【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
マルクスの死から十年ほど経ったころ、パチカンの中央官庁では一つの奇妙な変化が完成しつつあった。建国当初、主要な部署を占めていた古参の聖職者や騎士たちは、少しずつ第一線から退き始めていたのである。能力が衰えたわけではない。むしろ逆だった。長い経験を積んだ彼らは、行政でも軍事でも現地出身者を容易に上回る。それでも神聖四文字は、地方長官、裁判官、学校長、軍の中級指揮官といった職から意識的に古参を外し、この世界で生まれ育った人々へ任せるよう求めた。
当然、反発はあった。それも現地人からではなく、長く神に仕えてきた側からである。
「我々に不手際がございましたでしょうか」
第一騎士団長からそう尋ねられ、神聖四文字は慌てて否定した。
『違う違う。むしろ優秀すぎるから困ってる』
「意味が分かりかねます」
『お前たちがずっと全部やってたら、後の人が育たないだろ。それに百年後も二百年後も同じ人が役所の一番上にいたら、誰だっておかしいと思う』
「主の加護と説明すればよろしいのでは」
『それで千年通すつもり?』
騎士団長は少し考えた。
「不可能ではないかと」
『可能かどうかじゃないんだよ』
神聖四文字は困った。古参たちにとって、自分が与えた職務を永遠に続けることは不自然ではない。むしろ、途中でそれを手放す方が理解しにくいのだろう。
『俺が心配してるのは、お前たちが偉いかどうかじゃない。人間が、自分たちで決められなくなることなんだ』
「我々も人とともに考えればよいのではありませんか」
『それでも最後は、お前たちに頼るようになる。だって失敗しにくいし、強いし、長く生きるんだから。俺だって困ったらヨハネスに聞くことが多い。でも、それを国全体でやり始めたら、人間の国じゃなくなる』
第一騎士団長は長く黙った。最後に「主がお望みなら」と頭を下げたが、納得しきった顔ではなかった。
『嫌?』
「いえ。ただ、我らが御傍を離れることを望まれる日が来るとは思いませんでした」
『離れろとは言ってないよ。支える側に回ってほしいだけ』
少し間を置いてから、神聖四文字は続けた。
『表で全部やるんじゃなくて、失敗しそうになったら助言するとか。本当に危ないときだけ止めるとか。それくらいで』
「……なるほど」
『あと、お前たちがいなくても回る国にしたい』
騎士団長の表情が、初めてわずかに曇った。
「我々が、いなくなると?」
『可能性の話。俺だって、この世界にずっといる保証はないし』
「そのようなことを仰らないでください」
返事が思ったより強かった。
神聖四文字は少し驚いた。
『ごめん』
「……いえ。御前で声を荒らげました」
『でも、本当のことだろ。未来のことなんて分からない』
騎士団長は答えなかった。
このとき、神聖四文字はまだ知らなかった。
自分がいなくなるという可能性を、古参の者たちがどれほど恐れているのかを。
*
制度改革はゆっくり進められた。突然すべてを現地人へ渡せば、それはそれで混乱する。古参の者たちは顧問、監察、教育、危機対応へ回り、日常行政は現地生まれの官僚が担うようになった。騎士団も同じだった。十二騎士団の団長職そのものは長く古参が握ったが、副団長以下には現地出身者が増え、地方守備隊では現地人の将校が当たり前になった。イスカリオテだけは例外だった。存在自体が公にされておらず、そこへ誰を入れるかについて神聖四文字がほとんど口を出さなかったこともあり、古参中心の閉鎖的な組織であり続けた。
十三枢機卿についても、一定の均衡が保たれた。現地出身者の登用は進んだものの、過半数は常に古参系統の者が占める。それは表向きには「建国以来の教義継承を守るため」とされた。実際、それは嘘ではない。ただし本当の目的には、神聖四文字の意図が教会の政治や時代の流れによって完全に塗り替えられないようにする、という意味もあった。
その制度を見た二代目教皇ユリウスは、退任前に神聖四文字へ一度だけ尋ねたことがある。
「主は、我々人間を信用しておられないのでしょうか」
『え?』
「枢機卿団の過半を、古参の方々が占める規則についてです。我々がいかに努力しても、最終的な多数にはなれない」
責める口調ではなかった。だからこそ、神聖四文字も適当に答えることはできなかった。
『半分は信用してる。半分は怖い』
「率直ですな」
『古参の人たちも同じ。全部任せるのは怖い』
「では、双方を信用していない?」
『違うよ。どっちかだけに全部任せるのが怖いんだ』
ユリウスは少し笑った。
「随分と人間的な神であられますな」
『よく言われる』
「誰にです」
『主に俺が自分で思ってる』
ユリウスは声を出して笑った。
「ならば、その不信を制度にして残してくださったのは、かえってありがたいかもしれません。人は自分が善良だと信じているときほど、危険なこともありますから」
神聖四文字は、その言葉を後まで覚えていた。
*
