【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
プロローグ 黒き神の降臨
最初に異変に気づいたのは、鐘楼の衛兵だった。
夜明けを告げる鐘を鳴らすため、いつものように螺旋階段を登り、東の窓を開いた。そこで彼は手を止めた。昨日まで地平の彼方に連なっていた山々が消えている。城壁の外を南へ伸びていた街道も、西方に霞んで見えた友好都市の尖塔もない。見渡す限りの荒野と、その向こうに黒々と横たわる見知らぬ森があるだけだった。
しばらくして警鐘が鳴った。
低く重い鐘の音が、まだ眠りから覚めきっていない街を揺らしていく。衛兵が走り、騎士が兵舎から飛び出し、修道院では神官たちが何事かと窓を開けた。市民が不安げに通りへ顔を出すころには、十二ある騎士団のうち三つがすでに城門と主要施設を掌握していた。
宗教都市国家パチカン。
それが、この都市の名だった。
白い城壁に囲まれた市街には、大聖堂、修道院、神学校、工房、兵舎、倉庫、農園が整然と並んでいる。中央にはいくつもの尖塔を従えた巨大な聖堂がそびえ、その地下には宝物庫と祭祀施設が広がっていた。オンラインゲームの中で一人のプレイヤーが長い年月をかけて築き上げた拠点であり、規模だけならば一つの国家と呼んでも差し支えない。
その都市すべてが、夜の間にどこかへ移っていた。
*
大聖堂の最奥、謁見の間には一個の黒い球体が浮かんでいた。
直径はおよそ三メートル。表面には模様も継ぎ目もなく、磨き上げられた黒曜石のような光沢さえない。周囲の光を吸い込んでいるかのような、ただひたすらに黒い球体だった。
それが、この都市の主だった。
プレイヤーネームは《神聖四文字》。
かつての彼にとって、その名にも姿にも深い意味などなかった。宗教都市を作るなら、せっかくだから徹底して悪趣味にしてやろう。人の姿をした神より、正体の知れない黒い球体の方がそれらしい。十字教という宗教を設定し、十二の騎士団を作り、影の十三番目としてイスカリオテを置いたのも、半ば趣味、半ば冗談だった。
少なくとも、昨日までは。
『ログアウト』
何も起きない。
『メニュー』
視界にウィンドウは現れなかった。
『システムコール。管理者への問い合わせ』
返事はない。運営からのお知らせも、エラー表示も、通信状態を示すアイコンすら出なかった。
神聖四文字はしばらく宙に浮いたまま黙り込んだ。画面越しに操作していたころとは違い、いまは自分の周囲にある空気の流れまで奇妙なほど鮮明に感じ取れる。球体のどこに目があり、どこに耳があるのかは自分でも分からなかったが、少なくとも見えるし、聞こえるし、考えることもできた。
「主よ」
呼びかけられ、神聖四文字は意識を玉座の下へ向けた。
一人の老人が跪いていた。白い祭服の上には金糸で縫い取られた外套をまとい、胸元には十字架が下がっている。年老いてはいるものの、背筋は伸び、声にも張りがあった。
パチカン第九十七代教皇、ヨハネス二十三世。
ゲームだったころ、話しかければ決められた台詞をいくつか返すだけのNPCだった。
いまは、呼吸をしている。
額には汗が浮かび、その目には不安と緊張があった。定型処理ではない。何を言うべきか迷い、こちらの機嫌を測り、答えを待っている人間の顔だった。
神聖四文字は、状況そのものより、その事実に薄気味の悪さを覚えた。
『報告を』
「は。城外の第一次調査が終了いたしました」
ヨハネスは深く頭を垂れたあと、手元の書状を開いた。
「都市周辺の地形は、我々の保有するいかなる地図とも一致いたしません。街道、近隣都市、転移門、国境施設のすべてが消失しております。また、昨夜の星の配置についても、天文学者たちは未知のものと判断しております」
『外部との通信は』
「すべて途絶しております」
『同盟都市は』
「確認できませぬ」
『他のプレイヤーも?』
その問いだけは、ヨハネスには意味が理解できなかったらしい。わずかに顔を上げた。
「ぷれいやー、とは」
『……いや、忘れてくれ』
「御意」
やはり、駄目らしい。
神聖四文字は大聖堂の高い天井へ意識を向けた。都市ごと異世界へ転移した、という荒唐無稽な仮説が、いまのところ最も筋が通っている。問題は、ゲームの中でよくある異世界転移イベントと違って、元の世界へ戻るためのクエスト表示がどこにもないことだった。
