【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
その問いを最初に口にしたのは、王でも将軍でもなかった。若い司祭だった。名をアデルといい、南方教区の神学校で教えていた三十二歳の男である。学識に優れ、信仰にも熱心で、十字教の拡大を「人々が真理へ近づく過程」と捉えていた。彼は地方会議へ提出した論文の中で、こう主張した。西方世界における戦争の大半は、国境、宗教、相続、交易権を巡って起きている。
ならば、主を頂点とする単一の秩序の下に諸国をまとめれば、争いの根そのものを減らせるのではないか。しかもパチカンには、それを実行する力がある。ゆえに世界統一を拒むことは、救える命をあえて救わないことにならないか――と。
最初は神学上の思考実験にすぎなかった。ところが写本が各地へ渡ると、予想以上の支持を集めた。国境戦争に疲れた商人は、関税が一つになれば交易が楽になると言った。小国の農民は、大国同士の戦争に巻き込まれるくらいならパチカンに支配された方がましだと考えた。十字教徒の一部からは、唯一神が存在するのに、なぜ地上には多数の王が必要なのかという議論まで出始めた。さらに、アルバ危機でパチカンの五百騎が二万の軍勢を止めたという話が伝説化し、「その気になれば一国など一日で滅ぼせる」と公然と語られるようになった。
神聖四文字のもとへ論文が届けられたとき、彼は途中まで読んでから黙った。
『……言ってることは、分からなくもないんだよな』
教皇グレゴリウス二世は少し意外そうな顔をした。
「反対されるものと思っておりました」
『反対はするよ。でも、論理そのものは分かる。国を一つにすれば国同士の戦争は減るだろうし、税とか法律とか通貨とかも統一できる。街道も作りやすい。飢饉が起きたら別の地方から食料を回せる』
「では、なぜなさらないのです」
『そのために何人殺すの』
グレゴリウスは答えなかった。
『統一した後だけ見れば綺麗なんだよ。でも、今ある国に「今日からお前らはうちの支配下ね」って言って、全員が分かりましたってなるわけないだろ。抵抗する国もある。王様も貴族もいるし、自分たちの文化もある。それを軍で潰して、最後に「戦争がなくなりました」って言うのは、なんか違う』
「しかし、一度の大戦によって百年の平和が得られるならば、犠牲は少なくなるという考えもあります」
『あると思う。でも、その百年の平和が本当に来るって誰が保証するの』
グレゴリウスは少し考えた。
「主にも、分からない?」
『分からない。むしろ、俺たちが強すぎるから怖い。勝てるって分かってる側は、「一回だけなら」って考えやすいだろ』
その言葉は、会議に同席していた騎士団長たちにも重かった。彼らの多くは、実際に戦えば西方諸国の大半を圧倒できると知っている。少なくとも個々の国に対しては、敗北を想像する方が難しい。
『それにさ』
神聖四文字は続けた。
『俺が世界を統一したら、その後に誰が俺を止めるの』
室内が静かになった。
「主を、止める必要がございますか」
古参の枢機卿が、本気で分からないという顔で尋ねた。
『今の俺はそう思ってなくても、百年後に考えが変わるかもしれない。千年後はもっと分からない。俺が命令しただけで全部動く世界って、たぶん危ないよ』
「主が御自らを信用なさらないのですか」
『半分くらいは』
それを聞いたグレゴリウスが苦笑した。
「以前も、同じことを仰っておられましたな」
『だから制度にしたんだろ。人間だけでも怖い、古参だけでも怖い、俺だけでも怖い。だったら、お互い止められるようにした方がいい』
第一騎士団長が静かに尋ねた。
「では、主は世界統一そのものを禁じられますか」
『いや』
今度は全員が少し驚いた。
『未来に、みんなが自分から一つになるなら、それまで禁止する理由はない。でも、パチカンが軍事力で征服して一つにするのは駄目。少なくとも、俺がいる間はやらない』
「永遠の禁令とはなさらない?」
『未来の人間まで俺が縛るのも違うだろ』
グレゴリウスはしばらく考え込んだあと、深く頷いた。
