不死身の少女が特異4課でデビルハンターをする話 作:@taka
第八話 次に来る日
四つ入りの箱を受け取ってから、岸辺の分を買っていないことに気づいた。
店員はもう次の客へ顔を向けている。追加してもらおうかと財布を開いたが、一つだけ持ち歩くうちに潰してしまいそうだった。帰りにも寄ればいい。そう決めて店を出てから、そもそも岸辺がシュークリームを食べているところを見たことがないと思い出す。
甘いものなら、ときどき食べる。クァンシの持ってきた菓子も減っていた。ただ、あれは食卓に置いてあったから食べただけかもしれない。
箱を持ち直し、教わった道を曲がった。
早川家の呼び鈴を押すと、中で何かが倒れた。続いて怒鳴り声がして、足音が近づいてくる。もう一度押すのはやめておいた。
「おう。来たな」
扉を開けたデンジは顔を見て、それからすぐに手元へ目を移した。
「それ、食い物?」
「シュークリーム。四つあるから、一人一つね」
「聞いたか! 一人一個だってよ!」
まだ姿の見えない相手へ叫び、箱に手を伸ばす。その脇からもう一本の腕が出てきた。
「ワシのは一番でかいのじゃ」
「開けてもねえだろ。何でお前が先に決めんだよ」
「なら開けろ! 選べんじゃろうが!」
蓋を持たれたので、少女は箱の底を支え直した。
「ここで開けないで。靴を脱ぎたいの」
「脱げばよかろう」
「パワーがそこに立っているでしょう」
爪先を指しても、パワーは自分の足を見ただけだった。奥から来たアキが二人の背へ手をかけ、廊下へ押し戻す。
「上がらせろ。お前らは手を洗ってこい」
「俺、さっき洗ったぜ」
「そのあと猫のトイレを運んだだろ」
「外側しか持ってねえって」
デンジは言いながらも洗面所へ向かった。パワーがその場に残ろうとすると、アキがもう一度そちらを見る。ようやく箱から手が離れた。
「持つ。先に靴を脱げ」
「ありがとう。……お邪魔します」
靴を揃え、鞄を持って上がった。アキが箱を傾けずに運んでくれるのを見て、やっと両腕を下ろせた。
「岸辺さんには言ってあるんだな」
「ええ。夕方までに帰るって。今日は、急にごめんなさい」
「昨日、電話しただろ。急じゃない」
それもそうだった。こちらから時間まで確かめたのに、玄関へ来たら言わなければいけない気がしていた。
上着を脱ぐ場所を教わって部屋へ入ると、煮込んだ玉葱の匂いがした。窓際には洗濯物が干され、その下でニャーコが腹を見せて眠っている。さっきの物音でも起きなかったらしい。
近くへしゃがむと、耳だけがこちらを向いた。
「いつも、ここで寝ているの?」
「どこでも寝るぜ。俺が布団敷いたら、先に真ん中取ってんの」
手を拭きながら戻ってきたデンジが、隣へ腰を下ろした。
指を差し出すと、ニャーコは目を細く開けて鼻を寄せた。もう少し近づけてもよさそうだ。額へ触れようとしたところで寝返りを打たれ、指先はフローリングへ下りた。
「今、撫でてもよかったわよね?」
「知らねえよ。もう一回やってみりゃいいじゃん」
身を乗り出したところで、後ろから箱を開ける音がした。
「パワー。まだ皆で選んでないでしょう」
「遅い! ニャーコが起きるまで待つ気か!」
振り向いたときには、もう一つ持ち上げていた。デンジが立つより早く、その端が口へ消える。
「あっ! お前、それ一番でけえやつ!」
「もうワシのじゃ」
齧ったところをこちらへ向け、パワーは残りも口へ運んだ。
デンジが箱を引き寄せたので、少女もそばへ座った。手前の一つを皿へ移すと、すぐに顔を向けられる。
「待てよ。そっちの方がでかくね?」
「私はこれがいいわ。デンジは決まった?」
「今、見てんだろ」
横から見比べ始めたところへ、アキが来た。残った二つのうち片方を取り、空いた手で箱をデンジへ寄せる。
「それで最後だ」
「選ばせろよ!」
「ずっと選んでただろ」
デンジは残った一つを持ち上げた。裏まで確かめてから皿へ置いたが、交換しろとは言わなかった。
*
クリームがはみ出したのは、二口目だった。
紙を敷いておいてよかった。そう思って皿を寄せたところで、向かいのデンジも指についたクリームを見ていた。あちらはそのまま舐め、何もなかったように続きを齧る。
「そっちから食えば。出てるとこ」
