【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
アルバの暴動から三日後、最初の軍勢が動いた。十字教国であるラグナル王国ではなく、そのさらに西に位置する小国ヴェルナー公国の軍だった。アルバで焼かれた教会の死者二十一名のうち七名がヴェルナー出身であり、その中には有力貴族の娘が含まれていた。公国は事件を「信仰を理由とした虐殺」と断じ、犯人の引き渡しと古神派武装集団の解散を要求した。
これに対してアルバを領有するヘルム諸侯連合は、十字教徒による神殿焼き討ちで十四名が死亡したことを挙げ、「一方のみを加害者として扱う要求には応じられない」と拒絶する。数日後には国境の交易所で双方の兵士が衝突し、死者が出た。まだ宣戦布告はない。それでも、街道には荷車ではなく槍兵が並び始めていた。
パチカンへ届く報告は、日を追うごとに悪くなった。ヴェルナー公は教会に対し「信徒保護」の名目で支持を求め、ヘルム側はパチカンが軍を出すなら、十字教による侵略とみなすと通告してきた。さらに周辺の十字教国では、民衆が独自に義勇兵を募り始めている。教会は参加を命じていない。それどころか各地の司教に自制を求める通達を出した。それでも、「兄弟姉妹が異教徒に殺されたのに、剣を取らずにいられるか」と訴える者は後を絶たなかった。
『誰も動くなって言ってるのに、何で軍隊が集まるんだよ』
大聖堂の会議室で神聖四文字がぼやくと、当代教皇のグレゴリウス二世は苦い表情を浮かべた。六十代の現地出身者で、教会法と外交を専門としてきた人物である。
「主の御命令が直接及ぶのは、基本的には教会とパチカンです。十字教徒であっても、各国の王侯は独自の軍権を持っております。ヴェルナー公は『教会の命令ではなく、公国民を守るために軍を動かす』と主張しております」
『でも、兵士は十字架掲げてるんだろ』
「はい」
『それで宗教戦争じゃないって言われても無理じゃない?』
「私もそう思います」
『止められない?』
「命令では難しいでしょう。教会が破門をちらつかせれば効果はありますが――」
『それは嫌だな』
「はい。信仰を政治的な首輪に使うことになります」
神聖四文字は地図を見た。百年以上前なら、ラグナル伯一人と交渉すれば済んだ。今は違う。王国、公国、自治都市、諸侯連合、教会領、交易組合。それぞれが異なる利害を持ち、その中に十字教徒と非十字教徒が入り混じっている。一方を止めれば、別の誰かが動く。
『じゃあ、両方に使者を送る。教会としてはどっちにも味方しない。アルバの事件は合同で調べる。それまでは軍を国境から下げてもらう』
「応じなかった場合は」
『……そこなんだよな』
会議室の端で、黒衣の男が静かに立っていた。
イスカリオテのアンデルセンである。
百年以上を経ても、その姿はほとんど変わっていない。公的な場に姿を現すことは稀であり、その素性を知る者も限られている。外部には、同じ名を継ぐ歴代の神父であると誤認する者さえいた。教会はその誤解を積極的に訂正していない。
「主よ」
アンデルセンが口を開いた。
「一案がございます」
『嫌な予感しかしないけど、聞く』
「双方の戦争指導者を拘束いたします」
グレゴリウス二世が目を閉じた。
『却下』
「まだ詳細を申し上げておりません」
『詳細を聞いたらもっと駄目になりそうだから』
「流血を最小限に抑えられますぞ。ヴェルナー公、ヘルム側主要諸侯、扇動的な聖職者と祭司、およそ四十名を一夜で――」
『駄目』
「二十名に絞っても」
『人数の問題じゃない』
アンデルセンは残念そうだった。
「では、どこまでならば許されますか」
『まず調べる。アルバの最初の襲撃を誰が計画したのか、神殿を焼いた報復側を誰が煽ったのか、それから今、戦争にしたがってる連中が何を狙ってるのか。証拠を集めて』
「その後は?」
『犯罪をやった人間だけ捕まえる』
「兵を動かしている王侯は」
『軍を集めただけじゃ逮捕しない』
「実際に侵攻した場合は?」
神聖四文字は少し黙った。
『そのときは止める』
「どのように」
『できるだけ死なない方法で』
