【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
最初の命令は、驚くほど単純だった。
『絶対に攻撃しないこと。まず話を聞く。できれば一人連れてきて――いや、連れてくるって言い方は駄目だな。会ってくれる人がいたら、話をしたいって伝えて』
大聖堂の会議室には、教皇、十三枢機卿のうち九名、外交局長、十二騎士団から二名の団長、そしてイスカリオテのアンデルセンが集まっていた。議題はもちろん、東方各地から相次いでいる「神を名乗る存在」についてである。確認された数は、この半年で二十七。外見は人間とほとんど変わらず、男女も年齢もばらばらだった。
自らを太陽、鍛冶、豊穣、美、戦争などに関係する神だと称する者もいれば、酒場で賭博に興じながら神を名乗る者さえいる。共通するのは、どの者も自分が神であることを当然の前提として話し、しかも互いの存在を知っているらしいことだった。
「主よ。一点、確認させていただきたく」
枢機卿の一人が慎重に口を開いた。
「彼らが自らを神と称することは、明白な涜神には当たらないのでしょうか」
『涜神かどうか決める前に、何者なのか調べたい』
「しかし、神は唯一でございます」
『それは俺たちがそういう教義にしたからだろ』
室内が静かになった。
神聖四文字は少し遅れて、自分の言葉がかなり危ないことに気づいた。
『いや、教義を否定してるわけじゃなくて。俺以外に神がいるなんて、俺も今まで知らなかった。でも、実際に変なのが出てきた以上、「教義と違うから存在しません」は調査にならないだろ』
「偽神である可能性が高いかと」
『それはある。でも、偽神っていうのは結論だよ。調べる前から結論にしないで』
アンデルセンが静かに尋ねた。
「もし、彼奴らが真に神を称するに足る力を持っていた場合は、いかがなさいます」
『それを今から調べるんだよ』
「真なる神が複数存在するという結論になった場合でも?」
神聖四文字は答えに詰まった。
『……そのとき考える』
何人かの枢機卿が、明らかに困った顔をした。
『だから、その顔やめて。俺だって初めてなんだから』
*
調査使節の代表には、ソフィアが選ばれた。
理由は三つあった。長い年月を生きており、この世界の諸文化に通じていること。戦闘能力が高く、万一の場合にも自力で帰還できること。そして何より、彼女自身が人間ではない。未知の存在と接触するうえで、人間の使節より相手の警戒を解きやすいのではないかと考えられた。
「主よ。一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
出発前、ソフィアは珍しくためらいを見せた。
『何?』
「もし、その方々が本当に神であった場合、私はどのように接すればよろしいのでしょう」
『普通に』
「普通、とは」
『外交相手として。いきなり跪かなくていいし、喧嘩もしない。失礼にならない程度に話す』
「主以外の神に礼を示すことになります」
『礼くらいはいいだろ。王様にもするじゃん』
「崇拝は?」
『しなくていい』
「承知いたしました」
ソフィアはそこで一度頷いたものの、まだ何か言いたそうだった。
『まだある?』
「はい。私は、主によって創られました」
『うん』
「もし相手が神であるなら、その者も私のような存在を創れるのでしょうか」
『……分からない』
「では、尋ねてまいります」
『いきなりそれ聞くの?』
「重要かと」
『まあ……確かに重要だけど』
こうしてソフィアは、外交官、神学者、記録官、それに護衛十二名を伴って東へ向かった。
イスカリオテは同行させなかった。
アンデルセンは非常に不満そうだった。
*
目的地は、東方交易路にある都市エリオンだった。
そこに一月ほど前から「神」を名乗る女が滞在している。
彼女は都市を征服していない。
神殿を要求してもいない。
むしろ市場の一角にある小さな家を借り、十人ほどの人間と暮らしていた。
最大の問題は、その十人が以前とは明らかに違う力を持ち始めていることだった。
使節がエリオンへ到着した日の午後、ソフィアはその女と対面した。
見た目は二十歳前後。赤褐色の髪を肩で切り揃え、旅人向けの簡素な服を着ている。豪華な装飾品もなければ、後光もない。市場で見かければ、裕福な商家の娘くらいにしか見えないだろう。
