不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第六話 仕事の理由
ジャムは一種類ではなかった。
昨夜、あるかどうかは確かめた。しかし、何種類あるかまでは聞いていない。デンジは棚から出した瓶を食卓へ並べ、奥に残っていたもう一本にも手を伸ばした。
「いちごジャム、梅ジャム、オレンジジャム~……」
蓋を開けるたびに、違う色が顔を出す。どれもまだ残っているし、パンも一枚ではなかった。まずいちごを塗り、その横へ梅を落とすと、スプーンの背で押し広げた。
境目が混ざったが、どうせ同じ口へ入るのだ。オレンジもその上へ載せてしまう。
「バターと蜂蜜~。あとシナモンもかけちゃお」
振ってもなかなか出てこないので、瓶の底を強く叩いた。茶色い粉がどっと落ちたが、蜂蜜をかければ馴染みそうだった。
パンを持ち上げ、皿の上で少し傾けてみる。塗ったものが端まで寄ってきたので、慌てて水平に戻す。
「最強のパンができちまったぜ~」
アキが台所から振り向いたときには、もう口へ運んでいた。
「うまっ」
噛んだところから甘いものがはみ出して、唇につく。舐め取ってもう一口かじると、今度はバターの塊に当たった。ここもうまい。次はどこを食うか迷い、いちごの多い角へ向きを変える。
その向こうで、アキは食卓を見ていた。
開いたままの瓶。横倒しになったシナモン。パンくずとジャムのついたスプーンが、皿からはみ出している。蜂蜜は瓶の口から垂れ、置かれた場所を丸く囲んでいた。
「……お前、何本開けた」
「そこにあったやつ。お前も作れば? 全部載せんの、うめえぞ」
「食卓にまで載せるな」
差し出された布巾を、空いている手で受け取った。口を拭こうとすると、手首を止められる。
「そっちじゃない。下」
「今、食ってんだけど」
「垂れてるんだよ。皿の上で食え」
パンを皿へ戻し、瓶を持ち上げて拭いた。蜂蜜が薄く延びたので、もう一度。同じところを擦っている間にもパンが気になり、デンジは皿を手元へ引き寄せた。
「明日もこれ作っていいんだよな?」
「片づけまでやるならな」
「じゃあ作る」
アキは何か言いかけたが、先にシナモンの瓶を起こした。
それを見ながら、デンジは残りのパンを口へ押し込んだ。明日はもう少し厚く塗ってもいい。皿の上で食えば、落ちた分も拾える。
「食ったら蓋を閉めろ。出る時間までに着替えとけよ」
返事をしようとしたが、まだ口がいっぱいだった。片手を上げると、アキはそれを待たずに台所へ戻っていった。
*
丸めたマットを壁際へ押し込むと、隣の一本が倒れてきた。
肩で受け止めたものの、両手はまだ塞がっている。押し返そうと身体を捻ったところへ姫野の手が伸び、倒れた一本をひょいと起こしてくれた。
「そっちから入れると、毎回倒れてくるよ。端を先に空けな」
「先に言ってくれればよかったのに」
「言おうとしたら、もう持ち上げてたんだもん」
少女は抱えていたマットをいったん下ろした。端を空けてから立てかけると、今度はどれも倒れてこない。
振り返ると、姫野は椅子へ座り直していた。
「もう一回やるの?」
「んー、もう脚が駄目。立てない」
「さっきは立っていたわ」
「今、悪くなったの」
「どこが痛い?」
「両脚」
「さっきより増えてるじゃない」
姫野は椅子の背へもたれ、両手を膝に置いた。
「さあ、どうする?」
「早川を呼んでくるわ。二人なら運べるでしょう」
「あ、待って。それはやめよう」
扉へ向きかけた少女が戻ると、姫野はもう片脚を引いていた。
「片方は治ったから」
「呼ばれると困るの?」
「朝から何やってるんですかって言われる」
「訓練でしょう?」
「そうなんだけどね」
差し出された腕を肩へ回し、椅子から立つのを待った。昨日はここで先に歩いてしまい、引っ張られると姫野に言われたのだ。今日は靴底が二つとも床についたのを確かめてから、隣の椅子へ向かう。
