板から離れる。
「着替えのほかに、タオルもまだ?」
「そういうのもあんの? 何ももらってねえけど」
「じゃあ、それも聞きましょう。こっちよ」
隣へ並ぶと、抱えた服の端が腕に触れた。半歩ずれる。離れすぎた気もしたが、近づけばまた触れそうだったので、そのまま歩いた。
女と二人で歩いている。
さっきアキと来た廊下なのに、どちらの手で上着を持てばいいのかまで気になった。持ち替えたところで少女の目が首元へ向き、デンジは少し顎を上げる。
「ネクタイ、苦しくない? 赤くなってる」
「平気。これ、マキマさんに似合ってるって言われたんだよ」
「そう。苦しくなったら緩めてね」
そのまま前を向かれた。
直してくれるのかと思ったが、言われてみれば自分で緩めれば済む。結び目を引くと、さっきより息がしやすくなった。もう少し引こうとして形まで崩れかけ、慌てて手を離す。
「さっきのヤツとは、よく一緒に仕事すんの?」
「早川? 姫野っていう人と二人で、訓練を見てくれているの」
「あいつ、いつもあんな感じ? 俺が喋る前から嫌そうな顔してんだけど」
「さっき、何かしたの? 私にはそんなことないわ」
「したけど、向こうが先だからな」
殴られたところを見せようと襟元へ手をかけたが、少女は廊下の先を見ていた。
「あ、今日は開いてる。昨日はここが閉まっていて、上の階まで行ったのよ」
言い分を聞いてもらう機会を逃した。もっとも、何をしたか説明すれば、アキが歩きづらそうにしている理由まで話すことになる。
襟から手を離し、代わりに確かめておくべきことを聞いた。
「……なあ、服って金かかんの? あとで給料から引かれるとか、そういうのねえ?」
「仕事に使うものだから、かからないわ」
「じゃ、もう一枚もらっても?」
「洗っている間に着る分も要るでしょう」
少女は当然のように窓口へ向かったが、デンジは一歩遅れた。
洗っている間は脱いでいればいい。乾かなければ少し湿っていても着られる。それをしなくていいように、もう一枚くれるらしい。
今着ている服にも、まだ穴はないのに。
「今日入った人の着替えをお願いします。タオルも、まだだそうです」
職員が名簿を開き、こちらへ名前を尋ねた。
「デンジです」
「今の服、サイズは合っていますか?」
「あ、はい。大丈夫です」
奥の棚から出てきたシャツは、襟まできちんと畳まれていた。確認のために広げられた袖にはボタンが揃い、脇にも背中にも染みがない。
「同じものを二枚出しますね。足りなければ、また申請してください」
二枚重ねて渡され、デンジは両手で受け取った。
今のものと合わせて三枚。明日どころか、その次に着る分まである。
畳まれた袖を親指で擦っていると、上にタオルも載せられた。
「戦って破れたら、弁償とかするんですか」
「仕事中のものなら交換できます。傷んだものを持ってきてくださいね」
「……すげえな、公安」
隣で少女がシャツを広げた。袖口の少し上が裂け、糸が何本か飛び出している。職員が手を伸ばすと、その端を押さえた。
「これなんですけど、縫って使えるなら、持って帰ろうと思って。小さい傷だから」
「交換できますよ。サイズは前と同じでいいですか?」
「でも、ほかは傷んでいないので――」
「そいつにも、新しいのやってください」
少女が振り向いた。
「まだ聞いているところよ」
「聞いてたよ。俺のなんか破れてもねえのにもらえんだから、お前のもいいだろ」
「直せるなら、その方が」
「じゃあ直してる間、何着んだよ。俺には替えが要るっつったじゃん」
返事を待っていると、少女は裂け目を摘まんだ。端を合わせれば隠れるが、手を離すとまた開く。
職員が奥から一枚持ってきて、傷んだシャツの隣へ置いた。
「こちらは預かりますね」
「……お願いします」