ただし。
ソフィアを見るなり、女は目を丸くした。
「あら」
第一声がそれだった。
「本物の翼だわ」
ソフィアは表情を変えなかった。
「私はソフィア。西方パチカンより参りました。あなたが、ご自身を神と称しておられる方でしょうか」
「ええ。そうよ」
女はあっさり答えた。
「あなた、天界の子じゃないでしょう?」
同行していた神学者の筆が止まった。
ソフィアも、ほんのわずかに目を細めた。
「天界、とは」
「知らないの?」
「存じません」
今度は女の方が驚いた。
「じゃあ、その翼は何なの?」
「主より賜ったものです」
「主?」
「唯一なる主」
女は数秒考えた。
「ああ。西の方で大きな宗教をやっている神様ね」
「主をご存じなのですか」
「噂だけ。黒くて丸いんでしょう?」
ソフィアの背後で、外交官が小さく息を呑んだ。
「……どこで、それを」
「人間から聞いたのよ。私たちが降りてきてから、西の方には昔から変わった神がいるって話があちこちから入ってくるもの」
「私たち?」
「神々よ」
女は当たり前のように言った。
「今はまだ、この辺りに降りているのは少ないけれど。そのうちもっと来るんじゃないかしら」
「何柱ほど」
「天界に?」
「はい」
女は笑った。
「数えたことないわ」
使節の全員が黙った。
*
「あなたは、本当に神なのですか」
外交官が尋ねた。
失礼とも取れる質問だったが、女は気を悪くした様子もなかった。
「あなたたちからすると、そこからなのね。そうよ」
「証明は可能でしょうか」
「証明?」
「我々は、神を名乗る者をこれまで知りませんでした。あなたの言葉だけで認めることはできません」
「真面目ねえ」
女は椅子へ深く腰掛けた。
「じゃあ、何をすれば信じるの?」
外交官は困った。
神を証明する方法など、想定していなかったからである。
ソフィアが代わりに尋ねた。
「あなたは、人間へ力を与えたと聞きました」
「ええ」
「見せていただけますか」
「本人がよければ」
女が隣室へ声をかけると、一人の青年が入ってきた。二十歳ほどで、元は荷運び人だったという。上着を脱ぎ、背を向ける。
そこには文字があった。
いや、文字だけではない。
細かな記号、数値、能力、技能らしき情報が、肌そのものへ刻まれている。
同行していた記録官が息を呑んだ。
「これは……」
「ファルナよ」
女が言った。
「私たち神が、子供たちに与える恩恵。経験を積めば能力が伸びる。偉業を成せば、器そのものが大きくなることもあるわ」
ソフィアは青年の背を見つめた。
「十字教への改宗は?」
「してないよ」
青年本人が答えた。
「俺はこっちの女神様の眷族だから」
外交官と神学者が同時に顔を見合わせた。
人間を成長させる別の仕組み。
それだけで、パチカンにとっては重大だった。
これまで十字教の拡大には、明確な構造的優位があった。洗礼によって職業とレベルの体系へ接続できる。それは治療や教育以上に強力な魅力だった。
だが、目の前にいる存在は。
十字教とは無関係に。
別の方法で人間へ力を与えている。
「この力を与えられる者は、あなた以外にも?」
「神ならできるわ。やり方には少し差があるけど」
「すべての神が?」
「だいたいはね」
神学者の顔から血の気が引いた。
*
ソフィアはさらに質問を続けた。
「あなた方は、どこから来たのですか」
「天界」
「それは、この地上とは異なる場所?」
「そうよ」
「なぜ地上へ?」
「退屈だったから」
記録官の筆が止まった。
「……今、何と」
「退屈だったの」
女神は悪びれもせずに言った。
「下界って面白そうじゃない。人間は短い時間で恋をして、喧嘩して、国を作って、滅ぼして、また作る。天界から見ているだけじゃつまらないから、降りてきたの」
神学者が、理解を拒むような顔をした。
「神が……退屈を理由に?」
「神だって暇にはなるわよ」
「神とは、世界を創造し、秩序を――」
「誰の話?」
女神が首を傾げた。
「少なくとも私は世界なんて作ってないわ」
完全な沈黙が落ちた。
ソフィアだけが淡々と尋ねた。
「では、世界を創造した神をご存じですか」
「さあ?」
「ご存じない?」