「速くない?」
「うん。このくらい。あ、そっちは痛いから、もう少し下を持って」
脇へ入れていた手をずらすと、姫野がこちらへ体重を預けた。自分一人なら三歩で着く距離なのに、ずいぶんかかる。ようやく座ってもらい、腕を外したところで扉が開いた。
「おはようございます。まだやってたんですか」
アキの後ろから、デンジが顔を出した。
「何してんの?」
「歩けない人を運ぶ練習よ。今、終わったところ」
「へえ。朝っぱらから大変だな」
姫野は椅子から立ち上がった。
「キミがデンジ君? 私は姫野。よろしくね」
「あ、ども。よろしくお願いします」
さっきまでより背筋の伸びたデンジを見ていると、姫野が少女の肩へ手を置いた。
「この子に運んでもらってたの。昨日より上手になってて助かったよ」
「今日は途中で勝手に歩かなかったものね」
「私が?」
「昨日、椅子に着く前に離れていったでしょう」
「ああ。電話が鳴ったから」
「急に軽くなって、落としたのかと思ったわ」
デンジが吹き出した。姫野も笑っていたが、アキがこちらを見ているのに気づくと、少女の肩から手を離す。
「今日はちゃんと怪我人してたよ」
「最後に、早川を呼ぼうとしたら治ったの」
「そこも話すんだ」
アキは姫野の脚を見てから、少女へ顔を向けた。
「準備が済んだら来てくれ。先に一件行く」
「分かったわ。上着を取ってくる」
椅子にかけていた上着へ手を伸ばすと、デンジがアキの後ろで自分の脚を軽く叩いた。
「こいつも昨日、俺が運んだぜ」
「お前が蹴ったからだろうが」
「先に殴ったのはそっちじゃん」
姫野がアキへ顔を近づけた。
「まだ痛いの?」
「仕事に支障はありません」
「そこまで聞いてないって。湿布は?」
「……貼りました」
少女が鞄を持って戻ると、デンジが小声で尋ねてきた。
「あの人には、ちゃんと答えんだな」
「先輩だからでしょう」
「俺にもあれくらい喋りゃいいのによ」
「聞こえてるぞ」
デンジはすぐに扉へ向かった。少女も続こうとしたが、姫野に袖を軽く引かれる。
「裏返し」
「え?」
襟元を確かめると、上着の縫い目が外へ出ていた。慌てて脱ぐ少女の横を、アキが黙って通り過ぎる。
デンジだけが扉のところに残っていた。
「それも昨日から?」
「今日はじめてよ。先に行っていて」
「道、分かる?」
「上着を直したら行くわ」
姫野が袖を一本持ってくれたが、肩が揺れていて、なかなか腕を通せなかった。
*
家の中で大きな音がしたのは、一度だけだった。
裏手から二階を見上げると、開いた窓のカーテンが揺れている。窓枠の向こうを影が横切ったが、何も降りてはこなかった。少女は塀との狭い隙間で立つ位置を変え、裏口にも目を配る。
道路の方では、避難していた男が警察官へ話しかけていた。
「あそこ、一人暮らしだったんですよ。最近見ないと思ってたら、こんな……うちには、もう帰れるんですか」
返事はよく聞こえなかった。男は話を聞きながらも二階を見ている。
カーテンが膨らみ、窓の外へ少しはみ出した。風だった。
少女が裏口へ視線を戻したところで、表から名前を呼ばれた。
「討伐は済んだ。そっちは?」
「何も出ていないわ。裏口も開かなかった」
通路を抜けると、アキは警察官へ説明を始めていた。入れ違いに玄関から出てきたデンジは、斧を下げ、空いた手で髪を掻き回している。
顔にも服にも傷はなさそうだった。それなのに、足を止めるなりアキの背中を睨む。
「倒したんだろうがよ。まだ文句あんのかっての」
「何かあったの?」
「変身しろって。斧で済んだのに、わざわざ痛い思いしてどうすんだよ」
刃を外へ向けないよう持ち替え、門の脇へ寄る。その手つきには、昨日シャツとタオルを落としかけていたときのもたつきがなかった。
「前からこれで食ってたんだぜ、俺。昨日から悪魔殺し始めたみてえに言いやがって」