しかし、人間へ権限を渡せば、人間らしい問題も増える。
その代表が、洗礼と身分の結びつきだった。
十字教徒になれば職業とレベルシステムへ接続される。二十までなら訓練設備を使い、安全に能力を伸ばせる。その仕組みは本来、信仰を持つ者に対する恩寵として始まった。ところが十字教圏が拡大し、王侯貴族が次々と改宗すると、それを「家門の力」と考える者が現れた。
自分の子を幼いころに洗礼させ、高価な家庭教師をつけ、高位訓練設備の利用枠を買おうとする貴族。自領の教会へ寄進を行い、その代償として一族の子弟を優先的に軍学校へ入れようとする者。さらには「我が家は三代続く十字教徒であるから、新しく改宗した者より上位の加護を受ける資格がある」と主張する者まで現れた。
報告書を読んだ神聖四文字は、かなり長い沈黙のあとで言った。
『何でそうなるの』
当時の教皇レオ三世は苦笑した。彼も現地出身者である。
「人は、価値のあるものを子へ残したいのでしょう。土地も財産も地位もそうです。恩寵も同じものと考える者が現れるのは、不自然ではございません」
『でもレベルって相続できないよね』
「できません。ただ、良い教育と良い訓練環境を与えることはできます」
『それはまあ……普通だな』
「問題は、その機会を金や家柄で独占しようとしていることです」
神聖四文字は考えた。
『低位のかかしは足りてる?』
「現在は。各地方の神学校と軍学校にも設置を進めておりますので、レベル二十までの訓練であれば大きな不足はございません」
『じゃあ、そこは身分関係なく使えるようにして。最低限の教育を受けて、適性がある人なら誰でも』
「高位設備についてはいかがいたします」
『それは数がないから、試験とか実績で決めるしかないな。寄付した金額は禁止』
「王子であっても?」
『王子でも』
「枢機卿の子であっても?」
『枢機卿に子供いるの?』
「現地出身者にはおります」
『ああ。じゃあ同じ』
レオ三世は少し笑った。
「貴族たちが喜びませんぞ」
『喜ばせるためにある制度じゃないし』
この決定は、予想どおり多くの貴族から反発を受けた。特に問題となったのは、ラグナル王国の有力公爵家だった。長年教会へ多額の寄進を続け、三人の息子を高位訓練施設へ送るつもりだった公爵は、試験で長男が落とされると激怒した。
「我が家は建国以来、教会を支えてきた。それを昨日今日改宗した平民の娘より下に置くというのか」
地方司教に詰め寄った公爵に対し、司教は試験結果を机の上へ置いた。
「下に置いているのではありません。今回の適性評価では、彼女の方が高かったというだけです」
「農民の娘だぞ」
「それが何か」
「我が息子は公爵家を継ぐ!」
「ならば領地経営を学ばせてはいかがでしょう。高位戦闘職へ進む必要はありません」
この返答によって、司教は一時、公爵領への立ち入りを禁じられた。
教皇庁は司教を処分しなかった。
代わりに、公爵へ正式な抗議文を送った。
*
争いは半年続いた。
最後にはアルノルト王の曾孫にあたるラグナル王自身が仲裁に入った。王も十字教徒だったが、教会の人事へ介入することは避けていた。彼は公爵と教会の代表を王宮へ呼び、長時間話を聞いた末、公爵へ尋ねた。
「お前の息子が、なぜ高位訓練設備を使わねばならない」
「王国を守るためです」
「では、適性のある農民の娘が使う方が、王国を守る役には立たぬのか」
「身分が違います」
「魔物は身分を見て襲うのか?」
公爵は答えられなかった。
「お前の家が教会へ寄進してきたことは知っている。その功績も認める。だが、それで神の恩寵まで買えるというなら、私は今後教会への寄進を禁じなければならなくなる」
「陛下、それは」
「金を出すたびに見返りを求めるなら、それは寄進ではない。取引だ」
王はそこで教会代表へ向き直った。
「ただし、お前たちも無傷では済まぬ。試験が本当に公平であるか、王国側から監査官を出す。教会内部だけで人選を決めれば、今度は聖職者の身内を優先するだろう」
教会代表は少し驚いたが、やがて頷いた。
「妥当なご懸念です」
「なら決まりだ」
後にこの仕組みは、教会と世俗政府による二重監査制度へ発展した。神聖四文字は報告を受けると、ひどく感心した。
『俺が考えるよりちゃんとしてる』
ヨハネスが横で答えた。
「主のお望みになった、人の時代ということでしょう」
『ちょっと寂しいけどね』
「寂しい?」
『俺がいなくても話が進んでる』
「それを望まれたのでは」
『望んだけど、寂しいものは寂しい』
ヨハネスは笑った。
*
この時期から、十字教圏では一つの原則が繰り返し説かれるようになった。
――恩寵は血に宿らず。
親が高レベルだからといって、子供が強く生まれるわけではない。王の子であろうと、農民の子であろうと、最初の洗礼で得るものに本質的な違いはない。職業の適性には個人差があるが、それは家柄によって決まらない。
現実には、富裕層の子ほど教育環境がよく、装備も整えやすいため、完全な平等になったわけではない。それでも「貴族だから恩寵も上位である」という考えが教義として否定された意味は大きかった。