「そういう話をする神もいるけど、昔話は神によって違うし。私が生まれるよりずっと昔のことなんて、私も知らないもの」
「神にも、知らないことがあるのですか」
「当たり前でしょう」
ソフィアは少しだけ黙った。
「主と似ています」
「あなたのところの神様も知らないことがあるの?」
「ございます」
同行した神学者が、ほとんど反射的に咳払いした。
ソフィアは気にしなかった。
女神は楽しそうに笑った。
「ますます会ってみたいわ、その黒い神様」
「お伝えいたします」
「名前は?」
ソフィアは答えなかった。
女神が首を傾げる。
「言えないの?」
「御名は秘されています」
「へえ。秘密主義なのね」
「軽々しく口にすべき御名ではありません」
「あなたは知ってる?」
「存じております」
「教えて」
「お断りいたします」
「残念」
女神はあっさり諦めた。
*
最後に、ソフィアは最も重要な質問をした。
「あなたは、主を神と認めますか」
女神は少し考えた。
「会ってないから分からない」
「では、何をもって神と判断されるのですか」
「難しいこと聞くわね」
女神は頬杖をついた。
「私たちは、私たちが神だから、自分たちを神だと知っているのよ。人間が自分を人間だと分かっているのと同じ。あなたの主が天界の神なら、会えば分かるかもしれない。でも、あなたを見る限り、少なくとも私たちと同じ系統には見えないわね」
「私を見ただけで?」
「神の力って、少し癖があるの。あなたからは、それがしない」
ソフィアは初めて、はっきりと表情を変えた。
「では、私は何だと」
「知らない。でも天界の天使じゃない」
女神は翼を眺めた。
「誰かが別の仕組みで作ったものに見える」
「その誰かが、私の主です」
「なら、やっぱり会いたいわ」
女神は微笑んだ。
「あなたの神様、私たちよりずっと面白そう」
*
報告がパチカンへ届いたのは、それから三週間後だった。
神聖四文字は全文を読んだ。
一度読んだ。
もう一度読んだ。
三度目の途中で止まった。
『……ちょっと待って』
誰も急かさなかった。
『何柱いるか分からないくらい神がいる?』
「先方は、そのように」
教皇が答えた。
『天界から、退屈だから降りてきた?』
「はい」
『人間にファルナっていう別の成長システムを与えられる?』
「確認されております」
『世界を作ってない?』
「少なくとも、接触した存在はそのように証言しております」
神聖四文字は沈黙した。
『……神って何?』
千年以上続いた宗教の中心人物から出た言葉としては、かなり深刻だった。
教皇は何も答えられなかった。
『いや、俺、本当に分からなくなってきたんだけど』
「主こそ神でございます」
『それはみんながそう呼んでるからだろ』
「主は我々を創られ、奇跡を行い、天使を生み出し、人に恩寵を与えておられます」
『でも、あっちも人に力を与えられるんだろ』
「それだけで主と同格とは――」
『同格かどうかじゃなくて』
神聖四文字は言葉を探した。
『今まで、「神は俺だけ」っていう前提で全部考えてた。でも、本当に神を名乗る存在が別にいて、その人たちにもできることがあって、本人たち同士では普通に神として扱ってるなら……少なくとも、最初から偽物って決めるのは無理だろ』
枢機卿の一人が強い口調で言った。
「主よ。それでは千年以上にわたる教義が根底から揺らぎます」
『もう揺らいでるよ』
静かな声だった。
その一言で、室内が黙った。
『俺たちが認めるかどうかとは関係なく、向こうはいるんだから』
*
この会議は、教会史上初めて最高機密に指定された。
理由は明白だった。
内容をそのまま公表すれば、大混乱が起きる。
唯一神のみを真なる神とし、その他を偽神あるいは人間の想像と位置づけてきた十字教の前提に、正面から矛盾する存在が現れたのである。
教皇庁内部でも意見は割れた。
「強大な精霊と解釈すべきです」
「悪魔が神を騙っている可能性もある」
「主と同じ語で呼ぶこと自体が誤りです。彼らのいう“神”と我々のいう“神”は別概念なのでは」
「しかし本人たちは、明確に神と称しております」
「異邦語の翻訳上の問題かもしれない」
「ではファルナはどう説明する」
「奇跡に似た異能です」
議論は何日続けても終わらなかった。