少女は二階を見た。朝の片づけより短い時間で終わってしまった。中で何があったのか分からないまま、開いた窓だけが見えている。
先ほどの男が、警察官に付き添われて自宅へ向かった。斧に気づいて足を止めると、デンジは刃を脚の陰へ寄せた。
「もう死んでますよ。家のことは、そっちの人に聞いてください」
道を空けて、通り過ぎるのを待つ。今度は警察官が二人、魔人のいた家へ入ろうとしたので、少女は門を押さえた。
掌に何かがついた。
鉄棒に、赤い筋が残っている。すぐ隣にある斧の刃にも血がついていた。
「デンジ、出るときにここへ引っかけた?」
「あー……当たったかも。悪ィ」
開いた掌から袖へ目を移し、デンジが付け足した。
「服で拭くなよ。昨日もらったばっかじゃん」
ハンカチを取ろうとしたが、汚れていない方の手では反対のポケットへ届きづらい。デンジも手を出しかけ、自分の指を見て引っ込めた。
「俺も洗いてえ。なあ、もう帰っていいだろ」
「引き継ぎが終わるまで待て」
「だから待ってるって。早く終わんねえかなって話だよ」
アキは警察官との話へ戻った。少女がようやく布を広げると、デンジも肩越しに覗き込んでくる。
「それじゃ全部落ちねえな」
「手を洗ってから、こっちも洗うわ」
掌を拭き、赤くなったところを内側へ折った。門についた血を警察官へ伝えると、もう触らなくていいと言われる。
少女は手を離し、布を汚れていない面で包んでポケットへ収めた。
*
帰り道、アキが報告のために公衆電話へ入った。
少女は少し離れた塀のそばで待ち、デンジは靴先で小石を転がしていた。拭かれた斧の刃には覆いがかけられ、足元へ立ててある。
アキはときどき二人の方を見たが、受話器はまだ置かれそうになかった。
「朝のやつさ。人を運ぶのって、そんなに練習すんの?」
少女が顔を向けると、デンジは塀へ背を預けた。
「持ち上げて運ぶだけじゃ駄目なんだ?」
「歩ける人なら、肩を貸した方がいいこともあるの。私は先に足を出してしまうから、待つようにって」
「担いだ方が早くね?」
「姫野を持ち上げたら、そこは怪我してる場所だから触るなって言われたわ」
「面倒くせえな。俺だったら、さっさと運んでほしいけど」
少女も、昨日はそう思っていた。早く着けば、それだけ早く休める。ところが急ぐほど姫野の足が床を擦り、歩いた距離をそのまま引き返して、やり直すことになった。
「お前、戦う方が慣れてんだろ。何でそっちやってんの?」
「運ぼうとして、余計に痛くしたことがあるから」
ポケットへ手を添えると、少し湿っていた。離してから言葉を継ぐ。
「力は足りるの。持ち上げられないわけじゃなくて……どこを持てばいいか分からないのが、嫌なのよ」
「じゃあ、あいつも持てんの?」
デンジが電話の中を指した。
「早川は、まだわからないわ。でも、姫野なら持てる」
「俺、昨日そいつ運んだけどよォ、重いしうるせえし。途中で置いてこうかと思ったぜ」
「歩けなくしたのはデンジでしょう」
「そこだけちゃんと覚えてんのな、お前!」
アキがこちらを見たので、二人とも口を閉じた。
受話器へ話し始めたのを確かめてから、デンジが塀から背を離す。
「……お前も、そういう理由あんのな」
「運ぶ練習をする理由?」
「仕事だよ。あいつにも言われたんだ。軽い気持ちでやる奴は死ぬとか、何とか」
蹴った小石が溝の縁へ当たり、足元へ跳ね返ってきた。もう一度蹴ろうとした靴が、その手前で止まる。
「今朝、すげえうまいパン作ったんだけどさ」
少女は電話へ向けていた身体を、デンジの方へ戻した。
「ジャムが三つもあんの。全部塗って、バターと蜂蜜も載せて。あと、粉のやつ」
「粉?」
「シナモン。パンのとこ残さねえようにすんの」
両手で示された大きさは、普通の食パンだった。それだけ載せるなら、何枚かに分けた方が持ちやすそうだが、デンジは一枚に全部載せたところを気に入っているらしい。