ようやく手が離れたので、デンジは空いた場所へ自分の荷物を置いた。せっかくもらった服を落としたくない。タオルを上から押さえていると、受領票を差し出される。
「ここに名前を書いてください」
少女がペンを一本寄せてくれた。
「名前だけでいいって」
「俺、自分の名前は書けるぜ」
紙を引き寄せ、ほかの欄を見ないようにして書いた。職員がそのまま受け取ったので、これで全部済んだらしい。
*
窓口を離れると、少女が荷物へ手を添えた。
「少し持とうか」
「大丈夫。これくらい余裕だって」
何ならそっちの分も、と言いかけたところで、一番上のタオルが滑った。少女が押さえ、その指が手の甲に触れる。
タオルより先に、シャツまで落とすところだった。
「鍵は上着のポケットに入れたわよね。着替えを置いていくなら、先にロッカーへ寄れるけど――」
「あ、悪ィ。最後んとこ、もう一回」
「ロッカーに寄る? 今日は持って帰るの?」
「持って帰る。まだ、どこ住むのかも聞いてねえけど」
少女は何か聞きかけたが、先にタオルを載せ直した。
「それも早川に確認しましょう。たぶん、もう書類は出し終わってるわ」
言いながら角を曲がったので、デンジも続く。ところが、数歩進んだだけで足を止められた。
その先には階段があった。
「……こっちじゃなかった」
「俺、案内されてんだよな?」
少女は階段と、今曲がった角を見比べた。
「昨日は上の窓口に行ったから。来た道を通れば大丈夫よ」
「お前も迷ってんじゃん。一週間いたんだろ?」
「建物が広いの。それに、下りる前に分かったでしょう」
すぐに引き返し始めたので、服を抱え直して追いかけた。横へ並んでもこちらを見ず、案内板へ顔を上げている。
窓口では何でも知っているように喋っていたくせに、階段を一つ間違えたくらいで、そんなに言い返さなくてもいいだろう。
「なあ。アキに聞かれたら、何て言うんだよ」
「別に、隠すことじゃないわ」
「じゃあ俺が言っていい?」
「わざわざ言わなくてもいいでしょう」
返事があまりに早く、デンジは吹き出した。
「何よ」
「いや。お前、さっきと全然違うな」
「案内はしてるでしょう。次を右」
言われた先に、見覚えのある扉があった。少女より先に近づき、肘で取っ手を押し下げる。
「ここは覚えてる。先、行っていいよ」
格好よく開けたつもりだったが、身体を横にすると、またタオルがずれた。顎で押さえようと首を伸ばしたところへ少女の手が来る。
「これは私が持つから、そのまま通って」
「ああ、頼む。服も一枚いける?」
通り抜けてから渡すと、自分の分と分けて腕へ載せてくれた。
「さっき渡してくれればよかったのに」
「歩くとずれんだよ。持つだけなら平気だったんだけどな」
少女の口元が緩んだ。言い返そうにも、タオルを顎で挟もうとしていたところを見られている。
空いた手で上着を広げ、残りの服を包んだ。最初からこうすればよかった。
隣の顔を見ても、今度は掲示板へ逃げずに済んだ。
*
アキは部屋の前で待っていた。二人が近づくと書類から顔を上げ、少女の腕に増えた荷物へ目を留める。
「遅かったな。支給は済んだのか」
「おう。こいつの交換もして、あと道――」
「鍵ももらったわ。着替えは今日は持って帰るって」
声を重ねられ、デンジは横を向いた。
隠すことじゃないと言っていたくせに。
「道がどうした」
「間違えた。でも、すぐ分かったから」
今度は少女が先に答えた。アキは二人を見てから、書類を鞄へしまう。
「分からなくなったら人に聞け。案内、助かった」
少女は抱えたシャツを持ち直した。
「窓口の人が、破れたら交換できるって説明してくれたの。デンジも聞いていたから、次は一人で行けると思う」
「道が分かればな」
「来た道を通ればいいのよ」
「お前が言う?」
