【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
ラグナル王国の成立から十余年が過ぎるころ、パチカンは初めて「自分たちが長く存在しすぎる」という問題に直面した。現地に生まれた人々は老いる。マルクスも三十代後半となり、若いころにはなかった皺が目元に刻まれ始めている。
ラグナル家ではすでに二度の世代交代があり、最初にパチカンへ使者として訪れたエドガーも、今では杖をついて歩く老人だった。ところがヨハネスをはじめ、転移以前からパチカンにいた高位聖職者や騎士の多くは、ほとんど外見を変えていない。それまでは「主の特別な加護を受けている」で押し通してきたが、二十年、三十年と経つにつれて、その説明だけでは人々の好奇心を抑えきれなくなっていた。
特に問題となったのが教皇ヨハネスだった。教皇が二十年以上まったく老いない。病にもほとんど罹らず、若いころから彼を知る者が老人になっても同じ顔をしている。巡礼者の間では「教皇は不死である」という噂が広まり、地方教会では彼の肖像そのものを聖遺物のように扱う例まで出始めていた。
『そろそろ交代した方がよくない?』
神聖四文字がそう言ったとき、ヨハネスは珍しく即答しなかった。
「私に退任せよ、と仰せでしょうか」
『嫌なら無理には言わないけど。このまま百年教皇やってたら、絶対おかしなことになると思う』
「既に十分おかしなことになっている気もいたしますが」
『それを言ったら終わりだよ』
会議には十三枢機卿のうち七名が出席していた。そのうち四名は転移以前から存在する古参、三名は現地出身者である。現地出身の枢機卿が任命されるようになってからすでに十年以上が経っており、制度としては定着していた。ただし、古参たちがどのような存在なのか、その真実までは伝えられていない。彼らもまた「主とともにパチカンへ現れた最初期の聖職者」としか知らなかった。
「問題は、後任をどのように定めるかでございます」
法務担当のセラフィムが口を開いた。
「現状、教皇は主の御前において教会を代表する者とされております。初代であるヨハネス猊下は、主より直接その職を与えられました。しかし今後、代替わりするのであれば選出方法が必要となります」
『俺が毎回決めるのは駄目?』
「最も単純ではございますが」
『嫌そうだね』
「主がお選びになれば、教皇は事実上、神命によって地位を得ることになります。後世、その権威が強くなりすぎる可能性がございます」
神聖四文字は少し黙った。
『じゃあ、枢機卿で選ぶ?』
「妥当でしょう。ただし、主に承認していただく形を残すか否かも決める必要がございます」
『承認しないと駄目?』
「制度上は不要にできます」
『じゃあ、いらないんじゃないかな』
今度は現地出身の枢機卿の一人が口を挟んだ。
「恐れながら。主の教会を統べる者が、主の御心に適わぬ者であった場合はいかがいたします」
『そのときは言うよ』
「つまり、拒否権だけはお持ちになる?」
『……それくらいはあった方がいい?』
会議室に微妙な沈黙が落ちた。
「主ご自身が迷われる案件を我々にお尋ねになるのは、少々珍しゅうございます」
『いや、こういうのこそ分かんないんだよ。俺が全部決めたら独裁だろ。でも完全に手放して、とんでもない人が教皇になったら困るし』
結局、長い議論の末、制度は折衷案に落ち着いた。教皇は十三枢機卿の互選で選ぶ。選出された者は神聖四文字の前で就任を宣誓する。ただし神聖四文字は原則として人選へ介入せず、重大な理由がある場合のみ拒否できる。さらに、十三枢機卿のうち過半数は常に「建国以来の伝統を受け継ぐ者」で占めるという内規が設けられた。表向きには教義の継続性を守るためとされたが、実際には神聖四文字と古参層の間で意思疎通を保つための安全装置だった。
その本当の理由は、もちろん公にはされなかった。
*
退位を発表したヨハネスに対し、民衆の反応は予想以上だった。