神聖四文字は途中から黙って聞いていた。
そして気づいた。
皆、分類したがっている。
精霊。
悪魔。
偽神。
別種の存在。
何でもよい。
とにかく「神ではない何か」にしたいのだ。
そうすれば、今までの世界を守れる。
『一回、やめよう』
議論が止まった。
『分類するの』
「しかし、主よ」
『分からないものに無理やり名前つけても、分かったことにはならない。今は「神を名乗る存在」でいい』
「信徒へは、どう説明いたします」
『事実だけ』
「事実?」
『人の姿をした強い存在が現れた。自分たちを神と呼んでる。人に力を与えられる。どこから来たか調査中。敵かどうかもまだ分からない。それだけ』
「偽神という呼称は」
『少なくとも公式には止めて』
その言葉に、何人かの顔が強張った。
「すでに各地で定着し始めております」
『だから止めたいんだよ。最初から敵の名前みたいになってる』
「彼らが十字教徒へ改宗を迫った場合は?」
『そのとき対応する』
「聖地へ来た場合は?」
『オラリオ?』
「はい」
神聖四文字は少し考えた。
『今まで通りでいいだろ』
「……神を名乗る者を、聖地へ入れると?」
『異教徒でも入れるって決めたじゃん』
「人間の異教徒と、神を名乗る存在は事情が異なります」
『どこが?』
「存在そのものが教義への挑戦でございます」
神聖四文字はしばらく黙った。
『教義が傷つくから入れるな、は嫌だな』
教皇は目を閉じた。
予想していた答えだったのだろう。
*
それから十年も経たないうちに、神を名乗る者たちはさらに増えた。
彼らは東方だけに留まらなかった。
旅をした。
都市へ入り。
気に入った人間へ声をかけ。
小さな集団を作った。
その集団は《ファミリア》と呼ばれるようになった。
十字教会にとって理解し難かったのは、彼らが必ずしも宗教組織を作ろうとしないことだった。鍛冶をするファミリア。商売をするファミリア。薬を作るファミリア。探索をするファミリア。中には酒場ばかり巡っている神までいた。
十字教の聖職者たちは困惑した。
「神なのに、教義を説かないのですか」
ある司祭が尋ねたところ、旅の神は笑って答えた。
「別に説くことがないからな」
「人間に、どう生きるべきかを示さない?」
「聞かれれば答えるよ。でも、自分で決めた方が面白いだろ」
「礼拝を求めないのですか」
「してくれるなら嬉しいけど、毎日は面倒だな」
司祭は、その会話を報告書にどう書けばよいか三日悩んだ。
*
やがて、一柱の神が西方へ入った。
国境では止められなかった。
犯罪者ではない。
軍隊も連れていない。
従者は五人。
全員、人間だった。
旅券にも問題はない。
そしてその一行は、街道を西へ進み。
迷うことなく。
オラリオへ向かった。
報告を受けた教皇は、神聖四文字へ尋ねた。
「入城を認めますか」
『断る理由ある?』
「ございません。しかし」
『しかし?』
「十字教の聖地へ、他の神を名乗る者が入るのは、史上初でございます」
『じゃあ、初めてになるだけだろ』
教皇は何とも言えない顔をした。
「主は、本当に気になさらないのですね」
『気にはなるよ。めちゃくちゃ気になる』
「では」
『だから会ってみたい』
その言葉には、恐怖より好奇心が勝っていた。
神聖四文字は千年以上生きてきた。
難民を見た。
戦争を見た。
宗教が広がり、人が死に、国が生まれ、滅びるのを見た。
それでも。
自分以外に神を名乗る存在と、直接会ったことは一度もない。
『どんな人?』
「若い男性の姿をしております」
『名前は』
教皇は報告書を見た。
「ウラノス、と」
神聖四文字は、その名を知らなかった。
『ウラノス』
「はい」
『神を名乗ってる?』
「明確に」
『何の神?』
「本人は、その問いに対し『神は神だ』とだけ」
『……ちょっと面白そう』
「主」
『分かってる。ちゃんとする』
「本当にお願いいたします」
*
ウラノスがオラリオの城門へ到着した日。
門前には、異様なほど多くの騎士が配置された。
表向きは警備である。
実際には、事故防止だった。
十字教徒の群衆。
神を一目見ようと集まった市民。
そして、異教の神を聖地へ入れることに抗議する一部の信徒。
ウラノス本人は、城門を見上げていた。
「ずいぶん大きな街になったな」