「そうすると、反対から出てくるのよ」
「もっとでかく食えって。こう」
口を開けて残りの半分近くを入れた。しばらく喋れなくなったが、確かにクリームは落ちなかった。
少女も少し大きく齧ってみた。
今度は頬についた。
台所から戻ってきたアキがティッシュを寄せたので、受け取って拭く。デンジは何か言おうとして、まだ飲み込めないらしく、こちらを指して肩を揺らしていた。
「笑わなくてもいいでしょう。言われたとおりにしたのに」
ようやく口の中を空けたデンジが、茶を飲んだ。
「俺はつかなかったぜ」
「それは見ていたわ」
パワーはとっくに食べ終え、紙の折り目を広げていた。隅まで確かめたあと、顔がこちらへ向く。
少女は皿を少し引いた。
「やらねえってよ」
「何も言っとらん!」
「顔が言ってんだよ」
デンジに笑われ、パワーは鼻を鳴らして立ち上がった。ニャーコを抱こうと屈んだが、猫はするりと腕の下を抜け、台所へ歩いていく。
「ニャーコ! こっちじゃ!」
「追い込むな。火を使ってる」
アキが足で進路を塞ぐと、猫は向きを変えて戻ってきた。パワーだけが、その先で待ち構えている。
少女が最後の一口を食べ終えたところで、デンジが右手を食卓へ載せた。
「そういや、ほら。もう平気」
指を握って開き、肘まで曲げ伸ばししてみせる。
少女は皿を脇へ避け、その手を見た。袖口から覗く腕には、繋いだような跡もない。
「痛くない?」
「全然。朝から何回もやってる」
「触ってもいい?」
差し出された手首へ指を添えた。温かい。デンジが指を動かすと、皮膚の下も一緒に動く。
「……ちゃんと動くのね」
「見せてんじゃん。まだ疑ってんの?」
「疑ってはいないわ。ただ、あのときは袖が空だったから」
指を離すと、デンジは自分でも手首を回した。
「くっついたんだから、もういいだろ。それより、お前は? 横っ腹、蹴られてたじゃん」
「もう痛くないわ。上着も直してもらったの」
「じゃあ、あのナイフも持ってきてんの?」
少女は鞄へ目を向けた。
「今日は持ってこなくていいって。訓練もないし」
「そりゃそうだろ。遊びに来てんのに」
言われて、鞄の持ち手から手を離した。
台所ではアキが鍋の蓋を取っていた。カレーの匂いが広がり、デンジがすぐにそちらを見る。
「もう食える?」
「皿を出せ。そこのも下げてからな」
空いた皿を重ねると、デンジが半分持ってくれた。二人で台所へ運び、少女が引き出しに手をかける。
「箸、ここ?」
「そっち包丁。隣だって」
「カレーだからスプーンだ」
アキに言われ、引き出しの中で手を止めた。隣でデンジも口を閉じている。
「二人とも、分かってるなら四本出せ」
「俺は場所を教えてたんだよ」
それでもデンジの方が先に四本取った。少女は皿を受け持ち、ぶつからないよう横を通り抜けた。
*
四人で囲むと、食卓は狭かった。
パワーが肘を張り、デンジが押し返す。そのたび皿が動くので、少女は二人の間にあったコップを手前へ寄せた。
「おい、それ俺の」
「倒れそうだったから。ここに置くわね」
デンジが手を伸ばしても届くところへ置き、カレーを一口食べた。まだ熱い。スプーンを抜いて少し待つと、隣でもデンジが口を開け、息を逃がしていた。
「熱くないの?」
「……熱い」
「急いで食べなくても」
「お前も今なったろ」
返せる言葉がなく、次は皿の端から少しずつ取った。
「そうだ、パン。今日、作るつもりだったんだけどよ」
「今から?」
「今じゃねえよ。来たとき。そしたらシュークリーム持ってっから」
デンジはカレーを混ぜながら、台所の方へ顎を向けた。
「明日の朝でもいいけど。お前、泊まんの?」
「帰るわ。岸辺に時間を言ってあるし、夕食も作ることになってるの」
「じゃあ、次な。前と同じにできるか分かんねえけど」
「何かなくなった?」
「梅がちょっと。底の方はまだある」
アキが顔を上げた。
「瓶を逆さにして置いたの、お前か」
「落ちてくるかと思って」
「蓋までべたべただったぞ」
「閉めてただろ。外に出てねえじゃん」
少女は二人の間を見てから、デンジへ尋ねた。
「全部塗ると、梅の味も分かるの?」
「梅だけでは食ってねえからなあ」
「それぞれ食べてから、混ぜてみたら?」