大聖堂前には数千人が集まり、「なぜ退かれるのか」「病なのか」「主の御不興を買ったのか」と憶測が飛び交った。地方ではさらに話が膨らみ、教皇の死が近いという噂まで流れた。本人が元気な姿で説教壇に立っても、その噂はなかなか消えなかった。
「私は死にません」
ヨハネスが壇上でそう言うと、広場が静まり返った。
「少なくとも、今すぐには」
少しだけ笑いが起こった。
「私は長くこの務めを担いました。しかし、教会は一人の人間が永遠に治めるものではありません。主がおられ、教会があり、信徒がいる。教皇は、その時代ごとに必要な役目を預かる者にすぎません」
その言葉を聞きながら、マルクスは群衆の後方に立っていた。すでに聖騎士として広く知られる立場になっているため、目立たぬよう簡素な外套を羽織っている。隣には老いたエドガーがいた。
「本当に変わらんな、あの人は」
エドガーが呟いた。
「猊下は主の加護を強く受けておられますから」
「便利な言葉だな、加護というのは」
マルクスは少しだけ横を見た。
「疑っておられるのですか」
「何を」
「猊下が人であることを」
エドガーは笑った。
「若いころは疑った。今はどうでもいい」
「どうでもいい?」
「人間かどうかより、あの人が何をしてきたかの方が重要だと分かった。二十年前、俺たちはお前たちを化け物の集まりだと思っていた。半分は今でもそう思っているがな」
「半分ですか」
「残り半分は、化け物でも話が通じるならいい、と」
マルクスは苦笑した。
「褒められている気がしません」
「褒めていない」
広場では、ヨハネスが最後の演説を続けていた。
「教皇が変わっても、主は変わりません。ただし、主の御心をどう理解するかは、人が考え続けなければなりません。ゆえに、次の教皇が私と同じことを言う必要はない。むしろ、同じことしか言えないのであれば、代替わりする意味もないでしょう」
その言葉に、一部の古参聖職者が微妙な顔をした。
神聖四文字は大聖堂の奥から演説を聞きながら、少し感心していた。
『ヨハネス、結構いいこと言うな』
ソフィアが隣で答えた。
「長く主に仕えておりますので」
『それ、俺が育てたみたいに聞こえる』
「違うのですか」
『……まあ、設定上は』
「設定?」
『何でもない』
*
次代の教皇を決める選挙は、三日間続いた。
候補者は四名。
古参二名、現地出身者二名。
その時点で、教会内部には一つの緊張があった。果たして「現地に生まれた人間」が教皇になってよいのか、という問題である。制度上は禁止されていない。神聖四文字自身も以前から現地出身者を上層へ登用する方針を示している。それでも、主とともに現れた古参と、後から洗礼を受けた者では違うのではないかという感情は、教会の中に根強く残っていた。
最終投票で選ばれたのは、現地出身の枢機卿ユリウスだった。
五十六歳。
元は北方の小村に生まれた農民の子で、少年時代に飢饉を経験している。パチカンから届いた救援物資によって一家が冬を越し、その数年後に自ら洗礼を受けた。神学校へ進み、司祭、司教、枢機卿と昇進した人物である。戦闘能力は高くない。レベルも三十一にすぎなかったが、教育制度の整備と地方教会の監査に長く携わり、異教徒との紛争処理でも実績を積んでいた。
選出の知らせを聞いた神聖四文字は、少しだけ驚いた。
『古参じゃないんだ』
「問題がおありですか」
ヨハネスが尋ねた。
『いや。むしろ、よかったかも』
「左様ですか」
『教皇までずっと昔からいる人だと、この教会は結局、最初のメンバーだけのものなんじゃないかって思われるだろ』
「その懸念はございました」
『ヨハネスは誰に入れたの?』
「秘密投票でございます」
『俺にも秘密?』
「秘密投票でございますので」
『律儀だな』
神聖四文字は笑った。
*
ユリウスが神聖四文字の前へ出たとき、彼は明らかに緊張していた。
これまでにも何度か謁見したことはある。だが、それは枢機卿としてのことだった。今度は教皇として主の前に立つ。
「主よ。枢機卿団の選出により、教皇職をお預かりすることとなりました。もし、私がその任に適わぬとお考えであれば、今この場でお退けください」
