不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話   作:@taka

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第七話 少女とナイフは使いよう

第七話 少女とナイフは使いよう

 

 雨樋が、屋根から半分ぶら下がっていた。

 

 豆腐屋の裏手で首を反らすと、潰れた金具の上で軒瓦までずれている。昨日、写真で見せてもらった場所だ。下からでは庇が邪魔になり、黒く汚れた縁の向こうまでは見えなかった。

 

「だから猫じゃないって、一昨日来た人にも言ったんだよ。猫が乗ったくらいで、あんなになるもんか」

 

 店主は前掛けで手を拭きながら、アキへ訴えた。

 

 夜中に大きな翼のあるものが屋根伝いに移動していたという通報は、ほかにもあった。二本先の通りでは窓が割れ、離れた住宅の壁には血らしきものが残っている。コウモリの悪魔かもしれない、と来る途中で聞かされたが、肝心の居場所はまだ分かっていない。

 

「音がしたのは何時ごろですか」

「仕込みに起きる前だから、二時か三時かねえ。うちのが先に起きてさ。俺に見てこいって言うんだよ。悪魔だったらどうすんだって話だろ」

「見に出たんですか?」

 

 少女が尋ねると、店主は窓を指した。

 

「そこから顔だけな。何もいなかったけどね」

「奥さんは?」

「布団の中だよ。自分で俺を起こしといて、あいつは――」

「隣のお宅でも、飛んでいくところを見た方がいると聞いたんですが」

 

 アキが手帳から顔を上げた。店主は隣家を指し、今度はそちらの住人について話し始める。留守の多い人なのかと思って聞いていると、いつの間にか雨樋を直せる業者の話になっていた。

 

 少女は手帳の余白へ「二時か三時」と書き、裏口の庇へ近づいた。

 

 縁に、黒い染みが点々と続いている。壁から流れたものではなさそうだ。背伸びしても届かず、足元の箱へ目を向けると、後ろから声がした。

 

「乗るなよ」

「まだ乗ってないわ」

「乗る前に言ってる。店の物だろ」

 

 振り返る間に、店主が笑って奥へ引っ込んだ。脚立を持ってくるから待っていろと言われ、少女は手帳を閉じる。

 

「奥さんにも聞いてみていい?」

「悪魔を見たかどうかな。夫婦の話は書かなくていいぞ」

「まだ書いてないでしょう」

 

 開いて見せると、アキは時刻の横へ指を置いた。

 

「誰に聞いたかも入れとけ。あとで確かめるときに要る」

 

 店主の名前を書き足したところで、裏口から脚立と一緒に奥さんも出てきた。

 

 夫が窓を開けている間、自分は別の部屋から外を見たのだという。

 

「そんなこと言ったか?」

「言いました。あんたが何もいなかったって騒いでるときに」

「じゃあ、そのときもう一度――」

「どちらへ飛んでいったか、覚えていますか」

 

 アキに尋ねられ、奥さんは商店街の外れを指した。

 

「向こうです。大きな布みたいなのが広がって、屋根の向こうへ行っちゃったの。鳥にしてはおかしいでしょう。怖くて、すぐ閉めましたけど」

 

 少女は脚立へ上がり、庇の縁を覗き込んだ。黒い染みは上にもついていて、一か所だけ雫の形に固まっている。

 

「早川。ここにも血みたいなのがあるわ」

「触らずに降りてこい。採るものを出す」

 

 伸ばしかけた手を引き、下へ降りる。脚立を譲ってから、奥さんへ向き直った。

 

「翼以外も見えましたか。顔や、脚とか」

「顔は……どうだったかしら。あ、腕。片方がおかしかったのよ」

 

 奥さんは自分の肘に手を添えた。

 

「こっちには出っ張ってるのに、反対にはなくて。暗かったから、見間違いかもしれないけどね」

 

 手帳に書こうとして、少女は顔を上げ直した。

 

「右と左、どちらがなかったんですか」

「そこまでは分からないわ。横を向いていたのかもしれないし」

 

 片方の腕がなかった、と書きかけたところへ線を引く。左右不明。見えなかっただけかもしれない。

 