隣の眷族が不思議そうに尋ねた。
「以前をご存じなのですか」
「いや」
男は静かに笑った。
「ただ、面白い気配がする」
門が開いた。
その先には。
十字教世界が千年以上かけて守ってきた聖地が広がっている。
その中心に。
自分が神であることさえ、今になってよく分からなくなり始めている黒い球体が待っていた。
唯一神と。
天界の神。
双方にとって。
最初の対面だった。
ウラノスは門をくぐった。
群衆のざわめきが、波のように広がっていく。誰もが彼の顔を見ていた。神を見たことのない者たちは、もっと荘厳な姿を想像していたのだろう。空を覆う巨人でも、光をまとった老人でもない。そこにいたのは、灰色の外套を着た、どこにでもいそうな青年だった。
ただ、彼の歩みには妙な重さがあった。足音は小さい。それなのに、地面の方が彼を迎えるために沈んでいるように感じられた。
騎士たちは槍を構えたまま、誰一人として近づかなかった。
ウラノスは彼らを見回し、やがて正面に立つソフィアへ視線を止めた。
「君が、翼の子か」
「はい。ソフィアと申します」
「話は聞いている。黒い神の使いだそうだな」
「主の使節です」
「同じようなものだろう」
「異なります」
即答だった。
ウラノスは少しだけ目を細めた。
「そうか。なら、君は自分の主を神だと思っているのか」
「はい」
「会ったことは?」
「ございます」
「どんな姿だ」
「黒く、丸いお方です」
ウラノスは初めて、はっきりと笑った。
「本当に変わった神だな」
「主は、あなたにお会いすることを望んでおられます」
「私もだ」
ウラノスは城の奥へ視線を向けた。
「案内してくれ」
ソフィアは頷いた。
その瞬間、城門の上に掲げられていた十字架が、風もないのにかすかに揺れた。
*
神聖四文字は、謁見室の中央で待っていた。
いつものように、黒い球体の姿である。
教皇と枢機卿たちは少し離れた場所に並び、護衛の騎士たちはさらに後方で警戒していた。誰もが緊張している。神聖四文字自身も緊張していた。
『どうしよう』
教皇だけが聞こえる声で尋ねた。
「何がでございますか」
『何を話せばいいか分からない』
「ご挨拶を」
『それは分かる』
「では、まずは歓迎の意を」
『神が神を歓迎するって、変じゃない?』
「主がそうお考えになるなら、変ではございません」
『その理屈、便利だな』
扉が開いた。
ソフィアが入り、その後ろからウラノスが姿を現す。
ウラノスは部屋の中央まで進むと、黒い球体を見上げた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがてウラノスが言った。
「君が、この世界の神か」
『それ、俺も聞きたいんだけど』
教皇が目を閉じた。
ソフィアの眉がわずかに動く。
ウラノスは沈黙したあと、低く笑った。
「面白い答えだ」
『いや、冗談じゃなくて。本当に分からないんだよ。君は自分を神だと思ってるの?』
「思っている」
『どうして?』
「私は神だからだ」
『それ、さっきの女神と同じ答えだな』
「ならば、君も同じ答えを返せばいい」
『俺は、そう呼ばれてきただけだ』
ウラノスの表情から笑みが消えた。
「呼ばれてきただけ?」
『うん。俺が神だって、みんなが言うから。俺自身は、自分が何なのかよく分かってない』
「それでも、世界を支配している」
『支配してないよ』
「人間に力を与え、天使を作り、教会を築いた」
『それは……まあ、結果的には』
「ならば神だ」
『君たちは、そういうふうに決めるんだな』
「君たちは違うのか」
『俺たちは、できることを基準にしてた。世界を作ったとか、奇跡を起こしたとか。でも、君たちも人間に力を与えられる。そうなると、何を基準にすればいいのか分からない』
ウラノスは黒い球体を見つめた。
「神とは、定義されるものではない」
『じゃあ何?』
「神とは、神であるものだ」
『それ、説明になってないだろ』
「説明する必要があるのか」
神聖四文字は黙った。
その言葉は、ひどく乱暴だった。
同時に、妙な説得力もあった。
ウラノスは続けた。
「君は、自分が神であることを疑っている」
『疑ってる』
「それでも、君の信徒は君を神と呼ぶ」
『そうだね』
「ならば、君は神だ」
