【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
転移から十日が過ぎたころ、パチカンの外には小さな集落ができていた。
最初に保護した三百余名の流浪民を収容するため、城壁西側の空き地に仮設住宅を建てたのが始まりだった。都市内部に入れなかったわけではない。空き家もあれば、修道院や騎士団施設にも多少の余裕はあった。しかし、どこから来たのかも分からない人間を一度に市街へ入れることに、教会と行政官たちは慎重だった。検疫と身元確認を兼ねて一定期間を城外区画で過ごさせる。それが教皇庁の決定だった。
ところが三日もすると、別の一団がやって来た。今度は五十人ほどだった。その翌日には二十人、その二日後には百人を超える集団が城門へ現れた。彼らは互いに知り合いではなく、出身地も違っていた。ただ一つ共通していたのは、「白い城壁の街へ行けば助けてもらえる」という噂を聞いていたことである。
『……噂が広がるの、早くない?』
神聖四文字は大聖堂の奥でそう言った。
「流民は各地を移動しております。道の途上で互いに情報を交換したのでございましょう」
教皇ヨハネスは平然としていた。その隣には三人の枢機卿が控えている。いずれも神聖四文字がゲーム時代に作成したNPCであり、転移後も姿形は変わっていない。
『いや、それにしたって早いだろ。まだ十日だぞ』
「主の御業は隠しようがございません」
『御業じゃない。飯を出しただけだ』
「飢えた者に食を与えることこそ、慈悲の御業では」
神聖四文字は答えなかった。反論すると、さらに話が大きくなることを、この十日間で学び始めていた。
問題は、単に難民が増えていることではない。増加の速度だった。パチカンは巨大な都市であり、備蓄も豊富だったが、外部との交易が完全に途絶している以上、食料は有限である。市内の農園だけでは数万人を永続的に養うことはできず、さらに外から人を受け入れ続けるなら、早急に耕作地を広げなければならなかった。
「東方に大河を確認しております。水量は十分。周辺の土壌も良好との報告です」
枢機卿の一人が地図を広げた。もっとも、それは地図と呼ぶにはまだ空白が多すぎた。中央にパチカン、その周囲に森と川、低い丘陵が記されている程度である。
『距離は』
「およそ十二キロメートル」
『そこまでの安全は確認できてる?』
「第三騎士団が街道予定地を巡回しております。小規模な魔物の群れは散見されますが、現状では脅威とはなりません」
『現状では、か』
転移直後に遭遇した魔物は弱かった。だが、それがこの世界の標準とは限らない。偵察範囲を広げるにつれて、少しずつ強力な個体も確認され始めている。レベル十前後。まれに二十前後。パチカンの正規兵であれば対処できるが、武器を持たない現地人にとっては十分すぎる脅威だった。
「開拓村を設置してはいかがでしょう」
ヨハネスが言った。
『開拓村?』
「希望者を募り、東方の河川沿いに農地を設けます。護衛として騎士団を一個小隊常駐させれば、当面の安全は確保できます。農具、種子、家畜はこちらから供出いたします」
『難民を働かせるってこと?』
「強制ではございません。ですが、彼ら自身も仕事を望んでおります」
神聖四文字には少し意外だった。
『そうなのか』
「施しのみを受け続けることを苦痛に感じる者は少なくありません。特に成人男性から、その申し出が多くございます」
なるほど、と彼は思った。ゲームであれば、人口に職業を割り振れば済んだ。しかし現実の人間は、働くことに意味を見出す。食べるためだけではない。自分が役に立っているという実感を欲する者もいる。
『本人が望むならやってみよう。ただし、最初から大規模にはするな。護衛もつける。何か出たらすぐ逃げられるようにしておいてくれ』
「御意」
会議はそこで終わるはずだった。
ヨハネスが一枚の書簡を取り出した。
「もう一件、ご裁可をいただきたいことがございます」
『何?』
「洗礼希望者についてです」
神聖四文字は嫌な予感を覚えた。
『何人』
「現時点で七百四十三名」
『増えてるじゃないか』
「はい」
『というか、ほぼ全員じゃない?』
「全員ではございません」
『そこを強調しなくていい』
転移から十日。パチカンへ流れ着いた現地人はすでに千人を越えていた。そのうち七割近くが十字教への入信を希望しているという。