少女が何か返しかけたところで、アキが手を出した。
「服を渡せ。先にこいつを連れて帰る」
「俺、自分で持てるぜ」
「そっちに持たせてるだろ」
預けていたシャツとタオルがアキへ渡った。持っていた上着でまとめながら、今日からデンジを自分の家に置くことになったと告げる。
「一緒に住むの?」
「命令だ。こいつに何か用があれば、俺に連絡してくれ」
いかにも嫌そうに言うので、デンジも黙っていられなかった。
「俺だって今聞いたんだよ。マキマさんと一緒がよかったのに」
「本人の前で言うな」
「じゃあ、飯は? 家で食えんの?」
「食わせる。だから先に帰るぞ」
それなら話は早い。歩き出しかけ、少女が残っているのに気づいた。
「あ、お前は来ねえの?」
「このあと訓練があるから。姫野も、そろそろ来ると思う」
「そっか。じゃあ、またな。服もらうの、助かった」
少女は腕に残った新しいシャツへ触れた。
「私も、交換してよかったわ。ありがとう」
「だろ。もらえるもんは、もらっときゃいいんだよ」
アキに呼ばれ、今行くと返す。少女が手を上げたので、こちらも片手を上げた。
角を曲がる前に、さっき通った扉を確かめる。そこを抜けて、分かれ道で階段へ行かなければいい。たぶん覚えた。
「何を見てる」
「道。次は一人で行けって言われたからよ」
可愛い女だったが、間違えたことくらいであんなに言い返してくるとは思わなかった。アキの前で先に白状した顔を思い出すと、また笑えてくる。
「お前、あいつにもすぐ怒んの?」
「必要ならな。何か言ってたか」
「別に。俺が何したかは聞かれたけど」
アキの足が止まり、デンジは少し離れた。
「言ってねえって! お前が先に殴ったことも、まだ言ってねえから!」
「大声で言うな」
廊下の先で職員が振り向いた。アキは顔を背け、まとめた服をデンジの胸へ押し返した。
*
家に着くまでに、何度も先へ行くなと言われた。
場所を知らないのだから先へ行きようがない。そう返すと、なら横道にも入るなと追加された。店先に揚げ物が並んでいたので見ただけだ。立ち止まるくらい、いいだろう。
ようやく辿り着いた部屋は、鍵を開けて入ると、奥までアキの家だった。
玄関から見える台所も、その先の食卓も、開いた襖の向こうも。ほかの誰かが使っている場所を通らずに行ける。
「靴を脱げ。揃えて、そっちに置いとけ」
脱いだ靴を足で寄せ、服を抱えたまま中へ進んだ。床は軋まず、足の裏へ砂もつかない。窓のそばへ行くと、通りを歩く人間が下に見えた。
「すげえ。ここ全部?」
「勝手に開けるな。荷物はこっちだ」
押し入れの取っ手から手を離すと、アキが反対側の戸を開けた。中には畳んだ布団と、箱がいくつか入っている。
「上を空ける。服はそこへ入れろ」
「布団も俺の?」
「客用だ。お前が使え」
「客って、女とか来んの?」
箱を取り出していた手が止まった。
「お前の荷物の話をしてる」
デンジは布団を見た。上に載っているのは枕だった。壁や荷物を頭の下へ入れなくても、最初からそうするための物がある。
服を置く場所を空けられても、すぐには手が離れなかった。シャツの襟を潰さないように奥へ押し、タオルはその隣へ載せる。
「それ、使うから持ってこい。先に風呂だ」
「今から?」
「その格好で寝られても困る」
「まだ寝ねえよ。飯も食ってねえし」
「どっちでもいいから入れ」
アキの後について脱衣所へ行く。風呂場を覗くと、床も壁も同じ家の中にあるのに、ここだけ濡れてよくできているらしい。
蛇口を指され、湯の出し方を教えられた。何となく分かったので、途中でシャワーを持ち上げる。
「出しっ放しにするなよ。身体を洗う間は止めろ。あと、そっちのボトルは――」
「分かったって。湯出して、洗って、止めんだろ」
「順番も違う」