『市民に被害は』
「ございません。転移に伴う建造物の損傷も確認されておりません。ただし混乱はございますので、第一、第四、第六騎士団に治安維持を命じております。食料と水については、現在、備蓄量を精査しております」
『人口は』
「昨夜と変わりませぬ」
それを聞いて、神聖四文字は少しだけ安心し、同時に強い重圧を覚えた。
数万人。
以前なら、単なる人口パラメータだった数字である。ゲーム内の市民NPCは背景の一部にすぎず、食料供給率が下がれば警告が出て、満足度が落ちる程度だった。
しかし、今は違う。
彼らには顔があり、家族があり、恐怖がある。そして、その全員が自分を神だと信じている。
「もう一点、ございます」
ヨハネスの声がわずかに低くなった。
『何だ』
「城外に生物を確認しております。野生動物と思われるものに加え、人型ならざる異形が多数おります。第三騎士団の斥候が七体と遭遇し、すでに討伐しております」
『被害は』
「ございません」
『相手の強さは』
「我々の基準では、レベル一から五程度かと」
その程度なら、すぐに脅威となることはない。パチカンの正規軍は、最下級の兵士であっても一定の訓練を受けている。都市内に多数存在する低位用の訓練設備を利用すれば、神学校や軍学校の卒業時点でレベル二十に達する者も珍しくない。
もっとも、そこから先は簡単ではない。
レベル二十を越えるためには、実戦、専門的訓練、あるいは希少な高位訓練設備が必要になる。レベル五十まで安全に経験を得られる訓練のかかしも存在してはいるが、その数はごくわずかで、使用を許されるのは聖騎士など限られた者だけだった。
十二騎士団の精鋭ですら、平均すれば三十前後。
四十を越えれば、十分に英雄と呼ばれる域である。
それでも、城外にいるレベル一桁の魔物が都市を脅かすとは考えにくかった。
問題は、別のところにあった。
大聖堂の扉が勢いよく開いた。
「御前を乱します!」
白銀の鎧をまとった騎士が入ってくると、玉座の前で片膝をついた。呼吸が荒い。かなり急いできたらしい。
「西方城門より急報です。城外に多数の人間を確認いたしました。およそ三百。老人、女子供が多く、負傷者もおります」
ヨハネスが書状を閉じた。
「移民か」
「不明です。ただし、後方より魔物の群れが接近しております。狼型、人型を含め、百を越えるかと」
「城門までの距離は」
「一刻もございません」
教皇の表情が険しくなった。
「第三騎士団に迎撃を命じよ。城門は閉じたまま、外壁上より支援を――」
『待て』
二人が止まった。
神聖四文字は少し考えてから言った。
『門を開けろ』
ヨハネスの眉がわずかに動いた。
「主よ。彼らの素性は判明しておりませぬ」
『だから?』
「疫病を有している可能性がございます。また、敵対勢力の罠である可能性も否定できません。城内には数万の民がおります」
もっともな意見だった。
神聖四文字は一瞬言葉に詰まった。教皇はただ信仰心が強いだけではない。都市を預かる責任者として、外から来た三百人より中にいる数万人を優先しようとしている。
『検疫所を用意しろ。武装している者がいるなら武器も預かれ。城壁内へ直接入れる必要はない。外郭区画に隔離してもいい』
「ですが」
ヨハネスはためらい、それから静かに続けた。
「彼らが我らと同じ信仰を持つ者である保証もございません」
その言葉に、神聖四文字はしばし沈黙した。
忘れていた。
いや、忘れたかったと言った方が正確かもしれない。
パチカンは宗教都市国家である。
唯一神への絶対的信仰を根幹とし、異端と邪教に厳しい。
もちろん、それを設定したのは自分だった。
ゲームのころは、宗教国家らしい設定を詰め込むのが楽しかった。異教への寛容度を下げれば、代わりに信徒の士気や神聖魔法の効率が上がる。イスカリオテなど、信仰心も忠誠心も最大値にしたうえで、異端審問特性まで積んでいた。
数字として眺める分には面白かった。
現実になると、まるで面白くない。
『信徒じゃなかったら、見殺しにするのか』
「そのようなことを申しているのでは――」
『なら助けろ』
神聖四文字は言った。
『信仰が何であろうと、魔物に追われている人間なら助ければいい。負傷者は治療しろ。腹が減っているなら食わせろ。そのあとで、どこの誰なのか調べればいい』
