【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
冬が終わるころ、パチカンの周辺では奇妙な均衡が生まれていた。北方の飢饉は完全には収まっていなかったが、食料輸送が始まったことで最悪の事態は避けられた。ラグナル伯との交易も細々ながら続き、木材、毛皮、塩、鉄鉱石がパチカンへ運ばれる一方、薬、工具、保存食、布などが外へ出ていく。冬のあいだに閉ざされていた道が雪解けとともに再び開き、巡礼者も増え始めた。
それだけなら、順調と言ってよかった。
問題は、人の流れに信仰が伴うことだった。
十字教徒は増えていた。それも、教会が積極的に宣教師を送り込むより早く。
北方の村では、冬の食料を受け取った者たちの何人かが春になってパチカンへ向かい、洗礼を受けた。サリウ村では、小さな十字架が村の入口に立てられていた。誰かに命じられたものではない。村人自身が、魔物から助けられた記念として建てたものだった。
古くから土地の祭祀を担ってきた者たちにとって、それは穏やかに眺めていられる変化ではなかった。
森の母、川の父、豊穣の女神、戦の祖神。名もなきものを含めれば、村ごとに異なる信仰があった。神殿というほど立派なものではなくても、祈りを捧げる場所があり、それを守る人間がいた。彼らにとって、信仰は思想ではない。祭りを取り仕切り、病人に祈り、婚姻を認め、死者を葬ることで共同体の中に居場所を持ってきた。
十字教の広がりは、その居場所を奪い始めていた。
春分から三日後、その不満が初めて血を流した。
パチカンから北へ向かっていた巡礼者の一団が、森の中で襲撃を受けたのである。人数は三十八人。護衛として同行していた騎士はおらず、武装していたのは旅慣れた男が持つ短槍や狩猟弓程度だった。襲撃者は二十名ほどで、顔を布で隠し、火矢を用いた。
死者は六名。負傷者十一名。
生き残った者の証言によれば、襲撃者たちは逃げる際にこう叫んだという。
――偽りの神のもとへ行け。
*
『……死んだの?』
報告を受けた神聖四文字の声は、普段より低かった。
教皇ヨハネスは、玉座の前で一礼した。
「六名でございます。うち二名は子供でした」
神聖四文字は返事をしなかった。
これまでにも死者はいた。砦の制圧でも二人が死んだし、魔物に襲われた者を救いきれなかったこともある。しかし、今回の死は意味が違った。
十字教へ向かっていたから殺された。
それだけの理由だった。
『犯人は』
「第三騎士団が追跡しております。現場に残された品から、北方の村々と関係がある可能性が高いと」
『宗教が理由?』
「その可能性が最も高いでしょう」
ヨハネスは慎重に言葉を選んだ。
「近頃、旧来の祭祀を守る者たちの間で、我々への反感が強まっております。十字教が信徒を奪い、古き神々を滅ぼすつもりだという噂も流れております」
『滅ぼすつもりなんてないって何度も言ってるだろ』
「我々は、そのように伝えております」
『じゃあ何で』
「信じてもらえるとは限りません」
神聖四文字は黙った。
当然のことだった。自分が何を望むかと、相手がどう感じるかは別である。十字教徒が増えれば、古い神殿を訪れる者は減る。祈りを捧げる者が減り、祭りに参加する者が減り、最後には神殿そのものが消えるかもしれない。
こちらが何もしなくても、相手にとっては十分に脅威なのだ。
「主よ」
ヨハネスが続けようとしたとき、大聖堂の扉が開いた。
空気が変わった。
入ってきた男は、黒い法衣をまとっていた。
その姿を見た瞬間、神聖四文字は嫌な予感を覚えた。
白銀を基調とする十二騎士団とは違う。胸には大きな十字架があり、外套の下には武器が隠されている。背が高く、年齢は四十前後に見えた。眼鏡の奥にある目は笑っていない。
影の第十三騎士団。
イスカリオテ。
ゲームだったころ、対異端、対邪教、対怪異を目的として設定した特殊部隊である。
そして、パチカン内部でも存在を知る者は少ない。
「御前を乱しましたこと、お許しを」
男は深く膝をついた。
「第十三騎士団より、ご裁可を仰ぎたく参上いたしました」
『……何をするつもり?』
「襲撃者を特定し、その背後にある異教組織を排除いたします」
早い。
あまりにも早い。
『排除って、具体的には』