アンデルセンはかすかに笑った。
「最も難しい御命令ですな」
『知ってる。だからお前たちに頼むんだよ』
その言葉で、男の笑みが消えた。
アンデルセンは深く頭を下げた。
「御意」
*
調査は五日で結果を出した。
最初に十字教会を襲撃した集団は、確かに古神派の過激派だった。しかし、ヘルム諸侯連合の正式な命令を受けてはいなかった。首謀者は地方豪族の次男で、十字教徒の増加によって自家の祭祀権と土地支配が弱まることを恐れ、数年前から武装集団へ資金を流していた。一方、報復の神殿焼き討ちも自然発生的な暴動ではなかった。アルバの十字教商人組合に属する一部の有力者が群衆へ酒と武器を配り、「異教徒を追放すれば空いた土地を分配する」と約束していた。
つまり、信仰は原因であると同時に利用されていた。
さらに悪いことに、両国の一部貴族はそれを知ったうえで戦争を望んでいた。アルバ周辺には鉄鉱山がある。南北交易路も通る。宗教的な怒りは、領土を奪う理由として都合がよかった。
報告書を読み終えた神聖四文字は、しばらく何も言わなかった。
『……最悪だな』
「はい」
グレゴリウス二世も疲れた顔をしている。
『信仰だけの問題じゃなかった』
「信仰だけの戦争というものが、そもそも少ないのかもしれません。土地、税、権力、恨み。そのすべてに、神の名が重ねられるのでしょう」
『神の名前、便利に使われすぎじゃない?』
「残念ながら」
『俺の名前は秘密でよかったかも』
「そのような理由で御名を秘されているわけではございませんが」
『分かってるよ』
神聖四文字は地図へ意識を戻した。
『証拠を全部公開できる?』
「可能です。ただし、両陣営に不都合な内容が含まれております」
『だからいいんじゃない? どっちも完全な被害者じゃないって分かる』
「それで怒りが収まるでしょうか」
『分からない。でも、少なくとも「神のための正しい戦争」って単純には言えなくなるだろ』
グレゴリウスは少し考え、頷いた。
「では、教会裁判所とヘルム側の法官、さらに中立国の代表を加えた合同調査団を組織し、証拠と証言を公開いたしましょう」
『うん。それと、ヴェルナー公には俺から言う』
室内が静かになった。
「直接、でございますか」
『手紙で』
全員がわずかに安堵したように見えた。
『何その反応』
「主御自身が先方へ赴かれると仰せになるのかと」
『さすがに学んだよ。俺が行くと話が大きくなるんだろ』
「大変な進歩でございます」
『馬鹿にしてる?』
「滅相もございません」
*
神聖四文字の書簡は、ヴェルナー公のもとへ届けられた。
それは聖典の言葉でも、神学的な宣言でもなかった。
――汝の民が殺されたことを軽く扱うつもりはない。しかし、まだ罪を犯していない者まで、その信仰を理由に殺すことを私は望まない。もし剣を抜くなら、私の名を理由にするな。
最後の一文は、ヴェルナー公にとって重かった。
公自身が十字教徒だったからである。
「つまり、主は戦うなと仰せなのか」
書簡を届けた司教は、少し考えてから答えた。
「少なくとも、信仰を戦争の正当化に使うなと仰せです」
「私の民が殺されても?」
「犯人を裁くことと、その犯人と同じ信仰を持つ者すべてを敵とすることは違う、と」
「ヘルムが犯人を渡さなければどうする」
「合同調査団を受け入れると、すでに回答しております」
公は黙った。
「軍を下げろというのか」
「双方同時に、国境から二十里後退させる案が出ております」
「こちらだけが退けば弱腰と見られる」
「向こうも下がります」
「もし裏切ったら」
「パチカンの監視団が確認します」
公は苦い顔をした。
「教会は随分とヘルムを信用するのだな」
「信用しておりません」
「では、なぜ」
「信用できないから監視するのです」
その返答に、公は何も言えなくなった。
*
停戦合意は成立しかけた。
ヴェルナー軍は国境から退き始め、ヘルム諸侯も同様に後退する。合同調査団がアルバへ入り、双方の容疑者を拘束した。教会焼き討ちの首謀者も、神殿襲撃を煽った商人たちも捕らえられた。少なくとも表面上は、危機は去りつつあった。