 アキが脚立から降りてきたので見せると、紙を覗いたあと、そのまましまっていいと言われた。

 

     *

 

 午前中に三軒回り、二軒で話を聞けた。

 

 残る一軒では犬に吠えられただけだった。門から離れても鳴きやまないので、もう少し下がろうとしたところへアキが来る。犬はそこで口を閉じ、庭の奥へ引っ込んでしまった。

 

「何もしていないのに」

「俺もしてない」

「早川には吠えなかったでしょう」

 

 アキは門の脇にある表札を確かめ、手帳へ書き込んだ。少女も同じ住所を書こうとしたが、犬が戻ってきたので、続きは歩きながらにした。

 

 昼は通り沿いの定食屋に入った。

 

 生姜焼きが運ばれてきても、アキは広げた地図を見ていた。少女は皿を少し手前へ寄せ、タレが紙へ飛ばないように箸を取る。

 

「ここで見たのが一時過ぎ。そのあと豆腐屋の屋根へ降りてる。聞いた時間が合ってるなら、こっちへ抜けたんだろうな」

 

 指が赤い印を順に辿った。住宅の並ぶ通りを外れると、工場や資材置き場があり、その先には林が続いている。

 

「怪我をして隠れてるの?」

「血があいつのものならな。午後はこっちを回る。建物の中へは勝手に入るなよ」

「見つけたら先に言うわ」

 

 肉を一枚食べると、思ったより生姜の味が強かった。あとから甘いタレが口に残り、ご飯も続けて欲しくなる。

 

 向かいの皿は、まだ減っていない。

 

「早川も食べたら。地図は逃げないでしょう」

「食う。お前が俺の皿を見始めたからな」

「冷めそうだったのよ」

 

 アキが地図を畳む間に、少女は自分の皿へ箸を戻した。

 

「一枚ならいいぞ」

「……まだ欲しいとは言ってないわ」

「じゃあ食う」

 

 箸が伸びてきたので、それより先に端の一枚を取った。アキは何も言わず、空いたところのキャベツを寄せる。

 

「次は、自分のを大盛りにしろ」

「これが美味しいか、頼む前には分からなかったもの」

 

 残りはゆっくり食べた。店の窓から見える屋根にも雨樋がついていたが、どれも曲がってはいない。あれだけ大きなものなら、飛べば誰かに見つかりそうなのに。

 

 会計を済ませると、アキは入口を避けて無線を取った。調査した範囲と午後の予定を伝えている間に、少女は鞄へ手帳をしまい、首元に入った髪を引き出した。

 

 悲鳴が聞こえた。

 

 通りの向こうで人が足を止め、一人が空を指す。建物の間を大きな翼が横切った。その腕のあたりで何かが光り、聞いたことのない機械音と一緒に、黒い影が屋根の向こうへ落ちていく。

 

 地面が震えた。

 

 交差点の先から埃が噴き上がり、遅れてガラスが路面へ降ってきた。アキは無線へ場所を告げながら、すでに走り出している。

 

 あとを追おうとして、曲がり角に立ちすくむ男の腕を掴んだ。引き寄せた途端、さっきまで男がいた歩道へ窓枠が落ち、金属の角が跳ねる。

 

「建物から離れて! 向こうの通りへ行ってください!」

 

 男が走り出したのを確かめ、角から先を見た。

 

 ビルの二階に、コウモリの顔があった。

 

 壁を破って突き出した肩の後ろでもがく翼が、看板を押し落としている。その手前を刃のついた腕が横切り、人間ほどの大きさの身体が、悪魔の胸へ飛びついた。

 

 頭にも刃。だが、白いシャツと黒いズボンには見覚えがある。

 

「うっぜえんだよ! さっさと出せっての!!」

 

 声まで聞こえ、少女は足を止めた。

 

「……デンジ?」

 

 アキも上を見たが、停車した車の中に人がいるのを見つけると、すぐにそちらへ駆け寄った。運転手を降ろしながら、少女へ腕を振る。

 

「裏へ回れ! 建物から人を出す! 出口が使えるか見てこい!」

「デンジは――」

「こっちで見る! 奥まで一人で入るなよ!」

 