「首謀者を捕縛。抵抗する者は討伐。再発の恐れがある神殿、祭祀所については閉鎖を提案いたします」
『却下』
男がわずかに顔を上げた。
「恐れながら、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
『犯人は捕まえる。でも、同じ宗教を信じてるってだけで神殿まで潰すのは違う』
「しかし、異教の神官が襲撃を扇動していた場合は」
『その神官個人の罪だろ。宗教全部の罪じゃない』
「教義そのものが我らへの敵意を生んでいる可能性もございます」
『だったとしても、信じてるだけの人まで敵にする理由にはならない』
イスカリオテの男は黙った。
ヨハネスも何も言わなかった。
神聖四文字には、その沈黙が少し怖かった。
『何』
「いえ」
男は静かに答えた。
「主は、異端に対してもまず個々の罪を問え、と仰せなのだと理解いたしました」
『そう。それでいい』
「では、襲撃に関与していない祭司については一切手を出さず、関与した者のみを拘束いたします」
『うん』
「ただし、拘束時に抵抗し、我らに武器を向けた場合は」
『必要な範囲で反撃はいい。でも殺すのが目的になるな』
「御意」
男は頭を下げた。
あまりに素直だったので、神聖四文字は逆に不安になった。
『名前は?』
「アンデルセンと申します」
黒い球体が、ほんのわずかに揺れた。
そうだった。
ゲーム時代、趣味で作った。
いや、作ってしまった。
『……ああ』
「何か?」
『いや。何でもない』
思い出したくなかった。
*
襲撃者が潜伏していた村が特定されたのは、その日の夕方だった。
パチカンから北へ四十キロほど離れた、森に囲まれた小さな集落である。人口は二百ほど。村の外れには《森の母》を祀る古い祭祀所があり、襲撃に参加した男のうち三人がそこで目撃されていた。
イスカリオテが到着したのは、夜になってからだった。
人数は十二名。
全員が黒い法衣をまとっている。
アンデルセンは村の入口で足を止めた。家々の窓には灯りがあり、人々がこちらを見ている。逃げる者はいない。代わりに、恐怖だけがあった。
「騎士様方」
村長らしい老人が前へ出た。
「何の御用でしょう」
「三日前、巡礼者を襲撃した者を探しております」
老人の顔が強張った。
「この村にはおりません」
「本当に?」
「はい」
アンデルセンはしばらく老人を見たあと、穏やかに笑った。
「では、確認させていただきましょう」
「家を調べるおつもりですか」
「必要であれば」
「拒んだら?」
「困りますな」
笑顔のまま答えた。
「我らが主は、罪なき者へ手を出すなと厳命しておられる。ゆえに、我々もできる限り穏便に済ませたい」
老人は、その言葉を聞いても安心しなかった。
無理もない。
目の前の男は笑っているのに、少しも穏やかに見えない。
「……犯人を渡せば、村には何もしないのですか」
「襲撃に関与していない者へ危害を加える理由はございません」
「神殿も?」
「主より、触れるなと命じられております」
老人は驚いたように顔を上げた。
「あなた方は、我々の神を邪神と呼んでいると聞いた」
アンデルセンの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。
「その件について語り始めますと長くなりますので、今宵は控えましょう」
「……否定はしないのですな」
「残念ながら」
背後にいたイスカリオテの一人がわずかに身じろぎした。アンデルセンは視線だけで制した。
「しかし、我らが主は明確に仰せになられた。信仰そのものを理由として剣を抜くな、と。ならば我々は従います」
「異教徒を憎んでいても?」
「もちろん」
あまりに迷いのない答えに、老人は返す言葉を失った。
「我々は、主の命令を守るためならば、自らの感情などどうでもよろしい」
それは信仰の寛容を語る言葉としては、ひどく恐ろしかった。
*
犯人は祭祀所の地下にいた。
六名。
巡礼者を襲った者の一部だった。
その中心にいたのは、老司祭ではなかった。三十代ほどの若い祭司で、名をケルンといった。彼は逃げようとはせず、祭壇の前に立ってイスカリオテを待っていた。
「白い都の犬か」
アンデルセンが祭祀所へ入るなり、ケルンは吐き捨てた。