神聖四文字には、その数字が少し怖かった。
『本当に強制してないよな』
「しておりません」
『食料を条件にしたり』
「しておりません」
『治療とか』
「信徒であるか否かにかかわらず行っております」
『じゃあ何でこんなに多いんだ』
ヨハネスは不思議そうな顔をした。
「主が実在されるからでは」
神聖四文字は黙った。
言われてみれば、その通りなのかもしれない。
この世界の人間にとって、神というものがどういう存在なのか、彼はまだ知らない。ただ少なくとも、パチカンでは祈りが単なる精神的慰めではなかった。神官たちは実際に治癒魔法を使う。騎士は常人を遥かに上回る力を持つ。そして洗礼を受けた現地人には、《職業》と《レベル》が与えられる。
マルクスだけではなかった。
その後の試行でも結果は同じだった。十字教へ正式に改宗し、洗礼を受けた者にはゲーム由来のシステムが適用される。農夫を選べば農作業に補正がかかり、鍛冶師を選べば技術習得が早くなる。戦士を選んだ者は明らかに身体能力が向上した。
奇跡と言われても否定できない。
『……洗礼そのものは認める』
「ありがとうございます」
『ただし、改宗したら強くなれる、みたいな宣伝は禁止』
ヨハネスがわずかに首を傾げた。
「なぜでしょう」
『それを餌にしたら、信仰じゃなくなるだろ』
口にしてから、妙にもっともらしいことを言ってしまった気がした。
ヨハネスは深く目を伏せた。
「御意、肝に銘じます」
『……また何か変な解釈してない?』
「とんでもございません」
明らかにしていた。
*
マルクスは、朝の日課として木剣を振っていた。
洗礼を受けてから九日。選択した職業は騎士。現在のレベルは三だった。
もっとも、本人にはその数字の意味がまだ分からない。洗礼の際に授けられた「恩寵」と呼ばれる何かによって、自分の力が以前より増していることだけは理解できた。走れば以前ほど息が切れない。木剣を振る速度も上がった。これまで持ち上げられなかった荷物を一人で運べるようになった。
それ以上に変わったのは、生活だった。
朝起きれば食事がある。働けば、その日のうちに仕事が終わる。夜になれば屋根の下で眠ることができる。怪物の声が聞こえるたびに目を覚ます必要もない。
こんな暮らしが存在するとは知らなかった。
「腰が高い」
背後から声がして、マルクスは慌てて振り返った。
白銀の鎧を着た男が立っていた。
第三騎士団の騎士だった。
「申し訳ありません」
「謝罪を求めたのではない。構え直せ」
「はい」
マルクスは言われた通りに木剣を構えた。
騎士はしばらくその姿勢を見てから、木剣の先端を指で押した。
「力を入れすぎている。剣は腕だけで振るものではない。肩を落とせ。足をもう少し開く」
マルクスは戸惑った。
「……教えてくださるんですか」
「何のために私がここにいると思っている」
「でも、私はまだ騎士ではありません」
「知っている」
男は平然と答えた。
「だから訓練している」
マルクスには、その考え方がまだ理解できなかった。
自分の生まれた村では、武器の扱いを教わるのは一部の男だけだった。優れた技術は財産であり、理由もなく他人へ渡すものではない。
「どうしてですか」
「何がだ」
「どうして、私のような者に」
騎士は少し黙った。
「お前は洗礼を受けた」
「はい」
「ならば同じ教えの下にある。いずれ騎士を目指すと言うなら、教えるのが私の仕事だ」
「それだけですか」
「それだけでは不満か」
マルクスは慌てて首を振った。
騎士はそれ以上何も言わなかった。
しかし、去り際に一度だけ振り返った。
「それとな」
「はい」
「『私のような者』などと言うな」
マルクスは目を瞬いた。
「お前が以前、何者だったかは知らん。だが今は、お前自身が選んだ道を歩いている。それで十分だ」
騎士はそのまま歩き去った。
マルクスは長い間、その背中を見送っていた。
*
最初の開拓村が作られたのは、その三日後だった。
名を《ヨルダン》とした。
大河のほとりに二十棟ほどの木造家屋が建ち、百五十人の現地人が移り住んだ。パチカンから農具、家畜、種子が支給され、第三騎士団の兵士三十名が護衛として常駐することになった。
村人の大半は十字教徒だった。
朝になると小さな礼拝所に集まり、祈りを捧げる。それから畑へ出る。
