【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか   作:d_chan

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第14話 王の洗礼

 マルクスの叙任からさらに七年が過ぎたころ、十字教はついに「一つの都市の宗教」とは呼べない規模へ達していた。パチカンを中心とする直轄地域だけではない。ラグナル領では人口の三割近くが洗礼を受け、北方諸侯の領地にも教会が建ち始めている。オラリオではさらに比率が高く、冒険者の半数近くが十字教徒だった。一方で、古い信仰が消えたわけでもない。山や森の祭祀は地方に残り、交易都市では複数の宗教が混在している。少なくとも制度上は、それが認められていた。

 

 神聖四文字にとって、そこまではまだ耐えられる範囲だった。困ったのは、ラグナル伯の孫にあたるアルノルト二世が、正式に洗礼を受けたいと申し入れてきたことである。

 

『本人だけ?』

 

 大聖堂の会議室で神聖四文字が尋ねると、ヨハネスは手元の書簡を確認した。

 

「本人だけではございません。妻君、嫡子、近臣十七名も同時に希望しております。また、洗礼後は領内に十字教会を正式な公認宗教として認め、教会財産への課税を一部免除する意向とのことです」

 

『……それ、かなり大きくない?』

 

「大きいでしょうな」

 

『王様が改宗すると、領民も変えろって話にならない?』

 

「アルノルト二世は、強制改宗は行わないと明記しております。ただし、領主がどの神を信じるかは民衆へ相当な影響を与えるでしょう」

 

 神聖四文字は考え込んだ。洗礼そのものを拒む理由はない。アルノルトが本当に信じたいと思っているなら、それを妨げる方がおかしい。しかし、彼はただの一個人ではない。領主である。彼の選択は、本人だけでは終わらない。

 

『理由は聞いてる?』

 

「信仰上の理由としては、幼少より十字教会の施療院と学校に接してきたこと、父君の病を教会の治療師が救ったこと、さらに本人がオラリオで一度、主の御姿を遠くから拝したことを挙げております」

 

『遠くから?』

 

「祭礼の折に」

 

『俺、見られてたの?』

 

「数万人が」

 

『知らなかった』

 

 ヨハネスは少しだけ黙った。

 

「主は、御自身が人前に出られることの影響をもう少し自覚なさった方がよろしいかと」

 

『黒い球が浮いてるだけだよ』

 

「だからこそです」

 

 よく分からなかった。

 

『政治的な理由は?』

 

「当然あるでしょう」

 

 答えたのはマティアスだった。

 

「アルノルト二世は若い。叔父が軍を握り、南部貴族の一部が従っておりません。十字教会と良好な関係を結べば、自らの正統性を補強できます。さらに、パチカンとの軍事同盟まで期待している可能性が高いかと」

 

『やっぱりそういうのあるよな』

 

「宗教と政治を完全に分けることは難しいでしょう」

 

『でも、洗礼を受けたから守ってやる、みたいにはしたくない』

 

「では、その点を明文化なさればよろしい」

 

 神聖四文字は少し考えた。

 

『洗礼と同盟は別。信徒だから軍事支援するわけじゃない。国内の異教徒に改宗を強制したら、むしろ関係を悪くする。それを本人に説明して、それでも受けたいなら受け入れる』

 

「妥当かと存じます」

 

『あと、領主だけ特別扱いしない。同じ洗礼前教育を受けてもらう』

 

 ヨハネスが少しだけ目を細めた。

 

「二か月間?」

 

『うん』

 

「一国の領主を、一般の求道者と同じ教室へ通わせるのでございますか」

 

『本人が信じたいなら、そのくらいするだろ』

 

「……承知いたしました」

 

 この決定を聞いたアルノルト二世は、一度も抗議しなかった。

 

     *

 

 彼は本当に二か月間、週に三度、領都の教会へ通った。

 

 教室には農民も商人もいた。迷宮で片足を失った元冒険者もいれば、夫を亡くした女性もいた。領主だからといって前列へ案内されることもなく、司祭は他の者と同じ教本を渡し、同じ質問をした。

 

「あなたは、なぜ洗礼を受けたいのですか」

 

 初日の授業でそう尋ねられ、アルノルトは少し考えた。

 

「主を信じているからです」

 

「それだけでしょうか」

 

「領主として有利になることも承知している」

 

 教室の空気がわずかに変わった。

 