結局もう一度言われたが、デンジは湯船の方を見ていた。ここへ全部湯を溜めるのだろうか。底に栓がある。足で踏みかけて、アキに止められた。
「分かんねえことがあったら呼べ。壊す前にな」
扉が閉まり、ようやく一人になった。
服を脱いでシャワーを出すと、最初は冷たかった。騙されたかと思った頃に湯が出て、肩へ当てた途端、思わず声が漏れる。
「あっつ……あー」
少しぬるくして、もう一度肩へかけた。首から背中を伝った湯が、床を流れて排水口へ吸い込まれていく。
こんなに使っていいのか。
一度止め、ボトルを押してみる。手に出たものはぬるぬるしていて、髪へ擦りつけると泡になった。もう一度押したら、今度は思ったより多く出た。
洗えば落ちるだろう。両手で頭を掻き回し、シャワーを出した。
*
風呂場から出ると、台所で包丁の音がしていた。
アキは鍋の前に立っている。机上には切った野菜と肉。デンジが覗き込むと、手を出すなと言われた。まだ何もしていない。
「何作ってんの?」
「炒め物。飯はもう少しかかる」
「肉入ってるじゃん。今日なんかあんの?」
「お前が来た」
「おお」
「一人分増えたって話だ」
デンジは食卓の椅子を引いた。立って見ているとまた何か言われるので、座って待つことにする。
座ってからも、いい匂いはしていた。油の音が強くなり、肉を返すたびに白い湯気が立つ。腹が鳴ったが、台所の音に紛れた。
「先に風呂を見てくる。そこ触るなよ」
火を止めたアキが、横を通っていく。
デンジは鍋を見た。すでに食べられそうだが、箸がどこにあるか分からない。棚を開けるなと言われたのは、さっきの押し入れだけだっただろうか。
考えていると、向こうから名前を呼ばれた。
「お前、ボトル半分使ったのか!」
「そんな使ってねえよ! 何回か押しただけだろ!」
「床が泡だらけだ! 流してから出ろって言っただろうが!」
「流したぜ。頭とか、ちゃんと」
アキが脱衣所から顔を出した。
「来い。床もだ」
「飯、冷めんじゃん」
「お前が早く流せば済む」
風呂場へ戻ると、確かに泡が残っていた。壁際へ集まっているので気にしなかったのだが、それも駄目らしい。シャワーで追い立て、排水口へ送る。
「なくなったぞ」
「次から自分でやれ。髪拭いたタオルは掛けろよ」
「どこに」
「そこ」
指された棒へタオルを掛けた。
洗う場所があって、拭く物があって、拭いた物を置く場所まで決まっている。もう乾くまで放っておけばいいらしかった。
台所へ引き返すと、皿が二枚並べられていた。
*
姫野との訓練が終わる頃には、窓の外が少し暗くなっていた。
少女は使った道具を片づけ、借りたシャツを新しいものへ着替えた。袖を通すと、破れた方では少し張っていたところが滑らかに伸びる。
「それ、交換できたんだ」
入口から姫野が声をかけた。
「ええ。縫おうか迷っていたら、デンジが新しいのをもらえって」
「ああ、今日来た子。会ったんだ」
「早川に頼まれて、一緒に窓口へ行ったの」
姫野は上着を肩へかけながら近づいてきた。
「どうだった?」
「服が二枚出てきて、驚いていたわ。あと、早川と喧嘩したって」
「初日から? 何したの、アキ君」
「途中で窓口に着いたから、聞いていないの。脚が痛そうだったけど」
姫野が少し顔をしかめた。心配しているのかと思ったら、息を漏らしてから額に手を当てる。
「あとで聞いとく。明日はここで待っててね。師匠には、今日やったこと話しておくから」
「自分でも話すわ」
「じゃあ、いいとこだけにしないでよ」
少女は鞄を閉じた。
「やり直したところも?」
「そこ、明日もう一回やるからね」
忘れないうちに書いておこうと思ったが、廊下へ出ると岸辺が待っていた。壁へ背を預け、こちらの靴から顔へ目を上げる。
「終わったか」
「待っていたの?」