 割れた窓から机が滑り落ち、少女は路地へ飛び退いた。壁へ背をぶつけないうちに身体を返し、建物の裏へ走る。

 

 あのシャツは一昨日、窓口で受け取ったばかりだった。

 

     *

 

 裏口は内側から叩かれていた。

 

「誰かいないか! 開かないんだ!」

 

 取っ手を下げて押すと、扉は指二本ぶんほど動いて止まった。隙間の向こうに倒れた棚が見える。押し直しても、棚の脚が床を擦るばかりで動かない。

 

「扉から離れてください。棚にも触らないで」

「離れた! 上が崩れてくるんだ、早く!」

 

 片手を壁について、今度は取っ手を手前へ引いた。

 

 内側へ開く扉が歪み、蝶番のある側で木枠が裂ける。上の金具が抜けたところで縁へ持ち替え、重みを支えながら下側も引き外した。壁に立てかけると、棚の向こうにいた男がこちらを見ていた。

 

「鍵は開いてたんだけど……」

「棚を動かします。足、挟まっていませんか?」

 

 男が首を振ったので、棚を持ち上げて脇へ寄せた。奥へ続く廊下は埃で白く、どこかで水の流れる音がする。

 

 壁際の男は立ち上がろうとしたが、右足へ体重をかけたところで膝を折った。少女はその左側へしゃがみ、肩に腕を回してもらう。

 

「右足が痛いんですね。左はつけますか」

「ああ。そっちなら、何とか」

「それなら、立つところから一緒に。腕、ここで大丈夫ですか」

 

 男が肩を掴み直すのを待ち、少しずつ腰を上げた。

 

 外で大きなものが壊れ、肩に食い込んだ指へ力がこもる。少女も足を出しかけたが、男の左靴はまだ床から離れていなかった。

 

 待ってから、一歩。

 

 裏口を抜けるときには頭を下げてもらい、路地に出てから姫野たちが来るはずの通りを見た。

 

「まだいるのか、悪魔は」

「角を曲がれば、建物が間に入ります。まず、そこまで行きましょう」

 

 男は悪魔のいる方を見ようとしたが、足元の破片を踏みかけ、こちらへつかまり直した。

 

 角の先で、車が宙に浮いた。

 

 その下にデンジがいる。頭の刃を唸らせながら車を持ち上げ、何か怒鳴っていた。運転席で人が動いたのが見えた次の瞬間、車ごとコウモリへ投げ返される。

 

「ちょっと……!」

 

 声を上げても届かない。車体が路面へ落ち、横へ滑った。反対側から走り込んだアキが、開いた窓から這い出した運転手を引きずって退く。

 

 少女は肩の男を支え直し、角を曲がった。

 

 こちらからは、もう悪魔の姿が見えない。壁際へ男を座らせていると、通りの奥から姫野が駆けてきた。荒井とコベニ、その後ろには救護の隊員もいる。

 

「この人、右足を痛めてる。裏口は開けたけど、中はまだ人がいるかもしれないわ」

「分かった。荒井君、お願い。キミは私と中を見よう」

 

 立ち上がったところで、角の向こうからアキの声がした。

 

「伏せろ!」

 

 姫野に肩を押され、壁際へ倒れ込んだ。通りを何かが突き抜け、空気が耳を押し潰す。看板の破片が路地を跳ね、目の前の壁へ刺さった。

 

 口の中がざらついていた。

 

 顔を上げると、姫野が何か言っている。唇の動きを追っているうちに、ようやく声が戻ってきた。

 

「聞こえる? 立てる?」

「ええ。……中へ行くわ」

 

 姫野は荒井たちを確かめてから、少女と一緒に裏口をくぐった。

 

 階段の踊り場で、女が手すりを握っていた。片足は裸足で、降りようとするたびにガラスを避けては同じ段へ戻っている。後ろにいたもう一人の住人は自分で歩けたので、姫野が先に出口へ導いた。

 

「靴が、下へ落ちちゃって。拾おうとしたら、また……」

「そのままで大丈夫です。怪我はありませんか」

「多分。足は切ってないと思うけど」

 

 階段には窓ガラスが広く散っていた。少女は靴を拾うのをやめ、女のそばへ上がった。

 