『信徒がいなくなったら?』
「それでも神だ」
『誰も俺を知らなくなったら?』
「それでも神だ」
『俺自身が、神じゃないって思ったら?』
ウラノスは少し考えた。
「それでも、君が何者であるかは変わらない」
神聖四文字は、返す言葉を失った。
それは教義ではなかった。
理屈でもなかった。
ただ、長い時間を生きてきた存在が、自分の中にある確信を言葉にしただけだった。
『君は、世界を作ったの?』
「知らない」
『知らない?』
「私が生まれたとき、世界はすでにあった」
『君を作った存在は?』
「知らない」
『天界にいる他の神たちは?』
「彼らも知らないだろう」
『それでも神だと思ってる?』
「思っている」
『どうして?』
「神だからだ」
神聖四文字は、思わず小さく笑った。
『なるほど。分からないけど、分かった』
「それは何よりだ」
教皇たちは、二人の会話を固唾を呑んで見守っていた。
神学的な論争になると思っていた。
奇跡の見せ合いになるかもしれないとも考えていた。
だが実際に交わされているのは、ひどく曖昧で、ひどく個人的な会話だった。
神聖四文字は、ふと尋ねた。
『君は、俺を敵だと思ってる?』
「今は思っていない」
『今は?』
「君が私たちを敵と見なすなら、私も君を敵と見なす」
『俺は、できれば敵になりたくない』
「ならば、そうすればいい」
『簡単に言うなあ』
「神なのだろう」
『だから、その神っていうのが分からないんだって』
ウラノスはまた笑った。
「君は、神に向いていないな」
『よく言われる』
「誰に?」
『俺自身に』
謁見室の空気が、初めて少しだけ緩んだ。
ソフィアは二人を見比べていた。
主とウラノス。
どちらも、自分を神だと証明しようとはしない。
どちらも、相手を偽物だと断じようとはしない。
ただ、自分が何者なのかを問い続けている。
それは神という存在にとって、あまりにも人間らしい姿だった。
*
会談は日が暮れるまで続いた。
ウラノスは天界について多くを語らなかった。語れないのか、語る必要がないと思っているのかは分からない。ただ、神々が地上へ降りてきた理由については、少しだけ違う説明をした。
「退屈だけではない」
『じゃあ、何?』
「確かめたいのだ」
『何を?』
「我々が、何者なのかを」
神聖四文字は黙った。
「天界にいる限り、我々は神だ。誰も疑わない。誰も否定しない。だが、地上へ降りれば、人間は我々を恐れ、敬い、利用し、時には殺そうとする」
『殺せるの?』
「分からない」
『君も知らないことばっかりだな』
「神とは、そういうものだ」
『便利な言葉だね』
「君も使えばいい」
『考えとく』
ウラノスは立ち上がった。
「今日は十分だ」
『もう帰るの?』
「眷族たちが腹を空かせている」
『神でも食事するんだ』
「神でも腹は減る」
『それはちょっと安心した』
ウラノスは扉へ向かい、そこで足を止めた。
「黒い神よ」
『何?』
「また来てもいいか」
『もちろん』
「君も天界へ来るか」
『行けるの?』
「知らない」
『知らないのかよ』
ウラノスは声を上げて笑った。
「ならば、試してみればいい」
彼が去ったあと、謁見室には長い沈黙が残った。
教皇が、ようやく口を開いた。
「主よ」
『うん』
「いかがでしたか」
神聖四文字は、しばらく考えた。
『神って、案外普通なんだな』
「普通、でございますか」
『腹が減って、退屈して、分からないことがあって、それでも自分を神だと思ってる』
ソフィアが静かに尋ねた。
「主も、同じではありませんか」
『俺も?』
「はい」
『……そうかも』
黒い球体は、わずかに揺れた。
『じゃあ、神っていうのは、分からないままでも神でいられるものなのかな』
誰も答えなかった。
答えられなかった。
ただ、その日から十字教の教義には、ひとつだけ新しい注釈が加えられた。
神とは、世界を創った者に限らない。
神とは、奇跡を行う者に限らない。
神とは、信じられる者に限らない。
神とは。
自らを神と知りながら、それでもなお、自分が何者なのかを問い続ける存在である。
その注釈を書いたのが誰だったのかは、記録に残っていない。
ただ、神聖四文字はその文を読んだとき、少しだけ困ったように呟いた。
『それ、俺のことじゃん』