「今来た。買い物に寄るぞ」
少女は姫野へ挨拶をし、岸辺について階段へ向かった。今日は足元を見なくても靴がついてくる。手すりに触れながら下りると、先を行く背中にも遅れずに済んだ。
*
店へ入ると、入口の籠を一つ取った。
頼まれたのは葱と卵、切らしていた洗剤。岸辺は肉売り場へ向かったので、少女もついていった。
「冷蔵庫に、まだあったでしょう」
「明日の分だ」
「帰ってから、古い方を先に使うのよ」
「分かってる」
岸辺が包みを二つ見比べる間に、少女は隣の棚から葱を取った。長い葉先が籠をはみ出し、向きを変えても収まりきらない。
「今日、新しい人が来たわ。デンジっていうの」
「ああ」
「知ってるの?」
「話は聞いた」
肉が籠へ入った。少女は葱を少し持ち上げ、潰れない位置へずらす。
「早川と一緒に住むんですって。さっき二人で帰っていったわ」
「そうか」
「でも、会ったばかりなのに喧嘩したのよ。早川が、歩くときに少し――」
岸辺がこちらを見た。
「お前も混じったのか」
「私は窓口へ案内しただけ。終わってから会ったの」
それならいい、とも言われず、また歩き出す。少女は追いついて続きを話した。
「シャツをもらって、すごく喜んでいたわ。二枚もらえるのかって、何度も確かめて」
「持ってなかったんだろ」
「私のも交換してもらったの。直している間に何を着るんだって言われて」
岸辺は袖口へ一度目をやった。
「替えはあっただろ」
「あるけど、さっき自分で、洗っている間に着る分も要るって言ったから」
「なら、話が早くてよかったな」
卵の前で足を止めた。割れていないか確かめてから籠へ入れると、岸辺が取っ手を掴む。代わろうとしたが、葱が身体に当たってしまい、少女は横へ避けた。
「荷物を持つのは、あまり得意ではなさそうだったわ」
「誰が」
「デンジ。タオルが何度も落ちそうになって。でも、最初は持てるって言っていたの」
「持てなかったのか」
「最後は私も持ったわ」
岸辺は何も言わずに通路を曲がった。少女もついていきかけ、棚の表示を見て足を止める。
「洗剤、こっちよ」
手を伸ばした岸辺より先に、容器の表を確かめた。今度は柔軟剤ではない。
「これで合ってるわ」
「信用がねえな」
「前のは、まだ一本残っているもの」
籠へ入れてから、隣の詰め替え用も見た。こちらの方が少し安い。家に容器があれば、次はこっちを買える。
岸辺はその間に酒を取りに行っていた。
*
デンジは二杯目の飯をよそった。
少なめに入れる理由がなかったので、一杯目と同じくらいにする。食卓へ持っていくと、アキが茶碗を見た。
「食える分だけにしろよ」
「食えるって。お前はもういらねえの?」
「あとで食う」
それなら残しておかなければならない。炊飯器の中を思い出して、もう一杯くらいならありそうだと計算する。
肉と野菜を飯へ載せて食べると、タレが米に染みていた。別々に食べるよりうまい気がする。今度は皿ごと傾けようとしたところで、アキに止められた。
「箸で取れ。こぼす」
「一緒にした方がうまいんだよ」
「味の話はしてない」
渋々、箸で二度に分けて載せた。
腹はもう空っぽではなかった。それでも口へ入れれば食えるし、次を取る手も止まらない。向かいでアキが食べ終わり、茶を飲み始めても、デンジは残った米を集めていた。
「明日の朝も、ここで食うんだよな」
「ああ。出る時間はあとで言う」
「パンあんの?」
「ある」
「ジャムも?」
「あるから、先に今のを食え」
デンジは茶碗を口へ寄せた。
明日はパンだ。今日も食ったが、明日も食えるらしい。ジャムまであるなら、先に確かめておいた甲斐があった。
最後の米を飲み込み、箸を置く。
「うまかった」
「皿、流しに持ってこい」
「ごちそうさまでした」
言い直したが、同じように皿を持たされた。