『そんなことしないよ』
返事が早すぎて、ユリウスは少し顔を上げた。
『みんなが選んだんだろ。なら、まずやってみればいい』
「しかし、教皇とは主の教会を預かる者です」
『だからって、俺が全部分かってるわけじゃないし』
ユリウスは少し困った。
「そのようなことを、教皇就任の日に仰られるのですか」
『ヨハネスにも散々怒られた』
後ろに控えていたヨハネスが咳払いした。
『とにかく、一つだけ。俺の言うことでも、おかしいと思ったら聞いて』
ユリウスは、しばらく何も言わなかった。
「主の命令に、異議を申し上げてもよいと?」
『理由があるなら』
「それを不敬とはなさらない?」
『ならない』
「……恐ろしいことを仰いますな」
『どうして』
「神に逆らう勇気を、教皇に求めておられる」
『逆らえって言ってるんじゃなくて、考えてって言ってるだけなんだけど』
「その違いを理解できぬ者は多いでしょう」
『じゃあ、そこを説明するのが教皇の仕事じゃない?』
ユリウスは一瞬言葉を失い、それから笑った。
「就任初日に、随分と重い仕事をいただきました」
『頑張って』
「軽く仰いますな」
*
初めて現地出身者が教皇になったことは、西方諸国にも大きな衝撃を与えた。
それまで十字教に距離を置いていた一部の王侯は、パチカンが「主とともに現れた異邦人だけの国」ではないと認識を改めた。逆に、古参を神聖視していた信徒の一部からは反発も起きた。ユリウスには神の血が流れていない、主とともに世界へ現れた者ではない、教皇位を担う資格がないという声まで上がった。
それを最も強く否定したのは、退位したヨハネスだった。
「私が教皇であったことに、血筋は一切関係ない」
地方司教たちを集めた会議で、彼は明言した。
「主は血統によって人を選ばれたことなどない。最初の難民を救ったときも、マルクス卿を聖騎士としたときも、アルノルト王の洗礼を認めたときも同じだ。もし『最初から主のそばにいた者だけが特別である』と言うならば、それは我々自身が主の教えを否定することになる」
一人の司教が尋ねた。
「しかし、猊下方は主とともに現れた最初の聖者であられます。我々とは違うのではありませんか」
ヨハネスは少しだけ黙った。
「違う部分はある」
それ以上は言わなかった。
「だが、それを理由に我々が上であり、お前たちが下であるという話にはならない。少なくとも、主はそう望んでおられない」
この発言は後世、教会における血統主義を否定した重要な声明とされる。
同時に、「最初の聖者は普通の人間ではないのではないか」という噂を強めることにもなった。
秘密を守ろうとして、かえって神秘を深める。
このころのパチカンでは、よくあることだった。
*
ユリウスの治世で最初に行われた大きな改革は、意外にも布教の抑制だった。
「新しい地域へ教会を建てる際、現地の共同体との合意を義務づけたいと考えます」
就任半年後の会議でそう提案され、神聖四文字は少し驚いた。
『どうして?』
「十字教会が進出した地域で、古い祭祀が急速に衰退しております。強制改宗は行っておりませんが、学校、治療、食料支援を教会が担えば、人々が教会へ集まるのは当然です」
『前から気にしてたことだ』
「はい。主が長く懸念されてきたことでもあります」
『でも、教会建てるのに地元の許可が必要だと、信じたい人が困らない?』
「ゆえに禁止ではありません。一定数の信徒が存在し、自ら教会を求める場合は建設できます。ただし、領主の政治的都合だけで教会を建て、住民を事実上改宗へ追い込むような形は避けたいのです」
神聖四文字は少し考えた。
『賛成』
「即答でございますな」
『俺一人で考えるよりちゃんとしてる』
ユリウスは少し複雑な顔をした。
「褒められているのでしょうか」
『すごく』
この改革によって十字教の拡大が止まることはなかった。
ただ、速度は少し落ちた。
その少しが、後になって大きな意味を持つ。
*
さらに三十年が経った。
ユリウスは老いた。
髪は白くなり、歩くときには杖を使うようになった。それでも教皇職を続け、七十代半ばで自ら退位した。
