【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
オラリオという名が定着してから三年が過ぎるころには、迷宮入口の周囲に築かれた集落を、もはや「探索拠点」と呼ぶ者はいなくなっていた。人口は一万を越え、城壁の内側には宿屋、鍛冶場、倉庫、施療院、教会、商館が立ち並んでいる。住民の半数以上はパチカンの外から流れ込んだ者であり、十字教徒ではない者も珍しくなかった。
迷宮へ潜る者たちはさらに雑多だった。ラグナル領の傭兵、北方の猟師、没落した騎士、借金を抱えた農民の次男、商人の護衛、ただ強さを求める若者。彼らは互いに異なる言葉を話し、異なる神へ祈りながら、同じ地下へ降りていった。
当初、パチカンは彼らをまとめて《探索者》と呼んでいた。しかし、現場では別の呼称が自然に広まった。迷宮の未知へ挑み、魔物と戦い、魔石を持ち帰る者――冒険者。その呼び方を神聖四文字が気に入ったため、ほどなく公文書にも採用された。
『やっぱり、ダンジョンなら冒険者だよな』
「その“やはり”が、私どもにはよく分からないのですが」
オラリオ行政を担当する枢機卿がそう答えると、神聖四文字は少しだけ黙った。
『気分の問題』
「では、神学的意味はございませんか」
『ない。絶対にない』
「承知いたしました。記録にもそのように」
『その一文まで記録しなくていい』
記録官の筆は止まらなかった。
冒険者が増えること自体は、パチカンにとって歓迎すべきことだった。迷宮内部の情報が増え、魔石の供給も伸びる。しかし、人数が増えれば問題も増える。深さを競って無謀な探索を行う者、他人の獲物を奪う者、弱い冒険者から魔石を巻き上げる者。ひどい例では、同行者を迷宮内に置き去りにして装備を持ち逃げする者まで現れた。
最初の大きな事故が起きたのは、四年目の夏だった。
二十七名の冒険者が、許可された探索区域を越えて深層へ進んだ。複数の集団が即席で組んだ遠征隊で、中心人物はラグナル領出身の傭兵ベルンハルト。彼はそれまでの探索で大きな成果を挙げており、オラリオでは名の知られた男だった。パチカンの基準ではレベル二十四程度。現地出身者としては十分に強い。
彼らは「第七層」と呼ばれていた区域を越え、その先へ向かった。
戻ったのは三人だけだった。
*
「何が出た」
生還者の一人は、施療院の寝台で震えていた。片腕を失い、全身に傷がある。治癒術で命は助かったものの、精神はまだ迷宮から戻っていないようだった。
「牛……」
聞き取りを担当したマティアス枢機卿が、静かに問い直した。
「牛、ですか?」
「違う。人みたいに立ってた。角があって……大きくて……ベルンハルトの剣が、効かなかった」
「一体だけでしたか」
「最初は」
男の呼吸が荒くなった。
「一体を囲んだ。十人で。倒せると思ったんだ。でも、後ろからもう一体来た。それから壁が……壁が割れて……」
そこで男は顔を覆った。
「いっぱい出てきた」
マティアスはそれ以上聞かなかった。治療師へ目配せし、静かに部屋を出る。
廊下には第三騎士団長とマルクスが待っていた。マルクスはすでにレベル二十七になっており、現地出身者の中では最も成長の早い者の一人となっている。
「推定は」
マティアスが尋ねると、団長は答えた。
「生還者の証言が正しければ、レベル三十前後。単体なら正規騎士数名で対処可能ですが、群れとなれば話は変わります」
「救助隊を出しますか」
マルクスが尋ねた。
「出す。ただし、生存者救助より遺体と装備の回収になる可能性が高い」
「それでも行きます」
「お前は残れ」
即答された。
「なぜです」
「今のお前には危険すぎる」
「でも、あの人たちは」
「死者を増やせば弔いにはならん」
マルクスは口を閉じた。悔しさはあったが、反論できなかった。
その日のうちに、レベル四十以上を中心とした第三騎士団の救助隊が迷宮へ入った。結果は、予想より悪かった。
二十四名全員の死亡が確認された。
さらに、救助隊も一名が重傷を負った。
迷宮は、パチカンにとって初めて「自分たちでも油断すれば死ぬ場所」となった。
*
『……俺が悪いかな』
報告を受けた神聖四文字は、珍しく長いあいだ黙っていた。
ヨハネスはすぐには答えなかった。
『面白いって言った。人を入れていいとも言った。結果、死んだ』
「主が彼らへ、禁じられた区域へ進めと命じられたのですか」
『それは言ってない』
「ならば、すべてを御自身の罪となさる必要はございません」
『でも、危険を甘く見てた』
それにはヨハネスも否定しなかった。
