【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
転移から十二年が過ぎたころ、パチカンの周囲には「国境」という言葉が使われるようになっていた。神聖四文字自身には領土を広げたという意識などほとんどなかったが、保護を求める村を受け入れ、街道を整備し、魔物や盗賊から商人を守り、飢饉の際には食料を送り、争いが起きれば裁判所を開く。それを十年以上続けた結果、どこからどこまでをパチカンが守り、どこから先を他の領主が治めるのかを決めなければ、かえって混乱するようになったのである。
かつてラグナル伯が支配していた地域の一部も、住民の移住や領主間の協定を経てパチカンの勢力圏へ組み込まれていた。ラグナル家そのものは独立を保っているものの、その息子の代には国境に検問所が置かれ、商人が支払う通行税まで協定で決められている。
オラリオの成長は、それ以上だった。人口は五万を越え、迷宮から得られる魔石は照明や暖房だけでなく、製粉、水の汲み上げ、鍛冶工房の送風設備にまで使われ始めていた。ギルドには数千人の冒険者が登録し、十字教徒も異教徒も、同じ酒場で依頼を奪い合い、同じ治療院へ担ぎ込まれ、翌朝にはまた肩を並べて迷宮へ潜る。教会は依然として都市最大の組織だったが、都市生活のすべてを直接統治することはとうに不可能になっていた。そのため商人、職人、ギルド、教会、住民の代表からなる評議会が置かれ、市場規則や税の一部まで自ら決めるようになっている。
『なんか、勝手に文明が進んでない?』
久しぶりに十二年分の変化をまとめて説明された神聖四文字がそう言うと、ヨハネスはいつもの落ち着いた顔で答えた。
「十二年という歳月は短くございません。まして、主は街道を開き、移住を認め、教育を広め、交易を許し、迷宮を外部の者へも開放なさいました。それだけ条件が整えば、人が集まり、人が集まれば自ずと制度も必要になります」
『俺としては、その場その場で困ったから何とかしてただけなんだけどな』
「大抵の制度は、そのように生まれるものかもしれません」
『それっぽいこと言うね』
「十二年も教皇をしておりますので」
神聖四文字は何となく納得した。ヨハネスをはじめ、転移以前からパチカンに仕えていた者たちには、外見上ほとんど老化が見られなかった。しかし、そのことについて教会は公には語っていない。高位の聖職者や騎士が長命であるという説明に留め、彼らがどのような存在として生まれたのかは秘匿されていた。知っているのは神聖四文字自身と、ごく限られた最上層だけである。現地の人々から見れば、彼らはただ、主の加護を強く受けた古参の聖職者や騎士にすぎなかった。
この日の議題は、オラリオの発展そのものではない。一人の男のことだった。
「マルクス殿が、本日レベル四十へ到達いたしました」
『……四十? あのマルクスが?』
「そのマルクスでございます。現地に生まれた者としては初となります」
神聖四文字の中には、いまだに痩せた少年の姿が残っている。死んだ母親を丁寧に埋葬してもらったことをきっかけに洗礼を望み、最初の職業として騎士を選んだ少年である。あれから十二年が過ぎ、いまや二十代半ばになっていた。
『三十台までは他にもいるんだよな』
「はい。しかし、四十を越えた者はまだおりませんでした」
そこには明確な理由があった。レベル二十までは、大量に存在する低位用の訓練設備を利用すれば比較的安全に到達できる。そこから三十までは、魔物討伐や迷宮探索、護衛任務などを積めば、才能と努力のある者なら手が届く。しかし四十以上となると必要な経験は急激に増えた。パチカンにはレベル五十まで有効な高位訓練設備も残されているが、その数は極めて少なく、聖騎士候補や上級神官、特殊任務に就く者など、厳しく選抜された者だけに使用が許されている。
『マルクス、高位の訓練設備は使ってた?』