そのころ、ヨハネスはまだ同じ顔をしていた。
マルクスも老いていた。
レベル五十へ到達したのは四十八歳のとき。その後も聖騎士として活動を続けたが、人としての老化までは止まらなかった。
六十を越えたころには前線から退き、軍学校の長となった。
そして、七十二歳の冬。
病に倒れた。
*
『治せないの?』
神聖四文字は、久しぶりに同じ言葉を何度も繰り返していた。
治療師は静かに首を振った。
「傷や病は治せます。しかし、老いそのものを消すことはできません」
『高位の回復魔法でも?』
「延命は可能です。しかし、本人が望んでおりません」
『……本人が?』
神聖四文字は、その日のうちにマルクスのもとへ向かった。
聖騎士の寝室は質素だった。壁には古い剣が一本掛けられ、机には使い込まれた聖典と、軍学校の訓練記録が積まれている。
ベッドの上の老人は、黒い球体が入ってくると笑った。
「主が、わざわざ」
『延命できるって聞いた』
「できますね」
『じゃあ、やろう』
「嫌です」
即答だった。
『なんで』
「疲れました」
『……そんな理由?』
「十分な理由でしょう」
神聖四文字は答えられなかった。
「私は、幸せでしたよ」
マルクスはゆっくりと言った。
「十二歳のときには、母が死んで、自分もすぐ死ぬと思っていました。それが七十年以上生きた。騎士になった。仲間もできた。妻も持った。子も孫もいる。迷宮にも潜った。人も助けた。人も殺した。失敗もしました。もう十分です」
『でも、死ぬんだよ』
「はい」
『怖くないの?』
「怖いですよ」
老人は笑った。
「主は、死ぬのが怖くないのですか」
『……分からない』
「なら、同じですね」
神聖四文字は黙った。
長い年月の中で、初めてだった。
自分が救った人間が、寿命で死ぬ。
「主よ。一つお願いがあります」
『何』
「私のことを、あまり綺麗な聖人にしないでください」
『もう遅いかも』
マルクスは苦笑した。
「やはり?」
『聖騎士マルクス一世とか呼ばれてるし』
「一世とは何ですか。二世を作るつもりですか」
『俺に言わないでよ』
二人は少し笑った。
「それでも、できる範囲で。私は迷いました。間違えました。逃げようともしました。それを残してください」
『分かった』
「ありがとうございます」
しばらくして、マルクスが静かに言った。
「主」
『うん』
「最初に門を開けてくださって、ありがとうございました」
その言葉に、神聖四文字は返事ができなかった。
マルクスは三日後に死んだ。
*
葬儀には、パチカンだけでなく各地から人々が集まった。
王も来た。
冒険者も来た。
異教の祭司まで来た。
マルクスを直接知らない若者も多かった。それでも、「最初に救われた子供の一人」が「最初の聖騎士」になった物語を、皆が知っていた。
神聖四文字は葬儀に姿を見せなかった。
大聖堂の奥で、一人きりだった。
いや。
正確には、一人ではない。
ヨハネスがいた。
『人間って、死ぬんだな』
「はい」
『分かってたんだけど』
「はい」
『全然分かってなかった』
ヨハネスは何も言わなかった。
『ヨハネス』
「はい」
『お前は死ぬ?』
長い沈黙があった。
「分かりません」
『そっか』
「少なくとも、老いは感じません」
『俺も』
また沈黙した。
『……だから秘密にしないとな』
「はい」
マルクスですら知らずに死んだ。
ヨハネスたちが、この世界で生まれた者ではないということを。
彼らの身体が、人間とは違う法則で存在していることを。
それを知る者は、これからもごく限られたままでいい。
神聖四文字はそう思った。
なぜなら。
永遠に近い者が人間の上に立つという事実は、それだけで信仰を歪める。
そして。
人は死ぬ。
死ぬからこそ、次へ渡さなければならない。
この日、神聖四文字は初めて、永遠に続く国を作ることよりも、**自分たちがいなくても続く国を作る必要がある**のだと理解した。
それが後の二千年を支える、パチカン第二の原則となる。
神は残る。
だが、人の時代は、人が継ぐ。