【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
転移から五百年を越えるころ、西方世界において十字教徒であることは、もはや特別なことではなくなっていた。王の戴冠式では教会の祝福を受けることが慣例となり、主要都市には神学校と施療院があり、街道沿いには巡礼宿が並ぶ。地域によって濃淡はあるものの、人口の大半が十字教徒という国も珍しくない。一方、古い神々への信仰は山間部や島嶼部、辺境に残る程度となり、多くの祭祀は宗教というより風習として受け継がれていた。
春に森へ花を捧げる者の中で、それがかつて「森の母」への供物だったと知る者は少ない。教会は表向き、それらを禁じてはいなかった。ただし、何を信仰と呼び、何を文化と呼ぶのか、その境界は時代とともに曖昧になっていた。
その西方世界の東端に、ひときわ異質な都市があった。
オラリオ。
人口はすでに十数万を超え、巨大な城壁の内側には各国の商館、鍛冶工房、冒険者宿、教会、学校、治療院が密集している。迷宮から産出される魔石は、西方の都市生活を支える重要資源の一つとなっていた。深層探索も進み、冒険者の中にはパチカン式換算でレベル四十、五十へ達する者も現れる。十字教徒でなくともギルドへ登録できたため、遠方から来た異教徒や、十字教圏外の戦士も珍しくなかった。
そのためオラリオには、パチカン本国とは少し違う空気があった。
信仰よりも腕前を問われる。
生まれよりも生還回数を重んじる。
司祭と酔っ払いが同じ酒場で席を争い、貴族の三男と木こりの娘が同じ依頼を受ける。迷宮から戻れば、誰もが血と泥にまみれていた。
神聖四文字は、その街が好きだった。
『やっぱり、ここ面白いな』
久しぶりにオラリオを訪れた神聖四文字は、市壁の上から街を見下ろしていた。もちろん、突然そのまま市街へ出れば大騒ぎになるため、訪問は事前に秘匿され、護衛も最小限に抑えられている。それでも黒い球体が上空を通れば隠しようがなく、遠くで鐘が鳴り始めていた。
隣に立つ当代教皇は、諦めたようにその音を聞いた。
「主がお越しになったことは、もう知られたようです」
『何で分かるんだろ』
「三メートルほどの黒い球体が空を飛べば、分かるかと」
『俺以外にもいるかもしれないだろ』
「おりましたら、ぜひ御報告ください」
神聖四文字は返事をしなかった。
眼下には、迷宮入口を中心として放射状に道が伸びている。最初に築いた小さな砦の痕跡は、もうほとんど残っていない。その場所には巨大なギルド本部が建ち、地下へ向かう冒険者たちが絶え間なく出入りしていた。
『最初は千人くらいだったのにな』
「正確には、それ以前は砦だけでございました」
『ああ。宿屋が一軒できたとき、街になってきたって喜んでた』
「記録に残っております」
『そういうのまで残してるの?』
「主の御言葉ですので」
『いらないのも結構あるよね』
「後世が判断いたします」
それを聞いて、神聖四文字は嫌な予感を覚えた。五百年も経つと、自分の何気ない発言が格言として引用されることが増えている。「門は開けておけ」「異教徒だからといって斬るな」「強い方ほど考えろ」といったものならまだよい。中には「宿屋ができると街っぽい」という言葉まで都市行政論の古典に引用した学者がいた。
『俺の発言、もう少し選別して残さない?』
「誰が選別するのでございます」
『……確かに、それも怖いな』
教皇は小さく笑った。
*
今回、神聖四文字がオラリオまで来たのには理由があった。
迷宮探索開始五百周年。
それを記念する祭典が行われるのである。
教会側は当初、大規模な宗教儀式を予定していた。ところが神聖四文字が「冒険者のお祭りなんだから、冒険者が主役でいい」と言ったため、内容は大幅に変更された。迷宮で亡くなった者への追悼、歴代探索記録の公開、新人冒険者向けの訓練競技、魔石技術の展示、各国料理の屋台。結果として、宗教祭というより都市全体の祭りになった。
神聖四文字は満足していた。
教会の一部は不満だった。
「主が最初に価値を見いだされた場所でございます。もう少し宗教的意味を明確になされてもよろしいのではありませんか」
式典前日の会議で、一人の枢機卿がそう述べた。
『宗教的意味って?』
「この迷宮が、なぜ主の御前に置かれたのか。その意味を」
『たまたま見つけたんだけど』
「しかし、主は五百年間、この地へ特別な関心を向けておられます」
『面白いからね』
「その『面白い』という御言葉にも、我々の理解が及ばぬ意味があるのでは」
『ないよ』
「本当に?」
『本当に』
枢機卿は納得しなかった。
五百年間、神聖四文字は何度も同じ説明をしている。迷宮が好きなのは、単純に探索記録を読むのが楽しいから。未知の魔物や階層が見つかると興奮するから。冒険者たちが工夫して攻略法を見つけるのを見るのが好きだから。それ以上ではない。