その光景を視察用の遠見魔法で見ながら、神聖四文字は少しだけ安心した。
『何とかなりそうだな』
「すべて主の導きによるものです」
『それは違うと思う』
隣にいたヨハネスは何も言わなかった。
『農作物がちゃんと育てば、難民をもっと受け入れられる。余剰が出れば周辺と交易もできるかもしれない』
「はい」
『あとは、この世界の国と接触したいな』
「既に第五騎士団の探索部隊を南北へ派遣しております」
『慎重に頼むぞ。最初から武装集団で行くと揉めるから』
「白旗を掲げさせております」
『……白旗が降伏の意味だって、この世界でも通じるのか?』
「…………」
『今の間は何だ』
「確認いたします」
まだ分からないことばかりだった。
文化。
言語。
国家。
貨幣。
宗教。
この世界に何があり、何がないのかさえ知らない。
だが、それでも少しずつ足場はでき始めていた。
神聖四文字は、このまま慎重に進めれば何とかなるのではないかと思い始めていた。
少なくとも、次の報告を聞くまでは。
*
「人間の集落を発見いたしました」
それ自体は朗報だった。
転移から十五日目。北へ向かった探索隊が、パチカンから約七十キロ離れた地点で現地人の村落を発見したのである。
『接触した?』
「いえ」
第五騎士団長は首を振った。
巨大な男だった。顔には古い傷があり、黒い外套の下から白銀の鎧が覗いている。レベル八十二。パチカンに存在するNPCの中でも上位に入る戦士である。
「先行偵察のみでございます」
『それでいい。それで、どんな村だった』
騎士団長は答えなかった。
わずかな沈黙。
それだけで、神聖四文字は嫌な予感を覚えた。
『何かあった?』
「村ではありませんでした」
『どういう意味だ』
「砦です」
神聖四文字は意識を集中した。
「木柵を巡らせた小規模な砦。内部に約二百名。武装した人間が四十ほどおります」
『じゃあ領主か何かの拠点?』
「恐らくは。ただし」
騎士団長の声が低くなった。
「柵外に、人間が吊るされております」
謁見の間が静かになった。
『死んでるのか』
「二十七名を確認。男女ともにおります。そのほか、地下牢と思われる場所にも多数の人間が収容されている様子です」
『理由は』
「不明です」
神聖四文字は返事をしなかった。
自分たちは、この世界を知らない。
現地の法律も、戦争も、社会も知らない。
吊るされた者たちが犯罪者である可能性もある。
砦の人間に事情がある可能性もある。
こちらの価値観だけで、勝手に裁いてよいはずがない。
「もう一点」
騎士団長が続けた。
「我らが保護した流浪民の一部に、砦について証言する者がおりました」
『何て?』
「人を狩る者たちだと」
神聖四文字は黙った。
「周辺の小村を襲い、人間を連れ去る。若い者は奴隷として売り、抵抗した者は殺す。彼らから逃れた者が、現在パチカンに保護されております」
『確かなのか』
「複数の証言が一致しております」
また沈黙が落ちた。
神聖四文字は、まだこの世界へ来て半月しか経っていなかった。
自分たちの領土がどこまでなのかすら分からない。
外交関係もない。
国際法など存在するのかさえ知らない。
そんな自分が他所の集団へ武力を用いる。
それは、ひどく危険な最初の一歩に思えた。
『救出できる?』
それでも、口から出たのはその言葉だった。
騎士団長は一瞬も迷わなかった。
「御命令さえあれば」
『殺すな』
「は」
『少なくとも、最初から皆殺しにはするな。まず事情を聞く。降伏するなら受け入れる。捕まってる人たちを助ける。それでいい』
騎士団長は片膝をついた。
「御意」
立ち上がり、退出しようとする。
『待って』
「は」
『何人連れていくつもりだ』
「十二名」
『少なくない?』
「十分かと」
『相手は四十人いるんだろ』
「現地人でございます」
何でもないことのように言った。
神聖四文字は、そこで改めて思い出した。
彼らは強い。
自分が作った存在なのだから当然だった。
そして、その力を。
これから初めて、この世界の人間に対して使おうとしている。
騎士団長が去った後も、神聖四文字は長く黙っていた。
誰かを助けるには、力が要る。
だが、力を持つ者が「助ける」と決めた瞬間、それは別の誰かにとって暴力になる。
その単純なことを。
黒い神は、ようやく理解し始めていた。