食ったあとも仕事があるのかと思ったものの、アキが洗い始めたので、デンジは横から見ていた。自分の茶碗も一緒に洗われている。
「俺、やんなくていいの?」
「今日はいい。明日から手伝え」
「これ洗うだけ?」
「洗うだけで済むように、こぼすなって言ってる」
食卓を振り返ると、タレが少しついていた。指で拭こうとしたら布巾を渡される。
文句は多いが、何も食わせず働かせるわけではない。
タレを拭き取り、布巾を戻した。
*
帰りは岸辺が買い物袋を持ち、少女は卵の入った方を抱えた。
手を下げて歩くと葱が膝へ当たるので、少し持ち上げる。岸辺の袋からは、ときどき瓶の音がした。
「デンジ、女の人には少し喋り方が違うのね」
「お前に何か言ったのか」
「窓口の人に。早川とはずっと言い合っていたのに、名前を聞かれたら、ちゃんと答えていたわ」
「答えなきゃ服が出ねえだろ」
「そうだけど」
角を曲がると、庁舎へ行くときに通ったパン屋が見えた。もう品物が少なくなっていて、店員が空の籠を重ねている。
少女は店先を見ながら続けた。
「最初は、私の話もよく聞いてくれていたのよ」
「最後は?」
「……道を少し間違えてから、ずっとその話をするの」
岸辺の足は止まらなかった。
「どこへ連れてった」
「階段の前まで。下りていないわ」
「迷うにしちゃ近いな」
「迷ってはいないの。昨日行った方へ曲がっただけ」
そう答えてから、デンジにも同じことを言ったと思い出した。二人とも、自分がどこまで行ったかより、間違えたことの方が気になるらしい。
「でも、窓口の場所は覚えたみたい。次は一人で行けると思うわ」
「なら案内した甲斐はあったな」
卵の袋を抱え直した。角が腕へ食い込んでいたので持つところを変えると、岸辺が歩調を緩める。
「重いか」
「重くないわ。卵を下にしたくなくて」
もう一つの袋から洗剤を出してもらい、そちらへ卵を移す。空いた方には葱と軽いものだけが残った。
持ちやすくなった袋を下げ、少女は隣へ並んだ。
「明日も会うかしら」
「公安にいりゃ会うだろ」
道を間違えたことは、もう言わないでくれるといい。けれど言われたら、タオルを落としかけたことも覚えていると返せる。
家の前に着いたので、鍵を出す岸辺のために袋を一つ受け取った。
*
アキの家では、寝る場所まで決まっていた。
押し入れから出した布団を敷いてもらい、デンジはその上へ腰を下ろした。沈む。手をついても床に当たらないので、もう一度、今度は少し強く押してみる。
「跳ねるなよ」
「跳ねてねえじゃん」
「今からやりそうな顔してた」
「俺の顔ことまで怒んなよ」
アキは枕を置き、部屋の隅を指した。
「脱いだ服はまとめとけ。明日洗う」
「今日もらったばっかだぜ?」
「着たら洗うんだよ」
デンジは自分のシャツを見た。汗はかいたが、洗えば落ちる程度だ。そういうときに洗うものらしい。
言われた場所へ服を置き、支給された寝間着へ着替える。アキは隣の部屋で書類を広げていた。帰ってきてもまだ紙を見るのかと覗くと、用がないなら寝ろと言われた。
「まだ眠くねえよ」
「なら静かにしてろ」
「テレビ見ていい?」
「音を下げろ。隣にも人が住んでる」
つけ方を聞く前にリモコンを渡された。押してみると画面が明るくなり、知らない男が笑っている。チャンネルを変えると別の男。もう一度押すと、料理が映った。
さっき食ったばかりなのに、こっちもうまそうだった。
しばらく見てから、デンジは画面の下にある棚へ顔を近づけた。何枚か写真が置いてあるわけでもなく、時計と、細かい物の入った箱があるだけだ。
「なあ。さっきの女、ここ来たことあんの?」
隣から紙の音が止まった。
「案内してもらった奴か」
「そう。お前とよく訓練してるって」
「ここではやらない」