「抱えて下ります。首につかまって、頭を低くしていてください」

「あなたが?」

 

 背中と膝の裏へ腕を差し入れて持ち上げると、女は慌てて肩にしがみついた。

 

「落とさないでね」

「はい。腕は苦しくないですか」

「大丈夫。大丈夫だから、ゆっくりね」

 

 返事をし、一段ずつ靴を置いた。上から細かな破片が落ちてくるが、顔を上げると女の頭まで動いてしまう。足元を見たまま下り、姫野の押さえる出口を抜けた。

 

 通りの向こうで、エンジンが一段高く唸った。

 

 デンジが振り下ろされた腕をくぐり、コウモリの腹へ刃を突き立てている。引き裂かれた胴が傾き、少女は女を抱えたまま路地へ退いた。

 

 地面が揺れたあとも、埃はしばらく流れてきた。

 

「終わったの?」

 

 女が顔を上げかけたので、少女は腕を抱え直した。

 

「まだ、ここにいてください。先に診てもらいましょう」

 

     *

 

 女を救護の隊員へ預け、表通りへ出ると、デンジの頭から刃がなくなっていた。

 

 倒れたコウモリの腹へ両手を突っ込み、何かを引っ張っている。脇ではパワーが咳き込み、身体を起こそうとしては肘を滑らせていた。

 

「デンジ。何を出してるの?」

 

 顔を上げたデンジは、額から顎まで血まみれだった。

 

「お前、何でいんの」

「この悪魔を探していたのよ。そっち、引けばいい?」

「おう。そこの鉄の――待て、中に猫いるから! 潰すなよ!」

 

 格子にかけた指の力を緩めた。鉄の檻だ。ひしゃげた角が肉へ食い込み、デンジが引いても抜けなくなっている。

 

 片側を持ち上げると隙間ができたので、格子の外へ肉を押し退け、二人で引き出した。足元へ下ろす前に、細い鳴き声がする。

 

「ニャーコ!」

 

 パワーが手を伸ばし、前へ崩れた。肩を支えようとすると腕を払われる。

 

「こっちへ寄越せ!」

「下ろすから、待って。今、手を挟みそうだったわ」

「ワシの手はいい! ニャーコじゃ!」

 

 膝の前へ置いた途端、パワーは留め具を引っ張り始めた。曲がっていて開かない。爪で引っかき、持ち替え、また同じところへ指をかける。

 

「そこ、私が曲げてもいい?」

「ニャーコに当てるでないぞ」

 

 返事を待たずに手が退いた。

 

 格子を押さえ、金具だけを起こす。扉が開くと、猫はパワーの膝へ移り、血で汚れたシャツに前脚をかけた。パワーは腹へ抱え込み、何度も背中を撫でていた。

 

「おう……ニャーコ。おう」

 

 少女は膝をついたまま、昨日、窓から猫を見ていた横顔を思い出した。茶色い猫が歩き去っても、パワーだけがまだ追っていた。

 

 隣へデンジが座り込み、長く息を吐く。

 

「頭も怪我してるのね。さっき、ぶつけた?」

「こいつに殴られたんだよ」

 

 パワーを指され、少女は二人を見比べた。猫を撫でる手が止まる。

 

「……騙してスマンかった」

 

 デンジは口を開きかけたが、すぐには何も言わなかった。パワーは膝の上へ顔を向けたまま、ニャーコの耳についた汚れを取っている。

 

「じゃあ、約束は守れよ」

「分かっとるわ」

「今、言ったからな。あとで知らねえとか――」

 

 少女と目が合い、デンジが言葉を切った。

 

「何だよ」

「二人とも立てそうにないから、救護の人を呼ぼうと思って」

「ああ、頼む。……早パイも来てんの?」

「向こうで人を運んでるわ」

「げ」

 

 近くの隊員へ二人のことを伝えたところで、反対側の建物から姫野に呼ばれた。

 

「こっち、もう一人いる。通路を空けたいんだけど、手を貸してくれる?」

 

 裏の部屋の前で、金属の棚が斜めに倒れていた。姫野と両端を持ち上げ、倒す場所を確かめてから床へ寝かせる。中にいた男は肩を押さえていたが、自分で立てた。

 