「お前もそれ言うの? 全部載せんのがうめえんだって」
スプーンを持つ手で、皿の上へ何かを描き始めた。
「じゃ、端っこ分けるか。こっちはいちご、こっちは梅で、真ん中だけ全部」
「真ん中が一番大きくない?」
「うまいとこ多い方がいいだろ」
まだ作ってもいないパンの半分以上が、全部を載せる場所になっていた。少女は自分の皿の端を指す。
「最初は、ここくらいでいいわ。足りなかったら増やせるでしょう」
「……まあ、増やすならいいけど」
「ワシのも作れ!」
パワーが割って入った途端、デンジの手が止まった。
「お前、自分で塗れよ」
「今、作ると言ったじゃろうが!」
「こいつのだよ! お前、毎朝いんだから勝手に食ってんだろ!」
「ワシのも真ん中をでかくしろ」
「聞けよ!」
アキが自分の皿の縁へスプーンを置いた。
「パワー。人参を寄せるな」
「知らん。初めからそこにあった」
「俺の皿に置くところを見たんだよ」
パワーのスプーンから、まだ人参が半分はみ出していた。
少女も自分の皿を確かめた。増えてはいない。顔を上げると、アキがこちらを見ている。
「そっちには入れてない」
「まだ見ただけよ」
「じゃあ、お前のところへ――」
「いらないわ。私の分はあるもの」
皿を引くと、パワーの手が途中で止まった。デンジが笑い、アキに飲み込んでからにしろと言われて、今度はそちらが黙った。
*
食後、皿を洗うデンジの隣で、少女は布巾を受け取った。
パワーはニャーコを膝に載せ、動けないと言い張っている。アキが猫を預かろうとすると、ニャーコが嫌がると抱き込んだ。猫の方は、伸ばされた手へ前脚を出していた。
「終わったら食卓を拭け。そこは座ったままできるだろ」
言い残し、アキは乾いた洗濯物を取り込みに行った。パワーは返事をせず、テレビの音を大きくしてすぐに戻すよう言われている。
デンジから皿を受け取り、両面を拭いた。
「こっちの棚でいい?」
「でかいの下な。逆にすると、取るとき上のも全部持たされるから」
「それは、そうでしょうね」
「先に言えって話だよ」
棚へ重ねていると、デンジが流しの奥からもう一枚引っ張り出した。
「まだあんのかよ」
「それ、さっき自分で置いていたわ」
「だから見えなかったんだって。終わったと思ったのによォ」
皿を傾け、残った泡を流す。渡されるのが思ったより速いので、少女は先に一枚置いて待ってもらった。
「今日はありがとう。楽しかった」
「まだ帰んねえだろ?」
「うん。でも、食べたあとだから、今言おうと思って」
「飯は俺が作ったんじゃねえけどな」
向こうの部屋へ顔を向けかけてから、少女は皿へ目を戻した。
「あとで早川にも言うわ。デンジには、来ていいって言ってくれたから」
「別に、また来りゃいいじゃん」
デンジは次の茶碗を取り、指で底を擦った。
布巾が湿ってきたので、乾いた面を表にする。しばらく水の音だけが続き、少女が棚を閉めたところで声がした。
「なあ。すげえ楽しみにしてたのに、大したことなかったのって、ある?」
振り向くと、デンジはまだ同じ茶碗を洗っていた。
「シュークリーム?」
「ちげえよ。あれはうまかった」
「じゃあ、何のこと?」
「……何か、そういうの。ずっとやりたかったこととか」
縁をもう一度擦り、茶碗を差し出してくる。受け取ると、デンジは空いた手を水へ入れたまま続けた。
「できたんだよ。この前。絶対すげえと思ってて、そのために結構、頑張ったんだけど」
「うん」
「終わってみたらさ。……あれ? って」
蛇口から跳ねた水が、袖口を濡らしていた。デンジはそこでようやく手を引き、濡れたところを捲り上げる。
「こんだけかよって。もっと何か、あんだろと思ったのに」
隣の部屋でパワーが何か叫んだ。二人ともそちらを見たが、テレビに向かって言っているだけらしい。
デンジは声を少し落とした。
「お前、そういうのねえの?」
少女は茶碗を拭きながら、すぐには答えられなかった。
欲しかったもの。行きたかった場所。浮かんだところのほとんどには、まだ行ったことがない。
「何をしたのか、聞いてもいい?」
「そこはいいだろ」
「そう。……それなら、聞かないけど」
茶碗を棚へ置いた。次に渡されるものを待つと、デンジは流しに残った箸を見ていた。