 司祭は表情を変えなかった。

 

「では、もし洗礼によって政治的に不利になるとしても、受けますか」

 

 アルノルトはすぐには答えなかった。

 

「……分からない」

 

「結構です」

 

「結構なのですか」

 

「分からないことを、分かるふりをするよりは」

 

 アルノルトは、その答えを気に入ったらしい。

 

 二か月後、彼は正式に洗礼を受けた。

 

     *

 

 洗礼式には、パチカンからマティアス枢機卿が派遣された。神聖四文字本人は出席しなかった。領主の洗礼へ神自身が姿を現せば、それだけで「主がアルノルトの統治を直接承認した」という意味に取られかねないからである。

 

 式の前日、マティアスは本人と最後の確認を行った。

 

「一つだけ、改めて申し上げます。洗礼を受けたからといって、パチカンの軍があなたの王位を守るわけではありません」

 

「伯位だ。まだ王ではない」

 

「失礼」

 

「いずれ王になるかもしれんがな」

 

 アルノルトは笑った。二十八歳。若いが、父や祖父よりも言葉が柔らかい。

 

「分かっている。叔父との争いも、自分で片をつける」

 

「異教徒の家臣についても、信仰を理由に罷免してはなりません」

 

「それも分かっている」

 

「領民への強制改宗も認めません」

 

「しつこいな」

 

「重要ですので」

 

 アルノルトは少し黙ったあと、窓の外を見た。城下の屋根の向こうに、新しく建てられた十字教会の塔が見える。そのさらに向こうには、古い森の祭祀所も残っていた。

 

「私が洗礼を受ければ、多くの者が後に続くだろう。それを止めろと言うのか」

 

「止めろとは申しません。ただ、あなたが領主であるがゆえに、民が『信じなければ不利益を受ける』と思う状況を作らぬように、と」

 

「難しい要求だな」

 

「承知しております」

 

「信仰を隠した方がいいのか」

 

「いいえ。それも違います」

 

 アルノルトは苦笑した。

 

「面倒な宗教だな」

 

「よく言われます」

 

「誰に」

 

「最初はあなたの祖父君に」

 

 アルノルトは声を立てて笑った。

 

     *

 

 翌日の洗礼式は、大きな混乱もなく終わった。

 

 しかし、その影響は大きかった。

 

 領主が十字教徒となったことで、ラグナル領内では改宗希望者が急増した。地方貴族の中にも洗礼を受ける者が現れ、教会への寄進も増えた。だが同時に、古い祭祀を守る者たちの不安も強まった。

 

 その最初の訴えは、意外な形でパチカンへ届いた。

 

「王――いや、伯が十字教徒になった以上、我々はいつまでこの土地にいてよいのか」

 

 そう尋ねたのは、森の母を祀る老司祭だった。

 

 すでに七十を越えている。

 

 彼はマティアスの前へ座り、ひどく疲れた顔をしていた。

 

「アルノルト伯は祭祀所を閉じる命令を出しておりません」

 

「今はな」

 

「今後も、信仰だけを理由とした閉鎖は認めないと協定に明記されています」

 

「伯の次の代は?」

 

 マティアスは黙った。

 

「その次は。百年後は。お前たちの信徒が九割になったとき、残りの一割を本当に放っておくのか」

 

「……保証はできません」

 

 老司祭は少し驚いた。

 

「できない、と言うのか」

 

「私は百年後の人間の判断を支配できません。法は残せます。教義も残せます。しかし、それを守る者がどうなるかまでは」

 

「正直だな」

 

「嘘をついて安心させても意味はないでしょう」

 

 老人は長いこと黙っていた。

 

「では、頼みがある」

 

「何でしょう」

 

「我々の祈りを、記録してくれ」

 

 マティアスは眉を上げた。

 

「記録?」

 

「歌も、祭りも、死者の送り方も。森の母に何を捧げ、何を恐れ、どう生きてきたかも。もし我らの信仰が消えるとしても、最初から何もなかったことにはしないでくれ」

 

 マティアスはすぐには答えなかった。

 

「なぜ、我々に頼まれるのです」

 

「お前たちが一番、記録を残すからだ」

 

 それは否定できなかった。

 

「何でも書く。神の言葉も、法律も、裁判も、戦争も。気味が悪いほどにな」

 

「褒め言葉と受け取っておきます」

 