「いいえ。資格そのものは以前から与えられておりましたが、本人が辞退しております。自分だけが優先される理由はない、と」
『……らしいな』
マルクスは十二年間、ほとんどを実戦で積み上げてきた。迷宮、街道警備、魔物の大量発生、遭難者救助。戦ってばかりいたわけではない。後進の訓練を手伝い、読み書きや法律を学び、村の自警組織づくりにも関わった。それでも、危険な場所から何百回も生きて帰った結果として、ようやく四十へ届いたのである。
『で、四十になると何かあるの?』
「聖騎士への叙任資格を得ます」
『ああ……』
「何か問題が?」
『いや、マルクスが素直に受けるかなって』
その予想は正しかった。
*
「お断りします」
第三騎士団の執務室でそう言われ、団長はしばらく黙ってマルクスを見た。十二年前の少年の面影は目元に少し残る程度で、身体はすっかり騎士のものになっている。左の眉から頬へ走る傷は、数年前に迷宮で仲間を庇った際についたものだった。
「理由を聞いてもよいか」
「私は、聖騎士と呼ばれるような人間ではありません」
「名称に引きずられすぎているな。聖騎士とは、罪を犯したことのない者につける称号ではない」
「ですが、民はそう見ます。教会も、たぶんそう使うでしょう。流浪民だった少年が主に救われ、洗礼を受け、騎士となり、最初の聖騎士にまでなった、と。出来すぎた話です」
「事実ではある」
「事実の一部です」
マルクスは静かに答えた。
「母が死んだとき、私は主を恨みました。洗礼を受けたあとも、何度も逃げたくなった。迷宮で仲間を置いて走りそうになったこともありますし、戦場では人も殺しました。祈っても何も感じない日だってあります。そんな人間を、後から都合よく美しい物語にしないでほしいのです」
団長はそれを遮らずに聞いていた。
「聖騎士になる者は、一度も迷ってはならないと誰が決めた」
「少なくとも、人々はそう期待するでしょう」
「なら、その期待を裏切ればいい」
マルクスは少し呆れた顔をした。
「騎士団長殿が言うことですか、それ」
「むしろ騎士団長だから言う。迷わない人間など信用できん。自分が正しいと確信した者ほど、間違った方向へ進んだときに止まりにくい」
「団長殿でも、迷われるのですか」
「当然だ。主にお仕えして長いからといって、すべてが分かるわけではない。主の御言葉をどう理解すべきか、命令が何を意味しているのか、自分の判断が本当に正しいのか。考えずに済んだ日はない」
マルクスには、それが意外だった。第三騎士団長は彼が幼いころからほとんど姿を変えていない。強く、冷静で、何があっても動じない。マルクスにとっては、信仰にも騎士道にも迷いなどない人間のように見えていた。
「もっと……迷わない方なのだと思っていました」
「そう見えるように振る舞っているだけだ。指揮官が毎回部下の前で悩んでいたら軍が動かん」
「ずるいですね」
「大人とはそういうものだ」
団長はそこで少し笑った。
「お前は、自分が迷うから聖騎士にふさわしくないと言う。私は逆に、迷うことを知っているからこそ、お前を推薦した。力のある者が自分を疑えなくなったときほど危険なことはない」
マルクスはすぐには答えなかった。
「考える時間をください」
「もちろんだ。だが、断るにしても一度は主と話してこい。お前自身の意志を尊重すると仰っている」
「主が?」
「ああ。『嫌なら無理にさせるな』とのことだ」
マルクスは思わず小さく笑った。
「主らしいですね」
「私もそう思う」
*
その夜、マルクスは大聖堂の奥へ呼ばれた。正式な謁見なら大広間を使うはずだったが、案内されたのはもっと小さな部屋だった。扉の向こうには、三メートルほどの黒い球体が静かに浮かんでいる。久しぶりに直接見る主の姿に、マルクスは反射的に膝をついた。
「お久しぶりでございます、主よ」
『久しぶり。八年くらい?』