「訓練で、ずっとできなかったことが、できた日はあったわ」
「おう」
「岸辺に見せたら、次は反対側からって言われたの」
「それだけ?」
「ええ。もう一度やったわ」
「やったんかよ」
少女は布巾を持ち直した。
「次もできたら、何か言うかと思ったから」
「何て?」
「……よくできた、とか」
口にしてから、布巾の端を折った。
デンジは鼻で少し笑ったが、こちらをからかいはしなかった。
「で、言われた?」
「遅いって」
「うわ。やらなきゃよかったじゃん」
「それならそれで、やれって言われるわ」
デンジが箸をまとめて取り、水の下へ差し入れた。
「でも、お前はできて嬉しかったんだろ」
「うん。見てほしかったの。……違ったわね、今の話」
「俺はできたやつ自体が、何か、思ってたのと違ったんだよ」
少女は箸を受け取り、一本ずつ拭いた。
「もう一回やりたいとは思わなかった?」
「それは……いや、やりたくねえわけじゃねえけど」
デンジが向こうの部屋を見た。パワーはテレビの前で猫の背中を撫で、アキはシャツを畳んでいる。
「また別に、やりてえことはできたんだよ。でも、そっちも同じだったら嫌じゃん」
流しの底へ残った泡を手で集め、排水口へ押した。
「やる前だけ、すげえすげえって思ってさ。やったら、またこんだけかよってなんの。何か、損じゃね?」
少女は拭き終えた箸を揃えたまま、デンジの横顔を見た。
「次のは、まだやっていないのよね」
「だから、やってからそうなったら嫌だって」
「ええ。……どうなるかは、私にも分からないわ」
デンジは水を止めた。
急に、テレビの声が近くなった。布巾を置こうとして、少女はもう一度口を開いた。
「私に、どうしたらいいか聞きたかった?」
「いや。お前もあんのかなって」
濡れた手を拭き、流しへ腰を寄せかけたところで、向こうのアキと目が合ったらしい。デンジは何もしていない顔で立ち直った。
「別に、分かんねえならいいよ」
「うん。でも、また何かあったら聞くわ。何をしたかは、言いたくなければ言わなくても」
「そこんとこは聞くなよ」
「一度しか聞いてないでしょう」
デンジの口元が少し動いた。
「じゃあ、次も聞くなって」
「分かったわ」
箸を引き出しへ入れ、閉めようとすると止められた。
「一本逆。そこ、早パイが気にすんだよ」
「デンジも気づくのね」
「俺が直させられんだから、覚えるだろ」
向きを揃えてから閉めた。空になった流しをデンジがもう一度覗き込み、今度こそ終わりだと蛇口の根元まで拭いた。
少女は濡れた布巾を掛け、食卓へ戻る。
「シュークリームは、美味しかったのね」
「さっき言ったじゃん」
「初めて入ったお店だったから、確かめたかったのよ」
「もう一個くらい食えたぜ」
「ワシもじゃ!」
テレビを見ていたパワーが即座に振り向いた。腕が緩んだ隙にニャーコが膝から下り、そのまま窓際へ逃げていく。
空箱を畳んでいると、二人ともこちらを見続けていた。
「今日はもう買いに行かないわよ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「顔が言ってるの」
パワーがデンジを指して笑い出した。
「ウヌの顔が言っとるそうじゃ!」
「お前もだろうが!」
少女は畳んだ箱を脇へ置いた。デンジがこちらへ顔を寄せる。
「今の、俺が言ったやつじゃん」
「同じ顔をしていたから」
しばらく見られたが、言い返される前にアキが二人の間へ洗濯物を置いた。
「デンジ、しまっとけ。パワーは食卓」
「今、猫がおった」
「もういないだろ」
パワーはニャーコの行った方を見た。呼んでも戻ってこないので、ようやく布巾を取った。
*
帰る時間になっても、デンジはテレビをつけ直そうとしていた。
少女が上着を取ると、壁の時計を見上げる。
「もう帰んの?」
「夕食の買い物もして帰るから」
「電話すりゃ、もうちょいいられんじゃね?」
「そうしても、ご飯ができるのは遅くなるでしょう」
デンジはリモコンを食卓へ置いた。
「何作んの?」
「まだ決めていないわ。岸辺が、冷蔵庫にあるものでいいって」
「あるもん分かってんの?」
「昨日見たときは、卵と葱と……帰ってから増えているかもしれないけど」