「では、そのように教会の公式見解をまとめます。地上の統一そのものを悪としない。しかし、信仰や平和を理由にした征服を正当化しない、と」
『うん。それで』
このとき神聖四文字は、それで議論が収まると思っていた。
もちろん、収まらなかった。
*
数か月後、論文の著者アデル本人がパチカンへ召喚された。処罰のためではない。むしろ神聖四文字自身が、一度話してみたいと言ったのである。
アデルは謁見室へ入るなり跪いたが、身体がわずかに震えていた。自分の論文が主の意向に反したことは、すでに教皇庁から通知されている。
『そんなに緊張しなくていいよ』
「申し訳ございません」
『怒ってないから。聞きたいだけ。どうして世界統一が必要だと思ったの?』
アデルはしばらく迷ったが、やがて顔を上げた。
「私は十二歳のとき、戦争で父を失いました」
神聖四文字は黙った。
「国境を巡る、小さな戦争でした。土地は結局ほとんど動きませんでした。それでも数千人が死に、村が焼けた。母はその後、私を連れて教会領へ移りました。そこで学校に入り、歴史を学びました。そして気づいたのです。同じことが、何百年も繰り返されていると」
『だから、国をなくしたい?』
「はい。王が複数いれば争う。宗教が複数あれば争う。法が違えば争う。ならば、一つにすればよいのではないかと」
『宗教も一つに?』
アデルは少し躊躇した。
「最終的には」
『異教徒はどうする』
「説得します」
『応じなかったら?』
「……それでも、長い時間をかけて」
『その人が死ぬまで応じなかったら?』
アデルは答えなかった。
『子供も孫もずっと応じなかったら?』
「それは……」
『そこで「仕方ないから強制する」が出てくるのが怖いんだよ』
アデルは俯いた。
「しかし主よ。今も、異教の国同士が争っております。十字教国同士でさえ争う。自由を認めた結果、人が死んでいるのも事実ではありませんか」
『そうだね』
「なら、自由には犠牲が必要なのですか」
その問いに、神聖四文字はしばらく答えられなかった。
『たぶん』
アデルが顔を上げた。
『自由にすれば、間違える人も出る。戦争する国もある。宗教で揉める人もいる。俺が全部止めるなら、たぶん今より死者を減らせる場面もあると思う』
「ならば」
『でも、その代わり、みんなが俺の判断で生きることになる。それを平和って呼んでいいのか、俺には分からない』
アデルは黙った。
『俺が絶対に正しいなら、それでもいいのかもしれない。でも、俺は絶対じゃない』
「唯一神であられるのに」
『唯一なのと、絶対に間違えないのは別じゃない?』
「教義上は、かなり問題のある御発言です」
『本人が言ってるんだから直してよ』
アデルは、思わず笑ってしまった。
笑った直後に青ざめた。
「失礼いたしました」
『いいよ』
少し空気が緩んだ。
『アデル。世界を平和にしたいっていうのは、いいと思う。でも「平和にするためなら支配していい」って考え始めると、その先が怖い。だから俺はやらない』
「それでも私は、いつか一つの世界になった方がよいと思います」
『それはいいよ』
「……よいのですか」
『意見違うくらい普通だろ』
「私の論文は禁書になりますか」
『ならない。反対意見も一緒に載せればいい』
アデルはしばらく黒い球体を見つめた。
「主は、不思議な御方です」
『最近そればっかり言われる』
*
アデルの論文は禁止されなかった。それどころか、教皇庁は反対論と併せて神学校の高等課程で教材として扱うことを認めた。
結果として、議論はさらに広がった。
世界統一派。
諸国共存派。
教会による仲裁を強めるべきだという者。
逆に、パチカンは他国へ介入しすぎていると批判する者。
中には、十字教会そのものを国境を越えた一種の帝国と呼ぶ学者まで現れた。
神聖四文字は、その論文も禁止しなかった。
『だって、ある意味その通りだし』
と言ったからである。
ただし、騎士団の一部はこの状況を好まなかった。特に若い現地出身の将校たちには、パチカンの圧倒的な軍事力を「使わないこと」への苛立ちがあった。
その中の一人に、聖騎士ガイウスがいた。
レベル五十二。
三十九歳。