「足元に照明が落ちています。こっちを通って――」

 

 外からデンジの叫び声がした。

 

 さっきの怒鳴り声とは違う。男も動きを止め、出口を見た。

 

 姫野が先に戸口から顔を出した。

 

「もう一体いる。キミ、その人を裏から出して」

 

 返事をする前に、姫野は外へ走っていった。

 

 少女も足を踏み出しかけたが、男が照明のコードへ靴を引っかけた。肘を支え、コードを足で退ける。

 

「裏へ行きましょう。そちらの手は、動かさなくて大丈夫です」

 

 狭い通路では先へ出て、落ちた箱を壁際へ寄せた。男が段差を越えるのを待つ間にも外から音がする。デンジの声が聞こえ、次いで、女の笑い声が響いた。

 

 男を隊員へ引き渡してから、ナイフを抜いた。

 

     *

 

「俺に夢バトルで勝ったらなァ!!」

 

 路地の出口に出ると、デンジが巨大な顔へしがみついていた。

 

 右腕がない。残った手で髪を掴み、額に生えた短い刃を何度も押しつけている。悪魔が首を振るたび身体が浮き、それでも離れようとしなかった。

 

 道路の端では、アキが倒れた看板を持ち上げていた。コベニが下敷きになった女の足を引き出し、荒井が脇を抱えて退く。パワーはコウモリの死骸に近い壁際で、猫を抱いたまま座り込んでいる。

 

 姫野は車の陰からデンジへ手を伸ばしていた。

 

「姫野、下ろせる?」

「掴みたいんだけど、あの子、動くから――」

 

 悪魔の口が開いた。

 

 伸びた舌がデンジの腹へ突き刺さり、身体が持ち上がる。髪を掴んでいた手が離れた。声も、それきりだった。

 

「身体を支えて! 舌を切るわ!」

 

 少女は路面を蹴り、横倒しの看板を越えた。姫野の返事が背中へ届く。

 

「支えた! 切って!」

 

 デンジの身体が、それ以上口へ引き寄せられなくなった。

 

 縁石へ乗り上げた車のボンネットを踏み、跳ぶ。デンジと悪魔の口の間に伸びる舌へ、上から刃を叩き込んだ。

 

 厚い肉が刃を挟み、手首が止まる。

 

 舌が縮んだ。デンジの身体も引かれかけたが、姫野が支えている。少女は柄へ左手を添え、ぶら下がった重みで刃を引き下ろした。

 

 切れた。

 

 道路へ落ち、肩から転がって勢いを逃がす。顔を上げると、デンジはゆっくりと車道の端へ運ばれていた。看板から離れたアキがその下へ入り、姫野と一緒に受け止める。

 

 太い脚がすぐ横へ突き立った。

 

 跳ねた舗装が頬を打つ。起き上がった先にも一本、さらに右からもう一本。少女は前へ抜けるのをやめ、最初に下りた脚の内側へ刃を入れた。

 

「アンタまで邪魔するのォ!?」

 

 悪魔がこちらを向いた。その口の中で、切れた舌が動いている。

 

「早川、こっちへ向けておく!」

「人を退かすまでだ! 離れられる距離を取れ!」

 

 車の陰へ入った途端、ボンネットが踏み潰された。車体が跳ね、肩をかすめる。窓越しにアキがデンジを抱えて退くのが見え、その後ろでパワーも荒井に引き起こされていた。

 

 まだ近い。

 

 少女は車の反対側へ抜け、悪魔の前を横切った。首がこちらを追う。伸びてきた脚の先をかわし、人のいなくなった交差点へ向かった。

 

 真っすぐ逃げれば距離は取れるが、そこで追うのをやめられたら、アキたちへ戻られてしまう。交差点の手前で横へ回り、さっき斬った脚をもう一度狙った。

 

 刃を引き抜いたところへ、反対側の脚が払われた。

 

 跳び退くより早く脇腹を打たれ、息が漏れる。手をついたが支えきれず、肩から道路へ転がった。車止めの手前で足を突っ張り、顔を上げる。

 

 長い髪が、頭上へ垂れていた。

 

「あら。よく見たら、アンタもいい顔してるじゃない」

 