その最中だった。
ヴェルナー軍の補給隊が襲撃された。
死者四十三名。
生存者は、「ヘルムの旗を掲げた騎兵に襲われた」と証言した。
ヴェルナー公は激怒した。
撤退中だった軍へ反転を命じた。
ヘルム側は関与を否定した。
そして両軍は、アルバ北方の平原で向かい合った。
*
『誰がやった』
神聖四文字の声は低かった。
アンデルセンが答える。
「現在調査中です。ただし、妙でございます。襲撃者はヘルムの軍旗を掲げていたにもかかわらず、撤退時に旗を二本も現場へ残しております」
『わざと見せた?』
「可能性が高いかと。また、使用された矢の鏃がヘルム軍の規格と異なります」
『止められる?』
「両軍は明朝にも衝突するでしょう」
大聖堂の会議室には、重い沈黙が落ちた。
「使者では間に合いません」
グレゴリウスが言う。
「魔術通信による警告も送っておりますが、ヴェルナー公は『これ以上待てない』と」
『じゃあ、行く』
「主が?」
『俺じゃない』
神聖四文字は、集められた騎士団長たちを見た。
『十二騎士団から、速い部隊を出して。両軍の間に入る』
一人の団長が尋ねた。
「攻撃を受けた場合は」
『防御だけ。絶対に先に手を出さない』
「両軍合わせれば二万近くおります」
『こっちは何人必要?』
団長たちは互いに視線を交わした。
「止めるだけであれば、三百」
グレゴリウスが思わず顔を上げた。
「三百で?」
「戦うわけではありませんので」
神聖四文字は、その言葉の意味を考えて少し不安になった。
『本当に誰も殺さないでよ』
「努力いたします」
『努力じゃなくて』
「可能な限り」
『ヨハネスと同じこと言わないで』
結局、五百名が選ばれた。
古参騎士だけではない。現地出身の精鋭も多く含まれている。平均レベルは三十を超え、四十台の指揮官が数十名。その先頭には、十二騎士団から選ばれた二人の団長が立った。
彼らに与えられた命令は、奇妙なほど単純だった。
――戦争をさせるな。
*
翌朝。
アルバ北方の平原には、二つの軍勢が向かい合っていた。
東側にヴェルナー軍、およそ九千。
西側にヘルム諸侯軍、一万一千。
槍の穂先が朝日に光り、騎兵が両翼に並ぶ。双方の中央には、それぞれの旗と宗教的な標章が掲げられていた。ヴェルナー側には十字架。ヘルム側には古い太陽神の円環。
どちらも、自分たちこそ守る側だと信じていた。
開戦の角笛が鳴ろうとした、そのときだった。
南から別の軍勢が現れた。
白銀の鎧。
五百。
彼らは二万の軍勢のほぼ中央へ進み、左右へ長く隊列を広げた。
剣を抜かず。
槍も構えず。
ただ立った。
ヴェルナー軍の前列で、兵士たちがざわついた。
「パチカンだ」
「何をしている」
「どけという伝令は?」
「来ている。だが、動かない」
ヘルム側も同じだった。
やがて、一騎がパチカン軍の前へ出た。
現地出身の騎士だった。四十代半ば。マルクスの教えを直接受けた世代である。
魔術で増幅された声が、平原全体へ響いた。
「双方へ申し上げる。我々は、どちらかを討つために来たのではない。補給隊襲撃について、新たな証拠が見つかった。攻撃したのはヘルム正規軍ではない可能性が高い。ゆえに一日だけ、剣を収めていただきたい」
ヴェルナー軍から怒声が上がった。
「道を開けろ!」
「仲間が殺された!」
「異教徒を庇うのか!」
騎士は黙って聞いた。
「怒りは理解する」
そして続けた。
「だが、間違った相手を殺せば、その死者は戻らない。代わりに新しい死者が増えるだけだ。我々は一日を求めている。それでも進むというなら――」
白銀の騎士たちが、一斉に盾を地面へ置いた。
武器を抜くためではない。
その場から動かないという意思表示だった。
「我々を踏み越えて行かれよ」
平原が静まり返った。
*
最初に動いたのは、ヴェルナー軍の若い歩兵だった。
「退け!」
叫びながら槍を突き出した。
穂先が白銀の胸甲へ当たる。
甲高い音。
それだけだった。
騎士は動かなかった。
兵士の方が呆然とした。
「もう一度でも構わない」
騎士は言った。
「ただし、こちらからは斬らない」
それを見ていた隣の兵士は槍を下げた。