「それ明日も食いてえってんじゃ駄目なのかよ。俺だって逃げずに悪魔殺したんだぞ」
少女は手元から顔へ目を上げた。
もう笑っていなかった。爪の縁を親指で擦り、残っていた血を見て、また手を下ろす。
「……ジャム、明日の分もある?」
「あ? あるよ。瓶ごと食ったわけじゃねえし」
「それなら、明日も作れるでしょう」
デンジは電話の中へ顔を向けた。
「食いすぎとか言われっかな」
「どれくらい使ったの?」
「一枚分だよ。……山にはなってたけど」
少女の口元が緩むと、デンジも少し笑った。
「何だよ。うまかったんだからいいだろ」
「山になったパンは、食べたことがないわ」
「食えば分かるって。明日は塗る順番変えてみる。蜂蜜が端っこから落ちてよォ」
「傾けたら、また落ちるでしょう」
「そこ分かったから次は平気」
電話を終えたアキが近づいてきた。
「何の話だ」
「仕事」
「お前が?」
デンジがすぐに少女へ向き直る。
「ほらな!?」
「していたわ。明日の朝ご飯の話も」
「つながってんだって! 今、聞いてただろ!」
アキは二人を見比べたが、聞き直さず、手を洗うぞと歩き出した。
そのあとを追いながら、デンジが顔を寄せてくる。
「お前も食えば分かるから。今度作ってやるよ」
「全部載せたものを?」
「そこ減らしたら普通のパンだろ。ちゃんと全部ある日に来いよ」
*
庁舎へ戻ると、階段の上から姫野が手を振った。
「おかえり。早かったね」
少女は血のついた手を身体の脇へ寄せたが、すぐに見つかった。
「それ、どうしたの?」
「門についていたの。デンジの斧が当たって」
「俺、拭くって言ったぜ。そいつが先に触ったんだよ」
「触る前に言ってほしかったわ」
「だから、言おうとしたんだって」
姫野が二人を見比べる。
「朝もそんな話したね」
「姫野も、先に言ってくれなかったでしょう」
「ありゃ、私まで怒られちゃった」
少女は返事をする代わりに、汚れた手を少し持ち上げた。
「洗ってくるわ。このままだと鞄も持てないから」
「そこの洗面所、今掃除してるよ。奥の方へ行きな」
教えられた方へ歩きかけると、姫野もついてきた。
「報告は終わったの?」
「終わった。あとはアキ君に渡すだけ」
「じゃあ、早川はあっちよ」
「分かってるよ。キミがまた扉を間違えないか見てあげようと思って」
足を止めた少女の後ろで、デンジが笑った。
「もう知ってんじゃん」
「昨日、私が話したの」
「俺には言うなっつったのに?」
「わざわざ言わなくていいって言ったのよ」
姫野は笑いながら、持っていた書類をアキへ渡した。
「はい、これ。二人とも仲よくやってるね」
「ずっとこの調子です。先輩まで混じらないでください」
「私は洗面所を教えただけだよ」
蛇口をひねると、指にこびりついていた血が水へ混ざった。爪の際を擦り、指の間まで洗ってから振り向く。姫野は入口に寄りかかって待っていた。
「今日は誰も運ばずに済んだ?」
「ええ。裏口にも誰も来なかったわ」
「そっか。じゃあ朝ので足りたね」
「姫野なら、まだ運べるけど」
「いやいや、今は歩けるから」
「知ってるわ」
姫野が口を閉じたので、少女は濡れた手を拭きながらその顔を見た。少しして、向こうが先に笑う。
「……朝のこと、まだ覚えてるんだ」
「今日のことだもの」
廊下からアキに呼ばれ、姫野は入口を空けてくれた。通り抜けるときに背中を軽く叩かれたが、今度は少女も、その手を避けるように半歩先へ出た。
*
マキマの部屋には、アキとデンジが先に来ていた。
外の警戒について書いた紙を差し出すと、マキマは内容を確かめ、少女の手へ視線を移す。
「今日は怪我をしなかった?」
「はい。魔人は外へ出てこなかったので」
「手も大丈夫?」
「血がついただけです。門に残っていたのが、触ったときに」
マキマは紙へ目を戻し、短く書き足した。