 少女は立ち上がりながら息を吸った。脇腹が引きつり、半分ほどで止まる。

 

「でも女はいらないわァ!」

 

 持ち上がった脚の下から、車止めを越えて退いた。

 

 追ってきた脚が鉄の柵へ引っかかる。その間に駐車した車を挟み、左手を一度開いた。ナイフの柄についた血が指へ広がっていたので、上着で拭って握り直す。

 

 悪魔の顔には、深く抉れた傷があった。デンジがつけたものだ。そこから流れる血が顎を伝い、長い首を濡らしている。

 

 こちらが右へ動くと、悪魔も向きを変えた。

 

 斬った脚だけが早く浮き、隣の一本へ重さが移る。そのとき、頭も斜めに下がった。もう一歩動くと、また同じ側へ傾く。

 

「こっちは空いた!」

 

 アキが交差点の反対側にいた。荒井たちはさらに後ろへ下がり、姫野もデンジのそばから立ち上がっている。

 

「傷のある脚を避けてる! そっちから、もう一本斬れる?」

「どっちだ」

「車に近い方。私が右へ行くと、そっちへ重さがかかる!」

 

 アキが悪魔の足元を見た。

 

「分かった。俺が斬るまで入るな!」

 

 車の陰へ回るのを確かめ、少女は右へ歩いた。悪魔も追ってくる。急いで飛び込まず、脚の届く手前で止まると、大きな顔が髪の間から下りてきた。

 

「そんなナイフで、何ができるの?」

 

 少女は、傷のある脚へ踏み込んだ。

 

 脚が引かれ、隣の一本が路面を踏む。その根元へアキの刀が入った。悪魔が傾き、残る脚を広げようとしたところで、少女も目の前の一本を斬った。

 

 顔が落ちてくる。

 

 潰れたボンネットの縁を踏み、跳んだ。開いた口を横へかわし、頬の傷へ左手をかける。肉が滑り、指が抜けかけたが、傷の縁に引っかかったところで膝を頬へ押しつけた。

 

「触るんじゃないわよォ!」

 

 頭が持ち上がる前に、顎の下へナイフを突き入れた。

 

 一度では深く入らない。引き抜いて角度を変え、同じ傷へもう一度押し込むと、刃先が奥へ通った。

 

 悪魔が首を振った。

 

 膝が離れ、身体が宙へ投げ出される。左手で堪えると指から抜けそうになり、少女はそちらを離して柄へ両手をかけた。落ちる重みで、刃が肉を裂きながら下がっていく。

 

 噴いた血で片目が塞がった。

 

 道路が近づく。ナイフを引き抜いて手を放し、着地したが、靴底が滑って膝をついた。

 

「右へ抜けろ!」

 

 アキの声に従って地面を蹴る。すぐ後ろへ脚が落ち、続いて巨体が崩れた。砂利が背中へ当たっても止まらず、車の先まで走ってから振り返る。

 

 長い首が道路に横たわっていた。

 

 脚の一本が曲がり、路面を掻く。少女は切っ先を向けたまま待った。もう一度動いた脚が伸び、そのあとには、踏み潰された車の警報だけが残った。

 

     *

 

「ヒルの悪魔、駆除確認!」

 

 アキの声で、ようやく腕を下ろした。

 

 大きく吸うと脇腹が痛む。浅く吸い直しても空気が足りず、何度か口を開けて息を継いだ。ナイフをしまおうとしたところで、柄を握る指が固くなっているのに気づく。

 

 アキが近づいてきた。

 

「離せるか」

「ええ。少し、待って」

 

 親指から一本ずつ緩め、持ち直した。刃を鞘へ収めるのを見届けてから、アキは上着の裂けたところを指す。

 

「そこを診てもらえ。歩けるか」

「歩けるわ。早川は?」

「俺は当たってない。向こうだ」

 

 救護の隊員が手を上げていた。

 

 そちらへ向かう途中、担架の上のデンジが顔を動かした。右の袖が空のまま、毛布からはみ出している。

 

「……あいつ、死んだ?」

「ええ。もう動かないわ」

 