「直接お目にかかるのは、そのくらいになります」
『大きくなったな』
「もう二十五です」
『俺の中では、最初に会ったときの印象が強いんだよ』
マルクスは苦笑した。
『聖騎士、断ったんだって?』
「まだ正式には。考える時間をいただいております」
『無理に受けなくていいよ。俺としては、なってくれたら嬉しいけど』
あまりにあっさり言われ、マルクスは顔を上げた。
「それなら、主が命じてくだされば」
『それは駄目だろ』
「なぜです。主がお望みなら、それに従うことも信仰ではありませんか」
『従うこともそうかもしれない。でも、自分で決められることまで俺が決めたら、そのうち何でも俺に聞くようになるじゃん』
「神に尋ねるのは、悪いことでしょうか」
『全部決めてもらおうとするのは、あんまりよくない気がする』
神聖四文字は少し間を置いた。
『俺だって、ずっと迷ってるから』
マルクスは思わず瞬きをした。
「主が、ですか」
『うん。この世界に来てから、ほとんど毎日』
答えがあまりにも自然だったため、マルクスには冗談には聞こえなかった。
『門を開けてよかったのか、奴隷を助けるために他所へ介入してよかったのか、死刑を残していいのか、十字教が増え続けてもいいのか。ダンジョンだって、俺が面白がって開放したせいで何人も死んだ。正しい答えを知ってから決めてるわけじゃないよ』
「ですが、主は神であられます」
『そう呼ばれてるね』
「すべてをご存じなのではないのですか」
『誰に聞いたの、それ』
マルクスは少し迷った。
「神学校で」
『……あとでヨハネスと話そう』
声に妙な疲れが混じっていた。
『まあ、それは置いといて。マルクスが「迷う自分は聖騎士にふさわしくない」って言ってるって聞いたから。それなら、俺もだいぶ神に向いてないなと思って』
「そのようなことを仰らないでください」
『でも本当だよ』
マルクスは黒い球体を見つめた。表情も目もない。それなのに、不思議と昔ほど恐ろしく感じなかった。
「私は、主を信じています。ただ、すべてに納得しているわけではありません。主の判断が間違っているのではないかと思ったこともあります」
『うん。それでいいよ』
「……よろしいのですか」
『むしろ、そういう人がいてくれた方が助かる。俺が変なこと言ったとき、全員が「御意」って言ったら怖いだろ』
マルクスはつい笑ってしまった。
「教皇猊下に聞かせられませんね」
『あの人、たぶん聞いてるよ』
「え?」
『何でもない』
マルクスは少し考えてから、ゆっくり頭を下げた。
「主よ。三日だけいただけますか」
『もちろん』
「そのうえで、自分で決めます」
『それがいい』
*
三日後、マルクスは聖騎士への叙任を受け入れた。ただし、叙任規則に一つの文言を加えることを願い出た。
「聖騎士とは、疑いを持たぬ者ではなく、疑いと恐れを抱きながら、それでも自らの意思で守るべきものを選ぶ者である――そういう意味を残したいのです」
法務を担当するセラフィム枢機卿は、しばらく黙って文書を眺めた。
「称号規則の序文に、そこまで思想的な文章を加えますか」
「駄目でしょうか」
「駄目とは申しません。ただ、後世の神学者が延々と解釈するでしょうな」
「今さらでは?」
セラフィムは反論できなかった。
多少の修正を経たうえで、マルクスの意向は規則に取り入れられた。
叙任式の日、大聖堂には多くの人々が集まった。現地に生まれた者が聖騎士となるのは、これが初めてである。流浪民だった少年が十年以上の歳月を経て、パチカンでも最上位に近い騎士階級へ上がる。その事実は、本人がどれほど嫌がろうとも、多くの人に希望として受け取られていた。
祭壇の前で、マルクスは膝をついた。教皇ヨハネスが剣を手にし、静かな声で問いかける。
「マルクス。汝は、力なき者を守り、力ある者を恐れず、己が力を誇らず、その力を用いた結果に自ら責任を負うことを誓うか」