ヨハネスは返事をしなかった。
『何か問題があるか』
「いえ」
老人は静かに頭を垂れた。
「御意のままに」
そこまでなら普通だった。
しかし次の言葉で、神聖四文字は嫌な予感を覚えた。
「信仰なき者にさえ慈悲を垂れ給う主の御心、確かに承りました」
『いや、そういう大袈裟な話じゃない』
「かしこまりました」
『本当に分かってる?』
「無論でございます」
ヨハネスは立ち上がり、騎士へ向き直った。
「西門を開けよ。第三騎士団は城外へ出て魔物を排除。第八救護修道会を門前へ。入城者は全員検疫し、負傷者を優先して収容せよ。異教徒であろうと扱いに差を設けるな。これは主の御意である」
「はっ!」
騎士は胸に拳を当てた。
神聖四文字は何か言おうとして、やめた。
命令自体は間違っていない。
たぶん。
★
三百を超える流浪民は、すでに逃げる力を失いかけていた。
彼らの多くには帰る場所がなかった。村を魔物に焼かれた者がいる。戦乱から逃れた者もいる。主人に捨てられた奴隷、共同体から追い出された病人、親を失った子供もいた。いくつもの集団が旅の途中で合流し、いつしか一つの大きな群れになっただけで、彼ら自身、自分たちを何と呼べばよいのか分からなかった。
国家に属さない者は、何者でもない。
この時代、それは半ば常識だった。
だから、地平の向こうに巨大な白い城壁が現れたときも、誰も救済など期待しなかった。門前まで辿り着けたとして、追い返されるのが関の山である。最悪の場合、捕らえられ、売られるかもしれない。
それでも進むしかなかった。
後方から魔物が来ていたからだ。
「門が開くぞ」
先頭付近にいた男が声を上げた。
巨大な城門が、重い音を立てながらゆっくりと開いていく。その奥に整列していた白銀の騎兵を見て、流浪民の間にざわめきが走った。磨き上げられた鎧、統一された装備、巨大な軍馬。どれも彼らが知る地方領主の兵とは比べものにならない。
先頭の騎士が剣を抜いた瞬間、何人かが立ち止まった。
殺される。
そう思ったのだろう。
だが、騎士は彼らではなく、その後ろを見ていた。
「そのまま門へ入れ!」
よく通る声だった。
「子供と負傷者を先にしろ。走れぬ者は置いていくな。我々が時間を稼ぐ」
誰もすぐには動かなかった。
一人の老人が恐る恐る尋ねた。
「……入って、よいのですか」
騎士は一瞬、質問の意味が分からないという顔をした。
「そのために門を開けた」
「金は」
「何の話だ」
「何も、持っておりません」
「今はそんなことを話している場合ではない。急げ」
騎士が馬首を返した。横に十数騎が並び、その後方では歩兵が槍を構えている。
そこへ魔物が迫った。
流浪民たちは逃げながらも、何度も振り返った。
最初に光が走った。
魔物の群れの中央で地面が爆ぜ、数体が宙を舞う。左右へ広がろうとした狼型の魔物には矢が降り、さらにその隙間を縫うように騎兵が突入した。
戦いは長く続かなかった。
人の倍ほどもある怪物が、白銀の騎士の一撃で首を落とされた。数人がかりでも倒せそうにない巨体が、槍の一突きで地面へ縫い付けられる。
十分もしないうちに、動く魔物はいなくなった。
流浪民たちは城門の内側から、その光景を呆然と見つめていた。
「神の兵だ」
誰かが呟いた。
それに答える者はいなかった。
だが、否定する者もいなかった。
*
少女は、その日初めて白いパンを見た。
それが食べ物だと教えられても、しばらく信じられなかった。自分たちが口にしていたものは、黒く固い穀物の塊か、薄い粥ばかりだったからだ。
「食べても、いいんですか」
少女が尋ねると、配給を担当していた修道女は微笑んだ。
「そのためにお渡ししたのです。お母様の分もありますよ」
少女はすぐ横を見た。
母親は簡素な寝台に腰掛け、腕に新しい包帯を巻いている。数日前に負った傷は膿み始めていたが、城へ入ったあと、見知らぬ服装の人々が傷口を洗い、薬を使って治療してくれた。何かの代価を要求されることもなかった。
「全部、食べていいの?」
「ええ。ただ、急いで食べるとお腹が驚きますから、ゆっくり召し上がってください」
少女はパンを少し千切った。
柔らかかった。
それだけで、なぜか涙が出た。