 デンジは少女の顔を見てから、腰のナイフへ視線を移した。次いで道路の悪魔を見ようとしたが、隊員に頭を戻される。

 

「お前がやったの?」

「早川と二人で。顔の傷にも掴まれたから、届いたのよ」

「俺がやったとこ?」

「ええ」

 

 デンジの口元が少し上がった。

 

「だろ。俺、結構……やったんだからな」

 

 そこで息をつき、またこちらを見た。

 

「何?」

「お前、道は間違えんのにな」

「今、それを言うの?」

 

 デンジは笑いかけ、すぐに咳き込んだ。少女が場所を空けると、隊員が屈んで毛布を直す。

 

「頭から刃が出るのも、先に教えてくれればよかったわ」

「聞いてねえじゃん」

「見て、デンジかどうか分からなかったのよ」

「俺だよ。……ほかにいねえだろ」

 

 それは分からなかったが、今は聞かずにおいた。

 

 デンジの目が少女の後ろへ動く。

 

「猫は?」

「おるぞ!」

 

 すぐそばでパワーが答えた。荒井に座るよう促されても、ニャーコを抱えたまま退こうとしている。

 

「ワシはいい! ニャーコを先に診ろ!」

「分かったから座れ。抱いていていい」

 

 アキに言われ、ようやく腰を下ろした。猫の顔を隊員へ向けようとして、今度はパワー自身が顔を引っかかれる。

 

「動くでない! ワシが見えんじゃろうが!」

 

 デンジはそれを見て、担架へ頭を戻した。

 

「……元気じゃん」

 

 目が閉じかけ、少女の袖のところでもう一度止まった。

 

「お前の服も、駄目になってる」

「交換したばかりだったのに」

「俺も。……また、もらえっかな」

「仕事で破れたらいいって、聞いたでしょう。今度は一緒に持っていきましょう」

 

 デンジが何か答えたが、最後までは聞き取れなかった。担架が持ち上がり、少女は一歩下がった。

 

 毛布から落ちかけた左手を隊員が戻す。デンジはもう、こちらを見ていなかった。

 

     *

 

 傷を拭かれている間、少女は上着の裾を持ち上げていた。

 

 脇腹の擦り傷より、押されたところの方が痛かった。そこを伝えると隊員は手を止め、腫れている場所を確かめてから、病院でも診てもらうように言った。

 

 道路ではまだ人が動いている。

 

 午前中は庇の縁に残った血を探していたのに、今は避けて歩くのが難しいほどだった。看板を動かす隊員の向こうを姫野が通り、こちらに気づいて足を向けてくる。

 

「終わりそう?」

「あと少しです」

 

 隊員が答え、傷へ布を当てた。少女の肘が下がる。

 

「そこ、痛いです」

「ここで最後です。そのままお願いします」

 

 上着を引き上げ直すと、姫野が隣へしゃがんだ。

 

「髪までひどいことになってるねえ。帰って洗うの、大変だよ」

 

 言いながら伸ばした指が、毛先の手前で止まった。

 

「姫野にもついてるわ。耳の後ろ」

「え。どっち?」

「こっち。もう少し上」

 

 言われたところを触った姫野が、指先を見た。

 

「うわ。いつついたんだろ」

「今、私を見ていた顔と同じ顔してる」

「キミの方がずっとひどいよ。鏡、見る?」

「今はいいわ」

 

 姫野が笑ったので、つられて息が漏れ、脇腹に響いた。上着の端を握り直すと、隊員がこちらの顔を確かめる。

 

「息をしても痛いですか」

「大きく吸うと。笑っても、少し」

「じゃあ、笑わせないようにしますね」

 

 姫野が口を閉じた。少女はその顔を見ないよう、道路へ向き直る。

 

 デンジを乗せた救急車の扉が閉まるところだった。

 

「デンジ、腕も治るのかしら」

「病院で確かめるよ。あの頭だって、元に戻ってたでしょ」

 

 姫野もそちらを見ていた。

 

「舌を切ったとき、ちゃんと支えられてた?」

「ええ。切る前に止まってくれたから」

「よかった。下ろしたら下ろしたで、アキ君まで血だらけになっちゃってさ」

 

 少女は姫野の袖を見た。指の形に、濃く汚れたところがある。

 