だが、信徒たちは「唯一神が五百年間も興味を持ち続ける場所に、意味がないはずがない」と考えた。
その理屈を完全に否定することも、神聖四文字には難しかった。
『じゃあ、聖地にする?』
少し投げやりに言った。
会議室が静まった。
神聖四文字はすぐに嫌な予感を覚えた。
『……今のなし』
「主よ」
『なしって言ったよ』
「御自ら、この地を聖地と」
『いや、「そんなに言うならそう呼べば?」くらいの意味で』
「しかし」
『待って。ちゃんと考えるから』
結局、その日の会議は予定を大幅に超えた。
*
聖地。
その言葉が持つ重さを、神聖四文字は五百年前より理解していた。
聖地と定めれば、人が来る。
巡礼者が来る。
教会が増える。
政治的意味が生まれる。
そして、もしその土地を誰かに奪われたら。
取り戻せ、と言う者が必ず出る。
『……やっぱり危なくない?』
夜になっても結論が出ず、神聖四文字は教皇とヨハネスを残して相談を続けていた。ヨハネスは教皇職を退いて数百年が経つが、いまも教皇庁の最上級顧問として時折会議に呼ばれる。表向きには「主の恩寵によって長命を得た始まりの聖者」とされ、その正体は当然秘匿されたままである。
「何が危険なのでございます」
当代教皇が尋ねた。
『聖地って、持ってる間はいいけど、取られたら面倒だろ』
「誰に取られるのでございます。オラリオはパチカンの保護下にあり、周辺にこれを攻略できる国家は――」
『今の話じゃない。千年後とか』
教皇は黙った。
ヨハネスだけが、少し遠くを見るような顔をした。
「主は随分と先を見られるようになりましたな」
『五百年生きたからね』
「以前は、十年後のこともあまり考えておられませんでした」
『それ言う?』
「事実でございます」
神聖四文字は少し不満だったが、否定できなかった。
『でも、聖地にするメリットもある?』
「ございます」
教皇が答えた。
「迷宮で亡くなった者を宗派や国籍に関係なく追悼する場所として位置づけることができます。また、オラリオそのものを一国の所有物ではなく、各国の冒険者が利用できる共同の地として保護する根拠にもなります」
『ああ、それはいいな』
「さらに、聖地であることを理由に、諸国へ軍事利用の自制を求めることも可能でしょう。オラリオの魔石を独占しようとする国家が現れた場合にも」
『つまり、聖地だから誰か一国のものにしない?』
「そのような意味づけは可能です」
神聖四文字は考えた。
悪くない。
むしろ、迷宮という巨大資源を一国が独占する方が危険である。オラリオを共通財産に近いものとして扱えるなら、聖地指定には意味がある。
『じゃあ条件つけよう』
「条件?」
『聖地だから十字教徒だけの場所、にはしない。異教徒も入れる。迷宮も今まで通り。教会の儀式に参加しなくても冒険者になれる。あと、他の宗教の人が住むのも自由』
「聖地内に異教の祭祀所を建てることも?」
神聖四文字は少し迷った。
『住民が必要とするなら』
教皇の顔がわずかに固まった。
「十字教の聖地に、異教神殿を?」
『それが駄目なら、聖地にしない』
はっきり言った。
ヨハネスが小さく笑った。
「主らしい条件でございます」
『嫌?』
「いえ。後世の神学者が苦労するでしょうな、と思っただけです」
『もう十分苦労させてるから、一個増えても同じだろ』
「その発想はどうかと」
こうして、オラリオは正式に聖地へ指定された。
ただし、その宣言には異例の一文が加えられた。
――この地は主を信ずる者のみのものにあらず。迷宮へ挑み、学び、商い、また平穏に生きることを望むすべての者に門を開く。
後世、《開かれた聖地》の原則と呼ばれる条文である。
*
聖地宣言の式典は、迷宮入口前の大広場で行われた。
十字教徒だけでなく、異教徒の冒険者や外国商人も集まっていた。聖地となれば自分たちが追い出されるのではないかと警戒していた者も多い。そのため、教皇が宣言文を読み上げ、異教徒の居住・交易・迷宮探索を従来通り認めると告げたとき、群衆には安堵のざわめきが広がった。
そして最後に、神聖四文字が姿を現した。
広場にいた数万人が一斉に跪こうとした。
『立ってていいよ』
魔術で拡大された声が響いた。
戸惑いが広がる。
『今日は俺を拝む日じゃなくて、この街が五百年続いたことを祝う日だから』
それでも半分くらいは跪いたままだった。
神聖四文字は諦めた。
『オラリオを聖地にする。でも、ここは十字教徒だけの街にはしない。どの国から来てもいいし、俺を信じてなくてもいい。迷宮へ入る資格も、それで変えない』
群衆の中にいた異教徒の冒険者たちが顔を見合わせた。
『ただし、街で人を殺したり、他人の信仰を無理やり変えさせたりするのは駄目。これは十字教徒にも同じ。聖地だから偉い、とか、ここにいるから特別、とか、そういうことでもない』
後ろにいた教皇がわずかに目を閉じた。
原稿にはない。
神聖四文字は続けた。