「誓います」
「異なる信仰を持つ者であっても、そのことのみを理由として害さぬことを誓うか」
「誓います」
「そして、命令を受けたとき、それが正しきものかを考えることを放棄せず、主の御心と己が良心に照らし、自らの行いに責任を負うことを誓うか」
マルクスは一瞬だけ顔を上げた。
「騎士に、命令を疑えと仰るのですか」
大聖堂にかすかな笑いが広がった。ヨハネスもわずかに口元を緩める。
「主がお認めになられた」
「それでは仕方ありませんね」
マルクスも笑った。
「誓います」
剣が左右の肩へ触れた。
こうして、現地出身者として最初の聖騎士が誕生した。
後世、《聖騎士マルクス一世》と呼ばれる男である。
*
聖騎士となったマルクスには、高位訓練設備の使用権が正式に与えられた。しかし、彼は毎日そこへ通おうとはしなかった。週に二日だけ利用し、それ以外の日は迷宮探索、街道警備、後進の教育に充てた。
「毎日使えば、もっと早くレベル五十へ届くのではありませんか」
若い騎士にそう尋ねられたとき、マルクスは訓練場の隅に並ぶ高位訓練設備へ目を向けた。
「だから使わないんだ。あれは数が少ない。俺が一日使えば、その日は別の誰かが使えない」
「しかし、聖騎士には優先権があります」
「優先して使う権利があることと、使えるだけ使っていいことは違う。俺一人が五十になるより、四十になれる騎士が何人か増えた方が役に立つこともある」
「でも、強い騎士が一人いる方が救える場面もあります」
「そうだな。だから二日は使ってる」
若い騎士は少し考えたあと、笑った。
「ずるい答えですね」
「大人とはそういうものらしい」
「誰に教わったのですか」
「団長だ」
その選択のため、マルクスがレベル五十へ到達するにはさらに長い時間を要することになる。だが、それでよかった。パチカンに必要なのは、少数の怪物だけではない。レベル二十程度の兵を安定して育て、三十台の精鋭を増やし、その中から四十、五十へ到達する者を少しずつ生み出す仕組みである。高位訓練設備が希少である以上、軍全体をレベル五十で埋め尽くすことなどできない。それは軍事的な制約であると同時に、神聖四文字にとってはどこか安心できる事実でもあった。
『よかった。レベル五十の兵隊が何万人もいる、みたいなことにはならなそうだな』
後日、その話を聞いた神聖四文字が言うと、ヨハネスは少し考えてから答えた。
「高位訓練設備を再現できれば、事情は変わる可能性がございます。工房では現在も研究を――」
『それ、成功しそう?』
「現状では難しいようです。構造の大半が解析不能とのことで」
『……よかった』
「主?」
『いや、何でもない』
神聖四文字は心から安堵していた。
一般兵であっても、周辺諸国から見れば十分すぎるほど強い。精鋭部隊なら平均三十前後。四十を越えれば名の知られた騎士となり、五十へ届けば聖騎士として一国の軍勢すら左右し得る。そして、そのさらに上には、パチカン建国以前から主に仕えていたとされる古参の騎士や聖職者、天使、そして存在そのものを秘匿された第十三騎士団がいる。
彼らがなぜ老いにくいのか。
なぜ現地人とは比較にならないほど強い者がいるのか。
なぜ神聖四文字への忠誠が、あれほど絶対的なのか。
その真実を知る者は、ほとんどいなかった。
教会は彼らを《最初の僕》《始まりの聖者》《主とともに来たりし者》などと呼んだ。
それ以上のことは語らなかった。
神聖四文字自身も、語らせなかった。
この世界の人間にとって、自分たちはすでに十分すぎるほど異質だった。
これ以上の秘密まで知る必要はない。
少なくとも、この時点ではそう考えていた。
そして、秘密というものは長く守られるほど、やがて宗教になる。
二百年後には、パチカン創世期の古参たちについて、数え切れないほどの伝説が生まれることになる。
だが、そのどれも真実には届かなかった。