「我々も同じでございます。入口付近の魔物が弱かったため、迷宮全体を過小評価いたしました」
『……じゃあ、変えよう』
「何をでしょう」
『仕組みを』
神聖四文字はそこで初めて、明確な言葉にした。
『誰でも好きに潜れるのはやめる。登録制にして、実力に応じて行ける場所を分ける。地図と魔物の情報も共有する。帰ってこなかった人がいたら、どこに行ったか分かるようにする。それから、初心者には経験者をつける』
「冒険者を管理する組織を作る、と」
『管理っていうより支援かな。規則を守らせるのも必要だけど、情報を集めて、装備や治療や依頼もまとめる。冒険者が生きて帰るための組織』
ヨハネスは少し考えた。
「教会の一部門として設けますか」
『いや』
返事は早かった。
『できれば宗教から少し離したい』
「理由を伺っても?」
『十字教徒じゃない冒険者もいるだろ。迷宮に潜るたびに教会へ頭下げろっていうのは違う気がする』
ヨハネスは少し黙った。
「では、都市行政直属の独立組織とするのはいかがでしょう。教皇庁が監督権を持ちますが、信仰は登録条件としない」
『それがいい』
「名称は?」
神聖四文字は考えた。
『冒険者組合』
「組合」
『……ギルドでもいいけど』
「ぎるど」
『そっちの方がそれっぽい』
「では《ギルド》で」
『また俺の気分で決まった』
「主が御名を賜りましたので」
『その表現やめようよ』
やめられなかった。
*
オラリオ・ギルドは、その年の秋に設立された。
最初の仕事は冒険者の登録だった。名前、年齢、出身地、得意武器、過去の探索経験、十字教由来のレベルを持つ者についてはその数値。それ以外の者には簡易な能力試験を行い、おおよその危険区域を決める。登録証を持たない者の迷宮侵入は禁止され、一定深度より先へ行くには追加の資格が必要になった。
当然、反発はあった。
「俺がどこまで潜ろうが、俺の勝手だろう!」
ギルド開設初日、窓口で怒鳴った男に、受付担当の女性は淡々と答えた。
「はい。死ぬだけなら、かなりの部分でご本人の自由です」
「なら――」
「ただし、あなたが行方不明になると救助隊が必要になります。装備を拾った別の冒険者との所有権争いも起きます。魔物を大量に引き連れて上層へ逃げれば、他人が死にます。したがって、完全にご本人だけの問題ではありません」
男は一瞬言葉に詰まった。
「……随分と口の立つ女だな」
「本日は六人目にそう言われました」
「嫌われるぞ」
「給与をいただいておりますので」
この受付係が後にギルド初代窓口長となり、冒険者から「鉄面皮」と呼ばれるようになるのだが、それはまだ先の話である。
ギルドの設立によって、迷宮探索は少しずつ職業として形を持ち始めた。魔石を換金する窓口ができ、商人はギルドを通じて護衛や素材収集を依頼するようになった。地図は共同管理され、未知区域を開拓した者には報奨金が出る。事故率は目に見えて下がり、それまで運任せだった探索に経験と知識が蓄積されていった。
そしてもう一つ、大きな変化が起きた。
十字教徒ではない冒険者が、パチカン式の成長方法に興味を持ち始めたのである。
*
「洗礼を受ければ、本当に強くなれるのか」
マルクスは酒場でそう尋ねられ、手を止めた。
向かいに座っているのは、南方から来た冒険者だった。名はディルク。迷宮探索歴は二年で、剣の腕も悪くない。しかし十字教のレベルシステムを持たないため、身体能力には限界がある。
「洗礼は、強くなるために受けるものじゃない」
「でも強くなるんだろ」
「職業を得て、鍛えればな」
「お前は二十七だって聞いた」
「誰から聞いた」
「みんな知ってる」
マルクスは顔をしかめた。レベルは本来、必要以上に他人へ話すものではない。しかし現地出身の有名な騎士候補ということで、かなり広まってしまっている。
ディルクは身を乗り出した。
「俺は今のままじゃ、七層より先へ行けない。だが十字教徒になれば、もっと強くなれる。そうなんだろ?」
「そうかもしれない」
「なら、何が問題なんだ」
「お前、主を信じてるのか」
ディルクは黙った。
「……見たことない」
「俺だって、最初に洗礼を受けたときは直接見てない」
「じゃあ」
「でも、信じたいと思った」
マルクスは少し考えてから続けた。
「母さんを埋葬してくれた。食べ物をくれた。俺が何も返せないのに。それで、この人たちが信じている神なら、俺も知りたいと思った。それが最初だった」
「強くなれるからじゃない?」
「後から知った」
ディルクは酒を飲み、しばらく黙った。
「俺は強くなりたい」