「明日も早川君と出てもらう予定だから、終わったら聞かせてね。今日は、もう一人紹介したい子がいるの」
控えを受け取り、少女はアキの隣へ寄った。
これからデンジは、巡回や小規模な任務をバディと一緒に行うことになるらしい。説明の途中でこちらを見られたので、少女は首を振る。
「私も今聞いたの」
「まだ何も聞いてねえじゃん」
「私と組むのかと思ったんでしょう」
「まあ、そうだけど」
続きが出る前に、扉が開いた。
「おうおう! ひれ伏せ、人間!!」
角のある女が、長い髪を揺らして入ってきた。
白いシャツの裾は外へ出ていて、ネクタイも緩い。部屋の中央まで来ると足を開き、こちらを見回してからデンジへ指を突きつける。
「ワシの名はパワー! バディとやらはウヌか!?」
「名前パワー!? つーか、魔人なの!?」
デンジの指も、自分から相手の頭へ向いた。
「血の魔人のパワーちゃん。理性があるから、公安で働いてもらっているの」
マキマが答えると、今度はアキへ振り向く。
「さっきは殺したじゃん。働いてる奴もいんのかよ!」
「今、説明されたろ。全部同じじゃない」
デンジはもう一度パワーを見た。角から顔へ視線が下がり、そのまましばらく止まる。
「まあいいか! よろしくなあ!!」
パワーは返事をせず、その横を通り過ぎた。少女の前で止まり、鼻を動かす。
「ウヌ、血の臭いがするのう」
「さっきついたの。もう洗ったわ」
手首へ指が伸びてきたので、控えの紙ごと引いた。
「見てやるから出せ」
「何を見るの?」
「血じゃ。まだついとるかもしれん」
「自分で見られるわ。触らなくていい」
パワーは構わず、もう一度手を伸ばしかけた。
「パワーちゃん」
指が止まった。
マキマへ顔を向けるまでに、少し間があった。少女から離れ、腕を組み直す。
「今日はデンジ君と出てもらうよ。仲よくできる?」
「で、できるに決まっとる。ワシに任せておけ」
「よかった。二人とも、説明を聞いてね」
デンジはパワーとマキマを見比べていたが、アキに肘で促されて前を向いた。
巡回する区域の話が始まると、パワーの靴先が落ち着かなくなった。扉を見て、窓へ顔を向け、外へ出られる時間を尋ねかけては、マキマに先を続けられる。
少女は紙の端を持ち直した。さっき爪の当たったところだけ、小さく折れていた。
*
廊下へ出るなり、パワーは両腕を伸ばした。
「長い! いつまで待たせるんじゃ!」
「お前、途中から聞いてなかったろ。どこ行くか分かってんの?」
「ウヌが聞いとったじゃろ」
「俺も昨日来たばっかなんだよ!」
少女は開いたままの扉を振り返った。アキは机の前で書類を受け取っていて、まだ出てこられそうにない。
「出口までなら一緒に行くわ。私も下へ用があるから」
「よし、ついてこい!」
パワーは反対へ歩き出し、すぐ近くの扉を開けた。
箒が倒れてきたので、少女は柄を掴む。雑巾を掛けた棚と、重ねたバケツ。パワーは中を一度見回すと、何も言わずに閉めようとした。
「待って。まだ手が」
箒を立て直し、手を抜いた。背後ではデンジが声を殺している。
「……お前、何しに開けたんだよ」
「確認じゃ」
「掃除当番かと思ったぜ」
「違うわ! さっさと案内せい!」
少女が歩き出すと、今度は二人ともついてきた。角を曲がる前にパワーが追い越しかけたので、右を指す。
その脇からデンジが顔を寄せた。
「昨日のお前と――」
「私は扉まで開けてないわ」
言い終えてから見ると、もう笑っていた。
何か言い返すより早く、パワーが振り向く。
「何を話しとる。ワシにも聞かせろ」
「道の話だよ。まだ着かねえなって」
「なら、もっと早く歩け!」
階段へ出ると、パワーは勝手に下り始めた。デンジがあとに続き、少女も手すり側へ寄って足を速める。下から、早く悪魔を殺させろという声が上がってきた。
一階の廊下へ出たとき、外で猫が鳴いた。
パワーが急に止まり、デンジが背中へぶつかりかける。文句を言われるより早く窓辺へ走り、植え込みの向こうを覗き込んだ。