「ありがとう」

「うん。髪を洗うのは手伝わないけどね」

「まだ頼んでないわ」

「今、耳の後ろまで自分でやらなきゃいけなくなったから」

 

 隊員が上着を下ろしていいと言った。裾を引っ張らないよう整えると、姫野が立ち上がり、救護車の場所を教えてくれた。

 

 入れ違いに来たアキは、手帳を開く前に隊員へ怪我の状態を尋ねた。

 

「病院へ行け。現場の話は診察が済んでからでいい」

「裏の階段、上までは確かめていないわ」

「別の班が入ってる。お前が開けた裏口からだ」

 

 路地へ目を向けると、道具を持った隊員が二人、建物の奥へ消えていった。

 

「扉、外したのか」

「棚が倒れて、押しても開かなかったの。壁に立てかけてあるわ」

「分かった。建物の担当に伝える」

 

 アキは手帳へ書き留め、頁をめくった。午前中の地図が見える。豆腐屋と住宅が線で結ばれ、その先はまだ白かった。

 

「片腕がなかったって話は、合っていたのかしら」

 

 尋ねると、アキもコウモリの死骸を見た。

 

「今は両方ある。デンジが起きたら聞く」

「庇の血も、こいつのもの?」

「そっちは調べてからだ。お前の手帳、あとで見せてくれ」

 

 鞄へ手を伸ばすと、今じゃなくていいと止められた。

 

 救護車の方でパワーが騒いでいる。ニャーコも乗せるのだと言い張る声に、アキが顔を向けた。

 

「歩けるなら、先に乗って待ってろ」

「早川。裏から連れてきた人たちは?」

「全員、救護に渡ってる。お前が運んだ三人もな」

 

 鞄の口を閉じた。

 

「名前を聞いていなかったわ」

「向こうで確認してる。今はそれでいい」

 

 アキは少女の顔を見てから、もう一言足した。

 

「最後まで運べたな」

 

 返事をする前に、向こうでまたパワーが声を上げた。アキが行きかけたので呼び止める。

 

「今のも、報告に書く?」

「書く。だから、残りは病院で話せ」

 

 渡された紙を鞄へ入れ、少女は救護車へ向かった。

 

 パワーは乗り口に座り、隊員へ猫を突き出したかと思えば、触ろうとされると抱き戻していた。

 

「連れていくなら、まず中へ入ってください」

「こやつが怖がっとるじゃろうが!」

「パワーが大きな声を出すからじゃない?」

 

 こちらへ顔が向いた。

 

「遅い! ウヌも乗れ!」

「乗るから、少し奥へ行ってくれる?」

 

 パワーは腰をずらしたが、空いた場所は鞄を置くほどしかなかった。もう少し、と頼みかけたところで、膝の猫がこちらへ前脚を伸ばす。

 

 少女は先に手を確かめた。血は拭いた。指の間にも残っていない。

 

 差し出した指へ、ニャーコが鼻を寄せた。

 

「……嗅ぐだけなら許す」

 

 誰に言ったのか分からないまま、パワーがようやく奥へ詰めた。その隣へ腰を下ろし、脇腹に当たらないよう鞄を足元へ置く。

 

 外を通ったアキを呼び止めた。

 

「替えの服、お願いできる? 私とデンジの分」

「ワシのもじゃ!」

 

 アキは二人の服を見てから、救急車の去った方へ目を向けた。

 

「三人分だな」

 

 扉が閉まり、車内が少し暗くなった。

 

 ニャーコが膝から降りようとすると、パワーが慌てて抱き直す。少女はその足元から鞄を寄せ、猫の尻尾を挟まないように持ち手を畳んだ。

 

「さっきの檻、置いてきてよかったの?」

「あんなもの、いらん」

 

 パワーは猫の背中へ顎を寄せた。

 

 車が動き出すと座席が揺れ、少女は窓枠へ手をついた。膝の上に、温かいものが触れる。

 

 ニャーコの前脚だった。

 

 パワーが引き戻そうとしたので、そのままでいいと手を振った。爪は出ていない。小さな重みを膝に残したまま、少女は背もたれへ身体を預けた。

 

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