現地生まれとしては極めて高い水準に達した男であり、辺境防衛戦で何度も功績を上げている。信仰も篤く、規律にも忠実だった。だからこそ、彼の不満は単なる野心ではなかった。
「我々が動けば助けられる民がいるのに、国境の向こうだから見捨てるのですか」
軍議の場で、ガイウスはそう訴えた。
議題は北西部の王国で起きている内戦だった。十字教徒の村が反乱軍と王軍双方から徴発を受け、難民が国境へ押し寄せている。死者も出ていた。
騎士団長は静かに答えた。
「見捨ててはいない。難民は受け入れている。食料も送っている。だが、軍を入れれば内戦への介入になる」
「介入の何が悪いのです。虐殺が起きている」
「誰を討つ」
「虐殺を行っている者です」
「王軍にも反乱軍にもいる」
「なら、双方を止めればよい」
「その後は」
ガイウスは黙った。
「王を廃するか。反乱軍を解散させるか。誰が次の政権を作る。税は誰が集める。反対する地方はどうする。十年後にまた争ったら、我々は永久に駐留するのか」
「それでも、今死んでいる者を見殺しにするよりは」
「だから難しいのだ」
騎士団長は低い声で言った。
「剣を抜く理由が正しいことと、剣を抜いた後まで正しいことは同じではない」
ガイウスは納得しなかった。
*
その夜、彼は一人で大聖堂へ向かった。
正式な謁見許可を求めたところ、意外にもすぐに通された。
「主よ。お尋ねしたいことがございます」
『世界統一の話?』
ガイウスは少し驚いた。
「ご存じでしたか」
『最近そればっかりだから』
彼は膝をついたまま、正面から問いかけた。
「主は、我々に力を与えられました」
『うん』
「騎士団をお作りになり、聖騎士を育て、天使を従え、異教国すら恐れる軍をお持ちです。それなのに、なぜこの力を使って苦しむ者を救わないのですか」
『使ってるよ』
「足りません」
声が強かった。
「国境の向こうでは、今日も人が殺されています。奴隷も残っています。子供が売られ、村が焼かれています。我々なら止められる。それを知りながら動かないのは、力を持たぬ者が何もできないのとは違います」
神聖四文字は黙って聞いていた。
「私は、征服がしたいのではありません。王にもなりたくない。ただ、理解できないのです。主ほどの力を持ちながら、なぜ悪を許しておられるのか」
重い問いだった。
百年以上前。
奴隷砦を見つけたとき、自分自身も同じことを考えた。
介入しなければ、人が苦しむ。
介入すれば、他者の社会へ自分の正義を押しつける。
百年以上考え続けても、その矛盾は消えていない。
『全部の悪を止めようとしたら、全部を支配するしかなくなるから』
「それが必要なら、なさればよいではありませんか」
『その支配自体が悪になるかもしれない』
「主の支配が?」
『うん』
ガイウスは理解できないようだった。
『ガイウス。たとえば俺が明日、「酒は禁止」って言ったらどうする』
「従います」
『「異教の祭りは禁止」なら』
「……従います」
『「俺を批判した人間は捕まえろ」』
ガイウスは答えるまでに少し時間がかかった。
「理由を、お尋ねします」
『でも最後には?』
「主命であるならば」
『それが怖いんだよ』
ガイウスは息を止めた。
『俺の命令だからって、間違ったことまで正しくなる世界にしたくない』
「では、主は御自身が悪を命じる可能性をお考えなのですか」
『可能性がゼロだって証明できないから』
「神が、そのような」
『俺は自分を信じてる。でも、無制限に信じてはいない』
長い沈黙があった。
『だから国も残す。王も残す。教会とは別の権力も残す。俺と違う考えの人も残す。面倒だけど、その方が俺が間違ったときに誰かが止められる』
「そのために、救えない者が出ても?」
神聖四文字は答えに詰まった。
そして、嘘をつかなかった。
『出ると思う』
ガイウスの顔が歪んだ。
『ごめん。でも、俺には「誰も犠牲にしない完璧なやり方」は分からない』
「……主でも」
『うん』
ガイウスは長く俯いていた。
「私は、納得できません」
『いいよ』
「それでも、騎士でいてよいのですか」
『もちろん』
ガイウスは顔を上げた。
『納得してないのに従え、とは言いたくない。考えて。それでも俺が間違ってると思うなら、また言いに来て』