岸辺が買ってくるものは、いつも同じではない。肉を買うと言って出かけ、酒とつまみだけ増えていたこともある。
デンジが玄関までついてきた。アキも台所から、忘れ物はないかと声をかける。
鞄を確かめてから、少女は顔を上げた。
「ごちそうさま。カレー、美味しかったわ」
「気をつけて帰れ。岸辺にもよろしく」
「次は、もっとでかい菓子にするんじゃぞ!」
部屋の奥から注文が飛んだ。
返事を考えていると、デンジが先に振り向く。
「次は俺が買うから。お前は何も持ってこなくていいよ」
靴へ足を入れかけたまま、少女は止まった。
「デンジが?」
「今日もらったし。それくらい買えるって」
「パンは?」
「あ、そっちも。……別々に食えばいいじゃん」
少女は靴に踵を収め、立ち上がった。
「それなら、次は少しお腹を空けてくるわ」
「何も食ってくんなよ。ちゃんと全部食えよ」
「朝飯は食ってこい」
後ろからアキが言った。デンジが振り返る。
「だから、朝のうちに来りゃいいだろ」
「先に日を決めろ。当日の朝に言うなよ」
少女は二人の間へ口を挟んだ。
「岸辺に予定を聞いてから電話するわ。早川にも、来ていい日を聞くから」
「俺もいる日にしろよ。買ってから来ねえとか、なしな」
「デンジにも聞くわ。何を買うかは、そのとき決めましょう」
扉の外へ出てから、もう一度振り返った。
「今日はありがとう。またね」
「おう。道、分かる?」
「来た道を帰るのよ」
「それで前、間違えたじゃん」
アキが後ろからデンジの肩を押した。
「分からなくなったら電話しろ」
「分かるわ。下の角を曲がって、パン屋の方でしょう」
二人の返事を待ってから、階段へ向かった。
手すりには西日が当たっていた。下まで降りると、さっきまでの部屋の声はもう聞こえない。鞄を肩へ掛け直し、買い物の順番を考えた。
卵はある。葱もある。肉を買って帰れば、岸辺が何も足していなくても作れる。
角を曲がる手前で、シュークリームのことを思い出した。
一つ、買って帰ろう。岸辺が食べなければ、明日の自分が食べればいい。
*
扉を閉めて戻ると、パワーは少女の座っていた場所へ脚を伸ばしていた。
デンジはその爪先を跨ぎ、食卓の端に残った紙袋を拾う。店の名前らしい字が書いてあった。読めるところだけ追っても、どういう名前なのか分からない。
「早パイ。これ、何て読むの」
差し出すと、アキは流しの前から手を伸ばした。店の名を言われ、デンジも一度繰り返す。
「どこにあんの?」
「駅へ行く途中だ。次に通ったら教える」
「あれ、一個いくらすんだろ」
「値段までは知らん。店で見ろ」
紙袋には書いていなかった。底を広げても何もない。捨てかけた空箱まで確かめようとして、パワーに見つかった。
「残っとったのか!」
「ねえよ。値段見てんの」
「ワシは二個じゃ」
「一個だっつってんだろ。お前の分まで増やす気ねえからな」
「ワシが先に食えば二個になる」
「なるじゃねえよ!」
台所でアキが蛇口を止めた。
「買うのは日が決まってからにしろよ。置いとける菓子じゃないぞ」
「分かってるって」
明日でも見に行こうかと思っていたが、それは言わなかった。
紙袋を畳み、食卓へ置く。すぐにパワーが菓子を食べる真似をしたので取り上げた。
流しには皿が一枚も残っていない。少女が掛けた布巾は半分に折られ、いつもの場所で乾き始めていた。
次も同じだったらどうするのか。
さっき聞きたかったことを、頭の中でもう一度言ってみた。答えは出なかった。少女も分からないと言ったし、別に、分かった顔で何か言われたわけでもない。
デンジは紙袋をさらに折ろうとして、店の名前のところで手を止めた。
「なあ。四つ入りなら、ちょっと安くなんねえかな」
「知らん。店で聞け」
「聞くけどよ。そういうの、あんのかなって」
アキは拭いた手を下ろし、紙袋を一度見た。
「箱代がつくところもある」
「箱で金取んの!? 中、菓子じゃねえのに?」
パワーが笑い出した。デンジは紙袋を畳み直し、自分の荷物の上へ置く。
箱は捨てたばかりだった。まだ潰していなければ持っていけたかもしれない。
「次、店の前通ったら言えよ。忘れんなよ」
「お前が覚えとけ」
紙袋が落ちないよう、漫画の下へ半分だけ差し込んだ。店の名前は見えるところへ残した。