「そりゃそうだろ。狭いし」
デンジは画面へ顔を戻した。
「来たら、階段間違えんじゃねえの」
「お前もさっき、下の階で止まっただろ」
「あれはお前待ってたんだよ」
返事はなかった。
テレビの中では、焼いたパンに何かを塗っていた。ジャムだろうか。明日の朝、棚を見れば分かる。
しばらくするとアキが立ち、戸締まりを確かめに来た。窓の鍵を押し、カーテンを引く。時計を見てからリモコンへ手を伸ばしかけたので、デンジは先にテレビを消した。
「寝んの?」
「お前も明日は早いぞ」
布団へ入ると、足を伸ばしても端が余った。横を向けば背中まで覆えたし、枕へ頭を載せても首が痛くならない。
アキが照明へ手を伸ばした。
「朝、勝手に出るなよ。起こすから待ってろ」
「飯、先に食っててもいい?」
「起きてから聞け」
明かりが消えた。
隣で襖が閉まる音を聞きながら、デンジは毛布の下で足を動かした。腹が膨れていて、身体も温かい。胸の紐が寝間着に触れる。
ポチタも、ここで一緒に寝られたらよかった。
胸へ手を置いて、目を閉じる。
言えば文句はつくだろうが、アキならタオルくらいは出す気がした。
*
家に入ると、少女は先に卵を冷蔵庫へしまった。
古い方を手前へ出し、新しく買ったものを奥へ置く。葱は袋から抜いて長さを揃え、洗剤は流しの下へ。岸辺が酒を置きに行っている間に、空の袋が二枚になった。
「今日の訓練、姫野から聞いた?」
「聞いた。人を運んだんだろ」
「持ち上げるところまではできたわ」
「そこからどうした」
「歩いたら、足が床についたの。もう少し高く持てばいいのかと思ったけど、肩を貸す方をやることになって」
岸辺は椅子を引いた。少女も鞄からノートを取り出す。
「最初に、歩けるか聞くんだろうが」
「聞いたわ。歩けるって言ったの。でも私が先に行くから、速いって」
「ああ」
それだけで、何があったか分かったような返事だった。
「明日もやるの。足をつくまで待つことと、どこが痛いか聞くこと」
「忘れないうちに書いとけ」
ノートを開き、言われたことを書いた。二行で終わったので、持つ場所を先に確かめる、ともう一行足す。
しばらく眺めてから、別の頁へ今日の支給品を書き始めた。シャツ一枚。破れたものは窓口へ返却。書き終えたところで、岸辺が台所から声をかける。
「飯、手伝うなら閉じろ」
「今行くわ」
立ち上がり、買ってきた肉を冷蔵庫へ入れた。使うのは古い方だ。取り出して岸辺へ渡すと、分かってる、と言われた。
少女は皿を二枚出した。
「デンジも、今ご飯を食べているかしら」
「早川なら食わせるだろ」
「服も、自分で持てるって言ったのに早川が持って帰ったのよ」
岸辺は肉を切りながら、そうか、とだけ返した。
食卓に箸を置いてから、少女は自分の袖を見た。新しいシャツを汚す前に着替えた方がいい。部屋へ戻り、脱いだものを広げると、袖口はどちらも裂けていなかった。
朝、持っていったシャツはもうここにはない。少し惜しかったが、明日着るものを直さずに済む。
畳んで置こうとして、手を止めた。一度着たのだから洗う方だ。洗濯物の籠へ入れ、普段の服に袖を通す。
台所へ戻ると、岸辺がちょうど火を止めた。
「箸は出したわ。ほかに何かある?」
「座れ。冷めるぞ」
少女はノートを食卓の端へ寄せ、皿を置く場所を空けた。
湯気の向こうで岸辺が椅子を引く。箸を取る前に、少女はもう一つ思い出した。
「そういえば、デンジが――」
「飯のあとにしろ。そいつの話ならあとで聞いてやる」
開きかけた口を閉じ、まず一口食べた。
何を話そうとしたのだったか、噛んでいるうちに分からなくなった。ネクタイか、ロッカーの鍵か。どちらも話した気がする。
明日会ったら、ほかのことを聞けばいい。
少女は皿の肉を箸で分け、今度は熱いうちに口へ運んだ。