『俺がこの場所を好きなのは、いろんな人が来て、地下へ潜って、失敗して、それでもまた挑戦するから。だから、そのままでいてほしい』
広場は静かだった。
『以上』
終わった。
教皇が横から小声で言った。
「もう少し格式のある締め方はございませんでしたか」
『長いとみんな疲れるだろ』
「五百年記念の聖地宣言でございますぞ」
『大事なのは内容だから』
そのやり取りまで、前列の記録官には聞こえていた。
当然、残った。
*
オラリオの聖地化は、思っていた以上の影響を生んだ。
巡礼者が急増した。
冒険者も増えた。
各国の王侯が教会や宿泊施設を寄進し、自国民向けの商館を置いた。異教徒向けの小規模な祭祀所も認可され、十字教の大聖堂から二つ通りを隔てた場所に、北方の旅人が祀る石神の社が建った。
当然、反発もあった。
「主の聖地に偽神の像を置くとは何事か」
ある司教が抗議すると、オラリオ行政院は聖地宣言をそのまま返答として送った。
司教は教皇庁へ訴えた。
教皇庁も同じ文章を返した。
最後に司教は神聖四文字本人への上奏を求めた。
『宣言に書いた通り』
それで終わった。
イスカリオテの内部では、かなり不評だった。
「主の御慈悲とは理解しております」
アンデルセンはそう前置きしたうえで言った。
「しかし、聖地に邪神の祭壇が存在する光景は、精神衛生上よろしくありませんな」
『壊さないでよ』
「御命令であれば」
『絶対だよ』
「毎回念を押されずとも、五百年守っております」
『五百年経っても、その顔で言われると不安なんだよ』
「心外です」
『燃やしたい?』
「非常に」
『ほら』
アンデルセンは否定しなかった。
*
数十年が過ぎると、オラリオはさらに独特な都市となった。
十字教世界の聖地でありながら、異教徒が最も多く住む都市の一つ。
教皇庁の保護下にありながら、都市評議会とギルドが大きな自治権を持つ。
各国の王族が巡礼に来る一方で、酒場ではその国の冒険者が隣国の者と殴り合う。
聖地と呼ぶには俗っぽく、俗世の都市と呼ぶには神聖すぎる。
神聖四文字は、その矛盾した姿を気に入っていた。
『これくらいごちゃごちゃしてる方がいいよ』
そう言うたび、神学者は頭を抱えた。
しかし、都市は繁栄した。
そして繁栄するほど、オラリオの価値は高まった。
宗教的にも。
経済的にも。
軍事的にも。
誰もが欲しがる土地になった。
*
転移から六百二十一年目。
初めて、外国の王がオラリオの領有権を要求した。
東方から勢力を伸ばしてきたアレクシオス王国である。
十字教国ではなかった。
国王の書簡には、こう記されていた。
――オラリオは本来、我らの祖先が住んだ東方の土地に属する。パチカンがこれを占有する歴史的正当性はない。迷宮から生じる富を西方諸国のみが享受する現状も不当である。
主張には、一理あった。
少なくとも、神聖四文字にはそう思えた。
『俺たち、最初に来たとき誰にも許可取ってないもんな』
教皇が頭を抱えた。
「主が先方の主張に理解を示してどうするのです」
『でも事実だろ』
「五百年以上統治しております」
『それはそうだけど』
「さらに、聖地宣言によって東方人の利用を禁じてもおりません。アレクシオス王国出身の冒険者も数千人おります」
『じゃあ、何が欲しいんだろ』
マティアスの後を継ぐ外交局長が答えた。
「税収でしょう。それと、迷宮資源に対する優先権。何より、オラリオを得れば東西交易の主導権を握れます」
『宗教じゃないんだ』
「少なくとも今のところは」
神聖四文字は書簡を見つめた。
五百年前、自分が恐れていたこと。
聖地が誰かに欲しがられる。
それが、思ったより早く現実になった。
『交渉しよう』
「領有権について?」
『資源の利用とか交易条件なら譲れるところあるだろ。街そのものは……住んでる人に聞かないと』
教皇が顔を上げた。
「住民に?」
『俺たちが勝手に渡す土地でもないだろ。もう何十万人も住んでるんだから』
「仮に、住民がアレクシオス王国への編入を望んだ場合は?」
神聖四文字は黙った。
少し考えた。
『……そのときは、考える』
「聖地であっても?」
『聖地だからって、住んでる人を無視していい理由にはならないだろ』
教皇はそれ以上何も言わなかった。
しかし。
その会議の数日後。
西方各地で、別の言葉が広がり始めた。
――異教王が聖地を奪おうとしている。
神聖四文字はまだ知らなかった。
王が送ったのは、領有権を巡る外交文書にすぎなかった。
だが、それを読んだ信徒たちが受け取った意味は違った。
主が愛した土地。
五百年かけて守られてきた聖地。
そのオラリオを。
異教徒の王が要求した。
事実はそれだけで十分だった。
国境の向こうで、まだ誰も剣を抜いていないうちから。
西方の教会では、一つの言葉が囁かれ始めていた。
――聖地を守れ。
そして神聖四文字は、数百年前から恐れていたものが、ついに形を持ち始めたことを知ることになる。