周囲には同じような人々がいた。温かいスープを両手で抱え、黙って泣いている老人がいる。新しい毛布を渡され、何度も頭を下げる男がいる。死者を置き去りにせず連れてきた家族には、墓地を用意すると説明されていた。
少女には、それらのことが理解できなかった。
なぜ、知らない人間にここまでするのだろう。
「お姉さん」
「はい?」
「ここは王さまの街ですか?」
修道女は少し考えてから首を振った。
「王の都ではありません」
「じゃあ、誰の街?」
修道女の指が、胸元の十字架へ触れた。
「唯一なる御方の都です」
「神さま?」
「はい」
少女はしばらく修道女を見つめた。
「名前は?」
その瞬間、修道女の表情がわずかに変わった。
怒ったわけではない。
ただ、姿勢を正した。
「御名は、我々がみだりに口にしてよいものではありません」
「どうして?」
「尊い御名だからです。そして、御名を知ることを許される者も多くはありません」
少女はよく分からなかった。
それでも、この街の神は恐ろしい神ではないのだろうと思った。
パンをくれた。
母を治してくれた。
追ってきた魔物を倒してくれた。
少女は修道女の真似をして、不器用に胸の前で十字を切った。
★
「二百八十六名です」
夜になってから、教皇はそう報告した。
『何の数だ』
「本日保護した三百二十七名のうち、十字教への帰依を希望している者の数でございます」
神聖四文字は返事をしなかった。
聞き間違いかと思った。
『……多くないか』
「そうでしょうか」
『今日来たばかりだぞ』
「今日、救われたのでございます」
ヨハネスの答えは簡潔だった。
神聖四文字はしばらく考えた。食事を与えたから改宗しろ、などと言い出したのであれば即座に止めるつもりだったが、確認した限りではそうではないらしい。むしろ聖職者たちは、信仰の有無にかかわらず滞在を認めると説明しているという。
『改宗しなくても食料も住居も与える。それはちゃんと伝えたんだな』
「はい」
『追い出しもしない』
「無論です」
『それでも本人たちが望んでる?』
「左様でございます」
理解できない、とは言えなかった。
目の前で家族を助けられ、食事を与えられ、怪物を圧倒する力を見せつけられた。その力を持つ人間たちが、口を揃えて「これは我らが神の慈悲である」と語れば、そう考える者が出るのも不思議ではないのだろう。
「一名、すでに洗礼の儀を希望する者がおります」
『もう?』
「本人が強く望んでおります」
『……会おう』
しばらくして、一人の少年が連れてこられた。
十六歳ほどだった。痩せた身体に粗末な衣服をまとい、右目の上には古い傷が残っている。大聖堂へ入ってからずっと顔を伏せ、黒い球体を直接見ようとはしなかった。
「名を申し上げよ」
ヨハネスに促され、少年が震える声で答えた。
「マルクス、と申します」
『マルクス。本当に入信を望んでいるのか』
「はい」
『誰かに強制された?』
「いいえ」
『入信しなくても飯は出る。ここに住むこともできる。そこは分かってるな』
「聞きました」
『それでも?』
少年は初めて顔を上げた。
「母を、埋葬していただきました」
神聖四文字は言葉を止めた。
「先ほど逃げる中で私を庇い亡くなりました。亡骸も……もう運べないと思って、置いていくつもりでした。けれど、騎士様が一緒に連れてきてくださいました。それから、身体を洗って、布に包んで、墓を作ると言ってくださいました」
少年はそこで少し唇を噛んだ。
「私は、死んだ人間にそこまでする人たちを知りません。生きている私たちに食べ物を与える人も、知りません」
謁見の間に沈黙が落ちた。
神聖四文字は少し困った。
ゲームの中では、信仰値とは単なるパラメータだった。教会施設を建設し、宣教師を派遣し、一定条件を満たせば数字が増える。それに伴って都市のボーナスが増え、宗教系職業が解放される。
しかし、目の前の少年にとって、それは数字ではない。
死んだ母親を人間として扱ってもらえた。
その事実だけで、彼はこの街の神を信じようとしている。
『……分かった』
神聖四文字は意識を少年へ向けた。
洗礼の処理を実行する。
以前なら、ただコマンドを選ぶだけだった。
ところが、その瞬間。
黒い球体から淡い光がこぼれ、少年の身体を包んだ。
同時に、神聖四文字の意識へ、見覚えのある情報が流れ込んでくる。
名前。