「うん」
「それだけじゃ駄目か」
マルクスは答えに困った。
神聖四文字なら何と言うだろう。
たぶん、もっと困る。
「分からない」
結局、それが答えだった。
「だから神父に聞け。俺は騎士だから」
「逃げたな」
「逃げた」
二人は笑った。
だが、この問題は笑って済ませられるものではなかった。
*
『絶対出ると思った』
神聖四文字は頭を抱えたかった。
今度の議題は、改宗希望者の急増だった。
オラリオだけで、一か月に三百人を超えている。その多くが冒険者だった。
「本人たちは自発的に洗礼を希望しております」
ヨハネスが説明する。
『理由は』
「強くなりたい、と」
『だよなあ』
「拒絶いたしますか」
『それも変じゃない?』
神聖四文字は悩んだ。
信仰とは何か。
今までの人生で、本気で考えたことなどほとんどなかった。
ゲームでは単なる設定だった。
だが今、その設定が人間の人生を変えている。
『信じてない人を、レベル目的だけで洗礼するのは違うと思う』
「では、信仰を審査する必要がございますか」
『心の中なんて審査できる?』
「難しいでしょう」
『だよな』
しばらく沈黙が続いた。
そこで、現地出身の若い司祭が恐る恐る口を開いた。数年前に飢饉でパチカンへ来た男で、今では司祭となっている。
「主よ。お尋ねしてもよろしいでしょうか」
『うん』
「最初は力を求めて教会へ来た者が、後に信仰を持つことは、許されないのでしょうか」
神聖四文字は止まった。
「私自身、最初にパチカンへ来た理由は食料でした。主を求めて来たのではありません。ですが、そこで人々を知り、教えを知り、後から信じるようになりました。入口が食事であった者と、入口が力である者に、それほど違いがあるのでしょうか」
ヨハネスが若い司祭を見た。
神聖四文字も考えた。
『……ないかも』
「ならば、最初から完全な信仰を求めなくてもよいのではないでしょうか」
『でも、何でもありにすると洗礼がただの強化イベントになる』
「はい。ですから、学ぶ期間を設けてはいかがでしょう」
若い司祭は少し緊張しながら続けた。
「洗礼を希望する者は一定期間、教会で十字教について学ぶ。その間に考えてもらう。最後に、それでも受けたいと願うなら受ける。動機が力であっても、それだけを理由に拒まない」
会議室が静かになった。
『それ、いいな』
神聖四文字はすぐに答えた。
『強くなりたいって気持ち自体は悪くないし。その代わり、自分が何に入ろうとしてるかくらいは知ってから決めてもらおう』
こうして、洗礼前教育制度が生まれた。
後世の神学校制度につながる最初の形である。
*
制度ができても、改宗者は減らなかった。
むしろ増えた。
数週間にわたって十字教を学び、それでも洗礼を希望する者が大半だったのである。
理由は単純だった。
強くなれる。
治療を受けられる。
教育がある。
共同体がある。
そして、強制されない。
人々にとって、そのすべてが魅力だった。
神聖四文字は、このころからようやく気づき始めた。
自分は布教を抑えているつもりだった。
しかし。
十字教という制度そのものが、あまりに強い。
剣を持って改宗を迫る必要など、最初からなかった。
相手が自分から来る。
『……これ、どうやって止めるんだ?』
ある夜、誰もいない大聖堂で呟いた。
返事はなかった。
ただ、天井近くにいたソフィアが降りてきた。
「止める必要があるのでしょうか」
『分からない』
「人々は、自ら選んでおります」
『今はね』
「今は?」
『これが百年、二百年続いたら、十字教じゃない人がほとんどいなくなるかもしれない』
「それは、悪いことでしょうか」
ソフィアは本当に分からないという顔をしていた。
神聖四文字も、すぐには答えられなかった。
『……たぶん、俺が決めることじゃないんだと思う』
「主が?」
『俺が神だからこそ』
ソフィアは静かに待った。
『俺が「全員俺を信じろ」って言ったら、たぶん本当にそうなる。だから言いたくない』
「しかし、主こそ唯一なる神でございます」
『その設定を作ったの、俺なんだよな……』
「設定?」
『何でもない』
神聖四文字は、少しだけ遠くを見るように沈黙した。
地上では、オラリオの灯が増えている。
地下では、冒険者たちがさらに深い場所へ進み始めている。
そして人々は、少しずつ十字教へ集まり始めていた。
誰にも強制されず。
だからこそ、止める理由も見つからないまま。
後に西方世界をほぼ覆い尽くす巨大宗教は、この時点ではまだ、自分が帝国になりつつあることに気づいていなかった。