「主に?」
『うん』
「何度でも?」
『できれば毎日はやめてほしいけど』
ガイウスは、初めて少しだけ笑った。
*
世界統一論は消えなかった。
ガイウスも最後まで完全には考えを変えなかった。むしろ後年、彼は「保護責任」を唱える一派の中心人物となり、虐殺や大規模な奴隷狩りに対しては国境を越えた介入を認めるべきだと主張するようになる。一方、パチカン内部には、軍事介入を極力避けるべきだという勢力も残った。
両者の論争は、何世紀にもわたって続くことになる。
神聖四文字は、そのどちらも禁止しなかった。
ただ、一つだけ禁じた。
――世界征服を、神命として語ること。
主が世界統一を望んでいる。
主が異教国の征服を命じている。
主のために国境を消さなければならない。
そのような主張だけは、明確に否定された。
この原則は《非征服宣言》と呼ばれるようになった。
だが、歴史は皮肉だった。
パチカンが征服を禁じた後も、十字教そのものは広がり続けた。
軍ではなく商人によって。
学校によって。
治療院によって。
婚姻によって。
そして、ときには王自身の選択によって。
百年が過ぎ。
二百年が過ぎ。
三百年が過ぎる。
西方の地図から、古い神々を国教とする国家は一つ、また一つと消えていった。
滅ぼされた国ばかりではない。
王が改宗した。
民が改宗した。
隣国と婚姻した。
十字教国の制度を取り入れた。
古い祭りは文化として残りながら、そこで祈られる神の名だけが忘れられていった。
神聖四文字が最も恐れていた形で。
誰かが明確に命令したわけでもないまま。
世界は少しずつ、一つの信仰へ近づいていった。
*
転移から四百二十七年目。
諸民族記録院から、一冊の報告書が届けられた。
『これ何?』
「西方諸地域における現存祭祀の調査報告でございます」
当時の記録院長が答えた。
『減ってる?』
老人は少し迷った。
「はい」
『どれくらい』
「四百年前に記録された主要祭祀のうち、現在も宗教として継続しているものは二割を下回ります。それ以外は民間習俗として一部が残るか、完全に途絶えております」
神聖四文字はしばらく動かなかった。
『俺たちが壊した?』
「直接破壊した例は、少数です。多くは自然な改宗、人口移動、王侯の改宗、都市化によるものです」
『でも、十字教がなかったら残ってたよな』
記録院長は答えなかった。
『……そっか』
四百年前、森の母の老司祭が言った。
もし我らの信仰が消えるとしても、最初から何もなかったことにはしないでくれ。
あの言葉を思い出した。
『全部、残して』
「はい」
『信仰が消えたからって、邪神崇拝として書き換えないで。その人たちがどう信じてたか、そのまま』
「承知しております」
『あと』
神聖四文字は少し迷った。
『俺たちが何をしたかも残して』
「何を、とは」
『学校を作ったことも、治療院を作ったことも。でも、それで古い宗教が弱ったことも。良いことだけ書かないで』
記録院長は長いこと沈黙した。
「それは、教会にとって不利な記録となる可能性がございます」
『だから残すんだよ』
「後世の者が、主を批判するかもしれません」
『それでいい』
「主を?」
『間違ってたと思うならね』
老人は深く頭を下げた。
「御意」
その記録は残った。
数百年後、十字教世界が最も強大になった時代にも。
さらにその後、異教神殿の多くが遺跡となった時代にも。
そして、二千年後。
天より本物の神々が降りてきたときにも。
古文書の中には、確かに記されていた。
西方世界には、かつて無数の神々がいた。
人々は彼らへ祈った。
森にも。
川にも。
太陽にも。
死者にも。
十字教は、それらを真なる神とは認めなかった。
それでも、彼らが存在しなかったことにはしなかった。
だからこそ、後の時代。
本当に神を名乗る者たちが天から降りてきたとき。
西方の神学者たちは困惑することになる。
古い記録に残された偽神たちと、目の前に立つ神々は同じものなのか。
そして何より。
唯一神を信じる世界に。
なぜ、神が何百柱も降りてきたのか。
その問いが生まれるまで、あと千年以上あった。