その隣も。
やがて前列全体が止まった。
人間は、反撃してくる相手には剣を振れる。
だが、自分より遥かに強いことが分かっている相手が武器を抜かず、ただ立っているとき、それを斬るには別の種類の覚悟が必要だった。
ヴェルナー公が前線へ出てきた。
「私の道を塞ぐのか」
パチカン側の指揮官は馬上から一礼した。
「一日だけです、閣下」
「その一日に、逃げられたらどうする」
「我々が追います」
「ヘルムが攻めてきたら」
「我々が止めます」
「お前たちにできるのか」
騎士は少し考えた。
「できます」
それが虚勢ではないことを、公は知っていた。
長い沈黙の末、ヴェルナー公は剣を鞘へ戻した。
「日没までだ」
「感謝いたします」
「日没までに答えを持ってこい」
「必ず」
その一時間後、ヘルム側も軍を下げた。
戦争は、一日だけ延期された。
*
答えは日没前に届いた。
補給隊を襲ったのは、両国の戦争を望む商人と傭兵の混成集団だった。戦争になれば武器と食料の価格が上がる。さらに、アルバ周辺の鉱山利権を再編できる。彼らはヘルム軍の装備を模倣し、あえて証拠を残した。
イスカリオテは首謀者をすでに拘束していた。
アンデルセンからの報告書には、簡潔にこう書かれていた。
――十八名確保。死者零。主の御命令に従い、非常に丁寧に扱いました。
神聖四文字は最後の一文を三度読んだ。
『この「非常に丁寧に」って信用していい?』
ヨハネスは少し考えた。
「生きてはおります」
『質問に答えてない』
*
戦争は回避された。
完全な和解ではない。互いへの憎悪が消えたわけでもなく、国境紛争はその後も続いた。しかし、少なくとも二万の軍勢が正面からぶつかることはなかった。
事件の後、パチカンでは大きな議論が起きた。
五百人の騎士を他国の軍勢の間へ送り込んだことは、平和維持だったのか。
それとも、圧倒的な軍事力を背景にした恫喝だったのか。
神聖四文字自身にも分からなかった。
『結局、力で止めたんだよな』
大聖堂の奥でそう言うと、グレゴリウス二世は少し考えてから答えた。
「力を使わなかった、と申し上げるのは嘘でしょう。彼らが我々の騎士を恐れていなければ、踏み越えていた可能性があります」
『じゃあ、平和的じゃない』
「剣は抜いておりません」
『でも、剣を抜いたらどうなるか分からせた上で立ってた』
「はい」
神聖四文字は黙った。
「主よ。力を持たない者だけが、純粋に平和を語れるわけではありません。我々はすでに力を持っております。問題は、それを持っていないふりをすることではなく、どのように使うかではないでしょうか」
『……難しいな』
「百年以上、ずっとそう仰っておりますな」
『百年考えても分からないことってあるんだよ』
「ならば、次の百年も考えましょう」
神聖四文字は少しだけ笑った。
*
アルバ危機の後、西方諸国の間では一つの慣例が生まれた。
宗教を理由とする大規模な紛争が起きた場合、まずパチカンへ仲裁を求める。
十字教国だけではない。
異教国も利用した。
パチカンが必ず十字教徒側につくわけではないと、アルバの一件で示されたからである。
それは神聖四文字が望んだ形に近かった。
しかし、新たな問題も生んだ。
西方世界において、パチカンが「最後に争いを止める存在」とみなされ始めたのである。
仲裁者。
裁定者。
そして。
必要なら軍を両軍の間へ置けるほど強い存在。
パチカンは領土を征服していない。
それでも、その言葉を無視できる国は少なくなっていった。
帝国ではない。
だが帝国より広い影響力を持つ。
その奇妙な秩序が、ゆっくりと西方世界を覆い始めていた。
後世、人々はこの時代を《聖権均衡期》と呼ぶ。
神聖四文字本人は、その呼び名を気に入らなかった。
『俺、均衡させてるつもりなんてないんだけど』
しかし、歴史は本人のつもりをあまり気にしてくれなかった。
そして、パチカンが戦争を止められるほど強いという事実は、やがて別の問いを生むことになる。
――それほど強いなら、なぜ世界を統一しないのか。
その問いを最初に神聖四文字へ突きつけたのは、敵ではなかった。
十字教徒だった。