「違う」

 

 老人は少し笑った。

 

「だが、頼れる」

 

     *

 

 この申し出は、神聖四文字のもとへ上げられた。

 

『全部残そう』

 

 返事は早かった。

 

「異教の祭祀を、教会自身が記録するのでございますか」

 

 ヨハネスが確認する。

 

『うん。歌も儀式も神話も。できれば本人たちに話してもらって、そのまま残す。十字教の解釈で書き換えない』

 

「将来的に禁じられる教義が含まれていても?」

 

『犯罪に直接使う方法とかじゃなければ。知ってることと、信じることは別だろ』

 

「なるほど」

 

『あと、勝手に「古代の十字教の予言だった」とか解釈しないでね』

 

 ヨハネスが黙った。

 

『するつもりだった?』

 

「可能性としては」

 

『やめて』

 

 こうしてパチカンには、異教祭祀や地方伝承を記録する部署が作られた。後世の名称を《諸民族記録院》という。

 

 皮肉なことに。

 

 十字教の拡大によって失われていった古い信仰の多くは、十字教会が残した記録によって後世へ伝わることになる。

 

     *

 

 アルノルト二世の洗礼から五年後、彼は叔父との内戦に勝利した。

 

 パチカンは軍を出さなかった。

 

 ただし負傷者の治療は、敵味方を問わず行った。

 

 戦後、アルノルトは周辺の小領主をまとめ、自らを王と称した。

 

 ラグナル王国の成立である。

 

 戴冠式を誰が行うかについては、大きな議論になった。

 

「教皇猊下に冠を授けていただきたい」

 

 アルノルトから届いた正式な依頼を読み終え、神聖四文字は嫌そうな声を出した。

 

『これ、やったら王様は教会から王権をもらった、みたいにならない?』

 

「その解釈は生じるでしょう」

 

『じゃあ、やめた方がいいんじゃない』

 

「しかし拒否すれば、王が主の祝福を受けていないと解釈する者もおります」

 

『面倒だなあ』

 

 政治と宗教は、何度分けようとしても絡み合う。

 

 結局、妥協案が採られた。

 

 戴冠そのものはラグナル王国の貴族代表が行う。

 

 教皇は王冠を授けない。

 

 その後に、王と国民の平安を祈る祝福のみを行う。

 

 神聖四文字は、それならまだいいと思った。

 

 後世の歴史家は、この儀式を「王権と教権の二元性を確立した画期」と評価することになる。

 

 本人はそんな意図など持っていなかった。

 

『王様は王様、教会は教会でいいじゃん』

 

 それだけだった。

 

     *

 

 だが、一つの王国が十字教を公認した影響は、神聖四文字の予想を遥かに越えた。

 

 南方の国。

 

 西の山岳諸侯。

 

 北の交易都市。

 

 彼らは一斉にパチカンへ使者を送った。

 

 目的は様々だった。

 

 教会を建てたい。

 

 学校を作ってほしい。

 

 治療師を派遣してほしい。

 

 騎士の訓練方法を教えてほしい。

 

 そして。

 

 自分たちも洗礼を受けたい。

 

 神聖四文字は、使節一覧を見ながら長いこと黙っていた。

 

『……これ、本当に止まらないな』

 

 ソフィアが隣で静かに答えた。

 

「人々が選んでいるのでございます」

 

『分かってる』

 

「ならば、よろしいのでは」

 

『今はね』

 

 神聖四文字は西方の地図を眺めた。

 

 十二年前には、パチカン周辺の地名すらほとんど分からなかった。

 

 いまでは街道が線となり、教会が点となって、その線と点が西方各地へ広がっている。

 

 百年後。

 

 二百年後。

 

 千年後。

 

 このまま進めば、どうなる。

 

『ソフィア』

 

「はい」

 

『もし、いつか十字教以外の宗教がほとんどなくなったら、それって皆が自由に選んだ結果だと思う?』

 

 ソフィアはすぐには答えなかった。

 

「私には分かりません」

 

『そっか』

 

「ただ、一つだけ申し上げられます」

 

『何?』

 

「主が選択する自由を命じ続ける限り、少なくとも我々は、それを守ろうといたします」

 

 神聖四文字は少しだけ安心した。

 

 そして同時に思った。

 

 自分がいるあいだは。

 

 その言葉が、胸の奥に小さく引っかかった。

 

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