低い枝の下から、茶色い猫が出てきた。建物を見上げて口を開き、そのまま大きく伸びをする。
パワーは窓枠へ両手をかけていた。猫が歩き出しても、顔だけがそれを追う。
「猫、好きなの?」
少女が尋ねると、窓枠から指が離れた。
「……違っただけじゃ」
もう一度聞こうとしたときには、パワーはデンジの肩を押して通り、出口へ向かっていた。
猫は植え込みの端へ座り、前脚を舐め始めた。
「おい、こっちでいいんだろ?」
呼ばれて、少女も歩き出した。
受付では巡回に出る書類を確認された。待っている間にパワーが机上のペンを取り、デンジがその手首を掴む。
「それ持ってくなよ」
「借りただけじゃ」
「じゃあ置けよ。お前、名前もまだ呼ばれてねえだろ」
パワーはペンを置いたが、転がる先までは見なかった。少女が端で止め、職員の方へ寄せる。
書類を受け取って立ち上がると、パワーはこちらへ顎を向けた。
「ウヌは来んのか」
「今日はここまで。早川に書類を返してくるわ」
「なら、そこで待っとれ。ワシが悪魔を殺してくる」
「二人で行くんだろうがよ」
出口を押さえている間に、パワーは先に外へ出た。デンジも続きかけ、横を通るときだけ声を落とす。
「こいつ、ずっとこうなのかな」
「さあ……私も今日会ったばかりだから」
「だよなあ……」
外から呼ばれ、「聞こえてるって!」とデンジが返した。
二人が歩道へ出たところで扉を閉める。ガラス越しでも、パワーが巡回の紙を引っ張り、デンジが取り返そうとしているのが見えた。
*
アキは執務室で、机に広げた書類を読んでいた。
少女が控えを返すと、入口の方を見てから尋ねる。
「あいつらは?」
「出ていったわ。受付で書類ももらっていたから」
「そうか。明日の話、今していいか」
椅子の脇へ立つと、別の紙を手前へ引いてくれた。地図にいくつか印があり、その横に写真が並んでいる。
「翼のある悪魔を見たって通報が重なってる。明日は目撃した人に話を聞いて、跡を調べる」
「まだ、そこにいるの?」
「分からない。見た場所も時間も違うからな」
写真を見てもいいかと尋ねると、一枚渡された。
軒先の雨樋が、金具ごと潰れていた。その下には二階の窓が写っている。地面から手を伸ばして届く高さではない。
「何か、上から乗ったのかしら」
「その可能性はある。持ち主が音を聞いてるから、明日確かめる」
写真を返すと、今度は薄い手帳を差し出された。聞いた相手と場所、時間を分けて書くように言われ、最初の頁を開く。
「話してくれたことは、全部書くの?」
「関係のあることを。分からなければ、その場で俺に聞け」
「それ、最初は分かんないよねえ」
廊下から姫野が入ってきた。脇に抱えた書類を自分の机へ置き、少女の手元を覗く。
「書くのに夢中になると、次の話を聞き逃すし。アキ君、最初の一件は一緒に聞いてあげて」
「そのつもりです」
「知ってる。キミにも先に言っとこうと思って」
少女は姫野へ顔を向けた。
「姫野は一緒じゃないの?」
「私は別の用。アキ君を借りるんだから、ちゃんと返してね」
「私が連れていくんじゃないわ」
「じゃあ、二人とも帰ってきて。写真より分かりやすい話、待ってるから」
ペンを挟もうとしたところで、腹が鳴った。
アキが壁の時計を見た。姫野もつられて見上げ、もうこんな時間かと呟く。
「お昼にしよ。私、朝から何も食べてない」
「食べてきてください。訓練もあるんですから」
「そう言うと思った。分かってるから、今はご飯にしてよ」
机にはまだ紙が広がっていた。少女が手帳を開いたまま椅子へ腰を下ろしかけると、姫野が背もたれへ手をかける。
「続きはあと。今書いても、お腹の音で聞こえないかもしれないし」
「そんなに大きくないわ」
「私は聞こえた」
「……二人とも、聞こえたのね」
アキは答えず、写真を封筒へ収めた。