その考えを象徴する人物となったのが、公爵の長男を押しのけて高位訓練設備の使用資格を得た少女だった。
名をエレナという。
木こりの娘。
十五歳。
職業は《騎士》ではなかった。
《司祭》でもない。
彼女が選んだのは、《魔法剣士》だった。
*
「女でも騎士になれるんですか」
中央軍学校へ入学した初日、エレナが教官へ尋ねた。
「なれる」
「村では、女が剣を持つものではないと言われました」
「村の掟は知らん。ここでは試験に通ればいい」
「結婚したら辞めなければいけませんか」
「なぜだ」
「母がそう言っていました」
「家庭と両立できないなら休職制度はある。夫が家を守ってもいい」
エレナは目を丸くした。
「男の人が?」
「嫌なら、結婚しなければいい」
「そんなことまで自分で決めていいんですか」
教官は少し困った。
「少なくとも、この学校ではな」
エレナはしばらく考えたあと、大きく頷いた。
「では、強くなります」
「話がどう繋がった」
「強ければ、誰にも決められないと思ったので」
「……半分くらいは間違っているが、今はそれでいい」
教官はそう答えた。
エレナは十年後、レベル四十二へ到達する。
さらに二十年後には、現地出身者として初めて十二騎士団の副団長となった。
そして、そのころには誰も「木こりの娘だった」という理由で彼女の地位を疑問視しなくなっていた。
*
時代は進んだ。
最初の百年が終わるころ、パチカンそのものは大きく変わっていた。
神聖四文字が最初に救った三百余人は、誰一人生きていない。
マルクスもいない。
エドガーも、アルノルトも、ケルンも、森の母の老司祭もいない。
彼らを知っている者は、古参の者たちだけになった。
その一方で、西方各地には数百の教会が建ち、十字教徒の王国がいくつも成立していた。古い信仰もまだ残っている。山岳地帯では祖霊祭祀が強く、北方には独自の神々を祀る諸部族がいる。南では十字教と現地宗教を同時に信じる者も珍しくなかった。
教会内部には、それを不純だと考える者が増え始めていた。
「主は唯一である。それならば、他の神々を祀ることを認めるのは矛盾ではないでしょうか」
第三代の後半から第四代教皇期にかけて、同じ問いが何度も出されるようになった。
神聖四文字の答えは変わらなかった。
『十字教徒が他の神を信じるのは、教義上やめてほしい。でも、十字教徒じゃない人まで止める必要はない』
「では、十字教徒が古い祭りへ参加することは」
『祭りの意味によるんじゃない? 村のみんなで収穫を祝うだけならいいと思うけど』
「神への供物を伴う場合は」
『……それは本人に考えてもらって』
「基準が曖昧です」
『世の中そんなに全部線引きできないよ』
神学者たちは困った。
神本人が、厳密な線を引いてくれない。
そして、人は曖昧さを嫌う。
神聖四文字が寛容のために残した余白を、後の時代の人々は少しずつ埋めようとし始めた。
*
その兆候が最初に現れたのは、転移から百十三年目だった。
西方辺境の都市アルバで、十字教会が焼かれた。
死者二十一名。
犯人は地元の古い宗教を信じる集団とされた。
報復として、十字教徒の市民が古い神殿へ押しかけた。
神殿が燃えた。
死者十四名。
翌日には、さらに別の地区で暴動が起きた。
イスカリオテが動いたときには、すでに双方合わせて六十人以上が死んでいた。
報告を受けた神聖四文字は、百年前とほとんど変わらない姿のまま、長い沈黙をした。
『また始まったのか』
ヨハネスが静かに答えた。
「はい」
『百年前と同じ?』
「いいえ」
『何が違う』
「今度は、双方に国家がございます」
神聖四文字は地図を見た。
十字教徒の王国。
古い神々を守る諸侯。
交易路。
国境。
軍隊。
そして、そのすべての中央に広がる教会網。
昔の村同士の争いとは違う。
一度燃えれば、何万人という人間を巻き込む。
『止められる?』
「止めねばなりません」
ヨハネスの声には、かつてなかった重さがあった。
神聖四文字は気づいた。
十字教は、もう小さな宗教ではない。
善意だけで扱える規模を、とうに越えている。
誰かを救えば、その救済が政治になる。
教会を建てれば、それが国境を越える。
信徒を守れば、それが軍事介入になる。
そして。
信仰が十分に大きくなれば。
寛容ですら、政策になる。
『ヨハネス』
「はい」
『絶対に、宗教戦争にはしたくない』
ヨハネスはすぐには答えなかった。
「我々が望まなくても、相手がそう呼ぶ可能性はございます」
『それでも』
「はい」
老人は深く頭を下げた。
「可能な限り」
神聖四文字は、その言葉を聞いて嫌な予感を覚えた。
可能な限り。
百年前なら、それで十分だった。
だが百年を生きた今の彼には分かっていた。
人がその言葉を使うとき。
多くの場合、すでに「不可能だった場合」の準備を始めている。
そして、西方世界で最初の大規模な宗教戦争は、もう目前まで来ていた。