種族。
年齢。
基礎能力。
Lv.1。
神聖四文字は何も言わなかった。
現地人に。適用された。
自分たちの世界から持ち込まれたシステムが。
少年の前に、光でできた文字が並び始めた。
戦士。
騎士。
僧侶。
治療師。
農夫。
鍛冶師。
斥候。
魔術師。
商人。
その他、数えきれないほどの職業。
マルクスは言葉を失っていた。
「これは……何ですか」
「道です」
ヨハネスが答えた。
その声は震えていた。
「主より賜る、新たなる生の道です」
少年は長い時間をかけて、一つを選んだ。
騎士。
光が彼の中へ吸い込まれた。
その瞬間、マルクスという名の少年は、この世界で最初に十字教の洗礼を受け、異なる世界の《職業》と《レベル》を得た人間となった。
のちに聖騎士マルクス一世と呼ばれ、西方最古の修道騎士団を興す男である。
だが、このとき、その未来を知る者はいなかった。
『……現地人にも使えるのか』
神聖四文字が小さく呟いた。
「何か?」
『いや。何でもない』
それが何を意味するのか、この時点ではまだ想像できなかった。
信仰するだけで強くなれるわけではない。
洗礼を受けても、最初はレベル一にすぎない。
レベル二十までは比較的容易に育成できるとはいえ、それ以上は本人の努力も実戦も必要になる。レベル四十を越える者など、長い年月を経ても一握りにしかならないだろう。
それでも、この世界には存在しなかった成長の道が、一つ生まれた。
その意味は小さくなかった。
★
その後のパチカンは、忙しかった。
周辺の地図を作り、耕作可能な土地を探し、水源を調べ、魔物の分布を調査した。救助した流浪民の中から農業経験者や鍛冶師を選び、仕事を与えた。文字を読めない子供には学校を用意し、孤児には修道院が保護者をつけた。
助けを求める者がいれば、可能な範囲で受け入れた。
最初は数百人だった。
それが千人になり、やがて数千人になった。
噂が広がったのである。
西の果てに、怪物を恐れぬ白い都がある。
そこへ辿り着けば食事を与えられる。
病人は治療される。
子供は学ぶことができる。
そして、その都には、本当に力を与える神がいる。
神聖四文字に世界を征服するつもりはなかった。
自分を信じろと命じるつもりもなかった。
ただ、目の前に困っている人間がいれば助ければよいと思っていた。
『まず、生き残ることを考えよう』
転移から七日目。
教皇や騎士団長たちを前に、彼はそう言った。
『どこかに既存の国家があるなら、できるだけ揉めないように接触する。交易も必要だ。こちらから戦争を始める必要はない。助けを求めてきた人間は、余裕がある限り受け入れる。それだけでいい』
教皇ヨハネスは深く頭を垂れた。
「慈悲をもって民を迎え、平和をもって諸国と接せよ、という御意にございますな」
『まあ、そういうこと』
「必ずや、後世まで守り伝えます」
『……後世まで?』
わずかな不安を覚えたが、神聖四文字は深く考えなかった。
それが、この世界における十字教の始まりだった。
最初から巨大な宗教だったわけではない。
最初から軍事大国だったわけでもない。
古い神話を滅ぼそうとした者も、天の神々へ戦いを挑もうとした者もいなかった。
ただ一つの都市があり。
そこに力があり。
城門の前に、行き場を失った人々がいた。
だから、門を開いた。
それだけだった。
二千年後、西方世界のほぼ全域で十字架が掲げられることになる。
十二の騎士団は大陸各地に駐屯し、第十三騎士団イスカリオテの名は闇の中で恐れられるようになる。十三人の枢機卿が巨大な宗教組織を統べ、その半数以上を、二千年前から変わらぬ忠誠を捧げるNPCたちが占め続ける。
そして、天より降臨した神々が、自らを神と名乗ったとき。
十字教徒たちは、心の底から困惑することになる。
彼らにとって、神とは唯一だからである。
唯一なる御方がすでに地上におられるというのに、なぜ別の者が神を名乗るのか。
答えは、彼らにとってあまりにも単純だった。
邪神。
偽神。
滅ぼすべき異教の神々。
その結論に至るまでに、長い議論さえ必要としなかった。
もし、その未来を知っていたなら。
玉座の上に浮かぶ黒い球体は、転移初日にもう少し慎重に言葉を選んだかもしれない。
——もっとも、それで歴史が変わったかどうかは、誰にも分からない。