「犬とはまた。神父なのですがね」
「神父?」
「我らも祭司のようなものでございます」
「一緒にするな」
「それはこちらの台詞ですが」
アンデルセンは笑った。
ケルンは短剣を抜いた。
「お前たちが来てから、すべてがおかしくなった。村の者は古い神々を忘れ、病人はお前たちの街へ行き、子供まで十字の印を真似る。何百年も守ってきたものを、お前たちは半年で壊した」
「それで子供を殺した?」
ケルンの顔が歪んだ。
「黙れ」
「十字教徒だから殺したのでしょう」
「奴らが先に我々の神を殺した!」
「神が死んだのですか」
「違う!」
叫びが祭祀所に響いた。
「信じる者がいなくなれば、神は死ぬ! 誰も祈らなくなれば、祭りも、墓も、森との約束も全部消える。お前たちは剣を使わずに、俺たちの神を殺している!」
アンデルセンはしばらく黙っていた。
背後のイスカリオテたちも動かなかった。
「なるほど」
やがてアンデルセンは言った。
「あなたの怒りは理解いたしました」
ケルンが息を止めた。
「ならば――」
「しかし、それで無関係の者を殺してよい理由にはなりませんな」
声から笑みが消えた。
「信仰を守るために子を焼く。それを我らが主の御前で正当化できると、本気でお考えか」
「お前たちにだけは言われたくない!」
ケルンが踏み込んだ。
短剣がアンデルセンの胸へ向かう。
次の瞬間、ケルンは床に倒れていた。
何をされたのか、本人にも分からなかった。
手首を取られ、身体を返され、短剣を奪われた。それだけだった。
アンデルセンは倒れた男を見下ろし、少しだけ残念そうに息を吐いた。
「殺すな、と言われておりますので」
ケルンは顔を上げた。
「……殺せ」
「嫌です」
「何だと」
「主の命令に背けと?」
アンデルセンは心底不思議そうな顔をした。
「あなたに、そこまでの価値があるとは思えませんな」
それが最も堪えたのか、ケルンは何も言わなくなった。
*
翌朝、襲撃に関与した六名は生きたままパチカンへ送られた。
村も祭祀所も、そのままだった。
それを知った老司祭は長いあいだ信じなかったという。黒い法衣の者たちが現れた時点で、神殿は焼かれるものと思っていた。
実際、イスカリオテの何人かは焼きたがっていた。
だが命令があった。
だから燃えなかった。
その事実は、周辺の村々へ思いがけない形で広まった。
十字教徒は古い神々を偽物と考えている。
それでも、信じる者を殺しはしない。
神殿も、襲わなければ壊されない。
そして彼らの神は、自分を信じない者にもその権利を認めているらしい。
最後の部分について、神聖四文字が聞けば「そこまで格好いい話ではない」と否定しただろう。
だが、人々は神の言葉を直接聞くことができない。
見えるのは、その信徒が何をしたかだけである。
*
『それで、神殿には本当に何もしなかった?』
大聖堂で報告を受けた神聖四文字は、念を押すように尋ねた。
「無論でございます」
アンデルセンは跪いたまま答えた。
『嫌じゃなかった?』
「非常に」
『……正直だな』
「主の御前で偽る理由がございません」
『燃やしたかった?』
「大変魅力的ではございました」
『やっぱり』
神聖四文字は心の中でため息をついた。
『でも、やらなかった』
「主がお許しにならなかったからです」
『もし俺が許したら?』
「直ちに」
『許さないからな』
「承知しております」
あまりにも気持ちよく答えるので、神聖四文字は余計に不安になった。
『アンデルセン』
「は」
『今後も同じ。宗教が違うってだけなら敵じゃない。実際に人を殺したり、襲ってきたりしたら、その行為に対して動く。分かった?』
「明瞭でございます」
『邪神とか異端とか思うな、とは言わない。たぶん無理だろうし』
「ご賢察、恐れ入ります」
『褒めてない』
アンデルセンは笑った。
神聖四文字は、その笑顔を見ながら思った。
自分はとんでもないものを作ったのではないか。
かなり遅い気づきだった。
だが同時に、別のことにも気づき始めていた。
彼らは狂信的である。
だからこそ、自分の命令には従う。
信仰の暴走を止めるものもまた、信仰だった。
その矛盾が、これから先どれほど長く十字教を縛ることになるのか。
この時の神聖四文字は、まだ知らなかった。