*
食堂へ向かう途中で、姫野に何を食べたいか聞かれた。
「パンはあるかしら」
口にした途端、アキがこちらを見た。
「さっきの話か」
「デンジが、全部塗ると美味しいって」
「あれを作るつもりなら皿の上でやれよ。今朝、食卓に蜂蜜が垂れてた」
姫野が隣へ並んだ。
「何それ。アキ君、朝から大変だったんだ」
「明日もやるらしいです」
「まだジャムがあるって言っていたわ。次は傾けないようにするって」
「じゃあ明日は大丈夫じゃん」
「先輩までそういうことを言わないでください」
姫野に何を塗ったのか聞かれ、少女はいちご、梅、オレンジと挙げていった。蜂蜜まで言うと笑い出されたが、バターもシナモンも残っている。
「一枚に? それ、途中で嫌にならないのかな」
「美味しかったって。すごく」
「キミは食べたいんだ」
「どんな味かは、気になるわ」
食堂には、小さなジャムの容器がついたトーストがあった。少女がそれを選ぶと、姫野も同じものを頼み、アキだけが定食の列へ向かう。
席につき、包みを開けると、中はいちごだった。姫野の皿も同じだ。少女は二つを見比べ、売り場の方へ目をやった。
「オレンジはなかったかしら」
「今日はこれだけみたい。デンジ君の家じゃないと、全部は揃わないね」
アキが盆を持ってきた。
「俺の家です」
「はいはい。私も朝ご飯食べに行こうかな」
「先輩はまずちゃんと起きてください」
少女はパンへバターを塗った。温かいところから柔らかくなり、ナイフの跡が残る。
その上にジャムを載せようとしていると、姫野が自分の容器を差し出した。
「半分あげる。山にしたいんでしょ」
「姫野のがなくなるわ」
「私はバターだけでもいいから」
少女は少し考え、自分のパンを半分に切った。一方へジャムをまとめ、もう一方はバターだけにして、姫野の皿と交換する。
「これなら、両方食べられるでしょう」
「あ、そうするんだ。ありがと」
ジャムの多い方を持ち上げる。皿を寄せ、傾けないようにかじった。いつもより甘く、飲み込んでからもしばらく口に残る。
姫野も一口食べ、唇についたジャムを紙で拭った。
「これに、まだいろいろ載るの?」
「ええ。五つくらい」
「アキ君も一口どう?」
「いりません」
少女は残りを皿へ置いた。全部載せたら、これよりずっと甘いのだろう。朝からあんなに話したくなるほど美味しいのか、まだ分からない。
向かいでは、姫野がアキの定食を見ていた。
「パンだけだと、ちょっと足りなかったかな」
「追加で頼んできてください」
「まだ何も言ってないじゃん」
「箸を見てましたよ」
姫野は笑い、少女へ顔を向ける。
「ねえ、さっきの続き。何か分からないこと、あった?」
「今日は、外にいただけだから……」
言いかけて、窓から覗いた影を思い出した。
「二階で何か動いたの。デンジか早川だったと思うけど、顔は見えなかったわ。ああいうときも、声をかけていい?」
「いいよ。どの窓か分かるように言ってくれればね」
アキも箸を置いた。
「窓の右側か?」
「ええ。カーテンの奥を、入口の方へ」
「なら俺だ。次は入る前に、外から見える場所も確認する」
少女は鞄へ手を伸ばしかけたが、姫野にパンの皿を指された。
「忘れそうなら、あとでもう一回聞いて。今は食べちゃいな」
手を引っ込め、残りを取った。
アキが何かを覚えておくように書類の封筒へ短く書き込む。姫野はそれを横から覗きながら、結局、もう一皿頼んでくると言って席を立った。
「あ、キミも足りなかったら一緒に選ぼうよ」
「パンの続き?」
「今度はしょっぱいもの。アキ君がくれないから」
少女は最後の一口を飲み込み、椅子を引いた。
「私も、少しなら」
売り場へ向かう姫野を追いながら、明日デンジに話すことを考えた。
いちごだけでも美味しかった、と言ったら、全部じゃないと駄目だとまた言われるだろうか。
言われたら、今度こそ作ってもらえばいい。